archive.php

第3章 夢

content.php

「盗賊だあぁぁっ!!」

石造りの地下通路に男達の怒声が反響した。大勢の兵が武器を手に、長い回廊の出口へ向けて血眼で走っていく。まるで彼等を導くように先頭を走るのは二つの人影……一人は長い黒髪を束ねた、背中に大きな翼を持つ少年。そしてもう一人は、薄暗い蝋燭の灯かりを一身に集める目映い銀髪の少女だった。

ドォォン!!

「うあっ!?」

集団の先にいた男達が、突如現れた禍々しい植物に驚き仰け反った。先頭集団の急停止に勢い余った後続がつまずき将棋倒しになった。何とか持ち堪えた兵が再び二人を追い掛けようとした瞬間、怪しい植物は突如、鋭い牙を剥いて襲い掛かってきた。

「わあぁ!?」
「ぎゃあぁぁっ……!!」

哀れ、頭から飲み込まれた仲間を助けようとオロオロしている兵士達を尻目に、高価な財宝を両手一杯に抱えた二人はくすくす笑いながら走り去っていった。

 数日後……たった今宮殿の衛兵が張り出していったお尋ね者の手配書に、行き交う街の人々が皆足を止めて驚嘆の声を上げていた。

「おい見ろよ、大ニュースだぜ!」
「あの蒼龍城が破られたらしいぞ!」
「信じらんねー! 黒鵺と蔵馬がコンビ組んだのかよ!?」
「奴ら敵同士じゃなかったのか!?」

人相書きに描かれていたのはあの黒髪の夢魔と銀髪の妖狐の二人組……懸賞首の情報を逐次貼り出すこの掲示板で、まだ新しいポスターは並み居る同業者を押しのけ一番の面積を陣取っていた。それこそこのデビューしたての盗賊コンビが途方もない“偉業”をやってのけた証しだった。

「これから金持ちは心配で夜も眠れないんじゃねーの? オレ達貧乏でよかったぁ。」
「二人合わせて懸賞金は三億か……目ン玉飛び出るような金額だな!」
「片方捕まえるだけでも一等地に家が建つぜ!」
「バーカ、黒鵺や蔵馬がオレ達にシッポ掴ませるわけないだろ?」

わいわい騒ぎ立てる群衆の背後、日用品の買い出しにやって来ていた噂の張本人・黒鵺と蔵馬が、彼らを遠巻きに眺めていた。両手に食料やら雑貨やらを抱える蔵馬は突然、隣の男に尻尾を握られ飛び上がった。

「何すんだよっ!」
「シッポ掴んでみた。」
「このセクハラ男っっっ!!」

蔵馬が尻尾で黒鵺の手を目一杯はたいた。恐ろしい形相の彼女にニヤニヤしながら黒鵺が言った。

「とうとう人相書きが出ちまったなぁ。これからはうかうか外歩けねーぜ。」
「でも、オレ達はここにいるのに全然気づかれてないよ。」
「オレはともかく銀髪の妖狐なんて珍しいのにな。」
「うーん……」

とその時、二人の耳にたった今群集に加わったばかりと思しき女達の嬌声が飛び込んできた。

「ちょっと!! ねぇこれが黒鵺と蔵馬!? まだ坊やだけどイケてなーい!?」
「抱かれたぁい!! アタシは断然、黒鵺派だなっ。」
「えぇっ!? 蔵馬の方が可愛いじゃん! 色々教えてあげたいわ~ぁ☆」

蔵馬はギョッとして思わず隣の相棒を振り返った。黒鵺は納得したように一つ、大きく頷いた。

「なーるほど、気づかれないわけだ。」
「オレは女だっっ!」

紅くなって叫んだ蔵馬の胸元に不躾な視線を注ぎつつ、黒鵺は相変わらずの口ぶりでコソッと呟いた。

「ホントホント、こんなでっかい乳つけてんのになぁ……いっっ、てえぇっ!!」
「下半身で喋るなっっっ!!」

蔵馬は全体重にスピードまで乗せ、黒鵺の足を粉砕にかかった。激痛に膝から崩れた相棒の首筋をむんずと掴み、蔵馬はそれをずるずる引き摺って歩き出した。

「ほら帰るぞっ!」
「うぅ……」

無観客のコントを繰り広げていた謎の二人組の存在にようやく気づいた野次馬は、困惑の表情で囁き合った。

「何か……黒鵺と蔵馬に似てない?」
「……まさか、な……」

 一ヶ月前、桂花殿で初めて二人が対峙した夜……黒鵺の隠れ家で開いた打ち上げの席で、蔵馬は話の成りゆきからそのままそこに居候することになってしまった。

『それじゃ、今夜の成果とコンビ結成を祝して!』
『乾杯!』

黒鵺が前の仕事でかっぱらってきたという酒で、二人はその夜の収獲と出逢いに感謝の杯を上げた。蔵馬は初めて口にする極上の葡萄酒に舌鼓を打ちながら、自然の洞窟を利用して建てられた住居の意外に広い室内をキョロキョロと見回していた。

『いいなー、綺麗で大っきな家。』
『定住の方が色々便利だからさ、まだあまり顔の売れてないうちに買ったんだ。表からは家だって分かりにくいし。あ、奥に風呂もあってさ、天然温泉なんだぜ。贅沢だろ?』
『すごーい、いいなぁ……。』

しきりに羨ましがる蔵馬に、何の気なしに黒鵺が尋ねた。

『お前はどこ住んでんの?』
『宿か野宿だよ。外でも草木で雨風はしのげるし。』
『えっ!?』

黒鵺の顔色が変わった。

『そりゃヤバいだろ! 宿はともかく、女が外で寝てたら襲われるぜ!?』
『全員返り討ちにしてやったけど。』
『やっぱり襲われてんじゃん! お前なぁ、犯されてから後悔したって遅いんだぞ!?』
『お前が言うなっっ!!』

先程、地下牢で腕を鷲掴みにして凄んでみせたのは一体誰だったろう。

『……うーん……でもやっぱマズいよな………… あ!!』

しばらく何かを考えていた黒鵺が急に身を乗り出した。

『そうだ蔵馬、お前もここ住めよ! 部屋空いてるし!』
『……エ?』

蔵馬の杯を持つ手が宙で止まった。

『だーいじょうぶ、安心しろって。オレは襲ったりしないから!』
『え? ……いやあの、そうじゃなくてっ……』

突然降って沸いた話に蔵馬は眼を白黒させた。黒鵺は彼女の返事も待たず、手にしていた杯をテーブルの端にどかし、部屋の隅の机から筆記具と藁半紙を運んできた。

『じゃ、早速共同生活の規則でも決めますか。』
『……』

願ってもない話だが、少々展開が早すぎやしないだろうか……すっかり面食らっている蔵馬はお構いなしに、黒鵺は木炭で黒々とした文字を書き始めた。

『じゃあ一、家事は共同。特に食事当番は交替で。』
『ちょ、ちょっと待って! あ、あの……洗濯は各自でいいだろ? 掃除も自分の部屋は自分で、ダメ?』
『そっか、お前女だもんな。見られちゃ困るものもあるか。』

黒鵺は肩をすくめながら「洗濯と個室の掃除は各自」と書き足した。几帳面で細身の綺麗な字に蔵馬は見とれていた。

『じゃ二つ目。いい?』
『う、うん。』

黒鵺は項目「一」の左隣に「二」を書き足した。

『お互いの部屋に入る時は合図 <ノック>。相手が不在の時は入らない。』
『……ま、基本かな。』
『では三、どうしても使われたくない、見られたくない持ち物は相手に知らせておく。』
『エ? ……意味がよく分かんないけど。』
『鍵かけて保管してもオレ達は盗賊だし、互いの信頼に基づくってことでいいだろ?』
『ああ、了解。』

もしかしたら黒鵺には誰にも見られたくない品があるのだろうか……相槌を打ちながらふと、蔵馬はそんなことを考えた。余白が足りなくなり、黒鵺は次の藁半紙に「四」と書き出した。

『じゃあその四、互いに許可なく他人を家に招かない。隠れ家が知られたら面倒だしな。』
『うん、分かった。』
『五つ目、単独外出は行き先を告げ、二十四時間以内に必ず帰ってくる。長期の外出は予め帰宅予定日を伝えること。』
『どういうこと?』
『出先で賞金稼ぎに襲われる可能性もあるだろ。お互い二十四時間以内に戻らなかったら死んだと思って諦める……いいな?』
『! ……』

動揺で僅かに蔵馬の顔が曇った。

『じゃあこの辺でいい? 後から増やすかもしれないけど。』

黒鵺は蔵馬の沈黙に気づかぬまま、書き出した五箇条の規則をピンで壁に貼り出した。最後のピンを刺し終えた彼は蔵馬を振り返り、思い出したように付け加えた。

『……そうだ、一つ頼みがあるんだけど……』
『なに?』
『隣町の七番街にあまり行かないでほしいんだ。ちょっと……色々あって。』

歯切れの悪い言葉に蔵馬が怪訝な顔をした。黒鵺はばつが悪そうに、右手の小指を立ててみせた。

『……実は、コレが。』
『!』

蔵馬の顔色が変わった。黒鵺は慌てて弁解した。

『あー誤解すんなよ! 恋人じゃないぜ! 女郎屋の娼婦 <プロ> なんだ。ほらオレ夢魔だし……月に二回、どうしても女抱かないと妖力が持たなくて。』

すっかり言葉を失った蔵馬に、黒鵺は追い討ちをかけるように“勘違いの”フォローを付け加えた。

『安心しろって、瀕死にでもならない限りは絶対にお前襲ったりしないから!』
『……』

……蔵馬は苦い顔のまま、自分の杯に葡萄酒を注ぎ一気に飲み干した。

「……おーい、いい加減に機嫌直せってば!」

隣を歩く黒鵺に声をかけられ、蔵馬ははっとして顔を上げた。

「もー、何でそんなに怒ってんだよ。」
「え? ……違う、そうじゃないっ。」
「じゃあどうしたんだ? すっげー怖い顔してたけど。」
「……別に。」

ぷいっと顔を背け、蔵馬はそれきりまた沈黙してしまった。黒鵺は困った顔をしながら彼女の後を控えめについて歩いた。……話の流れで仕事どころか住居まで共にすることになってひと月。蔵馬はそれまで全く知ることのなかった黒鵺の様々な顔を一度に見ることとなり、頭がパンクしそうなほどに混乱していた。

(ショックだったんだよっ、本当に。)

本人に悟られないように小さく溜め息をつく。カッコつけのキザということは初対面の時から知っていたが、実際に接した黒鵺は決して「カッコいい」だけとは限らなかった。

(ルーズだし、“オレ以外の”女に色目遣ってばっかだし、お調子者で歴史オタク……もう、最悪っ。)

共同生活のルールで第一項目に掲げた「家事は共同」を自らあっさりと破り、「月に二回」と言っていた女郎屋通いは「週に二回」の間違いの様子。どんなに真剣な話をしていても必ず冗句ではぐらかす。そして……二人が正式にコンビとしてデビューを飾った蒼龍城の戦利品は、この男が強硬に蒐集 <コレクション> を主張しているせいでほとんど現金化できそうにない。

(ったく何が「蒼龍妃様」だっ。アホらしい……。)

九千年以上前に魔界のほぼ全域を支配下に置き、悪政の限りを尽くしたという伝説の悪女・蒼龍妃。彼が七番街の娼婦に“食糧”以上の思い入れを持っていないことは無理矢理納得したが、代わりにもう何千年も昔に死んだ女に熱を上げていることはどうしても理解出来なかった。

(それに……もう一つ傷ついたことがあった。黒鵺は二年前、妖狐の里でオレに一度会っていることを全く覚えていなかったんだ。)

蔵馬はぐっと唇を噛んだ。……共同生活が落ち着き始めた頃、その件について黒鵺が何も言い出さないのを訝りそれとなく切り出すと、あろうことかこの無神経男は驚いたように大袈裟な瞬きを繰り返した。

『えっ、マジ!? 記憶ないんだけど。ひょっとしてお前、“今と違って”すげー可愛かったとか!?』

勿論その直後、哀れな黒鵺がどういう運命を辿ったかは語るまでもないだろう。

……些細な出来事一つ一つを思い起こし、蔵馬が深い失望の溜め息をついた、その時。

「ちょっと待って。」

背後の黒鵺が彼女を呼び止めた。振り返ると黒鵺は、足を止めて道端の露店に並んだ装飾品を品定めしている最中だった。

「へぇ、いい碧水晶だな。」
「お、兄さん目が高いね。昨日仕入れたばかりの石だよ。今買わないとすぐ売れちゃうよ。」
「いくら?」
「二万五千。」
「うあ、いいお値段だこと。」

肩をすくめながら黒鵺は品物を見比べていた。蔵馬も近寄ってきて品揃えを覗き込んだ。

「あ、いい石ばっかり!」
「おわっ、凄い美人だな! 兄さんのコレかい?」
「馬鹿、違うって。」

小指を立てながら冷やかした店主に黒鵺は笑って首を振った。宝石好きの蔵馬が色とりどりの石を嵌め込んだ装飾品に心奪われている隣で、黒鵺は一つの品に目を留めた。それは細かな文字や文様が刻まれた、護符のようなメダイユだった。

「……こいつは?」
「お守りさ。危険から人を護ってくれる。」
「ふーん。」

黒鵺は質問しておきながら全く信じていないといった顔で、冷やかすようにそのメダイユをつまみ上げた。と、蔵馬が振り返った。

「お守りかぁ、一つあってもいいかな。」
「……はぁ?」

黒鵺が途端に胡散臭そうな表情を向けた。蔵馬は顔を赤くした。

「いや……ほら、オレ達色々危ないことしてるし、いーだろ別に!?」
「何、じゃあオジさんそれ頂戴。」
「エ? いいよ、それくらい自分で……おい!」

黒鵺は素速く懐の財布を取り出し、蔵馬がぼんやりしているうちに支払いを済ませてしまった。受け取った護符を無造作に手渡す彼に、蔵馬は顔を赤くしたまま困ったように口ごもった。

「……そんな、わざわざお前が買ってくれなくても……」
「お前じゃなくてオレのため。組んだばかりの相棒に死なれたら困るし。だから持ってろ。」
「嬉しいけど悪いよ。それならオレからも何か買わせて。」
「要らねーよ、オレにはとっくにお守りあるから。」

黒鵺は笑って首を振った。彼の動きに合わせ、胸元で紅い石のペンダントが一瞬きらりと光った。蔵馬の視線が止まった。

「……あ……もしかして、それ?」

黒鵺がどんな状況でも絶対離さない、銀製の古いペンダント。以前「どうして」と尋ねた時は答えをはぐらかされてしまったけれど……

「おいお二人さん、」

突然、傍らで二人のやり取りを聞いていた店主が割り込んだ。浅黒い顔がやけに神妙で、振り返った蔵馬は何かゾッとするものを感じた。

「……兄さん、悪いけどその石は決していい物じゃない。富と名声を時間と引き換えにする……そんな石だ。」
「えっ……?」

不吉な言葉に蔵馬が目を見開いた。が……当の黒鵺は肩をすくめただけで聞き流し、「行くぞ」と彼女を促した。

「じゃあお疲れ!」
「お疲れさん! また三日後!」

郊外にそびえる丘の上。黒鵺は仲間達に別れを告げ、家路に就こうとしているところだった。今し方まで一緒にいたのは街の酒場で知り合った腕利きの男達。黒鵺を賞金首と知りながら気がおけない付き合いをしてくれる“修行仲間”だった。

(ってぇ……琢魔のヤツ、いつの間にあんなに腕上げたんだ? それに乃螺も前より動きが良くなってるし……オレも頑張らなきゃな。)

出来たばかりの痛々しい傷口に、蔵馬の薬箱からこっそり拝借してきた彼女お手製の軟膏を塗りつける。傷薬くらい頼めばすんなり分けてもらえるだろうが、意地でも彼女にこの傷を知られるわけにはいかない。

(何たって当座のライバルだからな。オレが陰で鍛えてんのは隠し通さないと。)

以前からも体が鈍らぬよう暇を見つけては行っていた鍛錬だが、蔵馬と暮らし始めてからはその回数が倍増した。実力の近い同い年の友人が出来、黒鵺の自尊心と競争心に火が点いた。たとえ半歩でも彼女の先を進んでいないと自分の気が済まない。

(蔵馬のヤツ、本気でオレが女のトコにいると信じてんだもんな。でもそろそろ別の言い訳考えねーと……あいつ鋭いし、何たって帰ってきて全然妖力増えてないわけで。)

妖力補給が必要なのは月に二回……と最初に断った通りなのだが、努力や苦労を周囲に悟られたくないという気取り屋の性分が彼に「女の所へ行ってくる」という嘘を思いつかせた。が、最近そう告げるたび蔵馬の眼差しが突如冷ややかになるのは、他の理由があることを悟られているためだろうか。

(……いやぁ、違うな。)

黒鵺は心の中で首を振った。

(蔵馬のヤツ、おカタいからなぁ。どーせオレのこと「不潔」とか思ってんだろうさ。)

不機嫌な顔の相棒を思い浮かべ、ふっと彼の口許が緩んだ。

(もしかしてまだ“処女”だったりして! それっぽいよなぁ。勿体ねーし、今度オレがツマミ食いしてやろうか? ……なーんて。)
「こらそこの不審者、何良からぬこと企んでいるんだ?」
「!!」

ニヤけ顔を誰かに見咎められ、黒鵺は驚いて飛び上がった。前から現れた人影を認め、彼の顔がぱっと輝いた。

「鴉……!」

……黒鵺の視線の先で笑っていたのは、背中にかかる細い黒髪と白い顔を持つ、繊細な美貌の青年だった。

「久しぶりだな、黒鵺。」

“鴉”と呼ばれた青年が微笑んだ。黒鵺は嬉しそうに駆け寄り、彼の手をぎゅっと握った。

「鴉っ! うわー三年ぶりじゃん!! 元気だった!?」
「ああ。お前がこの辺を荒らし回ってると聞いて待っていたんだ。」
「会いに来てくれたんだ……すっげー嬉しい!」

今にも飛びつかんばかりにはしゃぐ黒鵺の胸元で一瞬、紅い光が煌いた。鴉の目がペンダントの石の上で止まった。

「……その首飾り、まだ身につけているんだな。」

黒鵺の表情が俄かに曇った。彼は頭を掻きながら呟いた。

「ま、な。……当たり前だろ。」
「……」

鴉の眼にも一瞬、影が差した。

「たまにはあいつに顔見せてやれよ。生きている身内はお前しかいないのだから。」
「大丈夫、心配されなくても時々会いに行ってる。」

小さく頷き、黒鵺はそっとペンダントに触れた。歩いていくうちに二人は小さな酒場の前に辿り着いた。

「……鴉、一杯飲んでいこう。」
「何だお前、酒なんか嗜むようになったのか。」
「オレのこと幾つだと思ってんだよ? もうすぐ十九だぜ。」
「呑めるのか?」
「結構強いよ。勝負する?」
「私はそういう呑み方出来ないから。」

鴉は笑って首を振りつつ、黒鵺の対面に腰を下ろした。店員が新しい客に気づきテーブルまでやってきた。彼女に葡萄酒を運ばせ、旧友同士は互いの近況を報告し始めた。

「……オレさ、最近、大事なヤツが出来たんだ。」

後から話し始めた黒鵺が、少し嬉しそうに切り出した。

「オンナか?」
「いや、まあ女には違いないけど……そうじゃなくて“親友”。あ、“相棒”かな?」
「……もしかして、お前が新しく組んだ仲間のことか?」

鴉の言葉に、黒鵺の顔がぱっと明るくなった。

「知ってんだ!」
「勿論。街中で噂だからな。」

黒鵺が笑った。石細工の杯になみなみ注いだ葡萄酒を口にしながら、彼は鴉に新しい友人のことをさも嬉しそうに語り始めた。

「最高の相棒だぜホント! 頭は切れるし腕も立つし、何よりオレとピッタリ息が合うっていうか……オレの考えること何でもすぐ分かってくれるから一緒にいて気持ちがいいんだ。おまけに目の醒めるような美人でさ、性格は全っ然可愛くねーけど実はそんなトコもオレ好みだったりして。」
「やっぱり惚れてるんじゃないか。」
「違うって! あいつが男だろうが女だろうがオレ達は親友になってた。絶対!」
「……そうか。」

鴉は微笑混じりに肩をすくめた。黒鵺は畳み掛けるように新しい相棒の話を続けた。名を蔵馬ということ、銀髪と金の眼をした妖狐であること、あまりの美貌に彼自身、理性の危機を感じていること……休む間もなくまくし立てる彼の様子に、最初は興味深そうに耳を傾けていた鴉もとうとう呆れた声で遮った。

「……今止めなければ何時間でも喋っていそうだな、お前は。」
「えっ? ……あっ、ゴメンっっ!!」

黒鵺の顔がさっと紅くなった。動揺した彼に、鴉はくすくす笑いながら酒を注ぎ足してやった。

「まあいいさ、今夜は真実の愛を見つけたお前に乾杯だ。」
「やめてくれって! ベタ惚れてんのは認めるけど、男と女の関係じゃない。本気だからこそ、そういう関係にしたくないんだ。」

黒鵺は慌てて首を振った。自分の反応を面白がっている鴉を睨みながら、彼はムスッとした顔のまま注がれた酒に口を付けた。

(……むしろ、あいつが男だったらな……)

ふと、彼の脳裏にそんな考えが浮かんだ。

(男なら変な気を遣うこともないし、もっとお互い本音で付き合えるのに。性別が違うってだけでどうしても他人行儀さが拭えない。)

いつもの軽口も本当は蔵馬の顔色を窺いながらの発言だった。怒らせるのはいいが傷つけるのはまずい……まだ正直、その境界が掴み切れない。

(第一あいつ、オレにまだ心を開いてない。いつも何か言葉を飲み込んでる……証拠はないけど、そんな気がする。)

仕事の話では強硬なほどに意見を主張することもあるが、それ以外で蔵馬が熱っぽく何かを主張したり思い入れを語ったりしたことはこれまで一度もなかった。彼女は私生活については何も語らず、とりわけ恋愛の話題は顔をしかめて拒絶するそぶりを見せた。例えば自分が不在の間彼女がどのように過ごしているのか、それすら黒鵺には想像もつかなかった。男なら何の気なしに訊けることも女相手だとどうしても遠慮が先に立ってしまう。

(「親友になれる」……もしかして、そう思ったのはオレだけなのかな。)

そんな思考が頭を掠め、黒鵺はテーブルに視線を落とした。突然無口になった彼の異変にようやく気づき、鴉が声をかけた。

「どうした?」
「……あのさ、笑うなよ。男と女の間に“友情”って成り立つと思う?」
「何だって? ……それはお前達のことか?」

鴉はテーブルに頬杖をつきしばらく考えていたが、やがて胸元から一組のカードを取り出した。

「お、」

黒鵺が目を留めた。

「もしかして的中率九割九分を誇る、お得意の占い?」
「“占い”じゃない、“見える”んだ。それが混血 <ハーフ> の私の特殊能力。カードは直感を視覚化するための道具に過ぎない。」
「……よく分かんないけど。」
「そういうものだと納得しておけ。」

鴉は軽くカードを切り、円卓の上に上下二列各五枚、計十枚のカードを伏せて並べた。一枚一枚表に返し、現れた鮮やかな色彩の図柄に彼は突如、睫毛をしばたたいた。

「どうしたの?」
「! ……いや……」

答えながら鴉はぱたぱたと、何の説明もないままテーブルの上の札を手際よく片付け懐に戻した。

「ちょっと鴉?」
「黒鵺、お前が蔵馬を思う以上に彼女がお前を必要としている。彼女の手を離すなよ。」
「エ? ……あいつが?」

怪訝な顔をした黒鵺に、鴉は小さく頷いてみせた。

「でも、それは彼女ではなくお前の為だ。いつか彼女はお前にとって、自分の命より大事な存在になる。」
「! ……命より、大事な……!?」

黒鵺が繰り返した。期待の度を過ぎた答えに彼は困惑して呟いた。

「……何だよそれ……あんま、ピンと来ないけど……」

黒鵺が首を捻るのを見て鴉はふっと表情を緩めた。

「それより、早く帰った方が良さそうだぞ。彼女が待っているんだろう?」
「えっ? ……何でそんなことまで分かんの?」
「時計を見れば分かるさ。後は私が払っておくよ。」
「エ!? ……嘘、もうこんな時間!? やべぇ!」

背後の柱時計を振り返って黒鵺は飛び上がった。慌てて立ち上がり、彼は鴉に頭を下げた。

「御免、次はオレが奢るから!」
「期待してるよ。また会おう、しばらくこの辺にいるから。」

バタバタと飛び出していった黒鵺を軽く手を振って見送り、鴉はふ……と瞼を伏せた。

「……信じられないな、札の中にあれほど強い“絆”を見たのは初めてだ。」

並べた札に彼自身が驚いた。上の五枚が黒鵺を、下の五枚が蔵馬を表していた……両者は調和し合い結びつき合い、互いの存在によって自身の意味を強めるように揃っていた。……完璧な釣り合いだった。相互依存が強すぎて、相手なくしては自己の重みを支え切れないほどに…………

(面白い。黒鵺とあれほどまでに惹き合う存在……蔵馬とは、一体どんな女なんだ?)

鴉はうっすらと眼を開いた……その口許がいつの間にか微笑っていた。

「お帰り……一時間半遅刻。」
「っ……」

息を切らして飛び込んできた黒鵺を、蔵馬は醒めた口調で出迎えた。テーブルの上には彼女が準備した夕食が並び、同居人の遅い帰宅を待ち侘びていた。ばつが悪そうに目の前を横切った黒鵺に、蔵馬が突然顔を険しくした。

「……お前、酒の匂いがする。」
「え!? ……いや、実は、帰り道ダチに会って……」
「食べてきたの!?」

蔵馬が非難めいた声を上げた。黒鵺が慌てて首を振った。

「ちょっとつまんだだけだって! 酒もたったグラス二杯……」
「……」

蔵馬は溜め息をつきながら一旦引っ込めかけた皿を並べ直した。席に着き、二人は料理に向き合い始めた。気まずい沈黙が続いた。黒鵺はスープを口に運びながらちらりと蔵馬の様子を見た。と、彼は何処となく彼女の表情が暗いことに気づいた。

「……何かあったのか?」

蔵馬が顔を上げた。

「何って……何。」
「何かすげー機嫌悪そう。」
「別に……何もないよ。いつも通り。」

再び蔵馬は下を向いた。明らかに様子がおかしいけど、と黒鵺は顔をしかめた。……だが、言われてみれば彼女の顔が曇っているのは別段今夜に限ったことではない気がする。

(つーか……どんどん暗くなってるんだよな。ここに来たばかりの頃は元気だったのに、日に日に機嫌が悪くなってるというか…… あ!)

黙々と自分の料理を不味そうに食べる蔵馬を見ていて、黒鵺は突然理由に思い当たった。彼は彼女に、今まで一度も尋ねたことのなかったあの質問をぶつけてみた。

「……蔵馬、お前オレの留守中に何してんの?」

その問いに、蔵馬の顔が一瞬強張った。

「……別に、何もしてないけど。」
「どっか行ったりとか、ダチに会ったりとか……」
「この街に行くところもないし、友達もいない。」

つっけんどんに蔵馬が答えた。黒鵺は予想通りの答えに内心苦笑いした。

(ほらやっぱりな……そりゃあ様子もおかしくなるだろうさ。)

蔵馬が自分の前に現れた日のことを思うと少々信じがたいが、彼はこのひと月で、彼女が本当は人付き合いに消極的な性格であることに気づき始めていた。きっと新しい街でまだ友人も出来ず、一日中独りきり家に籠もっているに違いない。

(ったく、しょーがねえなぁ。)

とっておきの秘密だったがこの際仕方ない。黒鵺はコホンと一つ、咳払いした。

「あのさ、もし暇してんならだけど、」

蔵馬が顔を上げた。

「今度から一緒に身体動かさないか? 週に二回、ダチと一緒に鍛錬 <トレーニング> やってんだ。」
「えっ? 鍛錬?」

蔵馬が怪訝な顔をした。と、彼女ははたと悟って遮った。

「ちょっと待て、『週に二回』ってまさか、」

さすがに鋭い、と黒鵺は観念した。蔵馬が勢いよく身を乗り出した。

「お前、女のトコ行ってるって嘘だったの!?」
「嘘じゃねーよ! 月に二回はホントだし、修業仲間には女もいるしっ。」
「そういうのを屁理屈って言うんだよっっ。」

相棒をピシャリとやり込めながら、蔵馬の顔はすっかり晴れていた。彼女はテーブルに肘をつき、からかうように尋ねた。

「今日も本当は秘密の特訓だったってわけだ。何で隠してた?」
「別に、説明すんのが面倒だったから。」
「オレに内緒で強くなろうとしてたんだろ。この見栄っ張り。」
(うっ……)

何で分かるんだ、と黒鵺は冷や汗をかいた。蔵馬の眼が笑っている。どうやらこのひと月で、彼女の方もこちらの性格をしっかり把握してしまったようだ。

(かなわねーなぁ……)

思わず頭を掻いた彼に、蔵馬がふっと笑みをこぼした。

「黒鵺、」
「なに。」
「……ありがと。」

黒鵺が顔を上げた。蔵馬ははにかむように笑っていた。控えめだが、とても嬉しそうな笑顔だった。

「!」

その眩しさに思わず見とれてしまう。やっぱり笑った方がずっと美人だ、と黒鵺は思った。

(それに……強くなるならそれも一緒の方がいいよな。オレ達は“コンビ”なんだから。)

 二日後、夕暮れ時。蔵馬は一人、市街地の中心に立つ市場の中を歩いていた。夕飯となる予定の食料を両手に抱えた彼女は今、あからさまに機嫌が悪かった。

(黒鵺のヤツ、一体何処に行ったんだ!? 行き先も言わないで、今度こそ女の所じゃないだろうな?)

つい二時間ほど前、明日の予定である例の鍛錬の集まりについて詳しい話を聞こうとしたら、黒鵺の姿はなく代わりに居間の卓上、「出掛けてきます」とのみ記された置き手紙が乗っていた。勿論それを見つけた瞬間、蔵馬が壁に張り出してある共同生活のルールを読み返したことは言うまでもない。

(今度という今度はもう許さない! 晩飯どうなるか見てろよ、死なない程度に新種の毒草仕込んでやるから!)

物騒なことを念じつつ蔵馬は家を目指して早足で歩いた。……夕餉の支度をする匂いがあちこちの窓から漂い、まだ遊び足りない子供達が路地を走り回っている。そんなのどかな光景が心地よくて彼女の苛立ちは次第に薄らいでいった。

その時、道の向こうから歩いてきた人影に気づき、蔵馬は小さく声を上げた。

「あ……!」

それは黒鵺だった。どうせ囲った女の元だろうと思っていた彼が、まだそこそこ明るいうちに一人で外を歩いている。彼の右手には何故か、封を切っていない葡萄酒の瓶が握られていた。

「黒鵺! ちょっとお前、何処行って……」
(……えっ?)

黒鵺は蔵馬に全く気づかぬまま、左の路地へと曲がっていった。それは隠れ家とは正反対の方角だった。

「!」

何となく様子がおかしい。周りの景色に一切構わぬ様子で黒鵺は路地の奥へと早足で進んでいった。蔵馬は後を追うことにした。何かに気を取られている黒鵺は、相棒が後ろをつけて来ていることにも全く気づいていなかった。

しばらくして二人は家々の立ち並ぶ石畳の道を通り抜け、街の外れの古びた門まで辿り着いた。それはかつてこの街一帯が城砦だった頃の名残だった。黒鵺が門をくぐり抜け、蔵馬も密かに後へ続いた。かつての街の境から外へ踏み出し、蔵馬は息を飲んだ。

「……!……」

そこに在ったのは、市街の喧噪とは対照的な静寂の空間…………風にそよぐ草原の間に葉を茂らせた木々が点在し、絶壁となったその果ての更に奥に深く光る海が広がっていた。

(……知らなかった……近くにこんな場所があったなんて…………)

あまりに鮮烈な眺望に、蔵馬は一瞬自分が何故ここに来たのかを忘れた。魔界では稀な金の太陽が輝く場所。吹く風は柔らかく、青草の匂いが胸一杯に沁みるようだった。しかし黒鵺はこの美しい風景を慈しむ素振りも見せず、野原を横切り一心に崖を目指した。

(……!)

断崖の縁に立ち、黒鵺は眼下に広がる黒い海の水平線を眺めていた。長い髪が風に煽られ乱れるのも気にせず、彼は動くことを忘れたように静止していた。遠い眼差しがいつもの饒舌な彼とは違う知らない誰かのように思え、蔵馬はかける言葉を失った。

……凪と同時に黒鵺は陸へと視線を戻した。と、彼は目の前に立ち尽くしている相棒に気づき、あっと小さく声を上げた。

「……蔵馬……」

虚を突かれ、黒鵺は少し動揺していた。

「いたの、お前。」
「あっ……いや、たまたま……気づいたら海に出てて、お前がいたから……」
「……そう。」

黒鵺は蔵馬の咄嗟の嘘にほっとしたような顔をした。そのまま彼は、二人からすぐの位置に座している巨石へ目を向けた。軽い身のこなしでそれによじ登り、彼は突っ立ったままの相棒を手招いた。促されるまま蔵馬も岩に登り、彼の隣に腰を下ろし抱えていた荷物を脇に置いた。黒鵺がふと水平線を指した。蔵馬が視線を向けると、波の飛沫が沈みゆく陽の光を反射してきらきら瞬いていた。

「綺麗……」

思わず呟いた彼女に黒鵺は微笑して頷いた。二人は風に吹かれながらしばらく無言のまま、波が水面で砕ける様をぼんやりと眺めていた。それは自然ではあったが、何処となく居心地の悪い沈黙だった。

「…………」
(……何か、言わなきゃ……)

いつもと様子の異なる黒鵺に胸騒ぎがする。しかし、そうは思いながらも何をどう切り出せばいいのか。蔵馬は思考回路を総動員させて何とか話のきっかけを見つけようと努力した。

「……あの、」
「ん?」
「こんな所に……何しに来たの。」

散々考えた挙句、結局口に出来たのは一番直接的な質問だった。黒鵺は少し困ったような顔をした。

「……ちょっと、兄貴に会いに。」
「えっ!?」

蔵馬は驚き、慌てて辺りを見回した。

「お前の兄貴!? ……え、これから来るの?」
「そこだよ。」
「え? ……!!」

黒鵺が首を振り、崖に沿うように立っている青葉茂る大樹の陰に佇む石の塊を指した。それは風雨で浸蝕され傷んでいたが、明らかに人為的な構造物だった。……碑石の意味を汲み取り、蔵馬の顔色が変わった。

「……死んだの……!?」
「オレがガキの頃、とっくに。」

黒鵺は小さく首をすくめた。

「元々故里の墓場で眠ってたんだけど、家買った時こっちに連れてきた。景色もいいし、オレもここなら会いに来れるし。」
「……」
「オレのたった一人の家族だったしさ。逆に、兄貴も身内はオレしかいなかったから。」

そう言って黒鵺は淋しそうに笑った。涼しい風が野を吹き抜けていった。

「……どんな人だったの?」

しばらくして蔵馬が尋ねた。

「そうだな……一言で言えば“カッコよかった”かな。」

黒鵺が遠い目で答えた。

「見た目とかもそうだけど、それ以上に『兄貴しか出来ない』ってことが沢山あってさ。兄貴は妖術師だったんだ。いつもは薬局みたいな仕事してて、里のみんなに頼りにされてたよ。誰に対しても気さくで親切で、友達が一杯いて女にもモテまくってた。……兄貴のこと嫌いなヤツなんて、多分一人もいなかった。」
「……」

前半はともかく後半は黒鵺にも当てはまるような気がする……そう蔵馬は思った。もしかして彼は兄とそっくりなのかもしれない……と、彼女の顔が和んだ。

「……大好きだったんだ、兄貴のこと。」
「まーな。」
「いいな、オレはそれこそ生まれた時から家族なんていなかったし。」
「さあどうだか……少なくとも喪う辛さは知らずに済むぜ。」
「……」

黒鵺の口調が少し投げやりになり、蔵馬の顔が曇った。そして再び二人は沈黙した。しばらく二人の間にあったのは波と風の音だけだった。いたたまれなくなった蔵馬は視線の端で黒鵺の様子を伺った。彼の瞳に沈む西陽が映っていた。

「……蔵馬、」

先に口を開いたのは黒鵺だった。

「……前から訊きたかったんだけど、お前何で盗賊になったの。」
「えっ? ……」

突然話題を変えられ、蔵馬は瞬いた。それは何とも答えにくい問いだったが、再び沈黙に戻るのが嫌で彼女は仕方なく答えた。

「……別に、特に理由なんてないよっ。他人に勝手に人生決められたくなかった、それだけ。」

まさか「お前を追い掛けて」などと告白を始める訳にもいかない。曖昧にごまかしながら彼女はようやく、黒鵺が本当は自分の身の上話を始めたいのだということに気がついた。

「お前は……何か理由があるの?」

顔色を窺いながらそっと尋ねてみる。黒鵺は意図を汲んでもらったことを安堵するように微笑んで頷いた。

「……でも、元々盗賊やってたのは兄貴なんだ。」
「?……」

黒鵺は遠回りに話し始めた。それがじれったくて蔵馬は眉をしかめた。黒鵺は一つ息をついた。

「……オレや兄貴の育った場所は、夢魔の集落で……十年近く、ずっと他の種族の里と戦をしていた。オレが生まれた頃にはもう里はボロボロ、そりゃあ貧乏だった。それでとうとう、生きてくために里の男達で小さい盗賊団を作ったんだ。兄貴は中じゃ一番若かったけど、頭もいいし強いからって頭に推薦された。本人は乗り気じゃなくて本業の片手間だったらしいけど、才能があったんだろうな。あっという間に懸賞金が五億を超えた。」
「五億!?」
「すげーだろ? でも、結局それが兄貴の命取りになったんだ。」

黒鵺は小さく頭を振った。思い出すのさえ辛いという様子だった。

「……気づいたら兄貴の懸賞金が五億、その他の仲間が数千万から最高三億で、団員合わせて二十億近くになっていた。いくら盗賊団が頑張ってもそれだけ稼ぐのは結構大変だし、しかも周りの集落から『あの里は盗賊の溜まり場だ』とか言われて摩擦があったらしい。それで里の長老が決めたんだ。盗賊団を……自分達の仲間を売ろうって。」
「!」
「里長は外から刺客を雇い、団員を次々に殺った。寝込みを襲われてほとんどの連中が逃げ切れなかった。……兄貴も、その時殺された。」
「……!……」

蔵馬が目を見張った。黒鵺の瞳に暗い陰が差した。

「勿論、兄貴一人なら逃げられたと思う。でも、まだガキだったオレを守って兄貴は死んだ。オレにこれだけ渡して……『逃げろ』って、そう言い残して盾になったんだ。」

黒鵺が、胸に光るペンダントをそっとつまみ上げた。蔵馬は呆然とそれを見つめた。

(……いつも離さないペンダント……形見の品だったのか…………。)

銀の台座に埋もれた石が夕陽に透けて紅く輝くのを、黒鵺は虚ろな瞳で見つめていた。そっとそれを離し、彼は再び話し始めた。

「里を脱出したオレは、それからがむしゃらに修業した。強くなって、下手人と里長に復讐することばかり考えてた。だけど、数年後いざ仇討ちに戻ってオレは驚いた。……オレの故里は、失くなっていたんだ。」
「えっ……?」
「オレが逃げ出した後、疫病が流行って……貧乏な里じゃろくな治療も出来なくて、沢山の村人が死んだ。生き延びたヤツらも里を捨てるしかなかったんだ。」
「……」

黒鵺が一息入れ、蔵馬は言葉を失ったまま彼を見つめていた。

「それでも、兄貴達を売った金が残ってれば持ち堪えたと思うんだけどな……。流行り病にあの里長は我先に逃げ出して、金も持ち逃げしやがったのさ。オレは半年かけてあの野郎を探し出して、ようやく兄貴の……死んでいった仲間達の仇を討った。でも、復讐が済んでもオレの気は晴れなかった。オレにはもう帰る場所がないって、それが虚しかった。どうしてこうなってしまったんだろうって……悔しくて何日も何日もずっと、そんなことを考え続けた。その時思ったんだ。一杯金稼いでいつか故里を建て直すって。それには盗賊になるのが一番手っ取り早かった。だからオレは、わざわざ兄貴を死に追いやった職業を選んだんだ。」

黒鵺はそう言って沈黙した。蔵馬もまた何も言えなかった。軽口だらけの冗談めかした態度の裏で、素顔の彼はそんな過去を隠していたのか……と、彼女は胸の痛みを覚えた。黒鵺は海を眺めたまま、再び口を開いた。

「……でもな蔵馬、別に里の復興が目標じゃないんだ。兄貴が殺されたのも故里が潰れたのも、結局みんなが貧しかったからだ。贅沢できなくてもせめて、毎日の食い物に困らず暴力に怯えることのない暮らしがあればこんなことにはならなかった。」

蔵馬が顔を上げた。夕陽が黒鵺の横顔を金色に縁取っていた。

「魔界は弱肉強食の世界……力のある奴が自分の都合だけで弱者の命を喰い荒らし使い棄ててる世界だ。でも強い奴がその力を少し、弱い奴のために使うだけで世界は変わる。誰もが明日の心配をしなくて済む世界になる。だからオレ、自分の故里から足場固めていつかはそういう国を建てたいんだ。」
「…………」

蔵馬は黙り込んでしまった。目の前の男が抱えているものの大きさを知り、彼女は気の遠くなる思いがした。

(……お前のこと何も知らないで、オレは一体、何を考えていたんだろう……。)

黒鵺に憧れ、不自由な日々から逃げ出すために彼の後を追った自分。無我夢中だった……彼に追いつこうと懸命にこの三年を駆け抜けてきた。が、やっと肩を並べたと思った男は、まだまだ自分の遙か遠く先を走っているように感じられた。

(所詮オレは自分の都合で生きているだけ……“対等”なんて、思い上がるのはまだ早かった。)

自分が情けなく思え、蔵馬は思わず下を向いた。黒鵺は遠い水平線を見つめたまま独り言のように呟いた。

「……でもきっと、国を造るよりそれを守る方が難しいと思う。平和主義は一国だけで貫けるもんじゃない。周りの国も一緒になって初めて平和は実現する、オレはそう思ってる。」
「『周り』?」

はっとして、蔵馬は黒鵺を振り返った。

「お前、まさか魔界を全部支配すると……?」
「さすが、察しがいい。」
「……」

呆然とする蔵馬とは裏腹に、黒鵺は笑っていた。

「……でも、半分だけ正解。」
「えっ!?」
「もっとあるんだ。」

黒鵺が言った。そして彼は、やや血の気の引いた蔵馬の顔をじっと見つめた。

「……魔界の次は人間界だ。魔界と人間界を統一し、妖怪と人間が融和する世界を造る……それが、最終目標だ。」
「!!……」

……「一体、何を言っているんだ」……そう声に出しそうになり、蔵馬は慌てて口をつぐんだ。黒鵺の眼は真剣そのものだった……薄暗い夕暮れ時の草原で、彼の紫色の瞳が爛々と輝いていた。

「勿論、今のオレにそんな力なんかない。それ以前にどうやったらそこまで辿り着けるのかも分からない。何千年かかるかも分からないし、どれだけ敵を増やすかも分からない。つーか……三界に喧嘩売る覚悟決めてんだけど。」
「!」
「適当に“お仕事”やって一生面白おかしく暮らしていくのは簡単さ。だけどオレ、それは嫌なんだ。折角天職見つけたんだし、正しいと信じる道に進んでいきたい。一生自分にカッコつけて、無茶な理想に命張ってみたいんだ。そうじゃないと、オレのこと守って死んだ兄貴に胸張れない気がするから。」
「…………」

蔵馬の顔はいつの間にか強張っていた。それに気づき、黒鵺は困ったように笑った。

「……やっぱり、呆れるか。」

気丈に首を振ったものの、蔵馬はやはり何も言えなかった。黒鵺は風に乱れた前髪をかき上げた。

「お前だから話した……お前なら少なくとも、最後まで笑わずに聞いてくれるだろうって。でも解ってもらえるとは思ってない。正直言うと、もう少し黙ってるつもりだった。でも、早く話しておかなきゃって……本当は分かってた。御免な。」

そう言いつつ、黒鵺は小さく頭を下げた。蔵馬はぼんやり彼を見つめていた……何か言おうとして言葉の出てこない唇が震えていた。

「……蔵馬……」

……風が凪ぎ、波の音が止まった。

「……お前の盗賊稼業がお遊びなら、もうオレとは関わらない方がいい。縁切るなら今のうちだぜ。」
「!……」

蔵馬の顔が蒼ざめた。

再び強い風が吹き、草の波が野を次々と渡っていった。黒鵺は黙ったまま、深い闇の色に変わろうとしている海を眺めていた。蔵馬もまた言葉のないまま、隣の友人の横顔を見つめていた……長い沈黙が続いた。

……蔵馬はふと、黒鵺の表情が硬くなっていることに気づいた。何気なさを装いながら彼は今、自分の答えがどんなものでも受け止めようと覚悟を決めている。

(つまり……オレにも覚悟を決めろと……)

黒鵺の心を悟り、蔵馬は思わず目を閉じた。体が強張り胸は大きく波打っている。それを落ち着かせようと彼女は一つ大きく息を吸い込んだ。……蔵馬は瞼を開きつつ、ゆっくり口を開いた。

「……呆れた…………まさか、そこまで馬鹿とは思わなかった。」
「!……」

一瞬、黒鵺の顔が強張った。

「……」

小さく溜め息をつき、彼は立ち上がった。無言のまま地面に降り立ち、彼は蔵馬に背を向けたまま歩き出した。……と……

「こら最後まで聞け、この馬鹿っ!!」

突如、背中から罵られ黒鵺の足が止まった。

「……えっ……?」
「ああぁっ!! そんな無茶、一人でどうにかしようと思ってんのが馬鹿だと言ってんだよっ!」

叫びながらひらりと岩から飛び降り、蔵馬は呆気に取られた相棒の行く手に回り込んだ。

「蔵馬……!?」
「あのな黒鵺、あんまりオレを見くびるなよ? お前がどれだけ大それたこと企んでもオレはビビって逃げ出したりしない! そんな腰抜けで女が盗賊やってられるかっ!」
「……」

蔵馬の剣幕に黒鵺は思わず後ずさった。金の瞳が彼を射抜くように、強い光を放っていた。

「確かに、オレにはお前ほど盗賊稼業に立派な動機はないよ。でもオレもオレなりに腹括ってこの道を選んだ。覚悟の大きさならお前には負けない。お前が命懸けでバカやるつもりならオレはその上を行ってやる。お前に負けたと思いたくない!」
「……蔵馬……」
「大体、お前の馬鹿話に最後までつき合えるヤツがオレの他に何人いる? 世界中敵に回して、オレまで遠ざけて、お前一体何処に向かう気なんだ……?」
「!……」

太陽の縁が水平線の上で最後の輝きを放っている。弱い光の中、二人は瞬きさえ忘れて互いの顔を見つめ合っていた。黒鵺の視線に触れ、蔵馬は拳を固く握った。本当はまだ体が震えている。それを鎮めようと、彼女は自分に言い聞かせた。

(……今更、迷うことなんか何もない。覚悟なら二年も昔に決まってたじゃないか。)

声に出来ない思いの丈を視線に込め、蔵馬は真直ぐ黒鵺を見つめ続けた。

(……お前と一緒ならきっとオレも強くなれるって……オレにも何か成し遂げられるって、あの時そう思った。あの日からオレの生きる理由はお前になったんだ。だからお前の生き方をずっと見届ける。そのためにオレは、お前に負けていられない。)

対等になりたいんだ、と蔵馬は強く願った。彼がまだ遠い先にいるのなら、必死で追いかけていつか必ず追いついてみせる。

(ほんと、凄いよお前……予想以上の馬鹿だけど、ずっとずっとカッコいい。)

……黒鵺が自分の次の言葉を待っている。震えはいつしか止まっていた。顔を上げて彼と視線を合わせた瞬間、蔵馬は表情を和らげた。自分の一語一語を確かめるように、彼女はゆっくりと口を開いた。

「……みんながお前に背を向けても、オレはいつでも傍にいる。つき合うよ……地獄の底まで一緒だ。」
「…………」

黒鵺の眼差しが揺れた。蔵馬はもう一度、彼を励ますように微笑んだ。……ふっと、黒鵺が安堵の息を零した。

「……ありがと、」

決まり悪そうに頭を掻きつつ、彼は呟いた。

「……見棄てないでくれるんだ。」
「優しすぎるもんでね、バカ放っとけないのさ。」

黒鵺の顔が引きつった。……照れ臭くてつい、いつもの調子で返してしまった。

「くそっ、やっぱ可愛くねー。」
「おや? 可愛いお姫様と頼れる相棒と、世界征服に必要なのはどっち?」
「……かなわねーなぁ。」

黒鵺が苦笑した。蔵馬がくすりと笑い、荷物を拾い上げた。

「さ、帰ろう。」
「……ああ。」

くるりと踵を返し、蔵馬は歩き出した。先を行く少女の背中に黒鵺はそっと、気づかれぬよう小さく頭を下げた。

(……ホント、ありがとな。)

これから往こうとしている茨の道を、一緒に歩いてくれる仲間がいる。それが、どれだけ自分を勇気づけてくれることか……

──オレは独りじゃない──

それが、しみじみと嬉しかった。

「……蔵馬、」
「なに?」
「ちょっとこっち来て。折角来たのに兄貴に挨拶すんの忘れてた。」

蔵馬を手招きしながら黒鵺は再び崖へ近寄り、あの風化した墓石の前に腰をおろして持ち込んだ酒を浴びせ始めた。歩み寄った蔵馬に更に近づくよう促し、黒鵺は彼女の肩に手を置いて墓に向き合わせた。

「黒鵺……」
「紹介するよ兄貴、こいつがオレの“親友”……蔵馬だ。」
「!……」

蔵馬が振り返った。「そうだろ?」と言うように、黒鵺は笑顔でウインクしてみせた。蔵馬が笑った。墓石に向き直り、ぺこっと頭を下げて“挨拶”している彼女を黒鵺は穏やかな眼差しで見つめていた。ふと、彼はあの“予言”を思い出して微笑した。

(……『いつか、自分の命より大事な存在になる』、か……。鴉、あんたの予知は当たるかもしれない。)

気づくと蔵馬は身をかがめ、墓石の足元に軽く手を添えていた。彼女がふわりと気を込めると、墓碑を取り囲む草が蕾をつけ、小さな花が次々に開いた。

「おっ。」

黒鵺が声を上げた。蔵馬が冷ややかに言い放った。

「墓参りに酒しか持ってこないなんてマナー違反だぜ。オレがいて良かっただろ?」
「……」

小生意気な唇が悪戯っぽく笑っている。頭を掻きつつ黒鵺は「これからもずっと、宜しくな」……彼女にそう、心で語り掛けた。

【完】

Fox Sleep

content.php

夜もしんと更けて、活字を追う視線は次第に瞼で塞がれ始めた。読みかけの小説は最高潮真っ只中だけど、楽しみは明日の夜まで延ばそうか……と、蔵馬は本を枕元に起き燭台の灯りに手を伸ばした。

と、その時。

コンコン!

「蔵馬、起きてる?」

突然ノックの音と黒鵺の声がして、蔵馬は伸ばした手を引っ込めた。

「起きてるけど、何?」
「いや、うっかりベッドの上で酒こぼしちまってさー。」

またいつものように「何か便利な植物ない?」と訊いてくるのか(勿論、そんな乾燥機代わりになる植物など存在しないのだが)と身構えた途端、黒鵺は突然扉を開けて室内に侵入してきた。

「い!?」

どうやら彼も寝るところだったらしい。いつも結い上げてる髪を背中に下ろし、服装もリネンのローブに替わっている。蔵馬は思わず叫んだ。

「バ、バカっ! 勝手に入るなっ!!」
「今夜ベッド半分貸して。」
「えっ……エ!?」

黒鵺はずかずかと近寄り、蔵馬のかぶっていた布団を剥ぎ取った。

「わあああぁぁっ!?」

しどけない寝間着姿があらわになり、蔵馬は慌てて跳ね起きベッドを飛び降りた。

「ななな、な、何すんだよっっ!?」
「ケチケチすんなよ。一晩くらいいいだろ?」
「な、何でオレの部屋なんだよっっ! 居間で寝ればいいだろ!?」
「掛け布団もずぶ濡れなんだもの。布団なしでゴロ寝は寒いだろ。」

すっかり動転している蔵馬はそっちのけで、黒鵺は勝手にベッドへ入り彼女が収まっていた場所に横たわった。ぱくぱくしつつも声が出ない蔵馬へ、彼はまるで自分がベッドの持ち主であるかのように声をかけた。

「寒いだろ。早く入ったら?」
「!……」

相変わらず勝手で予測不可能な男だ。妙齢の美女の床へ潜り込むならもっとマシな口説き方があるだろう……などと釈然としない思いを抱きつつ、蔵馬は仕方なく反対側からベッドへ潜り込んだ。大きなベッドなので何とか接触せず眠れそうだ。が、何故か黒鵺は自分の方を向いて横になっている。

「な、何でこっち向いてんだよっ。」
「背ェ向けたら翼が邪魔になるだろ? じゃ、お休み。」
「黒鵺っ!」

黒鵺はそのまま目をつぶり、それっきりぴくりとも動かなかった。

「……」

恐る恐る顔を覗き込む。蔵馬は十五分ほど彼を様々な角度から観察し、とうとう「完全に眠っている」という結論を得た。仕方なく灯りを消し、彼女は途端渋い顔になった。

(もうぅぅ! 何なんだよっ……)

どうやら、本当にただ眠りに来ただけらしい。既に寝息を立て始めている黒鵺を蔵馬は暗闇の中で睨みつけた。

──オレの気持ちなんか全然知らないで──

美貌で鳴らした同い年の天才盗賊・黒鵺。彼と知り合い一つ屋根の下で暮らすようになって早幾年。しかし一度出来上がった“親友”という二人の関係は、なかなか頑丈で崩れる気配すら見えなかった。本当に黒鵺は自分のことを何とも思っていないのだろうか。自分にとってはこんな出来事も嬉しいハプニングで、初めて隣で眠った今夜は“記念日”になってしまうであろうというのに。

(……待てよ、ひょっとしてオレが眠るのを待ってたりして?)

蔵馬ははっと黒鵺を見つめた。夢の中にいるふりをしつつ、実は自分が寝息を立て始めるのを待っているのではないだろうか。ならばこちらも眠ったふりで出方を待ってみよう。期待に胸を躍らせながら、蔵馬は目を閉じ息を整えた。

「……ん……」

闇の中、黒鵺はゆっくり目を覚ました。と、

「蔵馬!?」
(……あ!)

驚いて体を跳ね起こした彼は、そこでようやく自分が蔵馬の部屋にいることを思い出した。

(そっか、ナイトキャップを引っくり返して…… オレ……寝てたのか?)

飲んでいた酒が強すぎたのか、横になってからの記憶がほとんどない。目覚めてしまったのも酒が眠りを浅くしたからだろう。黒鵺は隣で眠る蔵馬に視線を落とし、ふっと微笑した。

「……」
(勿体ねー、折角隣にこいつがいるのにな。)

黒鵺はそっと手を伸ばし、蔵馬の頭を軽く小突いた。少し力が入ってしまったが彼女は全く目を開かなかった。

(オレが賞金稼ぎだったらどうすんだよ。ったくもう、気持ちよさそうに眠って…… そんな無防備だと、手が出せないだろ。)

銀の髪の毛を撫でてみる。滑らかな髪が指先に触れ、黒鵺の眼差しが和らいだ。確かに酒をこぼしたのは偶然だった。が「それを口実に蔵馬のベッドへ」という下心が皆無だったとは言い切れない。

(ベッドにさえ潜り込めれば、口説き落とす自信はあったのにな。)

酔ったふりをして体を絡め薄暗い灯りの中、至近距離で瞳を覗き込んで……脳内シミュレーションでは完璧だったのに、その前に自分が酔い潰れてしまうとは計算外だった。

(……あぁ、オレって格好悪。)

黒鵺は再び蔵馬の寝顔を見つめた。穏やかな寝息を聞いていると、そんな悪巧みを抱いていたこと自体が申し訳なく思えてくる。

(しゃーない、今夜はこれで我慢するか。)

黒鵺は再び手を伸ばした。仰向けの蔵馬の体をそっと転がし、自分の方を向かせて抱き寄せた。それでも蔵馬は目を覚まさなかった。彼女の背中に手を回したまま、黒鵺は「お休み」と小声でささやいた。

(何だか、息苦しい……)

いつもと違う感覚に気づき蔵馬は目を覚ました。と、彼女は自分が誰かの腕の中にいることに気づいた。

(……黒鵺!? エッ!? 嘘っ……嘘嘘嘘っ!!)

かあっと頬が熱くなり、蔵馬は咄嗟に息を潜めた。黒鵺が起きたら騒ぎになってしまうかもしれない。

(……そうか、寝たフリしててオレ、本当に眠ってしまったんだ。でも、何で抱き締められてるの!?)

「まさか」と慌てて確認してみたが、自分も彼もしっかり寝間着を着込んだままだった。安心すると同時に蔵馬は少し残念な気持ちになった。

(只の寝相……本当に黒鵺は、オレに興味がないんだ。)

少しくらいちょっかい出してくれたって全然構わないのに、と蔵馬は小さく息をついた。これでも故郷では「里一番の器量良し」と呼ばれていたのに……ささやかな自尊心も黒鵺の前では粉となって砕けてしまう。

(でも……それでも、好きなんだ。)

黒鵺を起こさないようにゆっくり体を動かし、彼の背中にそっと手を回す。ぴったりと抱き合い、蔵馬はささやかな幸福に浸った。

(起きたら「寝相だ」って言い張ろうっと。)

「おぅ、おはよう。」

翌朝。目を開けた瞬間、至近距離で黒鵺がささやいた。

「あ! ……お、おはよっ……。」

蔵馬は驚き、また顔を紅くした。自分は眠った時のまま一晩黒鵺に抱きついていたようだ。黒鵺はニヤニヤ笑いながら、まさに期待通りのコメントをしてくれた。

「そんな頑張ってしがみつくなんて、夢で逢うだけじゃ足りなかった?」
「誰が夢でまでお前の顔見たいかっての。」

悪態を返しながら慌てて身を離す。「お前こそオレのことずっと抱き締めてたくせに」と言ってやったらどんな顔をするだろうか。

「まーいいや。腹も減ったし、とっとと飯にしようぜ。」
「……」

黒鵺はひらりとベッドから抜け出し、振り向きもせず部屋を出て行った。突如無性に淋しくなって、蔵馬は顔を曇らせた。

(つまんなーい! もう一晩くらい、一緒に…… あっ!)

その瞬間、彼女の脳裏にナイスなアイディアが閃いた。

「さてっと、早く布団乾かさねーと。……う!!」

部屋に戻り扉を開けた黒鵺の目に、ベッドの上で繰り広げられている“地獄絵図”が飛び込んできた。

「たった一晩で、カビに、キノコ……!!?」

密室の惨劇に硬直している黒鵺の背後で、蔵馬は「今夜こそ」と力強く拳を握り締めた。

【終】

Special Event

content.php

クリスマスイブ。街中に家族や恋人達の笑い声がさざめき、甘いケーキと夢のような贈り物に胸躍らせる日……のはずだが、何故かここに約一名、心からこの日を楽しめないでいる者がいた。

(あーあ、みんな彼女いるんだもんな。)

雨に煙る窓の外を眺めながら、蔵馬は独り暮らしの家の中で一人溜息をついていた。別に誘いを掛けていたわけではないが数日前に会った時、幽助も桑原も、そして飛影までもが「24日の夜は用事がある」みたいなことを言って、さすがの蔵馬も少々寂しい思いに襲われてしまった。こんな時にこそ誘ってほしい、日頃入れ替わり立ち替わりやって来て自分に“粉を掛けてくる”男達も何故か今日は誰もいない(来ないだけならまだいいが、どうも今夜はそれぞれに用事がある様子だった)。

大体、今日は実家に帰って家族と過ごすはずだったのに、商店街のくじ引きで豪華ホテルペア宿泊券を引き当てた両親は嬉々として出掛けてしまい、義弟も出来たばかりの彼女との約束があるとか何とかで帰る場所がなくなってしまったのだ。

(まして雨だなんて、最悪。)

例年なら雪に変わっていそうな天気も、暖冬の今年は雨止まりでロマンの欠片もない。暇を持て余してテレビに手を伸ばしかけたが、それではあまりに普通の日と同じで味気なさ過ぎる。

「…御馳走でも用意しようかな。一人分。」

“一人分”に重きを置いて、蔵馬は小さく呟いた。

『クリスマスぅ!?』

数日前に会った時、黒鵺にそことなく24日の予定の探りを入れてみたところ、彼は素っ頓狂な声で大袈裟に驚いた。

『お前、クリスマスなんか祝ってんの?』
『な、何だよっ。お前は何もしないの?』
『当ったり前だろ。クリスチャンでもねーのに何でわざわざ街が混んでる時に騒がなきゃなんないんだよ。』

言い切った彼に、蔵馬は「暇なら一緒に食事にでも行こう」の一言を完全に飲み込む羽目になってしまった。黙り込んでしまった彼女に、逆に黒鵺が蔵馬に突っ込んできた。

『お前は何か予定あんの?』
『…… 別に、何もないよ。実家に帰ろうかな。』

そう言って蔵馬はそのまま何も言えず、帰ってきてしまったのだった。それから数日間、お互いに全く連絡を取っていなかった。尤もそれはいつものことであって、決して特別仲違いをしているわけではないのだけれど。

「いいんだよっ。ああいうデリカシーのない男にこんな特別な日、仕切られたらたまんないし!」

胸のもやもやを吹っ切るように蔵馬は大声を上げ、意を決して台所へ向かった。が、冷蔵庫を開けて彼女は再び表情を曇らせた。冷蔵庫は、殆ど空だった。

(そうだ、卵も野菜も切らしたんだっけ…。)

昨日の午前中まで実家に帰るつもりでいたので、冷蔵庫を空ける努力をしていたのだった。結局外へ出るしかないのかと、蔵馬は顔をしかめて仕方なく部屋に戻った。クローゼットにかけてあったデニムのジャケットを着込みマフラーを巻いた彼女は、財布と携帯だけを掴んで外へ飛び出した。

 外へ出ると既に真っ暗で、街灯が点っていた。先程まで細かく降っていた雨は止み、すっかり冷たくなった空気だけが街を重く包み込んでいる。

「寒い……。」

口に出すとますます寒く感じる。ふと家々の窓に目をやると、暖かな光やクリスマスの飾り付けが視界に飛び込んできた。プレゼントの包みをほどいて喜んでいる子供の姿が目に映り、蔵馬はくすっと笑った。

(そういや、オレも15年くらい前は演技してたっけなぁ…。)

妖狐の頃の記憶を持ったままの蔵馬は“子供の無邪気さ”を装うのに相当な苦心を払っていた。おもちゃやゲームをねだり、子供らしく母・志保利や亡くなった実父の前で大袈裟に喜んでみせたりもした。

(あれ、結構大変だったんだから。)

意を決して自らの正体をすっかり家族に打ち明けた今となっては笑い話だが、母親に「貴女が私の子供であることに変わりはない」と言ってもらうまでは墓場まで持ち込むつもりの秘密だった。

その時、蔵馬はふと自分の前方から歩いてくる人影に気がついて顔を上げた。

「…あっ…!」

向こうも蔵馬に気がついて少し驚いた顔をした。大きな羽根と耳をしまい込んで“普通の人間”を装って歩いている黒鵺だった。

「あれ、蔵馬?」
「黒鵺っ……!」

蔵馬の表情が強張った。黒鵺は白いシャツの上に黒いコーデュロイのジャケットという出で立ちだった。大きく開いたシャツの胸元に例の銀のペンダントが光っていた。彼は軽く手を挙げ、蔵馬に近づいてきて隣を歩き始めた。

「何だお前、どっか行くの?」
「夕飯の買い物。冷蔵庫が空になったから。」
「そう。」
「…お前こそどこか行く途中だったんじゃないの? 今向かってるの、来た方向じゃないのか?」

黒鵺は今、来た道を引き返す格好になっていた。彼は肩をすくめた。

「別にいいよ。日課の散歩に出てただけだし。」
「“日課の散歩”!?」
「ああ。ここ数日歩いてんだ。徒歩で往復30分、飛んだら5分以下。」
「…?」

黒鵺の意味ありげな笑顔に蔵馬は首をひねった。と、彼女はふと彼の腕に下がっている布製のトートバッグに気づいた。

「…あれ、お前何持ってんの?」
「これ? 手に入れたばかりの魔界23層産の葡萄酒なんだけど、」
「何だって!?」

急に蔵馬の目の色が変わった。

「ちょっと待て、まさか『銅浄路』の赤じゃないだろうな!?」
「御名答、しかも魅惑の1910年物。」
「ずるーいっ!!」

蔵馬がわっと黒鵺の肩を掴んだ。

「何だよそれ! どこで見つけたんだよっっ!!」
「んー、一昨日魔界でオークションやっててさ。ちょっと高かったけど奮発してみた。」

間違いなくブランド物、しかも最高の当たり年と言われた年の葡萄酒である。「ちょっと」と言っても数百万はするだろう…人間界で暮らしても黒鵺には何処から金が入ってくるのか分からないようなところがある。こんな金の使い方、友人達や人間の家族が聞いたら卒倒するに違いない。

「いーなぁ、オレにも一口!」
「えー…どうしよっかなぁ。」
「何だよ! “日課の散歩”なんて言って本当はオレのこと誘いに来たんだろっ?」
「それより晩飯の買い物じゃなかったの?」

黒鵺に言われて気がついた。二人は既にスーパーの前までやって来ていたのだった。黒鵺は「んー」と少し首を傾げながら言った。

「でもさ、ここまで来て言うのも何だけどスーパーにはロクなつまみないと思わない?」
「オレは夕飯の買い物に来たんだよっ!」
「お前普通に飯食いながらこれ飲む気?」

黒鵺はトートを軽く持ち上げてみせた。彼の意見は一応筋が通っていて、蔵馬は反論出来なかった。黒鵺はくすくす笑いながら、彼女の背中をぽんと叩いた。

「じゃあ帰ろっか。」
「帰るって…」
「オレん家。もっとマシな食い物用意してあるからさ。」
「…はぁ?」
「来んの? 来ないの?」

そう言われたら行かないわけにはいかない。

(…結局仕切られているんだよな…。)

何となく悔しいけれど、彼に従う方が楽しい夜になりそうだというのは認めないわけにはいかない………やっぱり、癪だけれど。

 黒鵺も現在、蔵馬の家からさほど離れていないところで独り暮らしをしていた。昔のように一緒に住みたいと思う蔵馬も、自分からはなかなか切り出せずに時々互いの家を行き来する状態に甘んじていた。

「…何用意してあるの?」
「炎山羊のチーズと雷猪のハムと……あと征峰魚の卵とか。」
「すっごい…超高級食材ばっか。随分気合い入ってる。」
「まーな。ちょっと頑張ってみた。」

蔵馬はアパートの階段を上りながら、先を歩く黒鵺と会話していた。

「何だよーお前、クリスマスに特別なことはしないって言ってたくせに。」
「別にクリスマスの為じゃねーよ。」
「無理するなってば。」

蔵馬の冷やかしに黒鵺は小さく肩をすくめた。部屋の前につき、黒鵺はドアを開けて蔵馬を先に通した。蔵馬は室内に上がり込んで「あっ」と声を上げた。…1K8畳の室内は、まるで空き部屋のように空っぽだった。

「…何だよこれ…。」
「何って、何?」
「とぼけるな、部屋の中の荷物はどうした?」
「そこ。もうほとんど運び出して後はそれだけ。」

黒鵺はジャケットを脱ぎながら、部屋の隅に積んである段ボール2つを指さした。

「…まさか、引っ越すのか?」
「うん。あれ、言ってなかった?」
「聞いてないっ!」

黒鵺はニヤニヤ笑っていた。自分で話してもいないことを知りながら、すっとぼけているのは明らかだった。

「まあいいだろ、早くこれ開けようぜ。」

やんわりと蔵馬にそれ以上の追及を許さず、黒鵺は唯一部屋に残っていた卓袱台のような小さなテーブルにトートバッグの中身を置いた。彼は「手伝って」と蔵馬を促し、台所へ向かった。冷蔵庫の中からハムやら何やらがたっぷり載せられた紙の皿を次々取り出して彼女に手渡し、最後に黒鵺はクラッカーの箱とワイングラスを二つ手にして部屋へ戻ってきた。

「…いいグラスだな。」
「兄貴に貰った。この前旅行に行ってきたんだって。」

蔵馬は霊界で重要な仕事を任されているはずなのに何故か人間界や魔界を飛び回っている黒鵺の兄・紫を思い出した。

(あいつも黒鵺そっくりなんだよなぁ……奔放でお気楽で、羨ましいくらい。)

そんな紫はこの前ばったり会った時、「飛行機乗ってきた!」と嬉しそうにはしゃいでいた。美しいクリスタルガラスはその旅先の土産物に違いない。

「じゃ、乾杯!」

黒鵺の言葉で蔵馬は慌ててグラスを上げた。二つのグラスを合わせると、空気が震えて澄んだ音を奏でた。紅の液体を一口すすった蔵馬は、眩暈を感じるほどの深い香りに小さな溜息をついた。

「…うわぁ…すごいいい酒。」
「よかったぁ。すっげー旨いなこれ!」

テーブルを挟んで対面のクッションに座っている黒鵺に笑顔が浮かんだ。蔵馬は思わずその表情に見とれた。

(あ…珍しい…。)

目の前の男はいつもの皮肉めいた笑い方ではなく、素直な笑顔だった。

「知ってる? ロマネ・コンティってワインあるだろ。あれって香りが本当に強くて、飲んだヤツのベッドまでもがロマネ・コンティの香りに変わるんだって。」
「何それ? 単に酒臭いだけじゃないの?」
「お前本当にロマンがねーなぁ。」

黒鵺は笑い出した。

「だからオレ達も実は今、このワインの香り撒き散らしてんのかもしれないぜ?」
「そう? ……分かんないけど。」

蔵馬は這って黒鵺の隣に近寄り、彼の首筋にぐっと顔を近づけて匂いを嗅ぐ仕草をした。自分にしてはちょっぴり大胆な行動に出たつもりだった……が、黒鵺は表情を一切変えず冷静に、手にしていたカナッペを彼女の口に押し込んだ。

「う……」

さすが“百戦錬磨”の夢魔だけあってちょっとやそっとでは乗ってもらえない…甘える仕草が空振りに終わり蔵馬は苦い顔をした。黒鵺はそれに気づかず、新しく手にしたクラッカーにサラミやらチーズやら葉物野菜やらを載せて次のカナッペをこしらえていた。

「…そういやお前、クリスマスは家族と過ごすんじゃなかったの?」
「だったら何でうちに来たんだよっ。」
「いや…オレは別にお前の家に行こうとしてたわけじゃないんだけど。」

そう言いながら黒鵺はカナッペを頬張った。

「じゃあ何で酒持って歩いてたんだよ。」
「新居に運んでたんだよ。」
「新居?」
「ああ、今夜中に引越し終わらせるつもりだったから。」

黒鵺はちらっと段ボールを見て、蔵馬の方に向き直った。

「あとはそこの段ボールだけだし、今夜中に終わらせて週末に部屋を片付けようかなって。」
「…ちょっと待て! お前オレに内緒で何処に行く気だよっ!」
「別に隠すつもりはねーよ。今夜はお前いないって聞いてたから、明日引越し作業が終わってから呼んで一杯やろうと思ってただけ。」
「えっ?」

蔵馬はテーブルの上の酒とオードブルをまじまじと見つめた。

(じゃあこれ…もしかして引越し祝いの料理だったのか?)

顔を上げて黒鵺をちらっと見つめると、彼は空になった自分のグラスにワインを注ごうとしていた。慌てて蔵馬は瓶を奪い取り、そっと彼のグラスに葡萄酒を注いでやった。「サンキュ」と黒鵺が微笑した。

「お前、何処に引っ越すの? すぐそこみたいだけど…。」
「当ててごらん。」
「……やだ、面倒臭い。」

そう言って、蔵馬は綺麗に並んでいるチーズをつまんで頬張り、続いてテーブルからワイングラスを手にとって唇を当てた。と、黒鵺がいきなり大声を上げた。

「あーっ! 蔵馬お前っっ!!」
「な、何だよっ!?」
「それオレのグラス!」
「えっ?」

丁寧にいちいちカナッペを作っている黒鵺は、折角注いでもらった酒も一口舐めただけでグラスを置いていた。

「…あ…御免、間違えた。」
「ったくもう…オレの唇が欲しいなら間接キスなんてセコい真似しなくてもいいのに…」
「言ってろアホっ。」

相変わらずお調子者の黒鵺に馬鹿馬鹿しくなって蔵馬はそのまま、彼のグラスを一気に空にした。

「うあ、勿体ない飲み方すんなよ! 高かったんだぞ!」
「オレに開けさせたのが運の尽き。さー次!」
「バカかっ! てめー……」

慌てる黒鵺を尻目に蔵馬は遠慮なく3杯目を注いで口にした。

…料理もあらかた空になり、心地よいほろ酔いが眠気を誘ってくる。超高級ワインも底にあと1センチを残して空に近づいていた。

「…黒鵺…」
「ん?」
「あのさ、今夜泊めてくれないかなぁ。眠くて、帰るの面倒だし……。」

少し掠れた声と濡れた瞳を武器に、蔵馬が囁いた。眠気は本当だったが勿論“おねだり”の理由はそれだけではない。先程のリベンジにもう一度甘えてみたつもりだった……が、

「ダメ。」
「…何でだよっ。」

蔵馬は黒鵺の冷たい返事にひるんだ。黒鵺は空いた紙皿をビニールのゴミ袋に突っ込み、ワイングラスを流しに運んで洗い始めた。

「布団もねーし、今日でこの家明け渡す約束なんだ。だから。」
「…あ…そう…。」

拒否の理由が自分には関係ないことを知り、蔵馬は少し安堵した。黒鵺はワイングラスをペーパータオルで拭き、元々入っていたらしい箱の中に丁寧に収めた。すっかり荷物をどかしたテーブルを畳みながら、彼は蔵馬を追い立てた。

「…さ、手伝って。」
「何を?」
「決まってるだろ、最後の荷物運び出すんだよ。お前が来てくれて料理も空になったからもう往復しなくて済みそうだな。」

黒鵺は段ボールに視線を向けながらそう言い、テーブルを指して「コイツは粗大ゴミ」と笑った。

「その段ボール頼むぜ。」
「ワインまだ残ってるけど?」
「オレが持ってく。後で空けよう。」

黒鵺は床に放り投げたままになっていたジャケットを羽織った。「出るよ」と言って、黒鵺は蔵馬に先に出るよう促した。彼は最後にもう一度部屋を見渡しドアに鍵をかけた。階段を下り、二人はアパートの外へ出た。雨は上がり、空には煌びやかな冬の星座が瞬いていた。

「…雪はなかったな。」
「この暖冬じゃ仕方ない。」

そう言って黒鵺は前に抱えた段ボールを持ち直した。普通の人間なら到底歩けないような荷物もこの二人にはさしたる苦痛ではない様子だった……いや、よく見ると蔵馬はさり気なく植物で支えている様子だったが。

「あれお前、植物に荷物運ばせてないか?」
「バレた?」
「あのな、そんならオレの分も運んでくれよ!」
「はーいはい。」

段ボールの上に段ボールを積み、二人は勝手に進む植物の後ろをついて歩いた。蔵馬が胡散臭そうに黒鵺を見上げた。

「……で、お前の新居って何処なの。」
「○○区××△丁目□ー◇、▽▽アパート。」
「えっ…? …ちょっと待てよ、それ…うちの住所なんだけど!」
「だってオレの引越し先、お前の隣の部屋だもん。」
「…………はあ!?」
「気づかなかった? 最近、隣でガタガタやってたの。」
「…!!」

蔵馬は呆然として相棒の顔をぽかんと見つめていた。黒鵺は「してやったり」の得意げな表情だった。

「…お前っ…」
「何だよ、オレが隣に来たら迷惑?」
「え? …そ………そんなことは、ないけど………」

最後の方は口ごもってしまった。顔が熱くなったのを、この何処までも余裕ぶちかましている男に悟られてはいないかと蔵馬は少し不安になった。恐る恐る隣の黒鵺を見上げると、彼はじっとこちらを見つめていた。……視線が合って蔵馬はハッとした。黒鵺の眼が笑っていた……温かく、何処までも優しい紫色だった。

ほんの一秒視線を合わせた後、黒鵺はふっと笑って蔵馬の背中を叩いた。

「さ、運んでしまおうぜ。」
「…ああ。」

黒鵺に急かされて蔵馬は何となくフワフワした落ち着かない気持ちのまま歩いた。

約10分後、二人は目的のアパートに辿り着き3階にある蔵馬の隣の部屋まで荷物を運んだ。室内に踏み込み灯りをつけて蔵馬は言葉を失った。先に運び込まれていたほとんどの荷物はすっかり解かれていて、明日からでも生活出来そうな手際の良さだった。

「……お前、いつの間に……」
「だからさっき『最近は散歩が日課だ』って言っただろ。」

黒鵺は笑いながら運んできた段ボールを部屋の隅に置き、既に布団まで敷かれているベッドに座り込んだ。その手には先程少しだけ飲み残した葡萄酒の瓶が握られていた。

「あ!」

蔵馬の目の前で、彼はいきなり葡萄酒のコルクを開けてラッパ飲みし始めた。

「お前、いくら何でもその飲み方はないだろ!?」
「いいからはい、残りはお前の分。」

黒鵺はそのまま瓶を蔵馬に渡した。蔵馬はしばらくじっと瓶を見つめていたが、黒鵺に倣いボトルに直接唇を当てた。黒鵺がそれを見てくすくす笑っていた。

「…何だよっ。」
「いや、やっぱ女のラッパ飲みは色気がねーなぁって。」

むっとした蔵馬は先程使っていたグラスを荷物から取り出そうとした。と、その右手首を黒鵺が背後から掴んだ。

「まーいいじゃん、今日が最後ってことでさ。」
「…何だよそれ。」
「これからはもう少し女磨いてもらうから、勝手気ままも今のうちってこと。」

そう言って黒鵺は蔵馬の手首を強く引っ張り、少し強引にベッドの自分の隣に座らせた。蔵馬は何となく緊張しながら残りの葡萄酒を飲み干した。数百万はするであろう葡萄酒の、眩暈を誘うような芳醇な香りに意識が遠のく思いがした。瓶が空になりホッと一息ついたその瞬間、黒鵺が少し屈みいきなり蔵馬の唇の辺りにそっと鼻を近づけた。

「…何…?」
「お前の唇、葡萄酒の匂いがする。肌にも……香り移ってるかも。」
「えっ…!」

手を述べて黒鵺は蔵馬の首を後ろから支えた。そのまま黒鵺はそっと蔵馬の首筋に顔を近づけ、唇を触れさせた。

「…あ…」
「やっぱり……身体から香ってくるよ。すげーいい香り……。」

ゾクリとするような心地よさに蔵馬は思わず声を上げた。黒鵺は蔵馬の肩を抱いた。彼女は素直に黒鵺の胸に倒れ込んだ。

(……ああ、本当だ……。)

黒鵺の肌からワインの甘い匂いを感じる。甘くて豊麗で蠱惑的な、眩暈のするような芳香……“媚薬”というものが本当に存在するならきっとこんな香りに違いない。……それにしても。

(…やっぱり“黒鵺”だな…。)

さっき自分がやろうとしたこと……葡萄酒の香りにこぎ着けて相手の肌を求める“技”をあっさりと返されてしまった。

(要するに自分が主導権取らないと嫌なんだよな、コイツ。)

何となくおかしくなって笑顔のこぼれた顔を、蔵馬はぎゅっと黒鵺の胸に押し当てた。黒鵺が蔵馬の髪の毛を軽く撫でながら切り出した。

「オレさ、ここに越してくんの楽しみにしてたんだ。だから、引越祝いも奮発してみた。」
「…うん…。」
「クリスマスはどうでもいいけど、まあそれなりに気の利いた品だったと思わない?」
「…そう、かも…。」
(……でも……)

高級なワインよりも黒鵺がここに来てくれたこと自体が嬉しかった。自分から切り出せなかった願いを彼が解ってくれていたこと、更に言えば『また一緒に暮らしたい』という想いが同じだったことが嬉しいのだ。

黒鵺が再び蔵馬の首筋を唇で軽く撫で始めた。肌に触れる感触の滑らかさに蔵馬は思わず吐息を漏らした。

「…だからさ、」

愛撫の途中に黒鵺はそう言って、肩にかけた手に少し力を込めた。自然と二人の体がベッドの上に倒れ込んだ。

「だから、何?」
「……」

蔵馬の熱っぽい眼が黒鵺を射抜いた。彼女に覆い被さるような姿勢を取り、黒鵺は無邪気な笑顔で尋ねた。

「お前は、これからオレに何をくれる?」

そう来たか、と蔵馬は苦笑した。

「…じゃあ、まずは“小さい物”からかな。」

ゆっくりと黒鵺の首を抱き締め、蔵馬は彼の唇にキスをした。きっと明日の朝までには、このベッドに媚薬の移り香が刻まれていることだろう……葡萄酒の香りのキスをねだりながら、蔵馬は霞む脳裏で後朝 <きぬぎぬ> の甘美な目覚めを思い描いていた。

【完】

死人花

content.php

潮の香りを含んだ風が悲しげな泣き声を立てて滑ってゆく。鬱蒼とした森に囲まれた、時忘れの朱の花が咲き乱れる野に、男が一人立っていた。蝋のような白い貌、時折風に煽られて揺れる漆黒の髪。存在自体さえどこか危うい美貌の持ち主の手に、今、一本の朱い花……

「勝ち上がったな、予想通り。」

豪華な内装のスイートルームで最高級のワインを片手に呟いたのは、暗黒武術会の優勝候補筆頭・戸愚呂チームのオーナー左京だった。ゲストとして招かれた浦飯幽助とその仲間達がつい一時間ほど前、一回戦で六遊怪チームを破ったばかりだった。

「なかなか楽しませてくれるゲストじゃないか。人選は間違っていなかったな。」
「ええ。」

傍らで左京に相槌を打ったのは、チームの実質的な大将・戸愚呂弟だった。

「しかし、あのチームでは所詮我々の敵にはならんでしょうな。壁を壊すような、画期的な力の源が出てこない限り。」
「力だと?」
「今の状態でこれ以上のパワーアップを見込めるのは飛影のみ。浦飯はまだ霊光波動拳の正式な継承者とは程遠く、桑原も我流の技では今が限界。蔵馬は内在している能力に比べ、肉体が弱すぎる。そして、覆面こと幻海は言うまでもない。」
「ふ、つまらんな。」
「だからこそ、彼らだけでなく私も期待しているんですよ……“Break-Through”をね。」

そう言って戸愚呂はポケットの中の手をサングラスを直すために顔へ移動させた。左京はワイングラスを揺らしながらふと呟いた。

「そういえば、我々のチームの残り一人はまだ来ていないのかね。」
「おや、先程共に浦飯チームの試合を観戦していたのですが…挨拶に来てないんですか。」
「ああ。全く……相変わらず、チームワークのかけらもない。」
「本当に強い者に団結などと言うものは必要ありませんよ。」

左京は戸愚呂の言葉に微笑した。

 風の冷たい夕暮れ時。何時間そこに居座っているのか……男は朱い花に埋もれたまま、まるで花に同化するかのようにじっと風に吹かれていた。

(死人花は、死を暗示する花……)

血の紅よりも毒々しく、見る者を魔性の淵へと引きずり込む妖しい花。ほんのひと時華やかに咲き、あっという間に色褪せてしまうこの花に、男は忌むべきものと念じながらも強い愛着を抱いていた。

(時忘れの花よ、次は誰の死を願う…?)

心の内で花に問うてみる。朱の花は無言で、しかし雄弁に誰かの死を暗示する。

(……願わくば、次こそは私の番で……。)

そっと眼を閉じる。花の朱が瞼の裏で、血の色と重なる。

『…お前ってさぁ、もうちょっと明るい予言できないの?』

遠い昔、男がまだ“死”に魅せられる前のこと……黙々とカードを捌く彼の目の前で憎まれ口を叩いていたのは、今は亡き彼の友人だった。

『戦が始まるとか、病気が流行るとか、確かによく当たるけど……そんな未来ばっか見せられちゃ人生に絶望したくなってくる。』
『悪かったな、そういうのしか見えなくて。』
『別に悪かねーけど、暗い予言するなら解決策も一緒に提示しろって言ってんの。』

そう言いながら友人は、男の占いの道具であるカードを弄んでいた。男がそれを見咎め慌ててカードを取り上げた。

『触るなっ。お前が触ると霊感が落ちる。』
『別にいいじゃんか。嫌なことばっかり見えるくらいなら、未来なんて分からない方がいい。』

屈託なく笑う友人はまるで男と対照的だった。彼はどんな苦境の中でも明るく前向きな青年だった。何処か影の方ばかり向いて進んでいくようなところのある自分を、彼がいつも光の方へ引き戻してくる……自分でも気付いていなかったが、男はこの友人に救われていた。そう……今思えば、千年近い生の中で“親友”と呼んでいい数少ない友人だったろう。

『そうだ! いいこと思いついた。オレのこと占ってみろよ。』
『…お前を?』

友人の申し出に、男は不思議そうな表情をした。友人は笑顔で頷いた。

『どうせお前のことだから、オレについても嫌な未来しか見えないだろ。でもオレがそれを避けることが出来たらどうする?』
『…どうするって…』
『お前が告げた悪い運命をオレが全部避けてみせる。そうすりゃオレが、お前の占いに勝つ方法を知ってるって証明になるだろ。』
『…?』
『そしたらさ、オレ達で新しい商売始めようぜ。やって来た客にお前が占いで「これからこういう危険がありますよ」って注意する。で、オレがその隣で解決策をアドバイス。どう、無敵の人生アドバイザーコンビ結成だぜ?』
『…何だって!?』
『あーよかったぁ、盗賊稼業はやっぱ性じゃないし別の金儲け考えてたトコなんだよなオレ。』

唖然とした男の前で、友人はくすくす笑い彼の肩を叩いた。

『さー矢でも鉄砲でもどんと来い、始めようぜ。』
『……』

呆れた溜息を交えつつも男は言われるままにカードを切り始めた。

(本当に不思議だ……いつもお前は、私を楽にしてくれる。)

カードを捌きながら、男は目の前に座る友人へ意識を集中した。彼は、流浪の民の中で育ち仲間の死ばかりを目の当たりにしてきた男が初めて心を開いた同年代の友人だった。迷いの多い自分にとって彼こそが唯一確かな道標に思えた。この交流が途切れる日が来ることなど考えられもしなかった。……が………

『……』

男がカードを並べ、一枚ずつ表に返していく。色とりどりの絵柄が友人の辿る今後半年の運勢図を描いていく。淡々とカードの示すものを読み取っていた男の手が、ふと宙で止まった。

『…!』
『…どうした?』

友人が不思議そうに尋ねた。男は強張った顔を隠すように俯き、自ら結果を否定するように頭を振った。その震える指先に、鮮やかな血の色をした花のカード………“死人花”は名の通り、友人の“死”を暗示していた。

『……克てよ……お前の運命に、絶対……!』

今まで一度たりとも外れたことのない、死の暗示。珍しく取り乱す男に友人は困惑しながら約束した。「運命には敗けない」と。……が……悲しい予言は、現実の物になってしまった。

「あーあ痛々しい…折角の綺麗な顔が台無しじゃんよ。」

浦飯チーム陣営の女性陣が固まって宿泊している部屋で、蔵馬の顔の傷を眺めながらまるで自分のことのように溜息をついているのは温子だった。

「どうしちゃったの? 途中でいきなりあんなヤツの言いなりになってさ。」
「いや…ちょっと。」

肩をすくめ、蔵馬は自分で調合した薬を頬の刀傷に擦り込んだ。家族を人質に取るという卑怯な呂屠のやり口も、所詮彼女にとって何の脅しにもならなかった。

「…ま、いきなり倒すのも気の毒だから手加減してやったんですけどね。」
「さっすが! 全く、うちの和真とはエラい違いだわ。」
「ねえ蔵馬クン、そういやあたし達出場チームのこともよく知らないけど誰が強いの?」

温子に質問され、自らの治療を終えた蔵馬は小首を傾げた。

「うーん…オレ達も実は戸愚呂兄弟以外の選手はよく知らないんですよね。人間界に強い妖怪はあまりいないから、名前の通った連中なら参加してる可能性は高いんですけど。」
「パンフレットとか準備してくれりゃいいのにねぇ。ちょっと大会本部、不親切じゃない?」
「唸るほど金持ってんだからそんなところでケチらなくたっていいのに。」

お気楽な女性陣の会話に苦笑しながら蔵馬は立ち上がった。螢子が振り返った。

「蔵馬さん、どちらへ?」
「…ちょっと散歩に。」
「気をつけてよ! 変な連中がウヨウヨしてるんだから。」
「大丈夫ですよ。」

心配してくれた静流に笑顔で応え、蔵馬は部屋を後にした。廊下を抜け、コソコソ陰口を叩く野次馬へ脅しにも似た殺気を投げつけながら彼女はホテルの外へ踏み出した。

(さてと…今のうちに“植物採集”でもしておくか。)

妖力の弱い今の自分では、戦闘中の消耗で人間界の植物召還さえままならなくなる可能性がある。種さえ確保しておけば何もないところに“呼び出す”よりは武器化がはるかに楽になる。…森へ分け入り、彼女は躊躇うことなく奥へと歩みを進めた。

(少々勝手が違うな…この島の植生は。)

自分の現在の住まい周辺ではなかなか見かけない植物があちらこちらに生えている。しかし蔵馬は、それだけには留まらないもう一つの「違い」に気づいていた。

(“春”の植物じゃない…。)

学生である自分や幽助、桑原の春休みに合わせたようなこの大会。なのに今彼女の周りに生えている植物は季節感に少々欠けていた。夏の植物、秋の植物……あまりに節操のない多種多様ぶりに、蔵馬は苦笑しながらも内心有難いと喜んだ。種を一粒、芽を一株、少しずつ“お裾分け”を貰いながら彼女はどんどん森の奥へと踏み込んでいった。

不意に彼女は、目の前に明るい陽射しが降り注いできたのに気づき顔を上げた。

「あ……!!」

思わず声を上げ、蔵馬は足を速めた。木々が途切れ急に開けた視界の中に、広大な“海”が広がっていた。紅く紅く燃える、花の海。

(彼岸花……!?)

朱の炎一つ一つが、鮮やかに燃える彼岸花だった。季節を忘れた花の群生に分け入り、蔵馬は指で触れた。

(何て綺麗!)

ここまで見事な群生は滅多に見られない。殺伐とした島の中で朱の花は一際悲しげに燃える松明のようだった。そういえば彼岸花の花言葉は確か、「悲しい想い出」ではなかったか。

――魔界でも一度だけ、こんな光景を見た――

花の炎は蔵馬の脳裏に遠い昔の記憶……“悲しい想い出”を呼び起こした。忘れることのない、あの風景。花の海の中で向き合っていたのは、かつて命を賭して愛したひと。切なげに自分を見つめていた、懐かしい面影だった。

(あれからもう、千と百年ほど。なのに、今でもこんなに悲しい……)

あの光景を眺めてからひと月も経たぬ内に去っていった“彼”のことを、今でも忘れられない。想いを完全に通わせられぬまま引き裂かれたことが、千年経っても悔やまれて仕方ない。

「……黒鵺……」

千年恋焦がれた“名前”を口にしてみる。彼女の心の波風に応えるように、朱の炎がさざめいた。

――その時。

「!?」

少し離れた場所で、黒い影が一つ揺れた。驚いて顔を上げた蔵馬はその影を見咎め、あっと声を上げた。

「“鴉”っ……!?」

風が人影の黒髪を舞い上げた。ぐっ…と蔵馬は唇を噛んだ。“鴉”と呼ばれた人影は、蔵馬の姿を認めると五メートルほどの至近距離まで近づいてきた。

「久しぶりだな、蔵馬。」
「まさか、こんな場所で会えるとは……捜していたぞ、鴉!」

蔵馬の身体を包むように激しい妖気が燃え上がった。鴉はしばらく彼女の顔を見つめ、小さく呟いた。

「ハンターに追われ人間に憑依したと聞いていたが……フ、それがお前の新しい肉体か…。」
「貴様が何故ここにいるんだ!」
「暗黒武術会に呼ばれたのだ。」
「何だと…?」
「左京という男に雇われて来ている。…そういえばお前も“ゲスト”だったな。」
「……!」

まさかこの男が戸愚呂達のチームにいたとは。蔵馬はぐっと拳を握り締めた。彼女にとって、鴉は憎むべき相手だった。黒鵺の亡骸に屈辱を与えた男。それ以後ずっと、自らの運命を影で掌握し続けてきた男。面と向かって対峙するのは数百年ぶりだったが、恐らくその間もこの男は陰から自分の生を好奇の目で愉しんできたのだろう。

「お前はようやく、自由になる機会を得たのだ。」

静かに呟いた鴉の言葉に、蔵馬は握った拳に更なる力を込めた。

「お前が私を倒すか、それとも私がお前を殺すか。いずれにせよ、この因縁が切れる時が来たようだ。もっともその脆弱な肉体では、私の支配を逃れることなど叶うべくもないが。」
「何だと!?」
「せめて私を失望させるなよ。上がってこい……決勝まで必ず。」

鴉はとん、と自分の胸を叩き蔵馬を誘った。顔の半分をマスクで覆い表情の殆どを読み取れなかったが、その瞳は何処までも静かな紫色だった。

『大事なヤツが出来たんだ。』

鴉が友人・紫を失ってから十年近く過ぎたある日のこと。晴れやかな笑顔で彼にそう語ったのは紫の弟・黒鵺だった。

『…オンナか?』
『いや、まあ女には違いないけど…そうじゃなくて“親友”。あ、“相棒”かな?』

薄暗い酒場で酒を飲むような歳になった黒鵺は、ちょっとした仕草の一つ一つが誰に教わったのか亡兄そっくりに育っていた。石細工の杯になみなみ注いだ葡萄酒を口にしながら、彼は鴉に新しい友人のことをさも嬉しそうに語り始めた。

『最高のパートナーだぜホント! 頭は切れるし腕も立つし、何よりオレとピッタリ息が合うっていうか…オレの考えること何でもすぐ分かってくれるから一緒にいて気持ちがいいんだ。おまけに目の醒めるような美人でさ、性格は全っ然可愛くねーけど実はそんなトコもオレ好みだったりして。』
『やっぱり惚れてるんじゃないか。』
『違うって! あいつが男だろうが女だろうがオレ達は親友になってた。絶対!』
『…そうか。』

思わず鴉の口許に微笑が浮かんだ。黒鵺はまくし立てるように相棒の話を続けた。

『蔵馬っていってさ、銀髪の妖狐なんだ。珍しいだろ? 髪の毛も凄いけど眼も金色でさ、もう人形か何かみたいに綺麗なんだ。更に言えばムダに超ナイスバディでさぁ…今一緒に暮らしてんだけど、オレいつまで理性持つかなぁ? でも仕事の相棒だからヘタに襲って気まずくなるのも困るし…』
『…今止めなければ何時間でも喋っていそうだな、お前は。』
『えっ? …あっ、ゴメンっっ!!』

紅くなって慌てて話をやめた黒鵺に、鴉は笑って酒を注いでやった。

『まあいいさ、今夜は真実の愛を見つけたお前に乾杯だ。』
『やめてくれって! ベタ惚れてんのは認めるけど、オトコとオンナの関係じゃない。本気だからこそ、そういう関係にしたくないんだ。』

否定しながらも黒鵺はまんざらではない様子だった。笑顔で注がれた酒に口を付けた彼を、鴉は穏やかな眼差しでじっと見つめていた。

黒鵺が兄を失ったのは、彼がまだ八つの頃だった。兄・紫は腕の立つ妖術師だったが、戦で疲弊した里のために気の進まない盗賊稼業に手を染めていた。その首に掛かった懸賞金を目当てにあろうことか里長に裏切られ刺客を向けられたのだった。

兄を殺され、命からがら里を脱出した黒鵺を成人するまで庇護していたのは鴉だった。戦闘訓練を施したり生きるために必要な知識を与えたり、紫が存命ならば弟にしてやっただろうと思えることを、彼は全て黒鵺に与えた。それは決して黒鵺のためだけではなかった。いつしか友の代わりを務めることこそが、鴉自身の“生きる理由”となっていったのである。

(ようやく、黒鵺の瞳から翳が消えた。)

兄を襲った下手人とそれを雇った里長に復讐を果たしてからも、黒鵺は何処か捨て鉢な生き方をしていた。わざわざ兄の命を奪った盗賊稼業に身を染め、無謀とも思える挑戦を繰り返す日々が続いた。…その黒鵺が、ようやく心から笑っている。

(見つけたんだな。お前はお前自身の“生きる理由”を。)

例え自分の手を離れても、今の鴉にとって黒鵺が“生きる理由”であることに変わりはなかった。自らも杯を傾けながら彼は安堵と少しの寂しさを覚えふっと笑った。

「何処行っていたんだお前?」

ホテルの室内に戻ってきた鴉に、ソファの上でいかがわしい雑誌を広げながら話しかけたのは戸愚呂兄だった。

「左京さんに挨拶もしないなんて、後でどうなるか分からねぇぜ?」

返事さえ面倒と言わんばかりの態度で、彼は戸愚呂兄から一番離れた席へ腰を下ろした。鴉はこの下劣なチームメイトを疎んでいた。弟の方の闇を求める生き方には何処か共感を覚え惹かれていたが、兄だけならば決して軍門に下ろうとは思わなかっただろう。

「おい鴉、左京さんの機嫌一つで弟が手を下すかもしれないんだぞ? 悪いことは言わねえぜ。」
「言っておくが、私が本気でやればお前達など一瞬で粉になる。お前達の言うことを聞いているのは金になるから…それだけだ。」
「ひゃはは、口だけなら何とも言えるからな。」

鴉が戸愚呂兄弟より強いのは事実だった……霊界のランク付けを借りれば戸愚呂弟がB級、鴉はA級だった。蔵馬を追って人間界に渡って以降、彼が真の力を発揮したことはなかった。強力な妖怪ほど霊界にマークされやすい。十数年前この兄弟に敗れたのも、人間界で目立たぬように徹した結果だった。

再び雑誌に向き合った戸愚呂兄の前で、鴉は懐から何かを取り出しテーブルに並べ始めた。戸愚呂兄が顔を上げた。

「何だ? …カード?」

テーブルの上に並び始めたのは、年季の入った紙のカードだった。

「…占いでもしてんのか? 相変わらず根暗な野郎だな、へへへ。」
「…」

冷やかしを黙殺し、鴉はカードを並べ続けた。上に五枚、下に五枚並べたところで鴉はカードを順に表に返し始めた。

「!」

戸愚呂兄が息を飲んだ。カードの図柄は、不吉な紅い花……“死人花”の異名を持つ、彼岸花の姿だった。上の五枚のうち二枚、下の五枚の内一枚が上下正しく並んでいて、残り全ては逆位置だった。

「…何だお前、そのカードは何だ?」
「死人花は“死”の暗示。正位置のカードが死者を表す。」
「あ…?」
「決勝で、私達のチームに二人の死者が出る。左京も入れた、五人の中でだ。」
「何だと!?」

戸愚呂兄が身を乗り出した。

「ちょっと待て、相手は…?」
「一人だ。決勝に残るのは多分ゲストの浦飯達だろう……とすれば、恐らく死ぬのは幻海だ。」
「…!」

戸愚呂兄はしばらく信じられないような表情でカードを眺めていたが、そのうちニヤリと笑った。

「ヘッ、オレは何があろうが生き残るぜ。テメェこそ自分の身を心配するんだな。」
「…ああ……ようやく死ねるのかもしれない。」
「何だと?」

カードを掻き集め鴉は立ち上がった。そっと窓に寄り、彼は森の方へ視線を投げかけた。視界の端に朱の炎が……彼岸花咲き乱れる野が見える。

(……やっと、楽になれるのか……。)

鴉はそっと瞼を閉じた。

悪夢のようだった。紫に続き、黒鵺が死んだ。死人花の暗示は彼の上にも現れた。強烈な喪失感に襲われ、鴉はしばらく立ち上がることすら出来なかった。

(お前まで、去っていくのか……!?)

紫の時に続いて、予見しておきながら防げなかった、悔しさと無力感に身を引き裂かれるようだった。

(私はこれから、何を支えに生きればいい?)

妖怪の長い生に比べ、短い間に喪ったものがあまりに大きすぎた。この世に生を受け僅か数十年しか経っていない鴉にこの悲しみはとても耐えられないと思われた。しかし、黒鵺の遺体が白日の下に晒されるとの噂を聞き、彼は残った気力を振り絞り友人に別れを告げに行こうと決意した。………その別れの場で、鴉は蔵馬と対峙した。

群衆に交じり成り行きを見守っていた鴉の前に、銀の髪の女が現れた。誰よりも愛しい男を失い、それでも最後の務めとして彼の亡骸を引き取りに来た女の姿に、鴉は胸を貫かれるような衝撃を受けた。

(美しい……)

何故か、他のどの感情よりも先に浮かんだ素直な思いだった。極限の悲しみは世界中の何よりも美しい。咄嗟に彼は思った、「彼女を見届けたい」と。「黒鵺の代わりに、彼女を守りたい」と。そして気がついたのである、蔵馬が死ぬ気であることを。

蔵馬の目の前で鴉は黒鵺の亡骸を破壊し、彼女を挑発した。

『この因果から逃れたくば私を倒しに来い。』

その言葉で、それまで虚ろだった蔵馬の眼に光が戻った。

『貴様だけは……必ずオレが殺す!!』
『…… 楽しみにしている。』

悪役を演じてまで、彼女を救いたかった。

── それが自分にとっての救いにもなる ──

本能的に、鴉はそう感じ取っていた。

「そういや鴉、お前は何が欲しいんだ?」

背中から戸愚呂兄に声をかけられ、鴉は振り返った。

「何の話だ。」
「聞いてないのか? 優勝したら何でも好きなモン貰えるんだぜ。」
「……」

そう言われれば大会への参加を誘われた時に聞いたような気もする。鴉はしばらく沈黙した。

(そもそも、勝利など望んでいない。)

見せ物ではなく、存在意義を賭けた戦い。蔵馬と自分の、千年に渡る因縁への決着。

(私は、護り続けてきた物を自らの手で壊さねばならないのだ。これ以上の葛藤が他にあるだろうか?)

何かを喪う苦しさは二度と味わいたくない。だが自ら選んだ茨の道は、互いに殺し合うことでしか決着をつけられそうになかった。

(だが、敗れるわけにはいかない。)

つい先程までは、闘いの中で死ぬのも悪くないと思っていた。十数年前に蔵馬を見失い、彼は生きることに意味を見いだせなくなっていた。風の便りで蔵馬は人間社会の中で家族を得て平和に暮らしていると聞いた。「最早、私が支えることもない」、ずっとそう思っていた。……しかし。

(蔵馬は今でも囚われている。黒鵺の記憶に縛られ、心を閉ざしたままでいる。千年の時間も、彼女を救えなかった。)

朱い花の野で、蔵馬は黒鵺を呼んでいた。「悲しい想い出」の花言葉が示す通り、咲き乱れる彼岸花は彼女の悲しい記憶に共鳴して震えていた。それを目撃してしまい、鴉の心にさざ波が立った。

(結局、蔵馬は黒鵺を忘れられないのだ。)

そう気づき、鴉の胸を今まで覚えたことのない痛みが刺した。それが黒鵺に対する“嫉妬”であることを、彼自身認めないわけにはいかなかった。

(だから蔵馬、私がお前を殺す。)

自らの手に留まらないものをせめて自らの手で止めてしまう。決して望む結末ではないが、いつの間にか自分の心を支配していた蔵馬への強い愛着に、何らかの形で決着をつけねばならない。

(お前を殺して、それから……)

好奇心に満ちた視線を向ける戸愚呂に、鴉は静かに呟いた。

「……私が望む物は、私自身の死、だ。」

この答えに戸愚呂はいきなり笑い出した。

「ひゃーひゃっひゃっ!! 何処までも根暗な野郎だぜ! まあそんなマイナス思考じゃ生きてたって何にも面白いこともないだろうがな!」
「面白可笑しいだけの生など、私は望まない。」

鴉は冷ややかに斬り捨て、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。

「悲しみも苦しみも、全てに耐えて懸命に生きる姿こそが美しいのだ。だが、それはとても辛いこと……」

再び窓枠に手をかけ、遠い彼岸花の苑を見つめる。潮の香りの風が花の炎を揺らめかせていた。

 数日後。鴉が再びあの野に足を踏み入れた時、既に花は色褪せ萎れた姿を晒していた。

(儚いものだな。)

萎れた花に触れてみる。色を失った彼岸花はあまりにみすぼらしく、滑稽にさえ思えた。

(死ぬのが誰かは、一人一人を観れば分かること。だが……それを知りたいとも思わない。)

指先に少し妖気を込めると、花の残骸は物悲しい音を立てて砕け散った。鴉は散り散りになった花の残骸を虚ろな眼で見つめていた。

(蔵馬、もし明日の決勝で、私とお前双方が生き残ることがあったら……)

有り得ない結末だ、と思いつつも敢えてそんな状況を想定してみる。空想の中で蔵馬が振り返る。彼岸花と同じ色の髪をした、美しく悲しい存在が。

(もし二人とも生き残ったら、今度こそ私はお前に真実を話そう。紫のこと、黒鵺のこと、そしてこの胸に生まれた、複雑すぎる想いを……)

眼を閉じて潮風のざわめきに耳を傾ける。花のさざめく声はもう聞こえない。鴉はそっと立ち上がり、炎の消えた野を後にした。

【完】

Montage Lady

content.php

 いい天気だなぁ! 爽やかで涼しくて、風と太陽と空の碧さがこんなにピッタリ一致する日は聖地にだってなかなかないよ。執務室にこもってるのはもったいないから昼休みを兼ねて庭園へ散歩に行こうかな。…俺は一つ伸びをして、書きかけの惑星調査レポートを文鎮の下に置いた。きっとこんな日は庭園にも大勢の人がいるだろうな。

「こんにちは、ランディ様!」
「こんにちは!」

 思った通りだ。沢山の人が眩しい太陽に誘われて庭園にやってきてる。あ、あのカップルまたベンチで楽しそうにしてる。いいなぁ、俺にもあんな可愛い彼女がいたら…なんて言ってるから
オスカー様にからかわれるんだよな、きっと。第一それ以前に女の子の眼を見て普通に話せるくらいになりたいよ…あーあ。

 …なんて考えながら歩いてたら、東屋のベンチに人だかりしているのが見えた。オスカー様にセイランさん、そしてゼフェルとオリヴィエ様だ。守護聖&教官の過激派集団…というか、俺に会うと必ずからかいの言葉を向けてくる四人だ。

「お~や、いいトコに純情熱血ボーイが来たみたいだよ☆」

うわっ、オリヴィエ様に見つかってしまった。

「やあランディ様、面白いことやってるんだけど貴方も来てみない?」
「お前も実験しないか? お前の好みのタイプも興味深いしな。」

セイランさんとオスカー様の言葉に首を傾げて近づくと、ゼフェルが抱えるノートパソコンを他の三人が覗き込んでいるところだった。

「何やっているんですか?」
「あぁ、コンピュータで好みの女の顔を作るんだよ。
 登録されてるパーツを組み合わせてモンタージュを作るんだぜ。」

オスカー様に尋ねたつもりだったけど答えたのはゼフェルだった。画面を見てみるとそこにはのっぺらぼうの輪郭や様々な形の顔のパーツが並んでいて、好きなのを選んで色々な顔を作れる仕組みになっていた。ア然とする俺の横からオリヴィエ様が手を伸ばして画面を操作すると、そこにメークばっちりの華やかな顔が現れた。

「で、これが私の作った理想のビ・ジョ☆ どう? 美人でしょ~♪」
「…何かオリヴィエ様に似てません?」
「だ・か・ら、理想って言ったじゃな~い。」
「気色悪い冗談はやめろ。本当の美女ってのはこういうのを言うんだ。」

オスカー様がキーを操作して、画面上に繊細そうな白い顔が現れた。誰かに似ているような気がするなぁ…気のせいかな。しっかし、オスカー様がいつも声をかける女性はもっとケバくて遊んでそうな人ばっかなのに。思わずオリヴィエ様と目を合わせると、向こうも苦笑い…いや、完全に鼻で笑っていた。

「オメーもやってみろよ。けっこーハマるぜ。」
「理想像じゃなくても実在の人物に似せることもできますしね。」

そういってセイランさんが軽くキーを押すと、そこに現れたのはマルセルそっくりの可愛い女の子だった。「僕が作ったんですよ」とセイランさんは軽く笑って見せた。

「…じゃあ俺も作ってみようかなぁ。」
「よぉ~し、そう来なくっちゃ☆」
「まずは顔の形を決めないとな。」
「うーん…じゃあ3番に…でも後からまた迷うかもなぁ。」
「後からいくらでも変えられるから、 決まらなかったらテキトーに入れとけよ。」

気がついたらみんな、俺の好みの女の子とやらに興味津々といった顔だ。

「眼はどうしますか?」
「うーん…ちょっと吊り気味の…睫毛が長くて…あ、もう少し勝ち気な感じの…」
「じゃあ16番かな?」
「いや、もう少し二重がきつくて……」
「じゃあ19番。」
「何か違うなぁ…。眼と眼の間をもう少し離せないのかゼフェル?」
「このパネルで変えられるぜ。ほら…」
「あ、ストップ! その辺で!」

眉毛や鼻も加えて、大分それっぽくなってきた。でも…改めて見ると何で俺、こんな女の子作っているんだ!? すっごい綺麗な人なんだけど、醒めた眼でこっちを見るような…ハッキリ言って「そっけない」感じの女性。俺の好きな子ってこんな感じなのかなホントに。

「何かさー、意外だよね。勝ち気を通り越してキツそうじゃない?」
「オメーの好みってもっとフワフワしたタイプだと思ってたけどなぁ。 すげーワガママそうな女~。」
「何だよっ、そこまで言うことないだろう!?」
「まあ出来上がるまでは何とも言えないからね。唇は?」

オリヴィエ様の声で我に返って俺はパレットを眺めた。うわ…女の子の唇だけが並んだモニターは見ているだけで照れくさくなってくる。

「おいおい、何紅くなってるんだお前?」
「まったく~、ウブで可愛い坊やだねぇ☆」

オスカー様達にからかわれるとますますやりにくい。

「か、貸してくれよっ!」

ゼフェルの膝の上からノートパソコンを取り上げて、俺は隠すような格好で画面を操作した。
柔らかそうな唇は可愛いけど、この顔には似合わない。もっとひんやりした、体温を感じさせないような唇…開けば愛のささやきよりも、つれない言葉ばかりが漏れてくるような…人形みたいなパーツこそがしっくり来るような気がする。

「…うわっ、コワっ!!」

急に背後から大きな声がして俺の方が飛び上がった。振り返るとセイランさんが変なものを見るような眼で画面を覗き込んでいた。

「なっ、勝手に見ないで下さいよっっ!!」
「信じられない! 貴方こんな女性が好きなの!?」
「おい、ひょっとしてお前、自虐傾向があるんじゃないのか!?」
「絶対このコあんたのコトいじめそうだよ!」
「オメー将来絶対女に振り回されるタイプだぜ! 気をつけろよ!!」

みんなが俺の作った女の子の顔を見て大きな声で騒ぎ立てた。オスカー様やゼフェルなんか本気で俺のこと心配そうな顔で見ている。な、何もそんな顔しなくてもいいだろう!?

「…まあ、丸坊主のままじゃ可哀想だから髪の毛つけてあげようよ。どれくらいの長さ? 色は? まっすぐ? ウェーブ?」
「…いや、もう好きにして下さい…」
「こら、あんたの好みのコなんだからあんたが責任持って仕上げなよ。」
「そうそう、お前が途中でやめるとこの女性は パンチパーマで放り出される可能性なきにしもあらず、なんだぜ。」

それだけはやめてくれっ! そんなわけで俺が選んだのは、肩をようやく越えるくらいのまっすぐな黒髪だった。

「……意外……。」
「驚いたなぁ…これがあんたの理想像、ねぇ…。」
「まあ落とし甲斐のある女性ではあるが、な。」

呆れたみんなの声を無視して俺は画面を見つめた。人形のような女性だった…抜けるような白い肌は陶器のような冷たさで、風になびく髪は細く柔らかい。長い睫毛はほんの少し灯りの下でも影を作るだろう。そして彼女は俺の言葉一つ一つに時には笑い、時には怒って…その表情を変えるだろう…。

「ちょっと、ランディ様!?」

セイランさんに肩を掴まれて俺は我に返った。

「まったく、妄想の天才なんだからアンタは!」

呆れ果てた声でオリヴィエ様が俺をたしなめた。大失態…。

「まーいいや、こいつ持ってってみんなに感想聞いてこようぜ!  ランディの好みだって絶対誰もわかんねーよ、きっと。」
「それよかさ、ジュリアスに秘密で外界に行って このモンタージュとよく似た女のコ探してくる方が面白いよ♪」
「それいいな! おいオスカー、あんたも来るか?」
「…そうだな、せっかく天気もいいし行って来るか。お前も来るよな?」

オスカー様がセイランさんを振り返った。セイランさんは小さく肩をすくめた。

「いえ、ちょっと用事があるので。」
「つまんないなぁ。じゃあ行こうか☆」

オリヴィエ様の言葉にオスカー様とゼフェルは頷いて立ち上がった。

「あ、これはオメーにやるからよ。」
「え、あ! ちょっとっ!!」

ゼフェルは携帯用のプリンタで肖像を印刷して手渡してくれた。

「…それにしても、」
「え?」

 一人残ったセイランさんが俺の作ったモンタージュを手に取ってしげしげと眺めた。その視線の冷ややかさが、セイランさんがこの女性に対して好意を抱けない様子をハッキリ示していた。

「僕が貴方の恋のライバルになることは絶対なさそうだね。」
「え…セイランさんはこういうタイプ、ダメですか?」
「全く魅力を感じない。綺麗だけどキツそうだし気分屋っぽいし、わがままで他人を振り回す人。優しさや思いやりが欠如した顔だね。」

俺はカチンと来て、セイランさんを睨んだ。

「何ですか、その言い草!! 俺の好きな子がどんな人だって貴方には関係ありませんよっ!! 大体それ、全部貴方に当てはまっていることでしょう!?」
「えっ!?」

 …しばらく…多分五秒くらい…沈黙が続いた。反撃を覚悟して身構えていたのにセイランさんは言い返すどころか、見たことないほどの真っ赤な顔で急に黙って…驚いた俺はおずおずと尋ねた。

「…あの、何か…?」
「あ、あ…いやっ、気を悪くしたなら…ごめん!」
「え? あの、ちょっと…?」
「ごめん、何でもない!!」
「はあ?」
「あっ、あの、用事あるから僕は帰るよっ! じゃあっ!!」

何が起こったのかさっぱり分からず、俺は呆然とセイランさんを見送った。

 夕暮れの風は柔らかく、昼間あんなに碧かった空は西の方角から橙・紅・紫の鮮やかなグラデーションに染まっていた。そろそろ家に帰ろう…宮殿を出て庭園を抜ける寄り道コースが俺のお気に入りの散歩道だ。昼間のざわめきもこの時間にはなくなって、ただ噴水の水と風に揺れる木の葉だけが音を立てていた。

「…あれ…?」

 庭園の噴水の陰に誰かいる。いつもならリュミエール様かなと思うトコだけど、さっき馬車に乗って帰ってしまったから違うはずだ。何となく気になって足を進め、俺は息を呑んだ。

「…!…」

そこには…俺が今までに見たこともないくらい…綺麗な人がいた。白いシャツをラフに着こなし、夕暮れの風に髪の毛をとかせてその人は遠い高台の方をぼんやりと見つめていた。こちらからは横顔しか見えなかったけど、その白い横顔はどこか淋しそうで…思わず近づいた瞬間、その人が振り返った。

「…ランディ様!?」
「えっ!? …わああああぁっ!!」
「なっ、何だよっ!!」

俺の素っ頓狂な声に、向こうも危うく噴水に落っこちるんじゃないかっていうくらいに驚いた。でも…

「せっ…セイランさん……!?」

…俺だって心臓が止まるかと思ったよ! かなりヤバかった…俺が一瞬でも「綺麗だ」と思った相手がまさか…セイランさんだったなんてっ!! 一生の不覚~っ!!

「こんな時間に何してるんですかっ!?」
「別に…風が気持ちよかったから当たってただけ…貴方の足音に気づくまで詩を作ってましたけど。貴方は帰るところ?」
「…ええ。」

セイランさんの顔に浮かんでいたあの淋しそうな影は何だったんだろう…。気になったけど、訊いたところでまともな答えは期待できない。髪を掻き上げるセイランさんをぼんやり眺めてやっと納得した。そうか、気づかなかったわけだ。俺がさっき見たセイランさんは、髪の毛でいつも隠れて見えない左側の横顔だった。この人…見せない素顔に俺達が伺い知ることもできないような色んな悲しいことを隠しているのかもしれないな。

「…で、何だったの。」
「何がですか?」
「さっきの大声の理由ですよ。僕がここにいることがそんなに意外?」

いっ、言えないっ!!

「そ、そっちこそさっき何で急に逃げ出したんですかっ!! あの女の子が何かしたんですか!?」

この台詞は予想外の効果を持っていたようで、セイランさんは急にさっきと同じように黙り込んでしまった。しばらく俺の顔と地面を見比べるようにしていたセイランさんは、やっとの事で重い口を開いた。

「…貴方さ、不注意な発言には気をつけた方がいいと思うよ。」
「…俺が何かしたんですか?」
「だから…貴方さっき言ったじゃないか。 僕に『全部当てはまる』って…あのモンタージュの……」
「…?…」
「だから…だからさぁ…」
「何なんですか…?」

急にセイランさんが立ち上がった。

「この超鈍感っ!! 僕だって言いたくないんだからさっさと気付けよっっ!!」

いきなりセイランさんがキレた。大声にびっくりして俺はセイランさんの顔を見た…薄暗いせいでその顔はよく見えなかったけど。

「いいよもう、僕は帰る!!」
「何なんですかっ! 俺が鈍いって…そんなことくらいとっくの昔に分かってることでしょう!?」
「僕は、鈍いにも程があるって言ってるんだよっ!!」
「何ですか、貴方がハッキリ言わないのが悪いんでしょう!?」
「だからもーいい!!」

そこまで言った時、急に庭園の街灯がついて一旦言い争いがやんだ。暗くなると自動的に点灯する仕掛けだ。お互いの顔がよく見えるようになって俺は驚いた。セイランさんの顔がさっきと同じくらい紅くなっていた。

「…どうしたんですか、顔…紅いですけど…。」
「えっ!?」

セイランさんは慌てて顔を逸らした。さっきから何なんだ? 今日のこの人はいつもと何か違う。

「…あの、セイランさん?」
「ごめん…やっぱり帰るよ僕。」

セイランさんはさっきまでの興奮を抑えようと、軽く息を整える仕草をした。しばらく俺から視線を逸らし、遠くの地面を無意味に見つめて一瞬だけ俺を振り返った。

「じゃあ…さよなら。」
「?……あ……!!」

…俺を振り返ったセイランさんの瞳はいつもと変わらない冷ややかさだった…変わり身の早さもすごいけど、俺が驚いたのはそうじゃなかった……

「ちょっと、ちょっと待ってっ!!」
「なに、何だよ!?」
「やっ…やっぱりっっ……!!」

 俺は全身の血の気が一気に引くのを感じた。俺とセイランさんの視線がぶつかり…そのまま止まった。短い時間だったけど俺には30秒にも1分にも感じられた…。この人…今気づいたけど、さっき俺が作ったあの子……あの冷たく勝ち気そうな彼女のモンタージュに…瓜二つだっ!!

「あ…あ…ああああ……」
「な、どうしたのっ!?」
「うわあああああ~っ!!」
「ちょっと、ねえ、何があったんだよ!!」
「何でもないっ、何でもないんだあああああぁぁ…!!」

セイランさんが蒼い顔で心配そうに俺を見ている。そうか…やっと分かった。セイランさんが今まで見たこともないような慌て様だった理由…。俺は大変な事実に気づいてしまったのだ。自分の理想像と思っていた女の子が……この人そのものだったなんてっ!!

「でっ、帰る話だったんですよねっ!! じゃーさよならっ!!」
「ど、どうしたんだよ本当に!!」
「俺は大丈夫ですっ! 心配しなくていーからっ!!」

 慌ててその場を逃げ出す俺をセイランさんは本当に不安そうな顔で見つめていた。

「あ、オスカー様こんにちは!」
「ランディ、丁度いいところに。…お前この間セイランとの間に何かあったのか?」
「え…?」

数日後…宮殿の廊下でオスカー様とすれ違った。問いかけにすっとぼけると、オスカー様は少し険しい顔をして俺の耳元で囁いた。

「実はな、セイランがすごく気にしているんだ。避けられてるみたいだが、気に障ることでもあったのか…とな。」
「そ、それは……」

そりゃあ避けたくもなるよ…。全く意識してなかったうちは単なる嫌味な人 (…いや、楽しいところもあるし、それなりにいい人だけど) だったセイランさんが、あの日から急に俺にとって危険な存在になったことは間違いないんだから。俺は…ここで敢えて大きな声で言おう。アブノーマルだけは絶対にヤバいっっ!!

「…あ、ランディ様っ!!」
「えっ!? …うわああっ、セイランさんっ!?」

向こうから俺とオスカー様の姿を認めて近づいてきたのはセイランさん本人だった。逃げ出そうとする俺の衿をしっかり捕まえ、オスカー様はそのまま俺をセイランさんに突き出した。

「取りあえず、お望み通り捕獲しておいたぜ。」
「ああ、有難うございますオスカー様。」
「いやあ~っ!! 離してくれえ~っ!!」
「だから何で避けるの!? 理由があるならハッキリ言ってくれよ!」
「言えるかぁ~っ!!」

俺は自分そのものを否定するかのように大きく首を振った。そう、俺が好きなタイプの女の子はセイランさん「みたいに」ちょっとつれなくて勝ち気で気まぐれで、でも笑った時がとびっきり可愛い子。決してセイランさん「そのもの」じゃない!! …なのにセイランさんは心配そうな顔で俺の眼を覗き込んで、小さな声で問いかけてきた。

「ひょっとして、あのモンタージュのこと?」

心臓が口から飛び出すかと思った。真っ赤な顔で俺がうつむく。何のことか分からないオスカー様が俺とセイランさんの顔を見比べている。セイランさんは少し沈黙し、俺の耳元で、オスカー様に聞こえないように囁いた。

「ありがと、嬉しかったよ。」
「!!」

俺が慌ててセイランさんの顔を見ようとした時、セイランさんはもう後ろ姿しか見えなくて…足早に廊下を去っていった。大きく深呼吸し、俺はオスカー様の手を振り払って執務室へと一目散に逃げ帰った。

One Day

content.php

 今日も蔵馬は一人だった。

 盗賊だというのに「定住の方が便利だから」と黒鵺が買い求めた、小さな居住空間。居間とそれぞれの個室の計3部屋に炊事場等の水回りがついただけの必要最小限のものだった。どうやってこんな好立地を見つけたのか知らないが、水場には温泉の湯まで引き込まれていて、確かにアジトとしては何の不満もなかった。が…実際はこの隠れ家に黒鵺がいる時間は少なかった。

「また時間オーバーか?」

 軽く舌打ちし、蔵馬はテーブルに置かれたゼンマイ式の時計を忌々しげに睨みつけた。10時まであと数分……目の前には冷めたスープとひからびかけたパンが、食べられるのを今や遅しと並んで待っている。ふっと息をつき、蔵馬はパンに手を伸ばした。これ以上はもう待てない。

 朝食は8時、朝帰りでも9時には戻る…それは今から約二年前、二人が生活空間を共にすることになった時、初めに交わした取り決めの一つだった。が、実際は破られることの方が多い約束だった。遅くなるなら一言断ってくれれば、自分一人の朝食くらい昨夜の残りで我慢したのに…馬鹿らしい。一応スプーンも並べたけれど一人の食卓で行儀よく振る舞う必要はない。蔵馬は両手で皿を持ち上げ、縁に唇をあてがってそのまま中の液体を胃に流し込んだ。が、その瞬間、美しい顔が不快に歪んだ。

「…不味いっ…。」

 料理は好きじゃない。手を抜いたのは確かだ。けど、温かいうちなら充分美味しく飲めたはず……蔵馬は眉をしかめて空になった木皿を洗い場に放り込んだ。食事当番は交代で行うというのも取り決めの一つだった。実際は二人して「どれだけ手を抜けるか」を競っていて、前の食事が余っていたらそれを温めて出すだけという駆け引きもまさしく“日常茶飯事”だったのだが……いずれにせよ、この取り決めを破るのもまた黒鵺の方が多かった。

 少なくとも洗い物だけは黒鵺にやらせよう。流しを振り返ることもせず、蔵馬はテーブル脇に無造作に置かれていた読みかけの古文書を手にしてクッションの上に寝転んだ。次の標的に定めた城の隠し部屋を記した暗号で、数日前に蔵馬と黒鵺はこれの解読を巡って賭けをしていたのである。

「先に解読した方が負けた方に欲しいもの一つねだれるってのはどう?」

 そう言い出したのは黒鵺の方だった。

「いいけど、お前オレに“頭”で勝てると思ってんの?」
「バーカ、面倒だからいつもお前に任せてるけど、たまにはオレの実力見せてやる。」
「あーそう、じゃあいいよ。オレが勝ったら『ルミリエ』の新作ジュエリー全部セットで買ってもらおっと。」
「使う予定も見せる相手 <オトコ> もねーのに何でそんなもん欲しがるんだよ。」
「余計なお世話だっっ!!」

 いつも黒鵺は一言多い。怒る蔵馬を見てニヤニヤ笑いながら

「そうだな、オレが勝ったら………まーいいや、ちょっと用事があるから出掛けてくる。」

 と、そのまま黒鵺は街へと出て行ったのである。それから三日…蔵馬でもてこずるような暗号を、黒鵺は全く解読しているそぶりはなかった。というよりもこの三日、彼が家に戻ってきたのは合計で五時間もない。お情け程度に顔を見せ、昼食を取ったらまた出掛ける…という日が続いていた。

「どうでもいいから、とにかく早く帰ってこいよっっ!」

 ちらりとテーブルの上を見る。時計は陰になってよく見えないがもう十時半を回ったようだ。一人きりが急に淋しく思え、蔵馬はクッションを抱えてうつ伏せた。

 一時間後…黒鵺が帰ってくる気配はなかったが、蔵馬はもう待つ気にはなれなかった。昼の太陽が差し込む部屋で、蔵馬は念入りに服を選んでいた。向こうが帰って来ないならこちらも出掛ければいいのだ。気づくのが少し遅かったが、とにかくこれ以上一人で部屋にこもっていても暗号解読がはかどるとは思えなかった。

「黒鵺はあんなこと言ってたけど、オレにだって綺麗な服や宝石を身に着ける権利はあるんだ。」

 今となっては蔵馬も黒鵺も魔界で五本の指に入る懸賞首である。二人揃うと悪目立ちしすぎるため、蔵馬が黒鵺と並んで街を歩くことは殆どなかった。が…時々外出先で鉢合わせしてそのまま一緒に過ごすこともないわけではなく、そんな時彼女が服やら宝石やらに目を奪われているのを黒鵺はいつも不思議そうに眺めていた。

「…本気になれば、その辺の女には絶対負けない。」

 言い聞かせるように蔵馬は着替えの終わった鏡の中の自分に向き合った。細い体に柔らかな紗の衣装をまとい、首には細い白金の三連のチェーン。滑らかな白い頬や薄く色づいた唇は、決して人工的に描いた表情ではなかった。…蔵馬は自分の恵まれた容姿をよく知っていた。その美貌ゆえに、故郷では政略結婚に送り出されそうになったこともある。だが、一つ屋根の下に住む男には何の意味もなかった……少なくとも、黒鵺が自分には見向きもせず外に女を買いに行っているのは事実だった。もしかしたら今頃も自分の知らぬ女と後朝の別れを惜しんでいるのかも知れない。

「……ああぁぁっ!! どうでもいいんだよあんな男はっっ!!」

 大きな声で叫んで蔵馬はぶんぶんと頭を振った。と、その時蔵馬は忘れてはいけない大切な装飾品・金髪のかつらを忘れていることに気づいた。銀髪の妖狐は珍しい。特に蔵馬のようなきらきら輝く銀の髪は妖狐だけでなく魔界中を探しても滅多にいない。黒鵺ですらその見事さには素直に感服していたが、逆にそれゆえ蔵馬を敵に狙われやすくしている代物でもあった。事実、一人きりで行動している時に賞金稼ぎに遭遇した回数は、蔵馬の方が黒鵺の五倍を軽く超えた。

 蔵馬は手際よくカツラを装着し始めた。殆どの妖狐は金の髪であり、金髪のカツラは目立たなくなるのに一番都合がいい。櫛で軽く整えた後、蔵馬は鏡台の前に置かれた瓶を手にした。それはごくごく薄い黄色の染料だった。冴え冴えとした銀がアンティークのような黄味を帯びる程度の色しか着かない上、その色もたった数時間しか維持できない。しかし耳と尻尾程度ならこの瓶の中身で誤魔化せる。

 …十分もしないうちに、一見しただけでは大盗賊・妖狐蔵馬とは決して分からない金髪美女が完成した。鏡に映る自分の姿を抜かりなくチェックした蔵馬は、満足の笑顔の代わりに小さな溜め息を一つつき家を出た。

 外は太陽が燦々と降り注ぐ快晴だった。人間界に近いこの辺りは魔界とは思えぬほど清浄な空気と明るい光に満ち溢れていて、蔵馬はこの街を歩くのが好きだった。特に心が曇り空のこんな日には。

「お、すげーいいオンナ!」

 街行く男達が皆蔵馬を振り返っていく。女達からは羨望と嫉妬の眼差しが刺さるようだ。自分では気づいていなかったが結局、変装しようが何しようが蔵馬は目立っていた。が、彼女に声をかける勇猛果敢な男はいなかった……今日の蔵馬があからさまに不穏なオーラをまとっていたためである。

「…折角出てきたけど、何しようか…。」

 一人きりの時間には慣れている。馴染みの店も増えてきた。蔵馬が訪ねて行けば食後のデザートと飲み物をおまけしてくれる料理屋もあるし、新作が入荷したらまず真っ先に彼女に着せたがる服屋もある。が、何となく今日は挨拶回りに行くのも鬱陶しい。外には出てきたものの沢山の人が行き交う街の中で自分だけ独りのような気がして、蔵馬は何となく眩暈を感じてしまった。

「ああもう嫌っ……」

 認めたくないけれどこの憂鬱の原因はやはり、いるべき男がいないせいなのだ。いつもと違う……今までは、多少帰りが遅れても午前中には必ず帰ってきていたのに。しかも、朝帰りを連続でしたことは同居を始めてこの二年間、只の一度もなかった。

 相棒の今の居場所について色々思いを巡らせていたその時、蔵馬の脇を少し疲れた顔をした、化粧の濃い女が通り過ぎた。昼の街に似合わぬ露出の高い装いに、思わず蔵馬は振り返った。

「…あの女…もしかして……」

 きっとこの通りの三本南にある花街で春を売る仕事をしているのだ…と、蔵馬は判断した。行ったことはないが、黒鵺が“食事”と称して月に二、三度女を買いに行くのはその辺りだと聞いている。よもやこの女が黒鵺の…とは思わないが、女はこれから短い眠りを貪り、夜になれば再び化粧と際どい衣装で武装して通りに立つのだろう。夜の顔は知らないが、少なくとも昼間の太陽の下でその姿はひどく滑稽に映った。

「……あんな女達の、何がいいワケ?」

 本人に聞こえないように注意しつつも、苛立った声で蔵馬は呟いた。かつて実際、この疑問 (というより苛立ち) を黒鵺に直接ぶつけたことがある。黒鵺の答えは明快だった。

「恋愛感情が絡まなくて楽だから。」

 絶句した蔵馬に黒鵺は更に続けてこう言った。

「女を愛せないヤツに惚れたら女も気の毒だろ?」

 …それからしばらく蔵馬はひどく落ち込んだ。“夢魔は異性を愛せない”、それは魔界の常識でもある。が、改めて黒鵺が女という生き物を“食い物”としてしか見ていないことを知って、蔵馬は自分の性を呪った。それを「自分以外の女に入れ込むこともないんだ」とやや前向きに考えられるようになるまで二ヶ月はかかった。そしてその二ヶ月が過ぎてからも、表面上は何も変わらず黒鵺の「良き友」「良き相棒」を演じ続けている自分の二面性に蔵馬はいささか嫌悪感を覚えたりもしたのである。…それなのに。

「……まさか、本気になった女が出来たんじゃ……」

 異性を愛してしまった夢魔の伝説がないわけでもない。不穏な朝帰りの理由はそれくらいしか思いつかなかった。疑い出したら切りがない。もし黒鵺にそんなことを告げられたらまさに悪夢だ。そして、蔵馬はそんな悪夢がすぐ隣まで来ているような恐怖を感じていた。

 気づけば蔵馬は雑多な露天街を抜け、街の中心の広場に辿り着いていた。公園と呼べるほどには整備されていないが、芝生の上を家族や友人達、恋人達が思い思いに陣取って語らいの時間を共有している。…この街は平均して裕福だった。まさに“オアシス”…荒涼とした魔界の中で一際異常なユートピアだった。この地域を囲む砂漠や山脈を一つ越えれば、周辺の国や集落は貧困に喘ぎ“間引き”や“姥捨て”、ひどい場合は“食い合い”すら日常的に行われているというのに。それを蔵馬は黒鵺に聞かされたのである。

「…平和惚けって怖いよな。」

 黒鵺の何気ない一言が妙に蔵馬の耳に残った……そう、そういえばそんな会話をしたのはこの広場だったっけ。

 蔵馬は人の輪を避けるように、木陰の薄暗がりに座り込んだ。と、不意にその目の前に男の影が立ち塞がった。

「よぉ、そこのカ・ノ・ジョ。」
「!」

 目の前に立っていたのは何と、黒鵺だった。

「…黒鵺っ…!」
「何やってんだよ、そんな似合わねーカッコして。」
「!」

 カチンと来た…というより、傷ついた。ダメージが大きくて言い返す気力もない。ぐっと我慢して俯いた蔵馬の隣に、黒鵺は何の断りもなく座り込んだ。蔵馬は少し顔を叛けたが、黒鵺はその行動を無視して話し掛けた。

「金髪より、やっぱ銀の髪の方がイメージなんだけど。」
「…えっ?」
「んな微妙な変装しないで、たまにはもう少し堂々と街歩いたら?」

 何だ、黒鵺は髪の色の話をしていたのか…少しほっとして振り返ると、黒鵺はじっと蔵馬の顔を覗き込んでいた。その眼が僅かに笑んでいる。蔵馬は自分の頬が薄赤くなるのを感じた。本人曰く、この瞳が今や魔界中の女を虜にしている…のだとか。

「折角綺麗な色してんだし、銀髪のままでいいじゃん。それにその方が“妖狐蔵馬”が女だってことアピールできるんじゃないの。」
「別にそんなことは知られてなくてもいいんだよっ。」

 実は魔界中で蔵馬が女だと認識している者は少なかった…隠しているわけでもないのに、女の盗賊がここまで有名になった前例がなかったためだった。

「でも、その方がオレも有り難いし。」
「え?」
「お前って何だかんだ言って美人だしさ。お前が女だって知られて、しかも『オレの』オンナだと勘違いされた方が変な女もあまり寄って来なくなるだろ。助かるなって。」
「…なっ…」

 美人、の一言はちょっと (いや相当) 嬉しいが、理由が今ひとつ納得行かない。

「そんなに女が嫌いなら、女のいない世界に行ってしまえ。」
「無理だって! 女がいなきゃ生きていけない。」
「…これだから夢魔ってサイテー。」
「そう言うけどさ、妖狐だって妖怪になる時は男とヤってエネルギー吸うんだろ?」
「オレは生まれつき妖狐だから関係ありませんー。」
「何だよ、『私は純潔です』なんてフリして。」

 本当に何も知らないと言ったら、この男はどんな顔をするだろう。…と、蔵馬はふと思い出した。すっかり忘れていたが黒鵺には問い詰めなければならないことがあったはずだ。

「…そういや黒鵺、お前今日まで何してたわけ?」

「“何”って、何?」
「ずっと家を留守にして、昼に飯食いに帰ってくるだけで…もう三日目だ。」
「エ? ああ、それね。」

 黒鵺は懐から折り畳まれた紙を取り出し蔵馬に差し出した。彼の服装は仕事時の服装ではなくラフな麻のシャツだった。この男が胸元の大きく開いた服装ばかり好むことに蔵馬は最初疑問を感じていた。今ではそれが、いつも肌身離さぬ銀製のペンダントを隠さないようにするためだということを知っている。

「…あっっ!!」

 紙を開いて蔵馬は息を飲んだ。あまり大きくない、今で言えばA4サイズ程度の紙に書かれていたのは、黒鵺の几帳面な字と図面でしたためられた城の見取り図……例の暗号の解答だった。

「オレの勝ちでいい?」

 涼しい声で黒鵺はそう言った。

「嘘っ……」
「どうやって解いたか訊きたい?」

 蔵馬はこっくりと深く頷いた。黒鵺はニヤニヤ笑っていた。

「じゃあヒント。今回は“暗号を解く”こと自体を目的に取り組みました。」
「…はぁ?」
「だから、“城に安全に忍び込む”のが暗号解読の目的じゃないわけ。」
「……分からない。」
「簡単さ、答えは“直接城まで見に行った”、です。」
「何だって!?」

 思わず蔵馬が叫んだ声に、広場に集まっていた住民達が皆振り返った。

「しーっ! 静かにしろって!」
「阿呆!! 何でそんな危ないマネを一人でっ!!」
「危なくねーよ。あの城はこの前忍び込んだ蒼闇宮と設計者が同じなんだぜ。罠 <トラップ> まで同じもん揃えてあってスゲー拍子抜け。」
「そういう問題じゃない!! 万一見つかって殺されたらどうするんだ!!」
「一回忍び込んで無理そうだったら『ルミリエ』まで宝石買いに行こうと思ったけど。」
「バカかお前はっっっ!!!」

 あまりの黒鵺の無謀ぶりに、蔵馬はそれだけ怒鳴るのが精一杯だった。この三日、女の影を疑っていた自分があまりに情けなかった……いや、侵入先で捕まるよりはそちらの方がよっぽどマシかもしれない。

「まあまあ、悪かったって。」
「悪いと思ったらもっと真剣に謝れっ!!」

 半分泣き出しそうな顔の蔵馬を見て、黒鵺は苦笑いして肩をすぼめた。

「…心配かけて済みませんっ。もう一人で危ないコトしませんから。」

 黒鵺はあっさり自分の非を認めた。しおらしい言葉に蔵馬もようやく落ち着きを取り戻した。

「………で、オレは何を払えばいいの。」
「賭けの金? …いいよ、余計な心配させたみたいだし。」
「阿呆、それだけ危ないことしてきてタダなんてそれこそ大バカだ。」

 黒鵺が微笑んだ。この男の笑い方は絶対に“優しい笑顔”という種類のものではない。少し皮肉っぽくて、悪戯っぽくて……蔵馬の眼にその笑顔はどうしようもなく魅力的に映った。しばらく考えて黒鵺は、蔵馬の反応を確かめながら控えめに提案した。

「…じゃあさ、今日の残り半分オレに預けてくれよ。デートしよう。」
「デート…?」
「珍しく女らしいカッコしてんだしこのまま帰ったら勿体ないだろ。まあ、まずはそのうざったい金髪やめてさ。」

 黒鵺は蔵馬の肩に手を伸ばし、無造作に金の髪の毛を引っ張った。それはするりと滑り落ち、下から陽の光を反射して眩しく輝く銀色の髪の毛が零れた。……その瞬間、黒鵺が眩しそうに眼を細めたことに、蔵馬は気づかなかった。

「何すんだよっ!」
「いいじゃんか、お前だって本当は変装なんてうざいだろ。」
「でも誰かに見つかったら……!」

 蔵馬は落ち着かない様子で周囲を見回した。が、最初に木陰を選んで座ったために、この美しい銀髪の持ち主が有名な盗賊と気付いて騒ぎ立てる無粋な者達はいないようだった。黒鵺は周りに気を取られている蔵馬の隙を見て手を伸ばし、白銀の髪を一束すくい上げた。

「何だよっっ。」

 …少し焦って声が上ずってしまった。お構いなしに黒鵺は、手に取った蔵馬の髪をしげしげ眺めていた。

「なあ蔵馬、これって遺伝?」
「…違う、オレの親はどっちも金髪だったって聞いてる…もう顔も覚えてないけど。」
「ふーん、特別変異かぁ…残念。」
「何で。」
「お前の子供がこの銀髪を受け継がない可能性もあるってことだろ。」
「オレの子供!? 何でそんな話…」
「いやさ、自分の子供がもし女で、しかもこんな銀髪だったらすげー可愛いだろうなぁと……いつかお前にオレの子供でも作らせてみようかと思ってさ。」
「は……!? …ばっ……バカかお前はっっ!!」
「その台詞さっきも聞いたような気がするんだけど、お前の口グセ?」
「お前がバカだからだっっっ!!」

 ムキになる蔵馬を黒鵺は面白そうに眺めていた。ニヤニヤ笑うその顔がたまらなく憎たらしい…なのにその表情こそが、自分と同い年の黒鵺を少し大人びて見せているのも事実だった。黒鵺は立ち上がり、服についた草や砂を払った。

「さあ行こうぜ。一番街にちょっとうまい料理出してくれる店が出来たんだ。昼飯まだだろ?」

 そういえばあの冷めたスープを飲み干してから四時間、何も口にしていない。黒鵺は貴族の令嬢でもエスコートするかのように手を差し出した。その手に掴まり蔵馬は立ち上がった。温もりが心地よくて、蔵馬の顔にようやく笑みが浮かんだ。

「…やっぱり慣れてる。」
「何に。」
「女の扱いにさ。」
「何だよ、今日はやけに噛みつくなぁ。」

 そう言いながらも黒鵺の眼は笑っていた。深い紫が綺麗だと蔵馬は思った。黒鵺は蔵馬に肩をすくめてみせた。

「別にオレは女に優しいワケじゃねーよ。今日は特別。」
「本当か?」
「ホントホント、連れが特別だから。」

 黒鵺は蔵馬に、飛び切りの笑顔でウインクしてみせた。

 …“特別”の意味するところ何処なのかは知らない。けれど、蔵馬にとって黒鵺がそうであるように、黒鵺にとって蔵馬は他の誰よりも“特別”なのだ。それを直接彼の口から聞けた、今日という日もまた“特別”……何の気なしに蔵馬はそんなことを考えた。午前中は曇り空で、雨まで降り出しそうで、でも午後からは快晴の一日。

「…でも、今夜から三日間はお前に食事当番してもらうからなっ。」
「えっ!? いやちょっと待てよ、それはっ……」
「お前の留守中もオレは毎食二人分準備して待ってたんだよっっ!」

 冷え切ったスープの惨めな味を思い出し、心の中で蔵馬は「それとこれとは別の話だ」と切り分けた。

[完]

U.R.L.

content.php

 しん……と静かな寒い夜。深く暗い森の中を男が一人、苛立った様子で歩いていた。背筋の伸びるような冷気が立ちこめ、吐く息は口から飛び出した途端白い蒸気へと凝固する。足が地面を踏みしめるたび、さくさくと音を立てて霜柱が砕ける。

 男は魔界で今最も勢いのある盗賊団の副長だった。五十名あまりの団員の中で彼が底辺から努力してその地位に登り詰めたなら大したものだが、真相は元々自分のものだった組織を旧知の女に乗っ取られ、総長の座を追われてしまったという惨めなものだった。男の名前は黄泉、そして彼を副長に追い落とした女の名は蔵馬といった。

(畜生、あの女……絶対ぶっ殺してやる。)

 歩きながら黄泉は物騒な怒りを増幅させていた。実はつい数時間前、彼は部下達の前で総長・蔵馬に大目玉を食らったばかりだった。先日豪族の屋敷を襲撃した際、彼の率いる分隊が命令無視をして危険な行動に出たことを責めるものだった。自分のミスは棚に上げ、黄泉はただ一心に蔵馬への不満を募らせていた。

(大体蔵馬のヤツ、女のくせに可愛げの一つもねえんだよ! 女王様よろしく男を顎で使いやがって……女は女らしく、男の陰にすっ込んでりゃいいんだ!)

 面倒なことに黄泉は典型的な男尊女卑主義者だった。そしてそれ以上に、蔵馬は彼にとってどうしても“弱い女”であり続けてほしい存在だった。いや、よくよく思い起こせば彼女は端 <はな> から全然弱い女ではなかったはずなのだが……とにかく彼女が自分の上にいるという現状に、黄泉はどうしても我慢することが出来なかった。

(どうする? 首でも締めて五体バラバラで肥溜めに放り込んでやろうか? それとも……ん、待てよ……?)

 突然、黄泉の口元がニヤリと歪んだ。

(男には勝てねえと、肉体 <からだ> に直接教えてやるか。ただバラすのは勿体ねえし、味見してからでも悪くねえよな?)

 鼻にかけたりはしないものの、蔵馬は自分の美貌が強力な武器であることを熟知していた。その気もないくせに高露出の装束で肌をちらつかせ、部下の男共に余分な情欲を抱かせる。自分勝手なはずの荒くれ達は皆、蔵馬に“もしかしたら”という邪まな期待を煽られていることを自覚しながら、それでも一様に大人しく彼女に付き従っていた。蔵馬のその辺の匙加減は全く絶妙で、今のところ力ずくで彼女を組み伏せようという野蛮な者はいなかった。しかし……黄泉だけは他の男達と事情を異にしていた。

(蔵馬も所詮は女、腕力だけならオレの方が上だ。男をナメてかかったらどういうことになるか思い知らせてやる。)

 彼女を組み伏せる瞬間を想像し、黄泉の胸は躍った。思い描いていた状況とは随分掛け離れているが、実はそれは彼が昔から抱き続けていた願望でもあった。

 蔵馬と黄泉とは幼少時代から互いを知る幼馴染みだった。今でこそ上司と部下の間柄の二人も、元は同じ年に同じ山合の集落で生まれ、同じ塾で勉学を習い同じ道場で戦術を学んだ友人同士だった。いや、“友人”と思っていたのは蔵馬だけで、黄泉の方は「オレ達はいずれ結婚する」と本気で信じていた節があった……そう、蔵馬が黒鵺という男に恋をし盗賊に身を落とすまでは。

 黒鵺の死後、黄泉は蔵馬を自分の結成した盗賊団に呼び寄せた。空中分解しかけている組織を立て直してほしいというのが名目だったが、愛した男を喪い傷ついた彼女を救いたいというのが真の理由だった。少々遠回りをしたが幼い日の予定通り、これからは自分がずっと彼女を守るのだ……と、彼の胸中にはそんな自負があった。しかし、蔵馬は最早、黄泉が知る少女時代の彼女ではなかった。

 彼女は総長の座に収まるや否や、恐るべき辣腕ぶりをもって組織改革を行った。部下の優れた功績への賞賛は惜しまず、その反面過失には厳罰をもって対処した。冷酷な処分を食らうのは黄泉とて例外ではなかった。いや……むしろ蔵馬は彼に対し殊更辛く当たった。一つ失態を犯せば部下達の面前で吊るし上げられ、焦りや苛立ちが次のミスを招く悪循環に陥った。後入りの団員からは「名前ばかりの副長」と揶揄され、黄泉は彼らの“反面教師”としての存在感ばかりが増していた。彼の心は深く傷つき、積もり積もった不満はいつしか裏切られた恋慕と相まって憎悪に変わった。もっとも彼の失態は射幸心剥き出しの無謀な行動に因るところが殆どだったのだが、それも元はと言えば少しでも早く蔵馬の支えになりたいという焦りから来るものだった。……それなのに。

(くそっ、蔵馬のヤツ……)

 オレの気持ちも知らないで……と思いかけて、黄泉は強く首を振った。組織が強固になるにつれ、裏腹に自分達の距離は遠のいた。最早蔵馬は自分にとって心労の原因でしかない。彼女は自分を必要とせず、幼馴染みの甘い感傷さえ微塵も残していない。ならばこちらもそれ相応の態度で臨めばいい……迷う必要はない。今まで硝子細工に触れるように接してきた女を、この腕で粉々に潰してやる。

 ……突然、目の前がぱっと明るくなり、黄泉は顔を上げた。いつの間にか森の中にぽっかりと空いた空間に足を踏み入れていた。おぼろげな雲の隙間から覗く細い月の光が舞台照明のように降り注ぎ、この場所を深い森の闇から白々と浮かび上がらせている。輝いているのは一面に氷の張った、小さな湖だった。

(あ……!)

 そのほとりで白い何かが動き、黄泉は咄嗟に身を隠した。誰かがいる……こちらに向けた細い背中に、長い銀の髪が光の糸のように零れ落ちている。

(蔵馬……!?)

 そこにいたのは、たった今心の中で悪態をついていた相手・蔵馬だった。思いがけぬ遭遇に唖然としていた黄泉の顔が、ニヤリと笑った。

(……は……丁度いいぜ。)

 こんな時間に一人で何をしているのか知らないが、人目もないし強姦にはうってつけだ。しかし……良からぬことを考えたのもほんの一瞬。息を潜めて背後から近づこうとした黄泉の足が突如すくんだ。

「!……」

 ──泣いている──

 ……何故か、そう思った。蔵馬の肩幅狭い後ろ姿が緊迫した空の下で一際頼りなげに見えた。啜り泣きが聞こえる訳でもなく肩も震えている訳ではないのに、何故か黄泉は彼女の白い頬を涙が伝う図を思い描いた。……呆然と見つめる彼の前で蔵馬は突然足を踏み出し、凍った水面を踏んだ。

「!」

 氷の上を滑るように、蔵馬は歩き出した。一歩……二歩……三歩…………湖の中心に向かい、彼女はゆっくり歩みを進めた。凍る水面が仄白く輝きその姿を照らし出した。彼女の眼は遠く、東の空にかかる細い月を見上げていた。薄雲に霞む月の、蒼く淡い光に惹き寄せられるように…………

 ……パリーン!!

 突如、静寂が破れた。次の瞬間、大きな音と飛沫を上げて女の身体が湖の中へと落下した。

「っ!? ……蔵馬っ!!」

 金縛りが解けたように黄泉の身体が反応した。何が起こったのかと考えるより先に、彼は木陰から飛び出し躊躇なく氷の割れた口から冷たい水へと飛び込んだ。

(蔵馬っ……!!)

 ぼんやり白い影が力なく水底へと沈んでゆく。真冬の湖は全身の神経を麻痺させ意識までも奪うように感じられたが、黄泉はがむしゃらに真っ暗な水を掻き分け、蔵馬に近づき無我夢中で腕を掴んだ。女の口から空気の泡が二つ三つ、真珠のように零れた。顔を上げると割れた氷の隙間から月光が射し込み、凍てつく死の国から二人を導くように水中に光の道を描いていた。その光の帯を辿り、黄泉は蔵馬の身体を抱えて一心に水上を目指した。

 ザバッ………

「はっ……!!」

 水面に顔を出し、黄泉は大きく息を吐いた。蔵馬も同じように大きな息をついた。冷たい水がどんどん二人の体温を奪っていく。黄泉は最後の力を振り絞って氷の上へとよじ登り、蔵馬を水から引きずり出した。

「…………」

 ……ぽたっ……ぽたっ……

 二人の身体から水が滴り氷の上に散った。何とか助け出したものの何を言えばいいのか分からず、二人の間を居心地の悪い沈黙が漂った。突如冷たい風が吹きつけ、黄泉は思わず身を縮めた。身体にべっとり張りついた服は湖の水より更に重く冷たく感じられた。全身が形容しがたい寒さで震えている。このずぶ濡れの状態で明け方までじっとしていたら二人して氷の彫像に化けかねない。

「……お前、いたの……?」
「!」

 蔵馬がようやく口を開いた。我に返った黄泉が堰を切ったように叫んだ。

「なっ……何やってんだお前っ!! 死ぬつもりか!!?」
「……自死ならもっとましな方法を選ぶさ。」

 蔵馬は小さく首を振った。動きに合わせて銀の髪から水滴が滴り落ちた。水死は最も醜い死の一つ……思わず彼女の白い体躯が湖の底でぶよぶよに腐り崩れていく様を想像し、黄泉はぞっと身震いした。

「だったら、こんな夜更けにこんな場所で何を……」

 蔵馬は答える代わりに白い溜め息を混じえ呟いた。

「……お前、まさか本気でオレが溺れると思ったのか?」
「…………」

 黄泉は絶句した。腹が立ったのが自分でも分かった。馬鹿にされたと思ったからではない……彼女が本音を隠したと感じたからだった。

(だったら、どうしてお前は水に逆らわなかった?)

 尋ねてもどうせ答えは返って来ないだろう……黄泉は言葉を飲み込んだ。再び冷たい風が吹いた。蔵馬が自分の身体を抱き締めた。それを見て思わず黄泉は手を伸ばした。冷気から守るように肩を抱くと、蔵馬は彼に咎めるような視線を向けた。

「……戻るぞっ。」

 黄泉がやや強引に身体を引き寄せた。蔵馬は仕方なさそうに立ち上がった。凍えるような夜風が自然と彼らの距離を近づけた。二人の足元に氷の欠片が散らばっていた……鋭利な破片が一瞬、遠ざかる二人の後ろ姿を映して煌いた。

 人目を気にしながら二人は無言のまま、歩いて宿営地に戻ってきた。ずぶ濡れの姿を部下達に見つかればあらぬ憶測を立てられることは想像に難くない。黄泉が先にテントの輪の中に入り、他の団員がうろついていないことを確かめた。合図を受けて蔵馬はようやく宿営地に足を踏み入れ、自らのテントの前に立った。と、彼女は数歩後ろでぼんやり突っ立ったままの黄泉に気づき、手招きをした。

「……あ?」
「ちょっと。」
「はぁ!? あのな、こんなずぶ濡れで……」
「いいから!」

 渋る黄泉を強引に引き止め、蔵馬は彼をテントの中へ導き入口を締めた。

「……」
(何の用だ、口止めか……?)

 意図が読めず、黄泉は顔をしかめた。それにしても仕事以外の時間に蔵馬と二人きりになったのは何年ぶりだろう。

(寒っ……)

 突然、すっかり冷えた身体が大きく震えた。と同時に何かが宙を舞い、ふわりとした感触で黄泉の肩を包み込んだ。それは蔵馬が投げたタオルだった。背を向けたままもう一枚別のタオルで身体を拭き始めた彼女を、黄泉は落ち着かない思いで見つめていた。

(……おいおい……犯されてもこの場合、女の方が悪いぜ絶対。)

 蔵馬は濡れた装束を肩から落とし、無防備な素肌の背中を晒していた。つい先程まで彼女に襲い掛かる場面を色々空想していた黄泉はすっかり毒気を抜かれてしまった。と、蔵馬が思い切りよく上半身の服を脱ぎ捨てた。

「!! ば……馬鹿っっ!!」

 泡を食った黄泉が叫んだ。蔵馬は裸の背中を向けたまま、醒めた口調で応えた。

「何慌ててるんだ? 昔は一緒に風呂も入っただろ。」
「いつの話だっっ!?」

 幼少時代にはそんなこともあった……のかもしれないが、少なくとも黄泉には全く思い出せないほど昔の話だった。蔵馬は彼に背を向けたまま部屋の隅の寝台に寄り、置かれていた裾の長い寝巻を羽織った。それからようやく腰から下の服を脱ぎ去った。髪の毛の水分を拭き取りながら、彼女は未だずぶ濡れの黄泉に気がついた。

「……風邪引くぞ。」
「オレの着替えはオレのテントなんだよ!」
「あ……そっか。」

 蔵馬は首をすくめた。昼間彼を叱り飛ばした“上司”の顔ではなく、気心の知れた相手に向ける寛いだ表情だった。彼女は今度は部屋の隅に鎮座していた火鉢を引っ張り出し、中の炭に火を灯した。続けて彼女は毛布を運んできて黄泉へ放り投げた。

「服脱いでこれかぶってろ。火の上に吊しておけばすぐ乾くだろ。」
「……は?」
「早く!」

 唖然としていた黄泉は急かされて渋々服を脱いだ。蔵馬はそれを奪い取るようにひったくり、手際よく水気を絞って火鉢の上に渡したロープにかけた。

(……くそっ……)

 黄泉は思わず下を向いた。女を脱がせるどころか先に自分が全裸にされるとは……そう考えるとつくづく格好の悪い状況だ。と、鼻先で花の香りがして彼は再度顔を上げた。目の前に錫の杯を差し出し蔵馬が立っていた。黄泉は杯を受け取りながら中身に鼻を近づけた。強い香りはそこから漂うものだった。

「……何だこいつは。」
「花蜜酒だ。甘いけど身体は温まる。」
「……そっか。」

 ぐいっとそれを飲み干す黄泉の隣に、もう一つ杯を手にして蔵馬が腰を下ろした。再度花の香りが黄泉の鼻腔をくすぐった。二人の距離が少し近すぎるような気がして、彼の胸は騒いだ。

 部屋に再び静寂が訪れ、蔵馬はようやく落ち着いたように小さく息を漏らした。二人のすぐ傍で火鉢の炭がぱちぱち音を立て燃えていた。

「…………おい蔵馬、」

 頃合いを見計らい、黄泉がためらいがちに切り出した。

「……さっき、何してたんだ?」

 蔵馬が顔を上げた。

「夜中に湖で考え事なんて、悩みでもあるのか?」
「……別に。」
「何かおかしいぜ。いつもの威勢は何処行った?」

 黄泉はそう言いつつ蔵馬の顔を覗き込んだ。先程までのわだかまりはいつの間にやら霧消し、彼の胸に旧友を気遣う思いが湧き上がっていた。が、蔵馬はすげなく首を振った。

「何もない……いつものことさ。」
「嘘つけっ。」
「嘘じゃない。お前達の前じゃともかく、二十四時間“御頭”でいられるわけがないだろう。」
「だからと言って毎日水ン中に落ちてるわけじゃねえだろうが。」
「あれはたまたま。」
「毎晩一人で湖眺めてんのかよ。」
「……」

 蔵馬が黙った。……ふと、黄泉の頭にある人物の面影がよぎった。一つ息を整え、彼はそっと隣の女の様子を窺うように切り出した。

「……もしかして……“あいつ”のこと、思い出してたのか?」
「!」

 突如、蔵馬の顔が強張った。それを見て黄泉は追い討ちをかけた。

「黒鵺のこと…………まだ、忘れてないのかよ。」

 ……木炭のはぜる音がして、それきり部屋は静かになった。蔵馬が顔を逸らし、黄泉は図星を指したことを確信した。

 自分にとって蔵馬がそうであるように、黒鵺が蔵馬にとってどれほど大切な存在であったか、彼らをずっと傍で見つめていた黄泉は痛いほどに理解していた。だからこそ“黒鵺”の名が彼の死後、どんな刃よりも鋭く蔵馬の胸をえぐる凶器に変わったことも容易く想像できた。それゆえ意識的に避けて、ここ十年ほど何があっても決して口にしなかった名前……しかし黄泉は今あえて、その封印を破った。

 答えを待つ彼の前で蔵馬は一旦杯に口をつけ、冷ややかに首を振った。

「……阿呆、死んだ奴のことなんかいちいち覚えてない。」
「また嘘か。」
「本当だ。忘れてたんだから思い出させるな。」

 蔵馬が黄泉を睨んだ。それでもまだ追及しようとした彼に、彼女は冷静に切り返した。

「そう言うお前の方が、未だに黒鵺のこと引きずってるんじゃないのか?」
「……何だって?」
「とっくにこの世にいない男と何張り合ってるんだ? いつもいつも無茶ばかり繰り返して……もう少し自分の実力見定めて行動しろよ。手柄を急ぐと命が幾つあっても足りないぞ。」
「!」

 黄泉の額から冷や汗が噴き出した。

(……こいつ……!)

 図星を指されたのは彼の方だった……やはり蔵馬には悟られていたのだ。自分が死んだ男に敵対心を燃やし、何度咎められても“大穴狙い”を止められなかったことを。

(でもこの女、他人事 <ひとごと> みたいに言うか……!?)

 彼と黒鵺との間にいるのは自分だと知りつつ、蔵馬は完全に“部外者”の口ぶりだった。……すっかり言葉を失ってしまった黄泉の手から空の杯を取り上げ、彼女は酒を注ぎ足して返した。

「黄泉……お前、黒鵺がどうして死んだのか知ってるか?」
「……あ?」

 突然話題が変わり、黄泉は瞬いた。

「いや、全然……」

 怪訝に思いながら彼は首を振った。てっきり侵入先の宮殿で番兵に殺されたのだと思っていて、今まで疑問に感じたことすらなかった。蔵馬は溜め息をついた。

「別に見張りに捕まったわけじゃないんだ。盗る物盗って逃げる途中にあいつ、下げてた首飾り <ペンダント> 落として、それ拾いに戻って罠を踏んだんだ。」
「……は!?」

 黄泉の声が裏返った。蔵馬はもう一つ溜め息を吐きながら言った。

「馬鹿だろう? 同情の余地もない……そんな最期なら追手と一戦交えて死ぬ方が余程いい。」
「……」

 黄泉はぽかんと口を開けたまま固まった。当事者から聞いた話でなければ到底信じられそうもない……あの気障男にしては女の前であまりに間抜けで身勝手な死に方だと、さすがの彼も呆れ返った。

「本当、今でも思い出すだけで腹が立つ……だからもう考えたくない。黒鵺のことは過去なんだ。」

 低い声でそう言って、蔵馬は再び酒に口をつけた。桜色の唇が錫の杯に触れるのを黄泉はぼんやりと見つめていた。

「……だったら、湖で何してたんだ。」

 話題を戻され、蔵馬の眉が動いた。

「………… ……最近、疲れてるのかもしれない。」

 答えに逡巡した後、蔵馬は仕方なさそうに口を開いた。その顔が何処か気弱で、彼女らしくないと黄泉は感じた。

「『疲れてる』?」
「さすがに、ここまで来ると……ちょっとな。」

 そう言って蔵馬は首をすくめた。

「盗賊団が段々オレの手に負えなくなってる。」
「は……何処ぞの誰かさんがキリキリやった結果だろうが。自業自得だ。」
「阿呆、副長のお前が役立たずだからだ。お前がしっかりしてればもう少しオレの肩の荷が下りるんだよ。」
「何だと!?」

 黄泉が声を高くし、蔵馬は彼に冷ややかな視線を向けた。

「いつも言ってるだろ、組織の善し悪しは副将次第だと。なのに向こう見ずで飲んだくれで女と博打に明け暮れてる副長じゃ“悪い見本”として扱うしかないだろうが。」
「なっ……」

 痛いところをぐっさりと刺され、黄泉は居心地の悪さを誤魔化すために杯の中身を一息であおった。

「……黄泉、」
「何だっ。」
「オレは、お前を信じているからな。」
「……あ?」

 手酌をしていた黄泉が顔を上げた。蔵馬は杯の中身を口に運びながら話し続けた。

「馬鹿とか無能とか色々言う奴もいるが、オレはお前を高く買ってる。お前の潜在能力はうちの盗賊団で一番だ。力の磨き方も向ける先もまだ知らないだけで、いずれはオレよりもずっと上に行く男だと思ってる。」
「はぁ? ……んなバカな、有り得ねえ。」
「自分を卑下するな。卑屈な男は成長しないぞ。」
「うるせえよ!」
「お前と黒鵺の一番の差はそこだ。あいつは自分を磨くことを怠らなかった。お前は勝負の前から諦めて自堕落になってるんだ。」
「!」

 かつての恋敵と比べられ、黄泉の顔が強張った。蔵馬は力のない声で言った。

「いきなり改心しろとは言わないが、もう少し自分の立場を自覚しろよ。オレが死んだらお前がこの盗賊団を指揮するんだから。」
「……お前が、死ぬ?」
「戦いの中で死ぬかもしれないし、湖で一人淋しく溺れ死ぬかもしれない。」
「!……」

 ぎょっとして、黄泉は蔵馬を見つめた。

「…………やっぱり、本当に死ぬ気だったのか。」
「……それはないさ。」

 蔵馬が自嘲気味に笑った。

「ただ……確かに、お前が来なかったら死んでいたな。」
「……何?」

 黄泉が眉をひそめた。一瞬、蔵馬が次の言葉をためらった。

「……水の中へ落ちた時、このまま死んでも構わないと……そう思った。」
「!……」

 黄泉の顔から血の気が引いた。いつの間にか蔵馬は膝を抱えていた。黄泉はうつむいた彼女の顔を覗き込んだ……何故か、胸騒ぎがする。

「蔵馬……?」
「…………呼ばれたような、気がしたんだ…………。」

 そう言った蔵馬の声が掠れていた。

「誰に……」
「…………」

 蔵馬が沈黙し、黄泉の顔が強張った。心臓が一つ、大きく波打った。

(…………お前……やっぱり…………)

 震えた手で杯を握り締め、黄泉は内心の動揺を隠そうと努力した。精一杯の平静を装い、彼は尋ねた。

「……黒鵺に、か……?」
「…………」

 蔵馬が一層深くうつむいたのを、黄泉は呆然と見つめた。彼女の眼は虚ろだった…………顔を逸らし、黄泉は手にした酒を一口でぐっと飲み干した。空の杯を突っ返し、彼は投げやりな口調で呟いた。

「阿呆……あの男がンなことするかよ。あの世でお前に出くわしたらあの野郎、『今すぐ帰れ』って怒鳴るぜきっと。」
「…… ……そうかもしれない……。」

 蔵馬が暗い声で答えた。黄泉は吐き捨てるように続けた。

「呼んでいるのはあっちじゃねえ、お前が黒鵺を呼んでいるんだ。」
「……!」

 途端、弾かれたように蔵馬が顔を上げた。

「それは、ない!」

 蔵馬は声を荒らげ叫んだ。いつになく動揺した態度が黄泉をひどく傷つけた。彼は自らを奮い立たせるように、彼女に負けないくらいの声で言い返した。

「だったら二度と、黒鵺の名前は口にすんな! 忘れたって言いながら、あいつの話題で酒飲むんじゃねえよ!」
「……何だって!?」

 蔵馬の顔が蒼ざめた。黄泉は畳み掛けるように叫んだ。

「昔のことだなんて、自分にまで嘘つきやがって! 半端に気持ちごまかして、後追い考えるほど苦しんで……!」
「それはっ……」
「嘘つくなら完璧にやれよ! 破綻を見せんな!!」
「!……」

 酔っているのかもしれないと思いつつ、止められなかった。怯えたように一歩引いた彼女の手を黄泉が掴んだ。細い手首が折れそうなほど彼は力を込めて握り締めた。蔵馬は振り解こうとしたが、黄泉はそれを許さなかった。……逃がすわけにはいかない。今までずっと待っていたのだ。彼女の身体を……心をこの手で捕らえることの出来る瞬間を。

「お前がそんな調子じゃあの男も浮かばれねえし、お前も苦しいだろ!? それに……オレが困るんだよ! お前、オレの気持ちは知ってんだろう……!?」
「……!……」

 ……蔵馬の瞳が黄泉を射抜いた。黄泉も負けじと彼女を見つめ返した。二人はしばらく、互いを見つめ合ったまま動けなかった。……先に視線を逸らしたのは、蔵馬の方だった。

「蔵馬っ……」

 黄泉が思わず名を呼んだ。蔵馬は小さく項垂れた……諦めたように、彼女は弱々しく首を振った。

「……本当に……忘れたいんだ……。いつまでも黒鵺のこと、引きずってるの…………馬鹿らしいよ…………。」

 今にも泣き出しそうな顔で蔵馬は瞼を伏せた。黄泉が何か言おうとしたその時、彼女が突如ふらりと立ち上がった。

「……蔵馬?」

 恐る恐る声をかけた黄泉の前で、蔵馬が突然、肩から寝巻を落とした。

「!!……」

 目を逸らすのが遅かった。白い裸体が露わになり、黄泉は後ろへ仰け反った。

「なっ……」

 腰が抜けて動けぬ彼の前で、蔵馬が膝をついた。這うような姿勢をとり、彼女はゆっくり黄泉へと近づいた。

「……蔵馬っ……!?」
「……」

 蔵馬が手を伸ばし、後ずさる黄泉の頬に触れた。思い掛けない事態に彼は完全に飲まれていた……心臓が高鳴り、すっかり暖まったはずの身体が再び震え出した。蔵馬は這いつくばった姿勢のまま身を乗り出した。そのまま惹き寄せられるように彼女はゆっくりと、黄泉の胸に擦り寄った。

「……!……」

 とん……と、圧された背中が床に触れた。倒れた黄泉に蔵馬はそのまま覆い被さるように縋りついた。裸の肌と肌が密着した。

「!……」

 至近距離から蔵馬に瞳を覗き込まれ、黄泉の胸が波打った。震える手を伸ばし、彼は蔵馬を強く抱き締めた。彼女もまた黄泉の肩にそっと両手を置いた。

「寝台に……」
「……」

 蔵馬が首を振って拒んだ。そこで黄泉は彼女を床に抑えつけ、自らが上位に代わった。多少強引だったが蔵馬は逆らわなかった。彼女も黄泉の腰に手を回し、自分の身体を寄り沿わせた……先程まで氷のように冷たかった身体が灼けるように熱かった。黄泉はそっと、蔵馬の太股に指を這わせ奥深くへと滑り込ませた。

「……あ……」

 思わず声を漏らした蔵馬は、そのことを恥じるようにぱっと顔を背けた。首筋を目の前にし、黄泉は唇でそれに触れた。蔵馬が熱く息を零した。黄泉は彼女の下腹を探りながら、唇と舌を滑らせ上体の皮膚をなぞった。彼女は瞼を閉じ、時折荒い息を吐きながらされるがままに身を委ねていた。しばらくの愛撫の後、彼女の芯が潤んでいるのを確かめ、黄泉は手をかけて強引に彼女の脚を開いた。

「……入れるぞ。」
「……」

 蔵馬は拒まなかった。黄泉はのし掛かって腰を落とし、彼女の体の深くへと沈み込んだ。

「……っ……!」

 蔵馬の両腕が強く、黄泉の背中を締めつけた。

 ……組み敷いた女が縋るように腕を絡めてくる。逸る気持ちを抑えながら黄泉は出来るだけゆっくりと動いた。しばらく眼を閉じていた蔵馬が彼の気遣いに気づき、掠れた声で囁いた。

「……いいよ、もっと手荒で……」
「でもお前…… !」

 ……その瞬間、黄泉は悟った。

(こいつ…………初めて、じゃない…………)

 黄泉の顔が蒼ざめた。……男を知らないと思っていた女に、他の男の影を見てしまった。

(……アイツか……!?)

 黄泉の脳裏によぎったのは、眼差し涼しい黒髪の夢魔……。他に思い当たらなかった……蔵馬が自分の奥へ、心の底へ立ち入ることを許した相手が他にいるはずもない。

(あの野郎……!)

「……黄泉……」
「!」

 蔵馬が動揺する黄泉を見上げた。その瞳が悲しく光り、彼の胸を突いた。

「……全部、忘れさせて……」
「……えっ!?」
「お前が……オレを、愛して…………。」
「!……」

 ……黄泉は覚悟を決めた。蔵馬が再び瞼を閉じた。それを合図に二人は更に激しく互いの肌を求め合った。感覚が過剰なほどに研ぎ澄まされ、相手の些細な動き一つにも体が反応した。交わる音が外へ漏れぬよう気遣いながら、二人は本能へひたすら身を委ねた。無我夢中の行為の中、黄泉は無意識に蔵馬の唇を求めた。……が、彼が唇を寄せるのと同時に蔵馬が顔を逸らし、ふっと瞼を閉じた。

「……!」

 一瞬、黄泉が凍りついた。しかし蔵馬は変わらぬ様子で彼に身を任せていた。代わりに彼女の、黄泉の首を抱く腕が更に力を帯びた。

(……気のせいか……!?)

 不安を振り払うように黄泉は、より一層激しく女の身体を求めた。しばらく声を上げないよう耐えていた蔵馬が突如、全身を強く痙攣させた。

「……っ……!!」

 細い腕が黄泉の背を強く締めつけ、しばらくの間その力を保ち続けた。やがて全身の緊張から解放され、彼女は虚ろな視線のまま荒い呼吸を繰り返した。黄泉がそっと身体を離した。

「……感じすぎだぜ……。」

 からかわれて蔵馬は、紅くなった顔を黄泉の首筋へ埋めた。その姿勢のまま、彼女は掠れた声で囁いた。

「…………黄泉…………」
「ん?」
「……お前は絶対、オレの前で死ぬなよ。」
「!」

 そっと身体を離し、蔵馬がゆっくりと顔を上げた。白い顔がふと、淋しそうに笑った。

「あいつ以上に情けない死に方したら、墓も作ってやらないからな。」
「……」

 約束を交わすように頷くと、蔵馬は安堵して微笑み瞼を閉じた。黄泉は彼女の長い睫毛の端に涙の粒を見たような気がした。

「…………」

 ……薄暗いテントのいささか頼りない天井を見上げながら、黄泉は行為の後の心地よい気怠さにまどろんでいた。傍らに銀の髪を散らして眠る女がいる。幼い頃からずっと、結ばれる日を夢に見ていた愛しい女が。

「……蔵馬……」

 そっと手を伸ばし、その髪の毛をすくってみる。指の隙間から水が零れるように、柔らかな銀の糸がするすると滑り落ちた。蔵馬は何も気づかず眠り続けていた。薄く薄く開いた唇から、微かな呼吸が漏れていた。

「……」

 黄泉の心に突如、暗い陰がよぎった。

(本当に、偶然だったのか…………?)

 ……唇を寄せたあの時、蔵馬ははぐらかすように顔を背けた。その仕草があまりに自然で、かえって黄泉は違和感を覚えた。繋がっていた身体が離れ、微かな違和感は大きな不安へと膨らみ始めている。

 眠り続ける女に引き寄せられるように、黄泉はそっと唇を近づけた。……柔らかな皮膚と皮膚が軽く触れ合った。

「…………」

 ふっ……と息を漏らしながら、それでも蔵馬は目覚めなかった。それが黄泉を駆り立てた。触れただけの唇をより深く求めようと口づけた、その瞬間。

「!……」

 黄泉は、愕然とした。背筋に寒気が走り、彼は弾かれたように身体を離した。

 ──冷たい──

 ……蔵馬の唇は、熱の残る肌と裏腹に奇妙なほどよそよそしかった。それが黄泉に気づかせてしまった……物理的な温度ではなく想いの温度差、心の内に踏み込まれることを拒む“壁”の存在を。

(…………それが、お前の本心か…………。)

 黄泉は呆然と、眠る女の顔を見つめた。意にそぐわぬ口づけに気づかない彼女への後ろめたさと相まって、黄泉の胸に後悔が去来した。触れなければよかった……肌を重ねていた間の、あの身体と身体を貼り合わせたような一体感が一瞬にして砕け散った。……蔵馬は「忘れたい」と言った。そして自分に「愛してほしい」と懇願した。その言葉は確かに本心だっただろう。しかし……彼女が欲しているものはあくまで“黒鵺の代わり”であり、決して“黄泉 <自分>”そのものではないのだ。

 ……大きく息をつき、黄泉は頭を振って悪い思考を追い払った。

「関係ねぇ……生きてるヤツが勝ちなんだ。」

 負け惜しみかもしれないと思いつつ、小さな声で呟いた。蔵馬は確かに言った。「お前だけは、オレの前で死ぬな」と……生きて、自分を愛してほしいと。

(代わりだろうが何だろうが、お前が選んだのはオレだ。だから……何度でも求めてやる。何度でも「お前が欲しい」と……望む限り囁いてやる。)

 それが自分の精一杯の想い方。片思いが度を過ぎて、とても恋だの愛だの呼べる関係ではない。それでもそれが蔵馬の望みなら……と、黄泉は覚悟を決めた。いつかきっと、通い合う日が来る。この想いを釣り合わせて、いつか必ず愛情に昇華させるのだ。

 再び身を屈め、そっと蔵馬の頬に触れる。相変わらず彼女は目覚めない。しかし、この無防備さこそ彼女が自分に気を許している証しに違いない。

「……蔵馬……」

 少しためらい、もう一度、唇で唇に触れた。相変わらず素気ない感触だったが、ひるむわけにはいかなかった。……有り余る想いを移すように黄泉は、僅か開いた蔵馬の唇へ微かな呼気を吹き込んだ。彼女が答えるように、ほっ……と小さく息を零した。

 ぱちぱち騒いでいた火鉢の炭もすっかり大人しくなり、部屋には蔵馬と黄泉、二人の息遣いの音のみが静かに繰り返されていた。黄泉はふと、時間が気になった。

(戻らなきゃな……)

 まだ夜明けには遠いはずだが、早起きを決め込む気紛れな部下がいないとも限らない。本当は皆に今宵の出来事を触れ回りたい。しかしそれが蔵馬の意に反することは充分承知している。彼女との関係は密やかなものでなければならない。“本命”になるまでの辛抱だ……と黄泉は自分に言い聞かせた。と同時に彼は湖のことを思い出した。

(あれ……騒ぎになったりして……)

 あの小さな湖は盗賊団の水汲み場でもある。湖面には人が落ちた明白な証拠が残っているが、それを団員の誰かが見咎めはしないだろうか。派手に砕けた氷はこの寒気をもってしてもそう簡単に元通りにはなるまい。面倒になりそうだ……と思った瞬間、黄泉の脳裏にある考えが閃いた。

(……あ……!)

 ……あの湖は、蔵馬の心そのものなのだと気づいた。表は波一つ立てない平静を装いながら、冷たい氷のすぐ下に底知れず深い悲しみを湛えている。張ったばかりの薄い氷は些細な刺激でいとも簡単に壊れてしまう……そして彼女は再び暗い記憶に溺れてしまうのだと。

 黄泉は眠る女を見つめ、心の中で語り掛けた。

(……思い出さなきゃいい。あれだけ惚れてた男、忘れるなんて絶対無理だ。だけど……考えなければいつか、思い出せないくらい遠い記憶になる。)

 今はもろい薄氷も時を重ねれば厚みを増し、冷たい湖水をすっかり覆い隠すことだろう。

(それまでオレが傍にいる。だから……暗い水の底を覗くのはもう止めろ。)

 ……このままいつまでも寄り添っていたい。しかし、夜が明ければまた組織の長と副長に戻らねばならない。名残を惜しむように傍らの女の髪に触れ、黄泉は寝台から立ち上がった。すっかり乾いた服に袖を通し、彼は外へ踏み出した。厳しい寒さに息が凍る。夜明け前の、大地が最も冷える時刻。だが……この時さえ乗り越えれば輝く太陽が朝を運んでくるのだ。

[完]

奏 -かなで-

content.php

「黒鵺! これ何だか知らない?」

 洞穴の奥から呼ぶ声がして、オレは手にしていた宝箱を脇に置いて立ち上がった。二ヶ月に一度の“在庫整理”の日。色々な所から掻き集めてきた財宝の良し悪しを見極め、競売にかける前に大まかな値踏みをする。オレも蔵馬も実はこの雑用が好きだった。かっぱらってきたきり殆ど眺めてもいないお宝から掘り出し物を発掘する作業が骨董市に似た感覚で楽しかったのだ。

「…何。」
「リュートだと思うんだけど……傷だらけだし弦は切れてるし。」

 蔵馬が大きな木製の物体を持ち上げてオレに見せた。オレが叫んだ。

「あ! それ、何処にあった!?」
「エ? いや、そこの埃かぶった長持の陰に……何、お前が持ち込んだのこのガラクタ!?」
「ガラクタじゃねーよ! 売りに出したら三千万は下らないぜ。」
「ホント!? すっごいお宝じゃん! どういう謂れ?」
「天下の美形大盗賊・黒鵺サマの私物。」
「……何だ、やっぱりガラクタか。」

 大層ガッカリしたように蔵馬が溜め息をついた。最早完全に興味を失ったあいつは“お宝”そっちのけで大好きな宝石の詰まった箱にぱたぱた尻尾を振っていた。普段はちっとも愛想のないくせに、金銀財宝の前でだけは“可愛いオンナ”に早変わりする。こいつの飼い主になる男はきっと苦労するんだろうな。

 オレは蔵馬にそっぽ向かれたリュートの残骸を持ち上げ、じっくりと状態を確認した。思い出す限り三年は触っていない。下手したらそれ以上……。オレの記憶の中にあったこいつは磨き込まれた黒檀を張り合わせた艶めかしい曲線のボディを持っていた。それが今や虫に食われたりあちこちにぶつかったりした傷でボロボロ、弦は根元しか残っていないし、胴にはロゼッタから侵入した砂や埃がたっぷり詰まってる。修理代だけでいくらするのか考えただけでも気が重いけど、金がかかるのは生身の女も同じ……そう思えば許そうかという気にもなってくる。

「…ったく、こいつの良さが分からないうちは“イイ女”には程遠いぜ?」

 こそっと呟いてみたが、蔵馬には (あんなにデカい耳してるくせに) 聞こえていないようだった。

「……よくもまた、ここまでボロボロにしてくれたものだな?」

 形のよい細い眉を吊り上げて、鴉が呆れたように呟いた。沢山の人が行き交う市場の一角、ちょっとした料理を出す露店でオレ達は例のリュートを間にサンドイッチをつまんでいた。

「だから修理できるトコ教えてほしいんだ。あんたなら心当たりあるだろ?」
「この街の修理屋は料金の割に腕が悪い。頼むなら隣の街だ。」
「さっすが、助かるよ鴉。早速持っていこうっと。」
「ここまで傷んだら胴から全部交換かもしれないな。まったく……こんなになると知っていたらお前にやるんじゃなかった。」

 鴉は深々と溜め息をつきながら、弦のないリュートを構える仕草をしてみせた。幼い頃は女にしか見えなかったという白い顔と細い指が如何にも優雅で、この古めかしい楽器に素晴らしく似合っている……のだが、実は彼にはこいつを全く弾きこなせないという事実をオレは知っている。

「悪かったよホント! 今度はちゃんと修理して部屋に置いとくからっ。」
「飾っておくだけなら私が引き取る。お前なら少しは弾いてくれると思ってやったんだ。」
「だってお尋ね者が日常的にデカい音立てられるわけないじゃんか。」
「紫はよく弾いていたよ。」
「兄貴のお目当てはそれを伴奏に踊るあんただったに決まってるじゃん。」
「その話は二度とするな!!」

 鴉が突如恐ろしい顔になって叫んだ。剣幕の凄さに周りの席の客が皆こっちを振り返り、“お尋ね者”のオレは身を縮めた。

 鴉の出身は流浪の民の集団。今から数十年前、旅芸人の一座がオレの故郷でもある夢魔の里にやってきた時、一座の花形踊り子と里の男が懇ろの関係になって生まれたのが彼だと聞いている。母親譲りの美貌の持ち主だった鴉は、父親を探してうちの里にやってくる前まで (当時オレはまだ生まれていない) 若くして死んだ母の代わりに女のなりをさせられ踊り子を務めていたらしい。すっかり騙されたオレの兄貴が熱烈にモーションかけまくっていたという噂を聞いたことがあるけど、兄貴は真相を明かさないまま死んでしまい、鴉はその“恥ずかしい過去”に触れただけで一切何も話してくれなくなる……という有り様で真実は未だ闇の中だ。ただ、鴉が兄貴との賭けに負けて兄貴の伴奏で舞踊を披露させられてるのはオレも一度見たことがあり、その時の鴉は確かに魂抜かれそうなくらい綺麗だった。

「…とにかく、お前が弾かないなら返してもらう。育ての親の形見なんだから。」
「待てってば! ボロボロにしたのはオレなんだからせめてオレの金で修理させて! 頼むっ!」

 何とか鴉に許しを乞い、豊満なボディを持つそいつはしばらくオレの手元に残ることになった。

「……おい黒鵺、それまさかこの前のガラクタ?」

 ソファの後ろから蔵馬がオレの肩越しに例のリュートを見つけ声をかけてきた。大枚をはたいて修理したそれは幸いにも丁度同じ材質の木が工房にあったことで、通常よりずっと早い期間で手元に戻ってきた。よく寝かせ磨きこまれた黒檀の表面板に虹色に光る白い螺鈿が施されている。弦は昔のものよりずっと進化した、音により深みの出る高級品に張り替えた。三千万は大袈裟かもしれないが数百万の価値は大いにある……つーか実は修理にそれだけかかったんだけど蔵馬には内緒だ。

 ボロン……

 一番低い音の出る弦をつまんでみる。深く空気を震わせて、柔らかな音が宙を漂う。

「いい音!」

 さっきまで小馬鹿にしていた蔵馬が、驚いたように声を上げた。オレの正面に回り込み、あいつは興味津々の顔でオレに尋ねてきた。

「もしかして、お前それ弾けたりするの?」
「ん? さーな。」

 すっとぼけてみせる。一応弦楽器と名のつくものなら大抵はこなせるんだけど、一つくらいこいつに秘密の特技があっても面白いんじゃないか……なんて悪戯心が頭をもたげている。蔵馬はオレの返事に呆れたように言った。

「じゃあ何でリュートなんか後生大事にしてるんだよお前。」
「だってオレと似てるから。」
「はぁ? どの辺が?」
「美女相手じゃないと本気出さない辺りが。」

 蔵馬はますます呆れ顔になった。オレは知らん顔で美しい木のボディをずっと撫で回していた。正直言えばオレはこのリュート自体が「美女」だと思うんだけど……ふっくらした胴は成熟した女体を思わせる色っぽさ。ちょっと触れればいい声で鳴いてくれるし……おっと、楽器に興奮してたらタダの変態だ。

 数日後……オレは再び財宝を保管している例の洞窟に来ていた。リュートと一緒に貰ったはずのバチを探しに来たのだが、そこでオレは見慣れない物を見つけて立ち止まった。

(…何だこれ?)

 それは着物だった。大きな衣装掛けに白い薄衣の着物が掛けられている……淡雪のような半透明の衣に白い絹糸で刺繍が施してあるものだった。近づくとよく分からないが、少し離れてみるとどうやら桜吹雪の意匠のようだ。満開の桜の花が、風に吹かれて花片を落としている。

(高そうな細工物だな……百万はしそうだ。でも、こんなのあったっけ?)

 この前の在庫整理の時に見た記憶がない。蔵馬が持ち込んだのだろうか。

(あいつ、着もしない服を買い込むのが趣味だからなぁ…。)

 女らしいといえば聞こえはいいけど要するに“無駄遣い”……金をかけるところを間違ってるんじゃないだろうか。…と、オレはすぐその隣に漆塗りの小さな箱があるのに気がついた。紐が解けていてオレは興味をそそられ蓋を開けてみた。

(…何だぁ…?)

 小箱に収められていたのは、着物同様半透明の布を張った大振りの扇子だった。香木で出来ているのか、広げると同時に辺りにふわりといい香りが漂った。布にはやはり桜の文様が縫い取られ、着物と対であることは明らかだった。が……オレが疑問に思ったのは絹の房飾りだった。扇を広げた左右の端から下がった二本の房飾りにそれぞれ三つずつ鈴が編み込まれている。こんなので仰いだらうるさいだけじゃないだろうか。

「あんま乱暴に触るなよ、オレの宝物なんだから。」

 急に背後で声がしてオレは飛び上がった。振り返ると蔵馬が腰に手を当て突っ立っていた。

「…宝物って……お前いつこんなの買ったんだよ。」
「買ったんじゃない。里から持ってきたのを陰干ししてるんだ。」
「何、お前の“嫁入り道具”なのコイツ!?」
「誰がいつお前のトコに嫁入りしたんだっ!」

 蔵馬が即座にツッコんだ。聞き流せない辺りがまだまだ可愛いところだ。ニヤニヤ笑いながらもオレはこの品の謂れについて更に尋ねることにした。

「…もしかして、例の領主サマと結婚する時の婚礼衣装だったとか?」
「アホ、そんなの家出した直後に売っ払ったよ。」
「じゃあ家族の形見だったり?」
「お前のペンダントじゃない。」

 一応解説しておくと蔵馬は故郷にいた頃、隣村の領主と政略結婚させられそうになり逃走したという過去を持つ。逃げ出された男の方は当時はエラい恥かいただろうけど、長い目で見たら蔵馬と結婚しなかったのはきっと生涯最大のラッキーだったに違いない。このジャジャ馬 (狐だけど!) を飼い馴らせるのは魔界広しと言えどこの黒鵺サマくらいなもんだろう。いや、正直言ってオレにも全然自信はない……。

「これは、舞の衣装なんだ。」

 そう言いながら蔵馬はオレの手から扇子を取り上げ、さっと開いた。

(…エ…?)

 何故か蔵馬が扇を広げただけで、ぴん……と張り詰めた空気がその場に漂った。

 ……シャン…………シャランシャラン……

 蔵馬は宙に手を延べて、扇ごとくるりと掌を返した。漂う甘い香りと耳に心地よい鈴のリズムにオレは一瞬我を忘れた。が……蔵馬はたった一度手を動かしたきりパタリと扇子を閉じ、元のように箱に収めてしまった。

「……あ……」

 オレが我に帰った。

「…お前、踊れんの…?」
「ん? …さあ。」

 蔵馬がオレを見て微笑した。ゾクリとするような、恐ろしく綺麗な笑顔だった。あいつは (いつもからは想像できないほど) 色っぽくオレにウインクしてみせた。

「…オレも、美青年の伴奏でしか本気出せないから。」
「……」

 ……非常に気になる発言ではあった。

 数日後、蔵馬が留守してる時にオレは例のリュートを引っ張り出していた。向こうが留守番してることは多いけどオレが居残ってるのは結構珍しい。今日の蔵馬は幼馴染みの黄泉と会う約束があるとか言って朝から出掛けている。オレも黄泉とは前に会ったことがあるけど、昼間っから酒臭くガリガリに痩せた顔色の悪い男だった。あの男は初対面のオレになに勘違ってるのか「蔵馬はオレのモンだ」と言わんばかりの敵意剥き出しな視線をぶつけてきた。隣にいた蔵馬のヤツもまんざらじゃなさそうな様子で……まったく、あの女の趣味は分からない。

 ザン……

 軽く和音を鳴らしてみる。バチは無事見つかったんだけど (多少傷んでいたがこっちは高いものじゃないので自分で修理した)、指で掻き鳴らす音の方が好みで結局発掘したまま部屋に置き去りだ。ガランとした居間のソファに座り、オレは弦の調律を始めた。修理直後だからそうそう狂ってはいないと思うがやっぱり自分で確かめないと心配だ。

「……こんなもんかな?」

 微妙にペグ (糸巻き) を動かし好みの音色になったリュートを膝に抱え、久々の感触を確かめるために簡単な曲を奏でてみた。故郷の童謡……オレと同じお里の女なら、ガキの頃この曲で鞠つきをしたことが一度はあるはずだ。……ワンフレーズ終わる頃には大分勘を取り戻してきたので、次は対象年齢を上げて街で今流行りの少ーしエッチな戯れ唄を鳴らしてみることにした。歌詞が命だから当然オレのボーカルつきになった。

「……ほれ見な通るよ、街一番の器量良しっ……」

 ……以下略っ。いくら部屋に一人でも素面 <しらふ> で唄うにはこっ恥ずかしくて途中で止めてしまった。蔵馬が聴いてたらすっごい顔で睨まれること間違いなしだ。けど、唄っていてオレは何となくあいつを思い出してしまった。省略した歌詞に出てくるのは真っ白な肌をした飛びきりのグラマー。それが夜な夜な違う男のベッドで……てな展開になるんだけど。

(…そういや蔵馬、今頃何してんだ?)

 ふと、あいつのことが気になった。帰りの時間を聞いていなかったけど陽が落ちる前には戻ってくるんだろうか。まさか黄泉のベッドで尻尾…いや、腰を振ってはいないと思うが、一瞬そんなシーンを想像してしまいソワソワした気分になってきた。

(いや、別に誰もあいつらが“デキてる”とは言ってないんだけど……。)

 頭を振って気色悪い想像を追っ払う。けど、“可愛くねーオンナ”も他の男の前では可愛かったりして……そんなこと考えて心臓が速打ちになってくる。何となく落ち着かない……まさかこの不安、“嫉妬”ってヤツじゃないだろうな?

 …ジャーン!!

 イライラしてきて思わず不協和音を鳴らしてしまった。いけない、楽器に当たるのは誉められたことじゃない。ふぅ…と溜め息をつき黒々と輝くリュートを眺める。今度はそっと弦に触れると、見事なフォルムの“美女”はオレの苛立ちをいなすように笑いさざめいた。

「アホか……女が気になる夢魔 <ナイトメア> なんて、“お伽噺”じゃねーんだぜ。」

 自分に言い聞かせ、オレは気を紛らすために三曲目を奏でることにした。それは……オレの育った里に伝わる恋の唄だった。最初は規則正しいアルペジオが次第に崩れていく。その乱れたリズムに合わせて唄が乗っかる、実はとっても難しい曲。

『これはわざと崩すんだ。』

 ……そう教えてくれたのは死んだ兄貴だった。

『冷静でいられなくなるんだよ。惚れた女が自分をどう思ってるのか分からなくて不安に苛まれる、その様子を表しているんだ。』

 今思えば兄貴も七つか八つのガキに随分マセたこと教え込んだもんだ。弟のオレが言うのもなんだけど、兄貴のリュートは本当に凄かった……口も達者だけど演奏も一流、鴉に聞いたところでは兄貴の弾き語りで落ちない女は一人もいなかったとか。兄貴はオレにこの唄を教えてくれた時、古語で書かれた詞がどういう意味なのかいちいち丁寧に説明してくれた。

『…で、女が去る日が近付いてくる。男はとうとう想いを打ち明ける決意を固める。色んな美辞麗句を考えたけど、結局男はリュート一本を手に女の窓辺を訪れる……。』

 兄貴がリュートを弾くといつも周りに大勢のギャラリーが集まっていた。日頃「男なんかエネルギーの足しにしかならない」と嘲っている里の女共 (これは男も同じなんだけど……夢魔ってのはそういう生き物だ) がリュートを奏でる兄貴にだけは熱い溜め息を漏らしていて子供心に驚かされたものだ。

『……で、結局この話は最後どうなったの?』

 大勢集まった女達の中、無邪気にオレが尋ねると兄貴はニヤッと笑って答えた。

『それは、奏者の腕次第さ。』
『?…』
『つまり、この唄の主人公は歌ってるヤツ本人……今ならオレってこと。演奏でオンナを落とせれば恋は成就したことになるし、ダメだったら失恋ってわけだ。』

 兄貴が歌えばこの唄はいつもハッピーエンド…ということらしい。

『…あのさ、そもそも“恋”ってどういう気持ちのこと?』

 まだ子供のオレが尋ねた。兄貴は一瞬きょとんとした顔をして、うーんと難しそうに考え込んだ。「あまりいい例えじゃないけど」と前置きし、兄貴はオレに逆に質問してきた。

『……お前さ、ダチと手ぇ繋いだりキスしたりしたいって思う?』
『思わないよっ。』
『ある時突然男は女に、女は男にそういう感情を抱くもんなんだって (例外もいるけど)。それが恋だ。』
『…そんだけ? 全然分かんないけど…』
『当たり前だろ。お前はまだガキだし、第一、夢魔 <ナイトメア> は元々そういう感情を持てないんだよ。』

 兄貴はそう言いながらリュートを大切そうに撫でていた。

『……なんだけど、時々例外的に恋をしてしまう夢魔がいるんだって。この唄の主人公もそうさ。旅の踊り子にマジ惚れした夢魔の男が里の連中に馬鹿にされながら一途に想いを貫く……という昔の伝説なんだ。本当にあったことかどうかも分かんない“お伽噺”だけどな。』

 それが、兄貴が語ってくれたこの唄の物語だった。……だけど、当時のオレはロマンチックな情景より“踊り子”という単語に過敏な反応を示した。

『…それって…もしかして、兄貴と鴉のこと?』

 刹那、兄貴 (プラスその場のギャラリー全員) が固まった。目が点になっていた兄貴は一つ大きな深呼吸をして、オレの肩にぽんと手を置いた。

『……黒鵺……何処から聞いたか知らねーけど、命が惜しかったらその話、絶っっっ対鴉の前でするんじゃねーぞ。』
『何で?』
『いーからっ!』

 肩にかかる手が急に重くなった。いつになく恐ろしい顔をした兄貴に怯え、オレはこくこくと何度も首を縦に振った。

 ……昔のことを思い出していたら曲は佳境に入っていた。狂ったように弦を掻き鳴らすクライマックスは難易度が高く、当時里では兄貴の他に弾けるヤツがいなかった。勿論オレも弾けるはずがなくて (そもそも指がちゃんと弦に届いていなかったんだけど) メロディを頭に叩き込まれただけだった。もしかしたら兄貴が弾いてたのとは二、三個音が違うかもしれない。そして……長い長い恋唄は終わり、室内に再び静寂が帰ってきた。

「……」

 ふっと溜め息をつく……ちょっとだけ、唄の主人公の気持ちになってみる。兄貴は「主人公は演奏者自身」と言っていたけど、だとしたらギャラリーなしで演奏してる今のオレは見事な“一人相撲”ということになるんだろうか。

(練習だ練習、馬鹿らしい……。)

 他愛ない思いつきを消そうと次の曲を弾く構えをした、その時。無人のはずの室内に人の気配を感じてオレは顔を上げた。

「! …蔵馬っ…!?」

 入口のドアの前に、蔵馬が立っていた。……きっとその時のオレはかなり間抜けなツラしてたに違いない。擬音をつけるならやっぱり“ぽかーん”という辺りだろうか。

「…居たのお前!?」
「いや、帰ってきたばっか……だけど……」

 答える蔵馬も“ぽかーん”という顔をしていた。

「……凄い……」
「えっ?」
「凄い凄い凄いっっっ…!!」

 急に声を上げて蔵馬がぱっとソファに飛び乗った。ソファの上で四つん這いになり、あいつはオレの手元を覗き込むようにわさわさ近寄ってきた。

「凄いじゃんお前っ!! 何で今まで隠してたのさ!!」
「…聴いてたの!?」
「帰ってきたらすっごい演奏が聴こえてくるんだもの! 楽師でも呼んだのかと思った!!」
「……」

 顔が紅くなるのが自分でもよく分かった。何処から聴いてたのか知らないけど、あの曲目じゃどれ聴かれても恥ずかしいことには変わりない。

「ね、もっと聴かせて!」

 蔵馬が身を乗り出して頼んできた。

(うっ……。)

 可愛い……見上げるようにしてオレの眼を覗き込む、その視線に何故かグッと来る。左にいた蔵馬は突然、右手でオレの肩に、左手でオレの太腿に触れた。艶っぽい仕草に脈拍が上がり、オレは柄にもなく上ずった声で尋ねた。

「…何だよお前、熱でもあんのかっ!?」
「ん、体温上がっちゃったかも……さっきの唄で。」
(唄!?)

 マジかよっっ…!?

「まさか、全部聴いてたの!?」
「途中からだよ……だからさ、最初から聴かせて。」
「……」

 呆気にとられ、オレは蔵馬をまじまじと見つめた。白い頬が心なしか上気し、黄金色の瞳が潤んで見える。

「……特別だぞっ。」

 掠れた声でオレが囁いた。蔵馬は嬉しそうに「うん」と頷いた。

 ……演奏が終わり、オレはリュートを膝から下ろして深々と一呼吸した。再び静かになった室内で、テーブルにリュートが触れるコトリという音が響いた。いつの間にやら蔵馬は無言のまま、オレの傍らでぺたんとうつ伏せに横たわっていた。

「…蔵馬…?」

 声をかけるとあいつはのそりと身体を起こし、オレにもたれる仕草をした。白魔装束の深い合わせから量感たっぷりの胸の谷間が覗き、オレは慌てて目を逸らした。

「…ダメ、とろけた……。」
「は…?」

 思わぬ言葉にビックリして蔵馬を見ると、言葉通りあいつの視線はとろんと夢でも見ているようだった。それを見て思わずイった後の恍惚の表情……を想像し、内心オレはかなり動揺した。そんなオレの思考に合わせたように、蔵馬が吐息混じりの声で囁いた。

「…今日ならお前に何されても許せる……かも。」
「!! ……そーいうセリフはもっとオンナ磨いてから言えっっ!」

 銀色の頭を小突きながら、真っ赤になったのを悟られないよう顔を背けた。背けながら、すげぇ……と自分で自分に感動してしまった。百戦錬磨、狙った女は百発百中の兄貴でもこれほどの上玉を釣り上げたことは絶対にないはずだ。最っっ高に可愛くねーと思っていた女狐が、ちょっと“おねだり”するだけでこれだけオレを緊張させる。蔵馬はとろけた身体を支えるようにそのままオレに摺り寄った。ヤバい……何とかしてこの状況を打開しないとっっ。

「……蔵馬、」
「何…?」
「ひょっとして“発情期”?」
「!!」

 ドゴッッ!!

 ……夢から醒める強烈な左フックをみぞおちにモロに喰らってしまった。いってぇ……あー、やっぱり蔵馬はこうじゃなきゃ! ほっとした…けど、実は内心かなり勿体無かったりもして……。でも女に主導権取られるのはオレのプライドが許さない。すっかり拗ねてそっぽ向いてしまったあいつに、オレは機嫌を確かめるように切り出した。

「…あのさ、」
「何。」
「オレの特技も披露したことだし、今度はお前の特技…見せてくれない?」

 蔵馬が振り返った。

「…踊れって?」
「あの……伴奏するけど。」

 オレはリュートを持ち上げてみせた。じーっ……と蔵馬はオレの顔とリュートを変わりばんこに見つめていた。急に手を伸ばし、あいつがオレの頬に触れた。金の瞳が至近距離で射抜くようにオレを見据える。何だよ、緊張するだろっ? ……と不意に、あいつが微笑った。

(…!…)

 ドキッ……とした。うあ……薄く笑っている表情が一番こいつを綺麗に見せる。例えようもなく妖しくて……悪女伝説を沢山残してる、“妖狐”という種族独特のゾクゾクするような美しさ。

「……ま、合格ラインかな。」

 冷やかすように蔵馬が言った。その声で、魂奪われてたオレがようやく我に帰った。

「……えっ……?」
「言っただろ、『美青年の伴奏でしか本気出せない』って。」
「……!」

 蔵馬は悪戯っぽく笑い、オレの頬に手を添えたままコツン…と額をオレの額にぶつけた。

 まるで自然がこの時のために用意してくれていたような、平たい巨石の上。柳の木の下で今、観客ゼロの舞の演技が始まろうとしていた。石造りの舞台の下でオレはリュートを構え、風が止まるのを待っていた。目尻と唇に紅を差した蔵馬が、凪と同時に白い手を虚空に延べる。指先に半透明の扇を構え、あいつの視線は更にその先を見据えている。身体を包むのは淡い紫の着物の上に羽織った、あの朧のような桜吹雪の舞装束……散り際に色を変えるという薄墨桜を思わせる意匠が銀の髪の毛に映えてとても綺麗だった。…ぴたりと静止した美貌の舞い手が一瞬、ちらりとオレに目配せした。

 ザンッ……

 それを合図に羽根製のバチが弦を引っ掻いた。指奏の時より控えめな音が主役の舞を際立たせる。長い眠りから目覚めるように、じっとしていた蔵馬がゆるゆると歩みを進める。鈴の音がリュートに重なり不思議な共鳴を生み出している。微妙な音が少しずつ速くなっていく……まるで、あいつが作り出した幻の中にオレを誘うかのように。

 …シャン……シャン…………

 鈴が震える。舞い散る花片を追うように扇がゆらゆら揺れる。衣擦れの音までが耳に心地よい。艶やかな花の精霊の舞は天女のように優雅で、リュートの音さえ霞ませてしまうほど、圧倒的に美しかった。

(……桜の下で、見たいな。)

 季節が違うので咲いていないけど、春になったらもう一度、桜吹雪の下でこの舞を見てみたい。花の幻に時を忘れて埋もれてみたい。……花が散っていく……花片の最後の一枚が、静かに静かに大地へと還っていく…………

 ……シャン……

 …最後の鈴が鳴った。舞い終わり、銀髪の花の精は“現実の世界”に帰ってきた。

「……どう?」
「!…」

 …しまった……完全に呑まれていた。

「……あっ……すげぇ………キレイだった…。」

 慌てて感想を述べると、蔵馬はちょっと嬉しそうにはにかんだ。が…それも一瞬のこと。次の瞬間には蔵馬のヤツ、からかうような目つきに変わっていた。

「お前、途中で三度トチっただろ?」
「…う…」

 痛いところを……。でもシャクだから「見とれてしまったんだ」とは口が裂けても言えない。それにしても、オレの予想をはるかに超えた見事な舞だった。

「…何処で覚えたの。」
「花嫁修業の一環で習った。」

 蔵馬は舞装束のまま、無造作に舞台の下に飛び降りた。

「花嫁修業? とてもそんな“おままごと”には見えなかったけど……」
「筋が良かったらしくて免許皆伝されちゃった。着物もその時師匠に貰った。」
「…」

 唖然としてオレはあっけらかんとしている相棒を見つめた。蔵馬は一番上に纏っていたあの半透明の衣を脱ぎ、軽く畳みながら言った。

「昔はさ、これ一枚で踊ったんだって。」
「え?」
「だから裸の上にこれ一枚で。」

 ぶーっ!とオレが吹いた。

「何だそれっっ!! そんなスケスケで……」
「だから、適齢期の女がこれで婿を引っ掛ける……っていうのが流派の元なんだって。」
「…オレ、そっちの方が見たいかも…。」
「トチりが増えるからダメ。」
「……」

 仰る通りです…ハイ。「誰かオレの代わりに伴奏してくれ」と願ってしまった。そのうちに蔵馬は薄紫の衣も脱ぎ去り、下に着たままだった白魔装束姿に返って言った。

「さっきの唄さ、良かったら……また聴かせて。」
「え…?」
「あれで踊ってみたい。振付け考えてもいい?」
「…ん…。」

 頷きながらオレは、冗談めかして提案した。

「…オレ達さ、盗賊辞めてこれで食っていかない?」

 蔵馬がけらけら笑い出した。くるくる変わる表情が眩しくて、オレはいつまでもあいつに見とれていた。

「……てわけでさ、すっげー楽しかった! ホントありがと。」

 一週間後、オレは街中の酒場で鴉と顔を合わせていた。入手困難なレア物ワインを添えてオレは彼に例のリュートを返そうとした。…が、

「お前が持っていろ。約束したんだろう? また聴かせると。」
「…でも…」
「どうせ私は弾けないし、お前が鳴らしてくれるならこいつもその方が本望だ。」

 そういって鴉はワインの瓶に手をかけ「こっちだけ貰っていくよ」と笑った。オレは「有難う」と、リュートを手元に引き取った。

「…鴉…オレさ、」

 一段声を落として囁いた。それは……オレにとって、一大決心の告白だった。鴉が顔を上げた。

「ん?」
「……蔵馬に……本気で惚れてるかもしれない……。」

 我ながら最後の方は消え入りそうな声だった。…鴉が怪訝な顔で瞬いた。オレが紅くなった。

「何だよっ、どーせ『夢魔のくせに変なヤツ』って思ってんだろ!?」
「…お前、今まで気づいてなかったのか?」
「エッ!?」
「私は最初から知ってたが。」
「……」

 肘をついて鴉は呆れたような顔をしていた。絶句したオレに、鴉はグラスを軽く上げた。

「まあ、ようやく自覚したということで…おめでとう。」
「やめてくれっ、恥ずかしい。」

 オレが遮った。鴉は空振りになった乾杯のグラスを一口だけ飲んでテーブルに戻した。

「私も見てみたかったな……その“桜の精”の舞いを。」
「ホント綺麗だったよ。あ…そうか、あんたその前に蔵馬に会ったことないんだよな? 今度紹介する。」
「いいよ、わざわざセッティングして貰わなくても結婚式に呼んでくれれば。」
「そんな予定はないっっ。」

 鴉が笑い出した。ムッとしてオレは“必殺技”を繰り出した。

「……その前に、あんたと蔵馬で踊り対決させたら面白いかもしれないな?」

 途端、鴉のこめかみに青筋が浮いた。

「…地雷踏むのと手榴弾喰らうのとどっちがいい?」
「どっちも嫌っっ。」

 慌てて首を振る。鴉の髪の毛の裾が金色を帯びていたのはきっと気のせいではなかっただろう。今の彼はもう女と間違われることはないだろうけど、一度でいいから兄貴がアブない道に踏み込みかけたという噂の美貌を見てみたかった……なーんて。口にしたら手榴弾どころかスカッドミサイルが降ってきそうだ。

「……黒鵺、そろそろ出ないか。」

 ようやく落ち着いた鴉が言った。

「エ? …この店お気に召さない?」
「いや、」

 鴉が首を振った。

「私も久々にそのリュートを聴きたいんだ。…弾いてくれないか、よければ歌付きで。」
「…ああ。」

 笑って頷き、オレはグラスに残っていた酒を飲み干した。

「男に聴かせるのは特別中の特別だぜ?」
「……本当にお前、紫そっくりになってきたな。」

 さも嘆かわしそうに鴉が頭を振った。オレはくすくす笑いながら漆黒のリュートを抱え立ち上がった。

[完]

第2章 逢

content.php

息を深く吸って もっと深く 聞こえている鼓動
それでもまだここは それ程明るくない
“Time Has Come” – LUNA SEA

薄暗い地下通路の中。石で出来た廊下を音も立てずに素速く走り抜ける影が一つ……それは背中に漆黒の翼を持つ黒髪の少年だった。外見こそまだ幼いがその眼光や鋭くまとう妖気もギラギラとした殺気を帯びている……彼こそ今や魔界中に名を知られる天才盗賊・夢魔黒鵺だった。彼はたった今、予告状を送りつけた標的の城に侵入している最中だった。スピードを緩めず走りながらも彼は、厳しい表情で周囲に気を配っていた。

(おかしい、見張りが一人もいないなんて…予告状出したのに、何でこんなに手薄なんだ?)

いつもは大挙して待ち構えている兵士達が何故かこの城には一人もいない。不可解な状況を訝しんでいたその時、黒鵺は目前に、倒れている男達を見つけ慌てて立ち止まった。ピクリとも動かぬ彼等に駆け寄り、黒鵺の顔色が変わった。

「眠ってる……!」

ギョッとして顔を上げると、目の前に続く宝物庫の扉は無防備に開け放されていた。

(まさか!?)

男達を元の状態に転がし、黒鵺は宝物庫の中へ飛び込んだ。室内に踏み込み、彼はあっと声を上げた。

「“破邪の鏡”が、ない……!!」

部屋の中央に置かれた陳列台は硝子が破壊され、既に空の状態だった。ぐっと唇を噛んだ黒鵺は、その台の上にある“ある物”に気がついた。宝があったはずの場所に白い薔薇で留められた、小さなカード……

「…“蔵馬”…!?」

紙切れには小綺麗な文字で“蔵馬”と記されていた。

 翌昼。城下街の中心の市場にある薄暗い酒場はいつものように飲んだくれの男達でごった返していた。店の中央にある一番広いテーブルで、朝っぱらから朱い顔をした男達が大ジョッキを片手に噂話を繰り広げていた。

「聞いたか? 昨日朱麗城で“破邪の鏡”が盗まれたらしい。」
「知ってるぜ、入ったのは噂の蔵馬だそうじゃないか!」
「らしいな。いつものように白い薔薇と名前入りのカードを残していったそうだ。」
「キザなパフォーマンスだよなぁ。」

濁声で騒ぎ立てる男達からそう離れていない隅の座席。頭からすっぽり灰色のマントを被った何やら怪しい人影が、店の名物であるセンドウサギの煮込み料理を口に運びながら噂話に聞き耳を立てていた。フードで隠れて殆ど見えないが、蝋燭の灯りで時折ちらちらと見える前髪は銀色に輝いている。人影は男達から料理に視線を戻し、手元のグラスを持ち上げた。

(…まさか街で自分の噂を聞くようになるなんて、二年前は想像もしなかったな。)

グラスに注がれた紅い葡萄酒を眺め、ふと遠くなった眼差しは蝋燭の炎を照り返す鮮やかな黄金 <きん> の色……それは、二年前に故郷を飛び出し盗賊となった妖狐・蔵馬だった。

(……二年…長いようで短かった……。)

そっと眼を閉じてみる。あの日高台から望んだ故郷の里の眺めが瞼の裏にありありと蘇ってくる……それは、彼女が最後に目にした故里の光景だった。

(あの日故郷を飛び出した“オレ”は、行く当てもなく街から街へと旅を続ける生活をしていた。婚礼衣装になる筈だった宝石を売り払い、しばらくは旅の費用を繋いだ。それが尽きる頃、初めて盗みを犯した。呆気ないほど罪悪感はなかった。入ったのは悪名高い奴隷商人の屋敷。何も考えず持ち出した調度品が驚くほどの高値で売れた。)

今までの記憶が次々に蘇ってくる。ふと蔵馬はすえたような嫌な臭いの漂っていた盗品市場を思い出した。行き交う男共は一人で歩く女に無遠慮に嫌らしい視線を投げてくる……が、その市場こそ、当時の蔵馬にとって何よりの情報源だった。

(盗品を売りさばく闇市で、黒鵺の噂を聞くことが出来た。古文書や遺跡に記された古城の宝物庫破りを専門とし、一億以下の財宝では絶対に動かない。標的には必ず予告状を送りつけ、厳重に敷かれた警備を鮮やかに突破してみせる天才盗賊。加えて夢魔特有の美貌で街中の女の噂の的。しかし、実はまだほんの十代の少年だという…。)

彼女はそこで、市場で質屋を営む男と交わした会話を思い出した。

『何処に行けば黒鵺に会えるかな。』
『ネーちゃんもヤツの追っかけかい? 黒鵺に会いたきゃ七番街で体売るのが一番だぜ。』
『えっ…!?』

顔を引きつらせた蔵馬に、男はニヤニヤと下品な笑顔を見せた。

『ま、それが嫌ならあいつが予告状送った城で待ち伏せするこったな。それくらいしか確実な方法はねえよ。』
『…!』

(まだまだ足りなかった…盗賊としての知恵も力も、何もかも追いつかなければ黒鵺に会えないと思った。“経験”が欲しくて、わざわざ危険に身を投じるようになった。女の身は災難を呼び込むのに好都合だった。暴力的な男達は格好の訓練相手になった。近寄る男がいなくなれば次の街へ流れ、気付けば殺気を意識的にまとえるようになっていた。自分を“オレ”と呼ぶようになったのもこの頃……。)

その時、彼女は腕にひりひりとした痛みを感じて眉をしかめた。生傷が絶えなくなったのも同じ頃からだろう。

(…そして、一年と半分が過ぎた。黒鵺はいつしか、魔界全土でも名の知られる盗賊となっていた。彼こそが雷禅や躯に次ぐ第三の勢力になる…そんなことを囁く者もあった。オレもようやく彼を追えるだけの経験を積み、後をついて回るようになった。『もう一度会いたい』……その想いが『彼のパートナーになりたい』という高望みに変わるまで、そう時間はかからなかった。)

黒鵺を追うようになって、彼女は盗賊としての自分の適性に否応なく気づかされた。危険察知や状況判断能力、暗号や封印を破る知能、最小限の犠牲で危険を切り抜ける戦闘スタイル……どれをとっても現在名の通っている盗賊に引けを取らないという自負はある。

(そう……あの黒鵺と手を組めるのは、オレだけだ。)

その時、隣のテーブルで再び酔っぱらいの声がして蔵馬は意識を引き戻された。

「後ろ姿を見た奴によると、蔵馬は銀の髪をした妖狐らしいぜ。妖狐ならツラの良さもお墨付きだな。」
「へえ、最近は美形盗賊が流行りなのかね。女共がキャーキャー騒いで捕まえる方が悪党扱いだぜ。」

オレは女なんだけど……と蔵馬は一人苦笑した。

「美形盗賊といえばさ、朱麗城って確か、あの黒鵺が侵入予告を出していなかったか?」
「ああ、どうやら先を越されたらしい。これで今月ニ度目、今年に入って七回目だ。」
「相手は全部蔵馬なんだよな? 蔵馬が有名になったのも白薔薇と黒鵺の先回りのお陰だろ。」
「名前を売るのがうまいぜホント。」
「きっと黒鵺のヤツも腸が煮えくり返ってることだろうさ。」

男達の噂に蔵馬は小さく肩をすくめた。……丁度同じ頃、その彼女から少し離れた一人用の席へ店の主人が料理を運んでいた。

「はい、『センドウサギの煮込み』お待ちどぉ!」

一人分の皿を礼も言わずに受け取ったのは蔵馬と同じ年頃の少年……それは何と、噂話のもう一人の主人公・黒鵺だった。

(くそっ……またもオレに恥かかせやがって!!)

続けざまに運ばれてきたグラスに彼は零れんばかりの勢いで紅葡萄酒を注ぎ一気に飲み干した。その顔は怒りで蒼ざめ震えていた。

(“蔵馬”のヤロー、会ったらタダじゃ置かねー。絶対にぶっ殺す!)

まさかその仇敵が傍にいるとは気づかず、黒鵺は猛烈な勢いで料理に食らいつき始めた。中央の大テーブルでは男達がまだ、彼と蔵馬の噂話を続けていた。

「そういや今夜、桂花殿に黒鵺が侵入予告を出しているらしいぜ。」
「マジかよ! 黒鵺が来るってことは、もしかして蔵馬も!?」

黒鵺はその言葉にはっとしてテーブルを振り返った。男達は本人がいることにも気付かず、ジョッキ片手に盛り上がっていた。

「直接対決もあるかもしれないぞ!」
「どっちがヤるにせよ、また金持ちからスカッと決めてほしいもんだぜ!」
「それじゃ今夜の盗賊達の宴に、乾杯!」
「カンパーイ!!」

黒鵺にもプライドがあった。今度また“蔵馬”に先を越されたら盗賊稼業からは一生足を洗うつもりである。こちらの重圧 <プレッシャー> も知らず呑気なもんだ……と、彼はぶすっとした顔で二杯目の葡萄酒をあおった。その背後を、フードを被ったままの蔵馬が通り過ぎていった。

 月もなく風も静かな夜……街の中心にある巨大な城の中庭に、青々と葉をつける大木が立っていた。その枝の上に立って、城の入り口を窺っているのはあの黒鵺だった。

「…まだ来てないようだな、“蔵馬”は。」

見張りが立っているのを確認し、黒鵺は身構えた。

「先手必勝、行くか!」

たん!と枝を蹴り、彼は翼で滑空するように着地した。そのまま彼は勢いよく扉へ駆け寄り、虚を突かれた兵を軽くなぎ倒した。

「しばらく眠っててもらうぜ!」

見張りの兵士達は声を上げることもなく地面に倒れ込んだ。黒鵺は扉を見上げ、ふっと笑った。

(蔦が絡まったまま…やはり“あいつ”はまだ来てない!)

すっと右手を構えると、鋭く光る刃を持つ鎌が現れた。それを振り回し、黒鵺は蔦ごと扉を壊して侵入した。

「くそっ、今まで散々コケにしやがって。でも、今日は絶対にオレが勝つ…!」

目にも止まらぬ早業でトラップを潜り抜け、黒鵺は一目散に宝物庫を目指した。事前の下調べは万全で、宝物庫に通じる廊下なら城主よりも詳しくなっている。見張りの兵が沢山待ち構えている城よりトラップに守られたこの城のような構造の方が彼は得意だった。罠をすり抜け奥まで進んだ彼は、突如目の前に広がる透明な“壁”に気づき立ち止まった。

「…これが噂の結界壁か……でも、こんなモン合言葉さえ知ってりゃ“自動ドア”だぜ。」

黒鵺は壁に向かって両手を翳し、妖気を集中した。

「“裂破”!」

黒鵺が叫んだ瞬間、壁は強烈な光を放ち砕け散った。彼はすぐさま中に駆け入ろうとした。……が、

ヒュン!!

……突如、黒鵺の横を白い薔薇の花が掠め、足元の床に突き刺さった。

「!!」

黒鵺の足が止まった。

「待ってたよ。この壁だけどうしても開け方が分からなくて。」

突然背後からかけられた声に、黒鵺はギョッとして振り返った。

「こんばんは、同業者さん。」
「!」

…背後に立っていたのは手に茨の鞭を携えた、銀の髪の妖狐の少女だった。薄暗い地下牢に似つかわしくない目映いばかりの美貌に息を飲んだ黒鵺は、次の瞬間あることに気づいて顔色を変えた。

(銀髪の妖狐!? …まさか…)
「…お前が“蔵馬”か?」

返事こそなかったが、白薔薇によく似た少女は微笑をもってその質問に答えた。

(……オンナかよ……!!)

黒鵺は信じられないものを見るような表情でじっと少女…蔵馬を見つめていた。と、彼女がようやく口を開いた。

「…だとしたら?」
「犯す。」
「!」

不躾な言葉に蔵馬は一瞬たじろいだ表情を見せた。黒鵺は一歩踏み出すと彼女の腕を鷲掴みにし乱暴に引き寄せた。至近距離で蔵馬の顔を覗き込みながら彼は、ドスの利いた声で囁いた。

「何のつもりでオレの邪魔ばっかり繰り返してんのか、その発育過多の肉体 <からだ> に訊いてやる。」
「…こんな場所じゃ、歓迎できないな。」

少し顔を赤らめつつ、蔵馬は黒鵺の手を払い肩をすくめた。

「ただの挨拶さ。オレの実力知ってもらおうと思って。」
「“挨拶”? …宣戦布告か?」
「違う、手を組みたいんだ。」
「何だって!?」

黒鵺が叫んだ。彼は気づかなかったが蔵馬の足は緊張で少し震えていた。二年間追い掛けてやっと手に入れたこの瞬間、このチャンスだった……彼女は一つ深呼吸し、黒鵺の瞳を覗き込んで切り出した。

「…お前のこれまでの仕事、全部調べさせてもらった。」
「何だと…?」
「難しい城を次々に攻めて随分派手にやってるけど、額にしたらまだまだ大したことないよな。一人じゃ狙える獲物にも限界がある。お前だけじゃない、オレだってそうだ。だから、もっと派手にやるために組まないかと誘ってるんだ。」
「!…」

蔵馬の金の瞳が熱を帯びて黒鵺に向けられた。が、黒鵺は急に踵を返し、彼女に背を向け宝物庫の方へ走り出した。

「!! …待てよっ!」

蔵馬は慌てて彼を追い掛けた。黒鵺が鬱陶しそうに叫んだ。

「邪魔だ! ついてくんな!! 無傷で帰れるだけ有難いと思えっ!!」
「断る! “YES” の返事聞くまで帰らない!」
「やりたきゃ一人でやれ! 愉快犯に用はねーよ!!」

黒鵺が一瞬沈黙した。彼は蔵馬を振り返ることもなく、声を少し落として付け加えた。

「…オレはお前と違って、この仕事に命懸けてんだよっ!」
「!」

長い黒髪が揺れる背中を、蔵馬はまじまじと見つめた。

(…『命を懸けてる』…? 一体何の為に……)

今の自分には勿論その理由を慮る由もない。が…蔵馬は自らを奮い立たせるようにグッと拳を握り締めた。

(……理由は知らないけど、オレだってお前追い掛けて人生狂わせてるんだ! 今更後には引けない!!)

更に速度を増して駆けていく黒鵺に、蔵馬は意地で食らいついていった。なかなか遠ざかってくれない足音に、黒鵺も気になり出したのかチラリと後ろを振り返った。

(くそっ…オレの全速についてきやがる…!)

うかうかしていると宝物庫まで追い掛けられるに違いない。再び前に視線を戻し、走りながら黒鵺は考えた。

(ムカつく女だけど確かにいい腕してる……敵に回せばこの先一番厄介な相手 <ライバル> になるだろう。でも…どうやってここに入ったんだ? 見張りもいたし、扉も長い間開かれた跡はなかった。他の隠し扉でもあったのか?)

…その時だった。

ヒュン!!

「…っ…!!」

急に目前に迫った危機に、黒鵺は肝を潰した。大きな鎌のような刃のトラップが、先程まで彼の首のあった高さに横滑りして向かってきた。黒鵺は一瞬早くしゃがみ込んで難を逃れたが、刃はそのままスピードを緩めることなく彼の頭上を通過していった。

(!! …まさか…!?)
「おいお前っ!! ……あっ!!」

背後の女の運命が気になり、振り返った黒鵺は途端、驚きで眼を見張った。

「…うっ…!」

……首が飛んだのではないかと思った蔵馬は無傷のまま跪き、手にしていた茨の鞭で刃を食い止めていた。

(すげえ! あんな細い鞭で受けるなんて!! …あっ!!)

パリーン!

キリキリという不安な音を立てていた鞭は刃の威力に耐え、鎌の方が我慢し切れずに砕け散った。ふう…と息をつき、蔵馬は鞭を右手に巻き直した。黒鵺はその様子をただ驚嘆の表情で見つめていた。

(…そうか、あの茨の鞭に妖力を通わせてるんだ! この女、植物を武器化できるのか……あ!)

黒鵺はその時、あることを思い出した。長い間開かれた形跡のないように見えた、城の入口のあの扉……

(蔦は偽装 <カモフラージュ> だったのか! 見張りが来る前から入っていたんだ……!)

蔵馬が立ち上がり、呆然と自分を見つめている黒鵺に気付いて微笑んだ。

「…心配してくれたんだ。」
「!」

黒鵺の顔がさっと紅くなった。それを隠すように蔵馬に背を向け、彼は再び走り出した。

「背中で女の首が飛んだら夢見悪ィだろ!」

蔵馬の顔に微笑が浮かんだ。彼女も再び黒鵺を追って走り始めた。しばらく二人は同じ距離を保ったまま、奥へ向かって走り続けた。と…

「!!」

突然不穏な気配を察し、二人は同時に後ろへ飛び退いた。薄暗い廊下の奥へ目を凝らすと、そこから剣を手にした二十名ほどの兵士達が姿を現した。

「ここまで辿り着くとはさすがだな。待っていたぞ曲者め。」
「女連れとは随分余裕だが、まとめて捕まえてくれるわ。」
「こいつはオレの連れじゃないっ! くそ、今のうちにさっさと逃げろ!」

黒鵺が律儀に訂正し蔵馬を促した。が、彼女はムッとした顔でそれを拒否した。

「ナメるなよ、オレも戦うさ!」
「何だと!?」
「覚悟しろっ!! …ぐわっ!!」

先程まで空だった黒鵺の手にはいつの間にやら鎌が握られていた。一瞬のうちに敵は斬られて後ろに倒れた。しかし黒鵺はそちらには見向きもせず、蔵馬に向かって悪態をついた。

「勝手にしろ! オレも可愛くねーオンナ守る義務はないからなっ!」
「何だって!?」
「覚悟しろ曲者がっ!!」
「…うるさいっ!」

間に割って入ってきた兵士達を、蔵馬と黒鵺が同時になぎ倒した。二人に襲い掛かる兵が次々に倒れて山を作り、無事な兵は策もないままがむしゃらに二人に飛び掛かった。

「死ねぇコソ泥!!」
「くそっ、まだ動けんのか!」
「邪魔なんだよっ…!!」

黒鵺と蔵馬が、同時に武器を繰り出した。

「!!……」

…その時、“信じられないこと”が起きた。黒鵺の鎌と蔵馬の鞭、二人の攻撃がぴたりと重なり、空気を激しく震わせて大きな波動を作り出した。

(エッ……?)
(…何だ…!?)

波動は唸りを上げ、生命が宿った“龍”か何かのように敵に襲い掛かった。そのまま波動は兵と廊下の石壁を一瞬のうちに飲み込み砕け散った。

「……!!……」
(今……何が起きた……!?)

二人は信じられないような表情でその光景を眺め、その後互いの顔を見つめ合った。

「くそおっ!! よくも……!!」

何とか足腰の立つ兵達が体制を立て直し、黒鵺と蔵馬に飛び掛かった。二人は互いの武器を振り回し、敵を次々になぎ倒していった。彼等の操る武器は宙で微妙に絡み合い、よく練られた舞のように完璧なコンビネーションを見せた。

(凄い……何でこんなに息が合うんだ!?)
(オレがこいつに合わせてるんじゃない。でも…こいつがオレに合わせてる訳でもない……!)

戦闘が長引くほどに同調 <シンクロ> する感覚が深まっていく。二人の顔は今まで体験したことのないような興奮で輝いていた。とうとう目の前の兵士は二人になってしまった。黒鵺と蔵馬は武器を構え直し、それぞれの技をもって最後の敵を蹴散らした。

(……すっげぇ……)
(……快っ感……!!)

すっかり廃墟となってしまった廊下で武器を引き、二人は自然と顔を見合わせた。黒鵺がニッと笑った。

「行くぜ!」
「ああ!」

蔵馬が頷いた。二人は宝物庫を目指し、更に奥へと駆け出した。

 月影はないがそのためか満天の星がいつもより美しく瞬いている。夜行生物が徘徊する森の中の小さな野原に、二つの人影が飛び込んできた。木々の間を渡ってきた人影は地面に降り立ち、ふーっと大きな息を吐いた。それは、たった今桂花殿を脱出してきたばかりの黒鵺と蔵馬だった。

「……」
「……ふっ……」

自然と視線を交わし、二人の顔が緩んだ。

「…あーっはっはっはっはっ…!!」
「ははははははっ……!!」

豪快に笑い出し、二人は地面にドサッと腰を下ろした。黒鵺が傍らの蔵馬を振り返った。

「おいお前、欲の皮突っ張りすぎじゃねーの!?」
「そっちこそ、もっと手加減してやれよ!」

蔵馬も応戦した。軽口を叩き合う二人の両手には山のような財宝が抱えられていた。二人は目配せし、それを一斉に目の前に投げ出した。ジャラジャラという音と共に、金銀宝石が星の光を集め目映く輝いた。

「大収穫ー!!」
「あんなボロい城にこれだけ隠してあったなんて!!」

蔵馬は早速、かっぱらってきた宝石箱を開けた。人間界でも馴染みの深いダイヤモンドやルビーの他、魔界の特定の地域でしか産出しない希少価値の高い鉱石まで、宝石好きの彼女は一つ一つの石を丁寧につまみ上げ賞賛の溜息をついた。しばらくの鑑賞タイムの後ふと隣を振り返ると、黒鵺は財宝には目もくれず、何故宝物庫の中にあったのか不可解なほどのボロボロの巻物を開いている最中だった。

「何それ?」

蔵馬に問われ、黒鵺はそれを彼女に放り投げた。受け取った蔵馬はさっと目を通した。巻物の頭から終わりまでギッシリと書き込まれているのは見たこともない記号の羅列……

「…暗号!?」
「魔界九層北東部の蒼龍城、そこに魔界史一の悪女・蒼龍妃の隠し財宝が眠っている……って伝説、知ってる?」
「!」

蔵馬はぽかんと黒鵺を見つめた。はっとして彼女は巻物と彼の顔を交互に見比べた。

(まさか、最初からこれが目的で…!?)

蒼龍城は約九千年前に栄華を極めた旧家・蒼龍一族の本丸であり、現在はその後権力の座に就いた他の一族が乗っ取る形で支配している、“不落城”の異名を持つ鉄壁の城砦だった。何処かに侵入経路を記した古文書が眠っているという情報は蔵馬も掴んでいたが、今の自分では攻めることなど考えられもしない“ハイレベル”な標的だった。

(かなわない…黒鵺はここよりずっと上を見ていたんだ。)

黒鵺を追い掛けるのが目的……そう思っていた自分と彼のスケールはあまりに違うような気がして、蔵馬は頭を振った。くるくると巻物を元に戻し、彼女は溜息を添えてそれを返した。受け取った黒鵺はクスクス笑っていた。

「さっきの城よりもっと面白い物が色々あると思うんだけど…お前も一緒に来ない?」
「…えっ!?」
「オレ達二人が組めば、もっと高いとこ目指せるんだろ?」
「……!!」

蔵馬の顔が驚きで紅くなった。黒鵺のアメジストのような瞳が微笑を湛えて彼女を見つめていた。

(……ああ、偶然じゃなかった。)

不意に、蔵馬の脳裏に二年前の、故郷での出逢いの光景が蘇った。

(…あの日あの花苑で出逢ったことも、あんなに強く惹かれたのも……すべてがきっと運命だった。)

彼女の想いにこそ気づかなかったが、黒鵺もまた彼女と今夜出逢ったことを何かの定めと感じていた。

(探して見つかるもんじゃない。オレの為に生まれてきたような、たった一人の相棒 <パートナー>……オレ達二人は、同じ呼吸を持ってる!)

この瞬間、蔵馬と黒鵺は偶然にも同じ想いを抱いていた。強く強く、胸騒ぎのする不思議な興奮……

(……“運命の出逢い”って本当にあるんだ……!!)

心臓の高鳴りが収まらない。“自分達は今こうして出逢うために生まれてきたのではないか”……何故かそんな突飛な思いつきを信じられるほどに、今夜の出逢いは二人にとって特別なものに感じられた……。

……気がつけばすっかり風も冷えてきたようだ。黒鵺がすっと蔵馬に右手を差し出した。

「これから宜しくな。」
「ん……宜しく。」

蔵馬が微笑し、差し出された手を握り返した。握手の温かさに二人は自然と笑顔になった。そっと手を離し、黒鵺は立ち上がって財宝を一つずつ拾い上げ始めた。

「じゃあまずはオレのアジトで祝杯挙げよっか。この前彪炎宮に入った時、年代物の葡萄酒かっぱらってきたんだ。」
「いいね、紅と白どっちが好き?」
「勿論、紅!」
「あ、オレも!」

ぱっと蔵馬の顔が輝いた。二人は顔を見合わせ頷き合い、自然とハイタッチを交わした。

こんな感じの夜は まるで初めてだけど
きっと次の光に 引き寄せられるだろう いつしか訪れるそのキミへ

新しい時が 始まろうとしてる 胸騒ぎのする 今夜は
つかまえてみよう 何も嘘じゃない キミの想い描く キミを越えた場所で

今 そのドア開けて そっと そっと
ここから始まるのさ  今
“Time Has Come” – LUNA SEA

【完】

第1章 想

content.php

“十年一昔”とは言うけれど、その調子で行けば一体どれほどの昔になるのだろう。目をつぶれば、遠い遠い記憶が蘇る。今ではもう、夢に見ることもなくなった故郷。いつの日か、思い出すことさえ難しくなった幼い頃の想い出。

……記憶の海に沈んだ過去を引き上げる……

「蔵馬! おーい蔵馬!」

金の髪をした青年の妖狐が、甘い香りの漂う花苑に踏み込んだ。青年が呼んでいるのは、この花苑の主……この世に生を受けてまだ十数年足らず。しかし、誰もを惹き付けずにはおかない類い希な銀の美貌と、植物と意の通う特別な力を持った少女の名前。尋ね人は、樹の上に佇んでいた。

「ああ蔵馬、長老がお呼びだ!」
「分かった、今すぐ行く。」

青年の呼び掛けに応じ、少女はひらりと飛び降りた。軽やかな身のこなしを見送りながら、青年は気の毒そうに呟いた。

「…大変だよなぁ、あんな綺麗に育っちまうと周りの男が自由を束縛してしまう。」

今からおよそ千と百年前。まだ人間界と魔界との間に境界が存在しなかった時代。齢十五の蔵馬は、魔界三層北東部にある小さな集落で暮らしていた。狐が変化して妖 <あやかし> となった妖狐が魔界や人間界の至る所から流れ着いて自然発生した小さな地域社会 <コミュニティ>。

蔵馬は妖狐の両親から生まれた、生来の妖怪だった。そのためか植物と意志を通じる特殊能力を持ち、両親亡き後は里の長老直々に育てられた。やがて十三になった彼女は、里の薬草苑の番人を任されるようになった。仕事は樹木の育成と、貴重な植物を奪いに来る侵入者との闘い……当時の彼女は、外の世界を知らない少女だった。

花苑を後にした蔵馬は、集落の中央にある白い石造りの大きな建物の中に足を踏み入れた。そこは、里を統べる長老が暮らす館だった。その建物の威厳に臆することなく、彼女はずんずんと中へ歩みを進めた。やがて彼女は、畳の敷き詰められた広い部屋へと辿り着いた。

「お呼びですか、長老?」
「ああ来たか蔵馬。」

御簾の隙から豪奢な金の髪を誇る美貌の青年が、笑顔で蔵馬を出迎えた。うら若く見えるこの絶世の美青年が既に四千年を生きる里一番の長老とは、とても信じがたい話だった。長老は少し申し訳なさそうに切り出した。

「…またお前が気を悪くする話で済まないのだが、隣村の領主がお前を嫁に迎えたいと言って寄越してきてな。」

その言葉を聞いた蔵馬が途端に不快の表情を浮かべた。

「またですか? 前に申し上げた通り、まだそのようなお話をお受けする気はありません。」
「そういきなり断られると私の立つ瀬がないのだよ。一度会って、話だけでも聞いてくれないか。」
「私はまだ十五です。家に収まる前にやりたいことは沢山あります。」
「そう言うものではない。領主夫人となれば今よりずっといい暮らしもできる。優しい夫と沢山の子供に囲まれて生きるのが女として一番の幸せだぞ。」
「人から与えられた幸福で生涯を終えるくらいなら、自分で選んだ過ちで死ぬ方がマシです!」
「お前はまだ幼いからそんな生意気なことを考えられるのだ。私の言う通りにすれば間違いはない。」
「いくら親代わりの長老のお言葉でもそればかりは聞けません! 失礼します!!」
「蔵馬!」

長老の呼び止めも聞かず、蔵馬はくるりと踵を返し、あっという間に館を飛び出した。人一倍気性の激しい彼女は、何度も持ち込まれる縁談とその度に繰り返される説教に我慢が出来なかった。そして、それ以上にこの縁談の裏に見え隠れする真の理由が納得出来ずにいた。

(長老の魂胆は分かっている。近隣の有力者に私を嫁がせ、勢力を拡大していくのが目的……身寄りのない私なら、政略結婚の餌食になっても誰も困らないから。)

彼女も長老が自分に目をかけて育ててくれたことは感謝していた。が、いつしか彼女は彼が本当は、自分を間者 <スパイ> に育てようとしていたことを気づいてしまった。「所詮自分は“道具”にすぎない」……その状態が歯痒くて仕方ないのに、彼女はその状況をどう打破していいのか見当もつかなかった。

(……私は……いつまでこの箱庭に閉じ込められているのだろう……。)

花苑に逃げ込むように辿り着き、木々の間に座って空を見上げてみる。雲がかかった、ぼんやりとした空。それはまるで彼女の心をそのまま写しているようだった……と、その時。

「よお蔵馬。」

急に足元から声がして、蔵馬は声の方向へ顔を向けた。そこに、頭に角を生やした黒髪の少年が立っていた。

「黄泉!」

将来蔵馬と共に盗賊団を組むことになる黄泉は当時、妖狐の里の隣にある食人鬼の集落に住む少年だった。二つの里は友好関係にあり、蔵馬と彼は一緒に教育や戦闘訓練を受けた“幼馴染み”だった。

「おっかない顔してたぜ、何かあったのか?」
「…うん、ちょっと。」
「まさか…また縁談か?」
「御名答。」
「またかよ! ったくあのジジィ、ちったぁ蔵馬の気持ちも考えろってんだ。」

黄泉は怒りを露わに叫んだ。蔵馬の顔が曇った。黄泉はしばらく妖狐の里の長老へ向かい悪態をついていたが、ふと我に返って急に話題を変えた。

「…と、悪ィ。話があって来たんだった。実はさ、オレ…里を出るつもりなんだ。オレは、盗賊になる。」
「盗賊!?」

突飛な話に蔵馬が驚いて聞き返した。彼女は黄泉の言葉を非難するかのように眉をひそめていた。黄泉がそれに気づき笑って答えた。

「花守のお前にはいいイメージないかもしれないけど、この世で富と名声を一度に手に入れる一番手っ取り早い方法は盗賊だぜ。それに盗賊にも色々いる。いいヤツも悪いヤツも。」
「…一人でやる気?」
「いや、村から数人連れて行くつもりだ。盗賊団の形の方が大きな仕事をやりやすいしな。」

黄泉はそう言って、急に真顔になった。

「…なあ蔵馬、オレ絶対有名になってやるからよ、いつか迎えに来るからそしたらオレと……」
「え?」

ふと黄泉の言葉が途切れた。蔵馬が聞き返した。黄泉の顔が急に真っ赤に染まった。

「…何でもない! じゃあなっ!」
「ちょっと、待ってよ!」

蔵馬の呼び止める声も聞かず、黄泉は言葉の続きも言わぬまま慌てて逃げるように立ち去った。蔵馬は呆気にとられたまま彼を見送ったが、その顔が見る見るうちに曇ってしまった。

「……どうせなら、私も連れてってよ……。」

今はもういない黄泉に向け、蔵馬は小さく呟いた。思わず自分の身体を抱き締めながら彼女は空を見つめた。その目にふと、宙を舞う一羽の白い鳥が飛び込んできた。鳥は花苑の上を旋回し、ふいと遠くへ飛び去っていった。蔵馬はしばらく鳥の去った方角を見つめていた。その顔に、愁いの表情が浮かんだ。

(…繋がれているのは私だけ…。私はこの鎖の断ち切り方も知らない。)

 それから間もなく、宣言通り黄泉は里を出て行った。妖狐の里では近く戦が始まるとの噂があり、兵になるよりはと彼についていった若者は想像以上に多かった。…そして一年が過ぎた頃。

妖狐の里と食人鬼の里を繋ぐ道の途中、食人鬼と妖狐が数人、立ち話を交わしていた。

「黄泉の盗賊団がまたやったぞ。今度は西の街の金貸しの家を襲ったらしい。」
「里の恥晒しが…まさか若い者達が揃いも揃って盗賊に堕ちるとはな。」
「そちらの里で八名、こちらの里で七名……兵役逃れとはいえ、一体何を考えているのやら。」

口にするのも汚らわしいといった様子で黄泉の噂を囁き合う男達の横を、銀の髪を持つ少女が通り過ぎた。十六になり、急に大人びた蔵馬の姿を見て男達は話題の矛先を変えた。

「…そういえば蔵馬の縁談の話はどうなったのだ?」
「引く手数多だからすぐ決まるだろうさ。長老は隣村の若領主に嫁がせるつもりでいるらしい。」
「里一番の器量よしを余所のヤツに奪られるのか。口惜しいもんだな。」
「全くだ。」

男達は本人に聞こえないように囁いていたつもりだろうが、一流の戦闘訓練を受けていた蔵馬の耳にはしっかりと届いていた。顔を曇らせた彼女は歩みを早め、逃げるようにその場を後にした。男達の姿が見えなくなった頃、彼女は茂みに潜む何かの気配を察知した。と…

「シーッ! オレだ。」
「……黄泉……!」

たった今噂に上っていた黄泉が、茂みからひょっこり顔をのぞかせていた。……蔵馬は黄泉を花々咲き乱れる薬草苑へ導き、中に設置されている見張り用の小屋の中へ案内した。

「ここなら誰も来ないから。」
「悪ぃな、助かるぜ。」
「何かあったの?」
「バーカ、お前の顔を見に来たんだよ。」

笑いながら黄泉はそう答えた。少し逞しくなった…と、蔵馬は思った。その黄泉が急に声を高くした。

「おっ…しばらく会わねえうちに随分成長したんじゃねぇの?」

怪訝に思って黄泉の顔を見ると、彼の視線は白魔装束から零れんばかりの自分の胸元に注がれている……蔵馬は一つ溜息をつき、冷静に切り返した。

「そっちは成長しすぎてオヤジ化したみたいね。」
(相変わらずキツい女…。)

口では蔵馬に勝てないと、黄泉は幼い頃から思い知っていた。

「“活躍”ぶりは聞いてるよ。派手にやってるじゃない。」
「まーな。懸賞金も上がったんだぜ。懸賞金の額は盗賊のステータスだからな。」
「あまり無茶しないでよ。」
「大丈夫、オレ達なんてまだまだザコだから。この辺で今一番すげえヤツは、その首に一億がかかってる。」
「一億!?」
「ああ。」

信じられないという様子の蔵馬に、黄泉は溜息混じりにその“すげえヤツ”の名を語った。

「お前、黒鵺…って知ってるか?」

……黒鵺……そう、将来蔵馬にとって掛け替えのない存在となるその夢魔の名前を、彼女が初めて耳にした瞬間だった。

「…“くろぬえ”…?」
「三年位前から魔界の上層部を中心に活動してる盗賊だ。一人 <ピン> でやってんだけど、黒狼城や水妖殿を陥落 <おと> して逃げおおせてる凄腕らしい。」
「! …どんなヤツなの?」
「まだ人相書きは出回ってないが、噂によれば黒髪で背中に蝙蝠の翼を持っているらしい。」
「黒髪に蝙蝠の翼……夢魔 <ナイトメア> だね。」

夢魔は妖狐や氷女と並び、姿形の美しい種族として知られている。実際目にしたことはないが、夢魔は一様に白い肌、黒髪、紫の瞳に蝙蝠の翼という特徴を備えているということを、蔵馬は知識として知っていた。……黄泉は蔵馬の反応を確かめるように、彼女の顔を覗き込みながら話を続けた。

「そして、これがショックなんだが……まだオレ達と同じくらいのガキだそうだ。」
「えっ…!?」

まだ生まれて十数年そこらの“子供”が、難攻不落と謳われた城郭を次々に破っている……その事実に蔵馬は言葉を失った。その時だった。

「蔵馬いるか! 長老がお呼びだぞ!」

自分を呼ぶ仲間の声で蔵馬は我に返った。黄泉が立ち上がった。

「…んじゃオレも行くわ。しばらくこの辺で暴れる予定だし、また来るぜ。」
「うん、気をつけてね。」
「ああ。お前も…まだ結婚なんてすんじゃねーぞ! じゃあな!」

黄泉の言葉に蔵馬は力なく笑った。彼を見送り、蔵馬は花苑の外へ歩き出した。

(…それにしても長老の御用って、まさかまた例の縁談?)
「…あ!」

ある事実に気づき、彼女は思い出したように花苑を振り返った。

「違う、そういえば今夜は大名月だったわ…。」

 夜になり、蔵馬は一人、薬草苑に座り込んでいた。空には大きな銀の満月が輝き、眠る花々を蒼白く染め上げていた。

『なあ蔵馬、街へ遊びに行こうぜ!』
『今夜は月も綺麗だし、物言わぬ植物よりオレ達に構ってくれよ。』
『悪いけど満月だからこそ付き合えないよ。植物が月の魔力を吸って生長する大事な夜だから。』

男達の誘いをサラリとかわし、蔵馬は今、大切な用事のために花苑を訪れていた。

(そう…この夜を狙って来る賊も多いからね。)

昼間、自分を呼び出した長老が念を押した。

『今夜は一年で最も月の魔力が満ちる大名月だ。薬草苑を頼むぞ。』
(勿論…絶対に守り切ってみせる。)

蔵馬にとってこの薬草苑は里の財産というだけでなく、自分の大切な庭だった。「余所者に荒らされるわけにはいかない」…蔵馬の握り締めた拳に自然と力が入った。

その時、花苑の奥で芝を踏む物音が聞こえた。

「誰だっ!!」

蔵馬は茨の鞭を構え、気配の方向へ走り寄った。

「!!…」

視線の先に醜悪な妖怪が五匹突っ立っているのを見つけ、蔵馬は身構えた。男達がこちらに気づき笑い出した。

「何だぁ? 妖狐の薬草苑の番人は女かよ。」
「へへへっ、オレ達もナメられたもんだなぁ。」
「…早速お出ましってわけか。盗れるものなら盗ってみなっ!!」

賊の言葉には耳も貸さず、蔵馬は鞭を一閃した。賊のうち四人は先制攻撃をかわしたが、一人が避け切れず斬られた。

「ぎゃあぁっ!!」
「次、来い!」
「このアマっ…!!」

仲間をやられ、次は二人が同時に蔵馬に襲い掛かった。蔵馬は何とか防戦したが、想像以上の苦戦に表情を歪めた。

(ちっ…こいつら結構強い!)

何とか一人倒し、蔵馬は残った一人に対峙した。と、脇で眺めていた男の一人が割り込んできた。

「くっ…!」

防戦一方の彼女を、賊がせせら笑った。

「へっへっ、さっきの威勢はどうした!」
「手加減してやれよ、折角の上玉だ。後でたっぷり遊んでやろうぜ。」

戦闘に加わっていない一人がニヤニヤと皺だらけの醜い笑顔を浮かべた。

「ナメるなあっ!!」
「ギャアッ!」

鞭を一閃し、蔵馬はやっとの思いで一人を倒した。が……安堵の息をついた一瞬の隙に、いきなり何かに身体を締め上げられた。それは、只一人残って高見の見物を決め込んでいた男が背後から投げた縄だった。

「!!」
「残念だったな、キツネちゃんよぉ!」

縄をかけた男はぐっと力をかけ、蔵馬を引き倒した。

「きゃあっ!! ……あっ……!」

バランスを失い地面に倒れた蔵馬の元に男達が近づいてきた。暴れる蔵馬を眺めながら、男達は下劣な笑いを浮かべていた。

「…ぐっ…! 触るなっ…!!」
「もがいても無駄だぜ、オレの結界縄は女の腕じゃ千切れねぇ。」
「散々てこずらせやがって。さあ、可愛がってやるぜ。うへへへ……」
「いやあぁっ…!!」

醜い男達が手を伸ばした。その手が胸の辺りに触れ、蔵馬は金切り声を上げた。その時だった。

…ヒュン!

虚空から飛んできた何かが空気を一閃し、蔵馬の自由を奪っていた縄を彼女の肌すれすれで切り裂いた。

ドスッ!!

賊達は慌てて手を引っこめた。鈍い音を立てて地面に突き刺さったのは、白銀に輝く鎌の刃だった。

「誰だっ!?」

男達が振り返った。蔵馬も、突然差し伸べられた救いの手に驚いて顔を上げた。

「…ふー…これだからダセぇ面 <ツラ> は困るよな。正攻法じゃ女がオチないからこんな情けねーマネしたがる。」
「!!…」

蔵馬は驚いて自由になったばかりの体を起こし、眼を見張った。聞こえてきた声はまだ年端も行かぬ少年の物…白霊木の大樹から月の光を背にして飛び降りてきたのは、背中に黒い翼を持つ黒髪の美少年だった。

「何だぁこのガキ!? 邪魔しやがって!!」
「構わねぇ、殺っちまえ!!」

男達が飛び掛かった。少年はそれをヒラリとかわし、空へ舞い上がった。蔵馬は少年の素速い身のこなしに目を見張った。

(飛んだ…!)
「遅ぇ! 雑魚じゃあオレは倒せないぜ?」
「ぐっ…!」

宙で羽ばたき一点で制止した少年の手に、いつの間にやら新しい鎌が握られていた。少年がそれを投げつけ、正確なコントロールで男達の武器を切り裂いた。

「!!」
「くそっ!!」

賊は慌てて懐から別の刀を出した。と、その手が背後から迫ってきた茨の鞭で締め上げられた。

「忘れるな、お前らの相手は私 <あたし> だっ!!」
「ぐっ…」

少年と蔵馬に挟まれた男達は、目配せして武器を棄てた。蔵馬がその様子に鞭の縛りを解いた。

「くそっ、覚えてやがれっ!!」

捨て台詞を残し、賊達は一目散に逃げ去っていった。危機を脱し蔵馬はようやく息をついた。顔を上げると少年と目が合った。

「……助けてくれて、ありがと……。」
「怪我はないか?」
「え? ……うん……」

少年が微笑んだ。……彼は、蔵馬が今までに見たことのないような端正な顔をしていた。月灯りでもはっきり分かる白い肌、艶めく長い黒髪、切れ長の瞳……思わず見とれた蔵馬は、次第に自分の頬が熱くなるのを感じた。彼女がじっと見つめているのに気づかない様子で、少年は転がっていた鎌を拾い上げた。彼の手の中で鎌は姿を消してしまった。

「アイツら結構強かったもんな。でもあれくらいの盗賊は世の中にゴロゴロいる。見張り増やした方がいいぜ。じゃあな。」
「えっ!? あっ、ちょっと待って…!!」

蔵馬に何も言わせぬまま、少年は地面を蹴り空へ舞い上がった。

「……消えた……。」

自分を救った時と変わらぬ素速さで姿を消した少年を、蔵馬は呆然と見送った。

(…誰だったんだろう…。)

幻でも見ているようだった……夢現を彷徨うような顔をしながら、蔵馬は立ち上がった。何気なく少年の現れた方角へ歩き出した蔵馬は直後、悪夢のような事態に気がついた。

「…あっ……!!」

蔵馬は異変に慌て、花壇に走り寄った。

「月想花が…消えてる……!!」

……月想花は魔界仙人掌科の薬用植物であり、年に一度、大名月の夜に一株につき一輪のみ花をつける性質を持つ。魔界の特定の地域で五十年毎に大流行する壊腐病の特効薬として、月想花はとても貴重な植物だった。が、その一方、白銀に輝く美しい大輪の花と得も言われぬ芳香を持つこの花は、平時は収集家の間で高値で取り引きされる観葉植物でもあった。

先程見回った際は確かに咲いていた月想花は今、茎と葉を残して折り取られていた。

「まさか今の小競り合いの間に……違う、妖気を感じたのはさっきの盗賊五人と彼一人だけ……あ!!」

蔵馬はハッとして思わず叫んだ。

「あいつだっ!! ……あの男だっ……!!」

彼女の脳裏に浮かんだのは、自分を助けてくれたあの黒髪の少年……先に入っていた賊は明らかに花苑の奥の方から侵入していて、入口に近い月想花に近づく余裕はなかった。それに気づいた蔵馬の顔面から血の気が引いた。

「あの男っ……親切なフリして何てヤツ……!!」

あまりの出来事に、蔵馬はその場にへたり込んでしまった。が……

(……あいつ……格好良かった……。)

少年の笑顔がふと脳裏に蘇り、彼女は思わず瞳を閉じた。

(自分も泥棒のクセに……何で花守の私を助けたの?)

鮮やかな手際に、悔しさよりも賞賛の思いの方が強かった。目を開くと、少年が拾い忘れた鎌が目に飛び込んできた。そっと近寄り、蔵馬は拾い上げて刃に指を沿わせてみた。その鎌は、自分の身体を締め上げていた縄を切り裂いたあの救いの一手だった。

「……完敗だわ……。」

小さく呟き、蔵馬は微笑んだ。

 翌日。蔵馬は長老の館で、村の有力者達が集う目の前に決まり悪そうに立っていた。一同は蔵馬の報告を聞き、お咎めではなく大笑いを始めた。

「あーはっはっは!! 花苑の番人もとうとう花泥棒にやられたかっ!!」
「笑わないで下さいっ!! …一応、責任感じているんですから。」
「済まん済まん。しかし危ないところだったな。その男が来なければお前は今頃どんな目に遭っていたか。」
「ええ…確かにその点では感謝しますけど…。」

蔵馬は口ごもった。と、蔵馬の報告に只一人静かに聞き入っていた長老が、口を開いた。

「一つ気になることがある。」

皆が振り返った。

「先程私も薬草苑へ足を運んだのだが、根から持ち去ったのではなく花だけ摘み取られていた。あの手折り方はどう見ても月想花の価値を知る者の行為ではない。」
「…!」
「と言いますと?」
「恐らく、通りすがりの気紛れで行ったことだろう。」
「“通りすがり”?」

その言葉に一人の妖狐がハッとして顔を上げた。彼は、里の若者達の教育を担う責任者だった。

「まさか…!!」
「何かあったのですか?」
「今朝騒ぎになっていたのですが、昨夜……隣村の領主宅に盗賊が侵入したそうです。」
「何だと!?」
(…隣村の領主…!?)

自分の結婚相手にされかけている男の呼称を口にされ、蔵馬の顔が引きつった。それを長老が冷ややかに見つめた。教育長は話を続けた。

「しかも、侵入したのはあの噂の盗賊・夢魔黒鵺だとか。」
「!!…」
「黒鵺だと!?」

妖狐達の間に緊張が走った。蔵馬も心当たりを思い出した。

(…まさか、黄泉が昨日言っていた凄腕の盗賊…!?)

少年の姿を思い浮かべ、蔵馬は黄泉の話を一つ一つ検証した。言われてみると少年の特徴は全て、黄泉の語った人相と一致していた。

「蔵馬…お前、何もなかったか。」

長老が不意に蔵馬に言葉を向けた。

「はっ…エ?」
「例えば、犯されたとか。」
「!!」

突拍子もない長老の言葉に、蔵馬の顔がみるみる朱に染まった。

「あっ…ありませんっ!! そんなこと…!!」
「運が良かったな。黒鵺の顔を見た者は男なら容赦なく命を奪われ、女なら犯され妖気を吸い取られた後に嬲り殺しに遭うそうだ。」
「!…」

蔵馬の顔が引きつった。一人の妖狐が長老に尋ねた。

「…ではなぜ蔵馬は助かったのでしょうね。」
「隣村の追手が来るのを恐れて逃げたのだろう。」
「でも、それならなぜ私を助けて…」
「お前を襲うつもりが予想以上に時間がかかって諦めたのだ。その腹いせに花を持ち去ったのだろうな。」
「そんなバカなっ…」

釈然とせず、蔵馬は異議を口にした。それを黙殺し、里の有力者達は互いの顔を見合わせた

「しかしまさか黒鵺がこんなところにまで来るとは…恐ろしいことだ。」
「今夜から花苑の見張りは男に任せ、人数も増やそう。蔵馬、お前は植物の育成にのみ専念してもらう。嫁入り前の大事な体だからな。」
「!…」

蔵馬の顔が一瞬怒りに染まった。長老はそれを無視し、更に冷や水を浴びせるような話を始めた。

「…そうだ蔵馬、昨日黄泉がお前を訪ねてきたようだな。」
「えっ…」
「今後あの者と関わることは禁ずる。盗賊に落ちぶれた者が里に立ち入ることは断じて許さぬ。」
「……!!」

幼馴染みを“恥曝し”と扱われたことに、蔵馬の顔は怒りで蒼白になった。

「…失礼しますっ!!」
「蔵馬!!」

背後から制止する声を無視し、蔵馬はその場を走り去った。大樹の下まで全速で走って辿り着き、蔵馬は幹にぐっと両手をついた。

「…ふざけるなっ…!!」

怒りに肩を振るわせ、彼女は叫んだ。その時、不意に彼女の背後から女の笑う声が聞こえてきた。

「うっそぉ!? それホント!?」
「ホントホント!! 昨日の昼間、黒鵺に会ったのよ私!!」

道の向こうを歩いていたのは蔵馬と同じ年頃の妖狐の少女達だった。“黒鵺”の名に蔵馬は思わず聞き耳を立てた。

「井戸の水汲み手伝ってくれたの!! でねでね、ちょっと話したんだけど『妖狐の女のコは皆美人でオレ好みだなー』だって!」
「きゃーっ!!」

少女達が一斉に色めき立った。無邪気な噂話に蔵馬の顔にもふっと笑みが零れた。

(…長老の話と本物の黒鵺は大違い……ま、噂話に尾ヒレがつくのは世の常だけど。)

……小さな部屋に戻り、蔵馬は寝床に倒れ込んだ。枕を引き寄せ、彼女はそれをぎゅっと抱き締めた。

(…でも……カッコつけすぎだよ、黒鵺。)

 数日後の夜……しんと静まり返った部屋で、蔵馬は一人灯りもつけずに座り込んでいた。何に心を囚われているのか、彼女はとても虚ろな表情だった。不意に、窓に何かが当たる音がして彼女は怯えたように顔を上げた。怖々近づくと、窓の外に黄泉が立っていた。ホッとした顔で蔵馬は窓を開けた。

「…見つかったら危ないよ。」
「バカ、お前が心配で来たんだろーが。」

黄泉は窓を乗り越え、室内に飛び降りた。

「花守をクビになったそうじゃねえか。」
「…それだけじゃないよ。」

元座っていた場所に戻った蔵馬の顔が途端に悲しそうに曇った。

「長老に隣村の領主との結婚を決められた…次の新月の夜に祝言だって。」
「なっ…十日後!?」
「ひどいよね。私一体何なのって感じ。」

黄泉は呆然と蔵馬を見つめた。しばらく彼は無言のまま立ち尽くしていたが、蔵馬がふっと顔を伏せたのを見て何かを決意したように拳をぐっと握り締めた。

「蔵馬……オレと一緒に来ないか。」

名を呼ばれ、蔵馬は顔を上げた。黄泉の様子はいつもと違っていた……唇は震え、表情は厳しいほどに強張っていた。

「本当はもうちっと後に、もっと強くなってから言うつもりだったけど、こうなりゃなりふり構ってられねえ。」

蔵馬は黄泉の只ならぬ気配に怪訝な表情をした。目の前の幼馴染みは、彼女が今まで見たこともないほど真剣な眼差しだった。

「……ガキの頃からずっと、何一つ自分の自由にならないお前が見てて可哀想だった。絶対この里から連れ出してやるって…そう思ってたよ。一緒に行こうぜ。女のお前に盗賊暮らしは厳しいかもしれねえけど…オレが守るから…!」

蔵馬は呆気に取られ、早口で何とか最後まで言い終えた黄泉を見つめた。彼の言葉は明らかな“告白”だった……彼女はしばらく言葉を忘れていたが、返事もしないままふっと顔を伏せ、小さな声で呟いた。

「…貴方とこの前会った日の夜、黒鵺に会ったの。」
「えっ? …何だって!? 黒鵺っ!?」
「花を奪いに来た盗賊達から私を助けてくれたの。」
「!」

黄泉の顔が驚きで色を失った。蔵馬はふらりと立ち上がり、窓枠にもたれるように手をかけた。その眼は遠く、欠けゆく月を見つめていた。

「…極悪非道の盗賊と聞いたけど、誰がそんな噂立てたんだろ。本物の黒鵺は綺麗な眼をしてた……強くて、とても優しかった。」
「!」

黄泉の顔色がさっと蒼くなった。

「…まさかお前、黒鵺のことっ……」
「彼のことが頭を離れない。もう一度会いたい。その為になら何だってする。今の私を全部棄ててでも、彼にもう一度会いたいの……。」
「ばっ…バカかお前!? 行きずりの盗賊に本気 <マジ> になってんじゃねぇだろうな!?」

黄泉は手を伸ばし、ぐっと蔵馬の肩を掴んだ。蔵馬は虚ろな表情のまま黄泉を見つめ返した。視線を逸らし、彼女は黄泉の手を振り払った。

「…そうかもね。こんな気持ちになったの初めてだから、よく分からないけど。」
「……!!」

言葉も出ないでいる黄泉をちらりと振り返り、蔵馬は微笑んだ。

(…うっ……!)

黄泉はハッとしてその顔を見つめた。これまで彼女が見せたどの表情より、今の微笑が美しいと思った。しかし……彼女を美しくしたのは、自分ではない男へ寄せる恋心なのだろうか……。

「……黄泉…有難う、嬉しいよ。一年前ならきっと私、貴方について行った。」
「!」
「でも……黒鵺を見て気づいたの。人に流されるだけじゃあんな風にはなれないって。私もっと強くなりたい。自分の運命は自分で決めたいの。」

窓から射し込む月灯りが蔵馬の銀の髪の毛を照らした。冴え冴えとした光沢が触れれば切れる刃を思わせ、黄泉は戦慄を覚えた。いつの間に蔵馬はこんな強さを手に入れたのだろう……一年前は何処か頼りなく思えた少女が、今ではしなやかな強靱さをもって自分を威圧していた。

「…ねえ黄泉、私、この里を出ようと思うの。」
「な…何だって!?」

黄泉は慌てた。

「一人で行く気か!? バカ、やめろよっ!! お前…夢魔がどんな妖怪か知っているのか!?」

その言葉に蔵馬の表情が動いた。黄泉は激しい剣幕でまくし立てた。

「大人になった夢魔は自分で妖気を作ることが出来ない。だから他人から SEX で妖気を吸い取るんだ。だけど、そのせいで奴等は誰かにマジになって惚れることは絶対ない! お前がいくら黒鵺を想っても……お前が傷つくだけだ!」

蔵馬は表情一つ動かさず、ただ黙って黄泉の話を聞いていた。瞼を伏せ、蔵馬は微笑を交えて口を開いた。

「……勿論、知ってるよ。私は別に、彼の恋人になりたいわけじゃないの。ただ……会いたいの。会って、私が彼に勇気を貰ったこと……自分の運命は自分で切り開くって決意できたことを伝えたいの。『有難う』って、一言そう言いたいだけ。」
「!」
「勿論彼は目標だよ。だからこそ、再会するならその時は今の私じゃなくて、自分一人の力で歩いている自分で会いたい。彼のように、自由に生きていきたい。」

すっと蔵馬は顔を上げた。白銀の月灯りが、彼女の銀の髪を輝かせるように照り映えていた。

「…黄泉、本当に有難う。でも……」

蔵馬の金の瞳がきらりと光った。

「…貴方じゃ私のこと、止められない。」
「……!!」

 翌朝、妖狐の里は朝から天地をひっくり返すような大騒ぎだった。村中の男や女が駆り出され、何かを必死に探していた。その輪の中心にいるのは、血相を変えた里の長老……豪奢な金の髪は乱れ、いつもはやや冷たい印象を与える白い顔は血の気を失いますます白くなっていた。

「蔵馬が逃げたぞ!」
「探せ!! 探すんだ!!」

慌てふためく故郷を見下ろす高台に、旅支度を整えた蔵馬が立っていた。少し名残惜しそうに里を見つめていた彼女は、思いを振り切るように顔を上げ、視線を遠くへと移した。彼女の視線の先には地平線が広がり、太陽が眩しく輝いていた。

(…何て広い世界。)

強い風が銀の髪をなびかせた。その風の心地よさに、蔵馬の表情が柔らかくなった。

(……この世界すべてが、私の生の舞台になる。)

地平の彼方には何が待っているのだろう。どんな出逢いが自分を待ち受けているのだろう。期待と不安に胸を躍らせながら、蔵馬は初めて感じた外の世界の風に、只ひととき身を委ねていた。

【完】