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第10章 四者会談

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明け方から降り出した小糠雨が街を湿った空気で包んでいた。麻川駅から徒歩二分、十五階建高級マンションの最上階、遮光カーテンで太陽を完全に遮断したその部屋の灯りは、仄暗い紫色の炎を燃やす不思議な匂いの蝋燭が五本のみだった。室内には小さなテーブルを挟み、男と女が座っていた。女は男の客だった。カーテンを背にし、相談者に向けて卓上に並んだカードが示す彼女の運命を事細かに説明している男……それは、烏丸了こと鴉だった。

「有難うございました。」

相談者の女性が立ち上がり、会計を済ませて部屋を後にした。それを端正な微笑で送り出した鴉は、ドアの閉まった瞬間ふーっと大きく息をついた。室内に戻り、鴉は部屋の遮光カーテンをさっと開いた。いつもよりは大分弱い太陽の光が白い室内をくっきりと照らし出した。鴉は壁の掛け時計をちらりと見やった。

「そろそろ次か。」

不思議な独り言が終わるか終わらぬかのうち、室内にインターホンの呼び出しが鳴った。鴉はふっと笑い、壁のインターホン用受話器を取り上げた。

「はい、烏丸です。」
『オレだ、蔵馬だ。』

受話器の向こうで低く囁く女の声に、鴉の顔が微笑した。

「今開けてやる。受話器を置いて待ってろ。」

そう言って鴉は、受話器の隣にあるボタンを押した。マンションの入り口自体にセキュリティがあり、暗証番号を打ち込むか中の住人に開けてもらわない限り中に入れない構造になっている。十五階のこの部屋へ辿り着くには一分かかるだろうか。……しばらくして、もう一度インターホンが鳴った。今度は部屋の前からの呼び出しに違いない。鴉は玄関に近寄りドアを開けた。立っていたのは、少し蒼い顔をした朱い髪の女だった。

「よくここが分かったな。」
「駅で聞いたんだ。有名人なんだなお前。」
「まあな、入れ。」

蔵馬は手にしたビニール傘を傘立てに突っ込み部屋に上がり込んだ。

「靴は?」
「脱がなくていい。一応店舗だから。」

鴉は蔵馬を先程とは違う部屋へ案内した。豪華な本革張りのソファと年代物の高価な調度品が並んだ居間に、蔵馬は信じられないものを見るような表情を浮かべていた。

「いい暮らししてるんだな。」
「魔界との相互通行が始まる前は暗殺請負で稼いでたから。」
「生首のコレクションは?」
「何?」
「気に入ったヤツの首を並べて飾ってるんじゃないのか……?」
「お前、まさかあの時の言葉を本気にしてたのか?」

呆れ返った顔で鴉は蔵馬を眺めた。「あの時」とは勿論、暗黒武術会の決勝戦である。鴉は蔵馬にソファを勧め、自分はその対面に座った。

「昨日、清春の家で証拠物件を発見したぞ。」

蔵馬が口を開くより先に、鴉が昨日の出来事を話し始めた。

「――清春が、ダイヤを持っていた?」
「ああ、見てみろ。」

清春を何とか丸め込んで借りてきた雑誌を、鴉は蔵馬に放り投げた。片手で受け止め、蔵馬は付箋の貼られたページを見て頷いた。

「間違いない、首飾りのダイヤだ。五つあったうち左から二番目の石だと思う。」
「そんなことまで分かるのか?」
「あの石だけうっすら傷があったんだ。ここに見えるだろ。」

印刷の汚れじゃないかと思うような微かな傷を蔵馬は鴉に示した。鴉は首をひねりながら雑誌を目に近づけていた。蔵馬はその様子をちらりと眺め、溜め息をついた。鴉が顔を上げた。

「どうした。」
「やっぱり、清春は黒鵺なのか……?」
「可能性が高まったな。何かしたのか?」

蔵馬の表情はいつの間にか曇っていた。彼女はうつむいたまま小さな声で切り出した。

「鴉お前、“トワ”って名前の女知らないか。」
「“トワ”? 知らないな。何者だ?」
「こっちも事件があったんだ。」

何故自分がその時間に清春の家を訪ねたのかは伏せ、蔵馬は昨夜の出来事を話した。鴉は話を聞き終え、首をひねった。

「“清春”が眠っている間だけ“黒鵺”になるということか。しかし妙だな。あの男が本当に黒鵺なら、夜の間に知己の私を訪ねてきている筈だ。」

蔵馬が頷いた。

「だからオレも、清春は黒鵺とは別人なのかと思っていたんだ。」

それが当初は混乱していた蔵馬が、頭が冷えた後にやっと辿り着いた結論だった。

「でも、清春があのダイヤを持っているとしたら、やっぱり黒鵺と関係があるのか……?」

そう問い掛けた蔵馬の声は少し震えていた。

(“トワ”が気になるのか。天下の大盗賊もやはり女だ。)

鴉の口許が少し緩んだ。それに気づかず、蔵馬はソファにもたれ呟いた。

「霊界に、新しい情報を貰いに乗り込もうと思ってる。」
「その必要はない。」
「何故だ。」
「向こうからやってくる。」

鴉の予言めいた言葉と同時に、室内にインターホンの呼び出し音が響き渡った。鴉は立ち上がり、壁に掛かった受話器を取り上げた。

「はい、烏丸です。」
『そこに蔵馬がいるな、通してもらおうか。』

受話器を通して聞こえてきた声に蔵馬は飛び上がった。低い声は黄泉のものだった。少々慌てた様子で蔵馬は、エントランスの電子錠の解除ボタンを押して戻ってきた鴉を見上げた。

「おい鴉、霊界の方じゃなくて魔界パトロール隊だぞ?」
「順番が違ったか。まあいい、もう片方もじきに来るさ。四者会談と行こうじゃないか。」

そう言いながら鴉は、ダイニングへ向かい呑気にお茶を入れ始めた。インターホンが鳴り、蔵馬が彼の替わりにドアを開けた。多少機嫌の悪そうな黄泉が立っていた。

「黄泉……」
「入るぞ。」

室内に上がりこんだ黄泉は、何も言われぬままにソファへ座り込んだ。しばらく無言のままで彼と蔵馬は部屋の主を待った。鴉がティーポットとティーカップを持って戻ってきた。

「初めまして。」
「お前が鴉だな。」
「そういうお前は? ああ、目がイカれてるところを見ると黄泉か。」
「オレを知っているのか。」
「千年前からな。黒鵺から蔵馬の幼馴染みと聞いている。」
「黒鵺? お前、あの男とも知り合いだったのか?」

二人は互いの腹を探るように抜け目なく相手の出方を窺っていた。どうやら黄泉は情報網を駆使して一夜のうちに鴉の所在を割り出したようだ。いや、もしかしたら彼の耳に飛び込んできた音のみで判断したのかもしれない。鴉はカップに注いだ紅茶を黙って黄泉の前に置いた。

「まあいい。まずは蔵馬、お前が肩入れしているあの鈴井清春という男は何者だ?」

カップに触れもせずいきなり話を切り出した黄泉に、蔵馬の紅茶を受け取る手が宙で止まった。

「オレは昨日の夕方頃まで人間界にいたのだが、」
「“聞いていた”というわけか。」

蔵馬は意味ありげに呟いてみせた黄泉を睨みつけた。

「だったら、お前がここに着く前にオレと鴉が話していたことも聞こえているはずだな?」
「あの男と、黒鵺が関係しているかもしれないという話か。」
「そうだ。オレと鴉はそれを探るために動いている。」
「それだけでもなさそうだが。」
「?」

再び蔵馬が黄泉を睨んだ。鴉は二人の険悪な空気を今ひとつ計りかねている様子だった。黄泉が小さく溜め息をついた。鴉は冷ややかにそれを観察していた。

(残念そうだなこの男。黒鵺が「蔵馬に相手にされてない」と話していたが、今もその状態は変わっていないらしい。)
「先程、ダイヤモンドの話をしていたな。」
「ああ、霊界が保管していた蒼龍妃の首飾りが消えたそうだ。その首飾りのダイヤの一つを清春が持っているらしい。昔、お前にも首飾りのことは話したはずだな?」
「覚えている。黒鵺から貰った品だと、お前がそう言っていたからな。」
(ふ……ん、なるほど。この男は未だに黒鵺への嫉妬と劣等感に苛まれているわけだ。)

鴉はニヤリとした。黄泉がそれに気づいた。

「何がおかしい。」
「何だお前、私の顔が見えているのか。」
「この男を盲人と思わない方がいい。」

蔵馬が口を挟んだ。黄泉は彼女の方へ向き直った。

「お前が知っているならその話は一旦置いておこう。オレが来たのは別件だ。」
「もしかして、魔界パトロール隊がオレを見張っている件か?」
「さすがに感づいていたようだな。」

蔵馬の素早い反応に黄泉が微笑した。蔵馬はその様子に、まさか一昨日まで知らなかったとは言えず、一瞬だけ顔を赤らめた。それに気づいているのかいないのか、黄泉はようやく、鴉の注いだ紅茶に手を伸ばした。

「お前には今まで黙っていたが、ひと月ほど前に妖狐蔵馬の封印が盗み出された。」
「!」
「何だって!?」

思いがけない言葉に、鴉と蔵馬の顔色が変わった。蔵馬が立ち上がり、黄泉に詰め寄った。

「何でそんな重大なこと今まで隠してたんだっ!!」
「妖力のないお前では何の手も打てない、そう思ってオレ達だけで解決しようと考えていた。黙っていたのはオレの判断だ。済まん。」

そう言って黄泉は頭を下げた。素直な謝罪に蔵馬も何も言えず再び座り直すしかなかった。

「腑に落ちんな。封印は蔵馬の能力、つまり霊体の一部だけだろう? そんな半端な物を盗み出して何するつもりなんだ。霊体の一部という形を取る以上、他人が利用することも出来まい。」

鴉の問いに黄泉が首を振った。

「術の使い手ならば“蔵馬”をお前の体内に戻し、代わりに“南野秀”を切り離すこともできる。術者が強力ならば復活させた蔵馬を自らの意のままに操ることも思いのままだ。」
「だからオレを護衛していた訳か。」
「済まん。」
「いや、“監視”じゃなかったと聞いて安心した。」

蔵馬はそういって表情を少し緩めた。黄泉は逆に顔を厳しくした。

「だがしかし封印の利用法はそれだけではない。例えば高等妖術師なら霊体を補完する術を持っている。つまり、器となる肉体さえ手に入ればここにいる“南野秀”とは別に“蔵馬”を再生することが可能だ。」
「!」
「高等妖術……」

その言葉に反応して、何故か鴉の顔に影が差した。蔵馬が口を開いた。

「確か、あの封印は魔界統一政府に保管してもらっていたはずだが?」
「トーナメントはすなわち政権交代と同意語だからな。交代時期が近づいて統一政府内がゴタゴタしている隙を突かれたようだ。」

蔵馬は呆れたように溜め息をつき、鴉を振り返った。

「どっちの問題の方が緊急度が高いと思う?」
「まさか占えと?」
「よく当たるんだろ、“烏丸さん”。」

鴉は肩をすくめた。

「私の勘では、第四・第五の客人が答えを持ってくると思うが。」

その時、まるでその言葉に合わせるように部屋のインターホンが鳴り響いて蔵馬と黄泉は顔を見合わせた。鴉が立ち上がった。

「まったく、今日は金にならない客に大人気だ。はい、烏丸です。」
『鴉だな。霊界のコエンマだ。お前に話がある。』

黄泉と蔵馬の顔に緊張が走った。鴉の口許が笑った。

「じゃあ入ってくれ。ほら、お出ましだ。」
「信じられん……」
「もう一人後で来る。お前達が関係するかどうかは知らんが、今日ここに来る客は全部で五人だ。」
「お前、予知能力があるのか?」
「ほんの少しだけ未来が見えることもある。残念ながら万能の能力ではない。」

と、もう一度インターホンが鳴った。鴉が玄関へ向かい、薄手のスーツに身を包んだコエンマを連れて戻ってきた。

「く、蔵馬っ!! それに黄泉まで……」

室内に足を踏み入れたコエンマが二人の姿を認め、狼狽して後ずさった。

「オレがいたらまずい話ですか?」

自分にできる精一杯の不機嫌そうな顔を作って蔵馬はコエンマを睨んだ。

「いや、そういうわけではっ……」
「なら正直に話してもらいましょうか。蒼龍妃の首飾りの一件ですね?」
「! やっぱり、お前に隠し事は出来んな。」

観念してコエンマは項垂れた。鴉が紅茶を注いでそっと差し出した。

「ああ、済まんな鴉。」
「何故私を訪ねてきた? 私が蔵馬と接触する可能性を考えていなかったのか。」
「それは考えたが、霊界とのコネクションと色々な条件を考えたらお前しか見つからなかったのだ。」
「『コネクション』? 二年も霊界病院でベッドを塞いでたというコネクションか? それに条件とは何だ。」
「後で説明する。別に重要な問題ではない。」

コエンマの素っ気ないに鴉は肩をすくめた。蔵馬が口を開いた。

「オレ達が把握しているのは、ここ数十年の間に霊界の宝物庫から蒼龍妃の首飾りが消えたということ、そして貴方達がそれに気づいたのは最近だということ、そして二十年前まで霊界で働いていた黒鵺を重要参考人として捜索していること。それだけです。」
「そして、お前は首飾りを飛影に探させているな?」

黄泉が付け加えた。コエンマはがっくり肩を落とした。

「飛影? あいつ、やっぱり喋りおったか……」
「昨日あの男が言っていたが、霊界の宝物庫に保管されている財宝はいわくつきの物ばかりだそうだな。だとしたらもっと組織的に探す必要があるんじゃないのか。」

コエンマは居心地悪そうに黙りこんだ。蔵馬がやれやれという調子で首を振った。

「隠さないでほしいですね。オレ達だって別に貴方と争うつもりはない。むしろ進んで協力する気ですけど?」
「だが容疑者がお前の昔の仲間となると、お前の耳に入れるわけには行かんだろう。」
「それなんですけど、」

蔵馬がじっとコエンマを見つめた。

「やっぱり、黒鵺にかけた嫌疑は取り除いてもらえませんか。」
「何だと!?」

静かな口調だったが、瞳は強い光を湛えていた。コエンマは慌てた。

「首飾りとは無関係かもしれんが、少なくともあやつは霊界から無断で姿を眩ましたのだぞ?」
「黒鵺は自分の転生の時期が近いことを知っていた。その彼が理由もなく逃亡するはずがないと思いませんか。まして罪を重ねて転生の時期を自分で遅らせるような馬鹿じゃない。」
「黒鵺が首飾りを盗んだ可能性がゼロとは言わない。だが、それならそれだけの理由があるはずだ。」

鴉も蔵馬の言葉に同意を見せた。蔵馬が頷いた。

「黒鵺は自分の欲望のための盗みはしない男でした。それが彼なりの美学だった。そういうのにやたら拘るヤツだったから。」

コエンマは顔を上げて蔵馬を見つめた。淋しそうな表情にコエンマは胸を突かれた。蔵馬は静かに言った。

「だから、オレ達にも彼の捜索を手伝わせて下さい。オレ達も真実が知りたいんです。もし真実を調べた結果、黒鵺が己の欲に負けたというのなら、罰は貴方達の代わりにオレ達が下します。」
「私からも頼む。どうだコエンマ?」

鴉が二、三度頭を振り、美しい黒髪を払ってからコエンマに向き直った。コエンマは蔵馬と鴉、そして黄泉の顔を見比べ、渋々頷いた。

「分かった、霊界特防隊にもそう伝えておこう。但し、霊界の事件だから黒鵺の処遇はやはりワシらで決めねばならん。決して不当な扱いはしないと約束するが、場合によっては霊界裁判を受けさせることになるかも知れんぞ。」

蔵馬と鴉が顔を見合わせ、同時に頷いた。コエンマが付け加えた。

「確認しておくが、お前達が探さねばならないのは二つ。首飾りと黒鵺だ。だが、この二つでは首飾りの方を優先させてほしい。」
「首飾りを?」
「ああ、人間界と魔界を守るためだ。」
「ちょっと待て、その捜索メンバーにオレも入っているのか?」

黄泉が遮った。鴉が皮肉めいた笑みを浮かべた。

「気が乗らないか? 確かに、恋敵に現世に戻ってこられてはさぞかし困るだろうが。」
「何だと?」
「そんな狭い度量だから惚れた女に裏切られ捨てられると言ってるんだ。」
「こいつ、言わせておけば……」

二人の妖気が蒼白く燃え、テーブルの上のカップがカタカタと音を立て始めた。

「さっき黄泉も言ってましたが、蒼龍妃の首飾りには何か秘密があるんですか?」

蔵馬は一触即発の彼らを無視してコエンマに向き直った。コエンマが深く頷いた。

「ああ。あの首飾りには邪悪な怨念が封印されておるのだ。その昔、この世界を破滅一歩手前まで追い込んだほどの強力な怨念をな。」
「!」

はっとした蔵馬が、コエンマの表情を探るような眼差しで問い質した。

「まさか封印されているのは、蒼龍妃自身?」
「察しがいいな。さすがは蔵馬だ。」
「!」

臨戦体制だった鴉と黄泉も、その言葉に争いを止めた。カップが鳴り止んだ。コエンマは三人の顔を見渡した。

「お前達は蒼龍妃の伝説を知っているか?」
「約一万年前に魔界のほとんどを支配下に置いていた女帝ですよね。恐怖政治を五百年ほど続けて、人間界にも手を伸ばそうとして、最後は霊界から戦力を派遣してようやく征伐したって。」
「私も聞いたことがある。名前の通り元々蒼龍王という小国の王の妃だったが、夫を暗殺して権力の座に就いてからは周辺の国を次々に侵略し、巨大帝国を築き上げた……そうだったな?」

蔵馬が頷いた。コエンマは紅茶のカップを手に取って話を引き継いだ。

「では“魔界史一の悪女”と異名を取るほど残虐な政を続けていた蒼龍妃が、五百年間も魔界を支配できた理由は何だと思う?」
「さあ。あ、もしかして清春が詳しいんじゃないのか?」

蔵馬が鴉を振り返った。黄泉は“清春”の名に面白くなさそうな顔をしながらコエンマを促した。

「謎かけをしている場合ではないだろう。正解は何だ。」
「伝説によれば蒼龍妃には特殊な能力があったらしい。他人を意のままに操る力……いわば強力な催眠術といったところだな。」
「催眠術?」
「催眠術というより洗脳に近いものだったそうだがな。周りの男共は『色香に迷わされた』という言い方をしていたようだ。」
「なるほどな。蒼龍妃は魔界史一の美女とも呼ばれているが、実体は色香ではなく洗脳による人格操作だったというわけか。」
「いや、まあ……あながちそうとも言い切れんが。」

コエンマは一息入れるためにカップに口を付けた。

「……ともかく、彼女のその強大な能力は憎悪から生まれたものだったという。」

“憎悪”という不穏な単語に一同が反応した。

「ワシも本人に会ったことがあるわけではないから知らんが、群衆を思い通りに操れるほど強力な蒼龍妃の妖力の源は、生きとし生けるもの全てに対する憎悪だったそうだ。……当時はまだ、魔界の上に冥界が存在していた時代だった。冥界の奴等は蒼龍妃の死後、その強大な憎悪の念を利用して霊界と人間界を手中に収めようと画策したのだ。霊界はそれを何とか食い止め、冥界を宇宙の果てに封じ込めた。そして、蒼龍妃の魂は霊界を通じて転生し、怨念だけがあの首飾りに封印されたのだ。」

蔵馬はずっと沈黙していた。彼女の脳裏には数年前、黒鵺の姿を借りてやって来た冥界鬼のことが思い出されていた。鴉が鬱陶しそうに長い黒髪を掻き上げた。

「それが冥界の封印は破られ、蒼龍妃の封印は知らぬ間に消えていたというわけか。蔵馬の封印もそうだが、物騒な物はもう少し丁重に扱ってもらいたいものだ。」
「蔵馬の封印?」
「魔界でも事件が起きているんだ。妖狐蔵馬の封印が最近盗難に遭ったらしい。」
「!」

コエンマの表情が険しくなった。

「……見つかっていないのか。」
「ああ。私も蔵馬も今しがた知ったばかりだ。実際は少し前の事件らしいがこの男が隠蔽してくれたお陰でな。」

鴉が視線で黄泉を指した。黄泉は不快な表情を見せたが、蔵馬の表情が少し曇ったのを察知して黙り込んだ。
と、その時急にコエンマの胸ポケットから携帯の着メロが流れ出した。

「おお、お前か。」

応対したコエンマの顔が少しだけ明るくなった。蔵馬がちらりと黄泉を見た。電話の相手の声が聞こえているはずだが、彼は「オレは知らん」と言わんばかりに首を振ってみせた。

「着いたか。じゃあ鴉にエントランスを開けてもらうから上がって来い。」
「いいよ、もう部屋の前だから。」

さっきは聞こえなかった電話の相手の声が、急に蔵馬達の耳に飛び込んできた。いや、黄泉だけは電話の向こうと窓の外、両方からその声が聞こえてくることをいち早く察知していた。

「誰だ!?」

鴉が窓に駆け寄った。と、その表情が急に凍りついた。リビングの窓の外で一人の男が窓ガラスをコツコツ叩いていた。

「開けてくれよ、中に入れてほしいんだけど。」
「!!」

地上十五階のこの部屋に、窓の外から入ってこようとする男がいる。確かにそれだけでも驚きだが、乳白色のレースのカーテン越しに見える男の姿に鴉の白い顔は更に血の気を失っていた。蔵馬も息を飲んだ。

夢魔ナイトメア……?)

顔はカーテン越しではっきりとは確認出来ないが、黒髪に尖った長い耳、そして蝙蝠の翼……男は黒鵺と同じく、夢魔の身体的特徴を備えていた。

第9章 黒鵺!?

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清春のアパートを飛び出して六時間後。蔵馬は今、麻川公園にいた。昼間あんなにしつこく電話してきた黄泉も、他に用があるのか夜になってから全く連絡を寄越さない。小さな公園に彼女は今、独りきりだった。

(どうかしている。)

二日前の夜と同じブランコに腰掛け、蔵馬はぼんやりと地面を見つめていた。

『オレでよければ、力になるけど?』

あの時、声を掛けてきた清春に息を飲んだことが思い出される。懐かしい人にあまりに似すぎていた、彼の顔。自分の身長が当時と違うから分からないが、きっと背丈も黒鵺と同じくらいだろう。「黒鵺じゃない、清春だ」、そう思い込もうと努力すればするほど、期待ばかり大きく膨らんで手に負えなくなってきている。

(だからといって、素性も知らない相手に何てことを。)

偶然倒れ込んできた清春を、まるで誘うかのように引き留めてしまった。激しい口づけの後で我に返って顔を逸らした時は、既に遅かった。清春の熱に浮かされた瞳……それを見て、蔵馬は彼に火をつけてしまったことを悟った。あの時彼は彼女に対し、唇だけでなく身体を、そして心さえも求めようとした。あの時鴉がやって来なければ一体どうなっていたのだろうか。

ふーっと溜め息をつき、蔵馬は深々と頭を垂れた。

(もし彼が黒鵺の生まれ変わりだとして、それが何だと言うのだろう。)

蔵馬は冷静に自分を「ロマンチストの傾向がある」と分析している。“運命の出逢い”は本当にあると信じている。しかしこれがその運命だとしたら、何と残酷なことだろうか。

(オレは“蔵馬”のままだ。どんなに努力しても黒鵺との想い出を忘れることなど出来ない。でも彼は既に記憶を失っていて、あの想い出を共有することは永久に出来ない。)

風に流された雲が一瞬、夜空の月を覆い隠した。今夜の風は二日前より冷たかった。

(仮に記憶があったとしても千年ぶりに再会した相手が昔のままのはずがない。それならいっそ他人の方が気が休まるかもしれない。でも、清春には致命的な欠点がある。それは、彼が人間だということだ。)

ブランコの鎖が悲しげな音を立てて軋んだ。

(この身体はとっくに妖化して、何もなければ少なく見積もっても千年は耐えるだろう。でも、彼には百年足らずの時間しかない。)

目をつぶると木の葉がざわめきが一層はっきりと聞こえてくる。木々はまるで彼女の不安を煽るかのようにガサガサと神経質な音を立てていた。

(残酷だよ。千年待って一緒に過ごせる時間はたったそれだけ。オレはまた、置いていかれるのか?)

蔵馬の胸に、我が身を裂かれるような黒鵺の最期が蘇った。辛い記憶に彼女の顔が歪んだ。心に浮かんだ暗雲を消し去るため、彼女は懸命に頭を振った。

(過去のことだ。もう忘れるつもりだった。今更何が起きたってもう思い出さなければいい。でも……)

無意識のうちに、先程の口づけの感触を確かめるように蔵馬は唇に触れていた。

(でも、もう遅すぎる。)

もう一つ小さな溜め息をつき、蔵馬は面を上げた。二日前のように、彼が今目の前に現れたりはしないだろうか? そんな淡い期待をする自分に、蔵馬は悲しくなって表情を曇らせた。

──清春に謝ってこよう──

しかし何を謝るというのだろう。謝るにしても電話で済む話ではないのか。ただ彼に会いたい口実ではないのか。が、彼女には理由などどうでもよかった。とにかく、今夜は一人でいたくない。ブランコから立ち上がり、蔵馬は小走りで公園を飛び出した。清春の家はここから数百メートルの距離である。歩いてだって十分もあれば到着するが、いても立ってもいられなかった。

五分もしないうちに蔵馬は清春のアパートの下に辿り着いた。見上げると、四階の清春の部屋は既に灯りが消えていた。土曜から日曜に移り変わる深夜〇時。二十歳の青年が眠りにつくには少々早い気がする。外出しているのだろうか?

「何やってんだオレは……」

拍子抜けして蔵馬は自嘲気味に呟いた、その時。

ガタッ

頭上で窓の開く音がして、蔵馬は建物を見上げた。その目に驚くものが飛び込んできた。

「!」

清春の部屋の窓から、男が身を乗り出していた。とっさに蔵馬は身を隠した。人影は眼下の景色を確認し、誰もいないと見て取ると窓枠を蹴ってふわりと宙に舞い上がった。

「あ!」

蔵馬の表情が凍りついた。蝙蝠の翼を広げ虚空へ飛び出したその人影は鈴井清春、いや……

──黒鵺!?──

髪の毛こそ肩にもつかぬ短さだったが、夢魔特有の尖った耳と蝙蝠の翼、そして白い顔。それは蔵馬の記憶の中にいる、黒鵺と寸分違わぬ姿だった。

(追わなければ!)

目の前の光景に、蔵馬の膝が震え出した。やっとの思いで彼女は宙を舞う男を追い掛けた。が、その飛行速度があまりに速すぎて、あっという間に振り切られてしまった。男を見失い、諦めた蔵馬は道路の真ん中で座り込んだ。

(昔からスピードだけはやたらあったもんな、あいつ。)

決して腕力が強い訳でもなく、しかもその力にムラのある黒鵺が“魔界一の天才盗賊”と呼ばれていた最大の理由が、逃げ足の速さだった。逃げる場合に限らず、闘いにおいても彼のスピードは驚異的だった。S級とランクされる妖怪でも彼を捉えられる者は一体どれほどいるだろう。
その時、蔵馬はあることに気がついた。

(清春の家! もしあいつが清春なら絶対に戻ってくるはずだ。)

蔵馬は冷静な判断力で元来た道を引き返し、アパートに戻って階段を駆け上がった。案の定玄関のドアは施錠されたままだった。昔取った杵柄、僅か三秒で鍵をこじ開け、蔵馬は用心深く中に侵入した。予想通り、部屋はもぬけの空だった。

何となく酒臭い……顔をしかめながら蔵馬は目を凝らし電灯のスイッチを探し当てた。明るくなった室内には空の酒瓶とスナック菓子の袋が転がっていたが、それらの残骸には目もくれず蔵馬は机に寄った。優等生という評判は伊達でないらしく、洋服や雑誌が散らかる床と違ってこちらは辞書と文献資料で埋め尽くされていた。蔵馬はそのまま窓枠へ寄った。開け放しになった窓から、五月にしてはやや冷たい夜風が吹き込んだ。

(そうか、それで……)

ようやく納得した。黒鵺は夢魔ナイトメア……自分で妖力を作ることが出来ないため平常は“清春”という人間として生活し霊力を蓄える。“清春”が眠りにつくと同時に彼は霊力を妖力に変換し、短い時間を“黒鵺”として過ごすのだ。昨日は空中で霊力を使い果たし、“清春”に戻ってしまったために墜落したのだろう。邪眼でも持たぬ限り、妖怪を捜す場合は妖気計を用いるのが手っ取り早い。しかし、彼が普段は人間として生活し、夜も僅かな霊力を更に僅かな妖力に変換して暮らしているとなれば、相当近くまで来ない限り絶対に見つかるはずがない。

蔵馬はベッドに寄り、座り込んで部屋の主の帰りを待った。ベッドにはまだ温もりが残っていた。

「!」

不意に空気を激しく打つような羽ばたきの音が聞こえ、蔵馬は身構えた。窓に近づいてきた男が、部屋に灯りがついていることに驚いて宙で止まった。

「誰だ!? あ、秀!」

相手が自分の名前を呼んだことに蔵馬はやや驚いた。

「オレを知ってるのか。」
「当たり前だろ、昼間会ってるじゃん。」

答えながら“黒鵺”は軽々と窓枠をくぐり、室内へ戻ってきて窓に鍵を掛けた。

「どうやって入ったの。」
「表の鍵を開けさせてもらった。」
「! すごい、まるで盗賊だな。」

自分もそうだろうに何をしらばっくれるつもりかと、蔵馬は不愉快な表情を浮かべた。もっとも、姿も違う上妖力の全くない今の自分では、如何に黒鵺といえども“蔵馬”と見分けることは不可能だろう。

「お前に“清春”の記憶はあるみたいだな。」
「そうだな、“清春”にオレの記憶はないみたいだけど。」

男はそう言って机の前に置かれた椅子に座り込んだ。蔵馬はぐっと拳を握り締めた。

「お前は、誰だ?」

蔵馬が正面から男を見据え、震える声で尋ねた。僅かな沈黙の後“黒鵺”は少しためらいがちに話し始めた。

「オレは、“鈴井清春”だよ。ただ、“清春”が眠っている間は前世の姿と記憶を取り戻しているだけ。」
「『前世』……」

蔵馬の瞳が揺れた。“黒鵺”は脚を組み、椅子を回して蔵馬の方へ向き直った。蔵馬は体が震えるのを堪え、目の前の男の次の言葉を待った。が……

「あのさ、君に訊いても無駄だと思うけど“トワ”って女、知らないか?」
「え?」

予想外の言葉に、蔵馬はぎょっとして訊き返した。

「“トワ”って……誰。」
「昔オレが惚れてた女の名前。やっぱ知らないよな。」
「!」

何か言おうとしたのに、唇が上手く動かず言葉にならない。蔵馬が混乱しているうち、急に“黒鵺”の表情が緊迫した。

「御免、そろそろ妖力が切れるからオレ眠るよ。“清春”のこと、宜しくな。」

ふらりと立ち上がり、“黒鵺”はいきなり服を脱ぎ始めた。慌てて蔵馬は背を向けた。元々着ていたらしい部屋着に戻り、脱いだ服と靴を痕跡の残らぬように片付け、“黒鵺”は不意に蔵馬を背後から抱き締めた。

「!」
「“清春”は君に惚れてる。じゃあ、お休み。」

蔵馬がその言葉に驚いて振り向いた。その目の前で“黒鵺”の翼は霧か煙のように薄くなり、消えてしまった。ベッドの上に倒れ込み、そのまま彼は意識を失っていた。

「……」

蔵馬はその場に崩れ落ちた。まさか、こんな展開が待っているとは思わなかった。ようやく顔を上げた彼女の目に、何事もなかったかのように寝息を立てている清春の姿が映った。

(そうだ、とにかくここを出なければ。)

千年の時間が蔵馬に冷静過ぎる判断力を身につけさせていた。後ろを振り返ることもなく、彼女はそっと部屋を後にした。

【第9章 完】

第8章 暴走

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Trrrrrrr…

先程から何度もけたたましく鳴っている携帯の着信を無視し、蔵馬は一人、渋谷の街を歩いていた。

(今日はお前の顔は見たくない。オレに用があるなら直接探して来い。お前の聴覚なら出来るだろ。)

心の中で電話の発信相手・黄泉を挑発しながらも、蔵馬は時々歩みを止め空の上を眺めた。凍矢の報告が気になって何となく渋谷に出てきたものの、半端な情報では全く昨日の出来事が掴めない。公園通りを抜け、まるで駅前の喧噪を避けるかのように蔵馬は歩き続けていた。

(この辺じゃないな。もう駅からは大分離れてるし。)

気がつけば、上の空だった蔵馬もはっきり「違う」と分かるほど全く景色が変わっていた。目の前に、青々とした木々が広がっている。いくら何でもぼんやりしすぎだと蔵馬は自身に苦笑した。

(ここ、代々木公園じゃないか。折角だし、散歩でもするか。)

何となく気の重い週末、一人で家にこもるよりも人の中に身を置いていたい気分だ。蔵馬は顔を上げ、肩に掛けたデニム製の小さなショルダーバッグを持ち直して整備された園内をゆっくり歩き始めた。

しばらく歩き、ふと蔵馬は、少し先の一角に大勢の客が集まっていることに気がついた。沢山の人間がいるのに彼らは皆一様に沈黙し、パフォーマンスの開始を今や遅しとじっと待っていた。その静けさの中、アコースティックギターの音色と囁くような男の歌声が流れ始めた。

「……朝も、夜も、君に逢いたい……濡れた髪をなぞる…… Rhapsody in you……」

わぁっと拍手と歓声が上がり、ギターの音色が一段高くなった。

(この声!)

蔵馬は小走りで駆け寄り、数十名の聴衆の肩越しに声の主を覗き込んだ。輪の中に座り、ギターを抱えて歌っていたのは思った通り、鈴井清春だった。今日の彼は細身のデニムに腕まくりをした長袖のTシャツ、幾つかのシルバーアクセサリーと至ってシンプルな服装だった。甘く切ない声で熱唱する彼に、誰もが魅了され立ち尽くしていた。そうしているうちにも人の輪が広がり、一曲終わった頃には百名を超えるような大きな輪になっていた。

「鈴井さぁんっ!!」
「清春〜!!」
「同じ名前だけど本物より大好き〜っっ!!」

歌が終わった途端、黄色い声で叫び始めた観客に蔵馬は驚き逆に縮こまってしまった。清春が立ち上がり、深々とお辞儀をした。

「こんにちは、鈴井清春です。集まって下さってどうも有難うございます。今日は久々にバラードで揃えますんで、お時間のある方は最後まで聴いていって下さい。」

清春は手短に挨拶し、再び座り込んでギターを構えた。どうやら代々木公園の常連なのだろう。彼も観客も、短い挨拶に不満を持つ者はいないようだった。

「では二曲目です。聴いて下さい。……」

ギターを掻き鳴らし、清春は更に切ない声を張り上げた。

「おい、すっげえ歌のうまいヤツがいるぞ!」
「聴いていこうよ、ね?」

カップルが足を止め、歌の世界の住人に加わった。公園の一角を優しい空気に染め上げていく声を聞きながら、蔵馬は遠い昔、自分の傍らで歌っていた黒鵺の姿を思い出していた。

──こんなに似てるのか──

黒鵺は気が向くとリュートを奏でながら歌を聴かせてくれた。こんな恵まれた才能を持ちながら何故盗賊になったのか訝しく思えるほど、演奏は間違いなく一流のものだった。そして、それを抜きにして蔵馬は彼の歌声が好きだった。彼が歌っている間だけは、普段憎まれ口ばかりの彼が自分に……自分だけに、愛の唄を捧げてくれるような気になれたから。

蔵馬は自然と目を伏せていた。

(本当に、黒鵺なのかもしれないな。君は……)

歌う唄も伴奏の楽器の音色も千年前とは違うけれど、高く低く自在に響く深みのある歌声だけは、当時好きだったあの声と全く同じ物に感じられた。

二曲目が終わり、周囲は再び歓声に包まれた。

「今日は皆さんに、告白したいことがあります。」

ギターを抱えたまま清春が、うつむき加減に観客に向かって切り出した。

「実はオレ……好きな人が出来たんです。」

途端に観客がどよめいた。そのざわめきを制止するように、清春は訥々と語り出した。

「……いや、本当に恋なのかよく分からないんですけど……知り合ってまだ少しだし……。」

女性客達がざわめく中、清春は静かに話し続けた。

「済みません、急に変な話して……。あまりに……自分でも戸惑ってるんです……もしかして一目惚れってこれなのかって……。いや、ホントは前から知ってる人なんですけど、初めて話をして何か運命を感じたっていうか……気のせいかもしれないけど、何故かそんな風に思って……」
「いいぞ清春!」

急に飛んできた声援に清春は最初驚いた顔をしたが、すぐに困ったような微笑で応えた。

「もう本当にヤバいんです。夢まで出てくるし……独りになった時、気づけばその人のことばかり考えてる。歌ってても勝手にその人に捧げてるようなつもりになってて、だけど勇気がなくて……昨日もその人に会ってるのに、今日ここで歌うから聴いてほしいって言えなかった……。」
「清春さん、頑張って!!」
「アタシ達がついてるから!!」

先程とは違う方向から更なる声援が送られた。清春は照れ臭そうに笑い、小さく頭を下げた。

「済みません、その人のこと考えてたら随分ベタな選曲になってしまったけど許して下さい。では三曲目……」

と、曲のタイトルを告げようとして顔を上げた清春は、オーディエンスの中に立っている蔵馬の姿に気がついた。

「……!」

途端、清春は急に言葉を飲み込んでしまった。観客達が異変に気づくと同時に、彼は慌てて立ち上がった。

「済みません、今日はもうこれで終わりにします! 本当にすいません!」
「ええっ!?」
「何で!?」

観客達のざわめきをよそに清春は大急ぎでギターを片付け、人ごみを掻き分け逃げるように去っていった。

「どうしちゃったの、鈴井さん?」

不思議そうな観客がどよめく中、蔵馬はそっと場を離れ清春の後を追い掛けた。

「どうしたの、衝撃の告白を残してもう終わり?」

背後から聞こえてきた声に、人影の少ないところまで小走りで逃げてきたばかりの清春は飛び上がった。恐る恐る振り返ると、案の定立っていたのは蔵馬だった。

「秀……」
「唄を歌ってるって話は聞いてたけど……すごいね、聴き惚れてしまった。」
「……有難う。」
「もっと聴きたかったのに……どうしたの。観客の中に“例の彼女”でもいた?」

その言葉に清春の顔が薄ら紅くなった。

「……君は、意地が悪い。」
「別にからかいに来たわけじゃないんだけど。」
「だったら尚更……犯罪的だ。」

ふいと横を向いた清春に、蔵馬は思わず笑ってしまった。清春がむっとした表情に変わった。

「何がおかしいんだよ。」
「いや……ゴメン、ちょっと思い出したことが。」
「?」

昔は手玉に取られ機嫌を損ねるのはいつも自分だった。でも、目の前の清春になら自分の方がはるかに優位に立っている……蔵馬にはその優越感が何となくおかしかった。

「……昨日、渋谷で災難に遭ったんだって? 君を助けたの、オレの友達なんだ。」
「えっ? ……あの三人、知り合いなの?」
「まあね。それで話が聞きたくて……でもまさか今日会えるなんて、色々君とは偶然が重なるね。」

清春の顔が再び紅くなった。

「よかったら現場検証したいんだけど。」
「現場検証? ……渋谷駅に?」
「違うよ、君の家。」
「えっ!?」

慌てふためく清春に、蔵馬は吹き出しそうになるのをやっとのことで堪えた。

「お邪魔します。」

緊張している清春を尻目に、蔵馬は彼の暮らしているアパートの一室に上がり込んだ。麻川駅から徒歩七分、築五年も経っていないであろう小綺麗な七階建てアパートの四階にその住まいはあった。

「あんまり、片づいてないんだけど……」

後ろで消え入りそうな清春の声が聞こえてくる。決して不潔な室内ではないが、所々に雑誌やら服やらが散乱し有効面積は何もない状態の三分の一まで激減していた。

「昨日何か変わったことは?」
「うん、ドアの鍵が閉まってて窓の鍵が開いてた。」
「やっぱり窓から出入りしたってことか。地上四階で窓から……ね。で、昨日はどうやって中に入ったの。」
「鍵持ってなかったから、窓から陣さんに運んでもらって。」
「それは災難だったね。」

蔵馬は窓に近寄った。

「いつも窓開けて寝てるの?」
「まさか! 不用心だし、そんな必要ないよ。」

エアコンもあるし、何よりまだ五月。決して寝苦しくはない。

「おかしいね……この窓、壊さずに外からは開けられないと思うんだけど。」
「でも、昨日は絶対締めてる。寝る前に下の道路がうるさくて一旦窓開けて覗いたんだ。その時に締めたこと確認してるし。」
「じゃあどっちかだね。君が何らかの方法で自分で外に出たか、または君が寝る前から誰かが部屋にいた。」
「エッ!?」

慌てて清春は室内を見回した。

「今見たって分かる訳ないだろ。」
「そっか。そうだよな……」

清春は落ち着かない様子でもう一度だけ部屋を見渡した。

「そうだゴメン、何か飲む? コーヒーと紅茶くらいしかないけど。」
「いいよ、お構いなく。」
「でも……あ、そうか。この状態じゃ座れないよね、ゴメン!」

部屋中に散らばる雑誌や洋服を慌てて片付け始めた清春を見て、蔵馬も一緒に本を拾い始めた。清春が慌てて止めに入った。

「ダメだって! 君はお客なんだから!」
「二人の方が片づくだろ。オレも早く座りたいし。あれ、この本は?」
「うわああぁ!! 見るなぁ〜っっ!!」

蔵馬から清春は、「この顔でこの本を買うのか」と言いたくなるような、恥ずかしい格好をさせられた女性を表紙にした雑誌を慌てて奪い取った。必死で笑いを堪える蔵馬を、清春はただ恨めしげに見つめていた。

「もーいいから君はそこに座ってろっっ!!」
「はいはい。ふっ、はははっ……」

何とか折り畳みテーブルを広げ、二人分のクッションを敷く空間を確保して、清春は台所へ向かった。大人しく腰を下ろしながらも蔵馬は抜け目なく室内を観察していた。本棚には男性物のファッション誌が不連続に並んでいた。恐らく自分が仕事をした号のみ取ってあるのだろう。部屋の隅には小さなコンポがあり、隣にCDが平積みにされていた。その枚数はせいぜい二十枚程度で、その少なさを蔵馬は意外に思った。

「お待たせ。」

清春がお盆を抱えて戻ってきた。

「どっちがいいか分からなかったからコーヒーと紅茶一杯ずつ入れてきたけど。」
「別にいいのに。そうだね、じゃあコーヒーお願い。」

紅茶は先程自分の家で飲んでいる。

「あの本棚の雑誌は君の出てるもの?」
「うん。あ、オレがモデルやってるの知ってるんだ。」
「友達が教えてくれて。」
「不真面目だから年に三回くらいしか出てないんだけどね。読者モデルの延長だし、あんまりそっちの仕事には興味なくて。」
「やっぱり歌手を目指してるの?」
「歌は趣味だよ。」
「あんなに上手いのに?」

蔵馬は意外な表情をした。清春は肩をすくめて笑った。

「やりたいことが他にあるんだ。今は無理だけど、オレ、本当は魔界に行きたいんだ。」
「魔界へ?」

怪訝な顔をした蔵馬に、清春は照れ臭そうに笑った。

「まだ人間が魔界に行く方法が見つかってないから難しいけど、魔界で遺跡発掘調査をしたいと思ってる。」
「遺跡発掘? 現時点じゃ人間が魔界に行くことも出来ないし、それに魔界の物価は途方もないよ。発掘のために土地を買い取るにも莫大な金がかかる。」
「現実主義だな、君は。」

清春は寂しそうな表情を浮かべた。

「それはオレも分かってるんだけどね。だから、『いい加減夢みたいなこと言ってないでちゃんと就職しろ』って親にも言われてるよ。」
「何で魔界で発掘やりたいの。」

蔵馬が清春の顔を覗き込むように見つめた。清春は飲みかけの紅茶を手にしたまま答えた。

「そりゃ吉村作治がエジプトで何してるんですかって質問と同じだよ。うーん、魔界に惹かれてるのかな。ここ数年で急に“魔界ブーム”が起きただろ、その時に『ああ、オレが求めてたのはこれだ』って思って。それまでは普通に就職しようかと思ってたけど。」
「まあ、研究機関の調査隊に入ればお金の心配はしなくていいけど、なら今から霊力鍛えた方がいいよ。霊力が上がれば魔界の障気にも耐えられるようになる。」
「実は、それが問題で。」

清春がふっと顔を曇らせた。

「同じことを鴉に言われて特訓に付き合ってもらったことがあるんだけど、どうもオレ、変な体質みたいでさ。その日のうちは上がるのに寝て起きると元に戻ってるんだ。『寝てる間に何に使ってるんだ』って呆れられてしまった。」
「何それ? 寝てる間は霊力回復の時間だから、増えることはあっても減ることはない筈なんだけど。」
「何が起きてるのか分からなくて鴉に見張っててもらったんだけど、その時は別段何もなかったみたいでさ。一週間くらい特訓と見張りを続けてもらって、その間は霊力が上がってたのに、鴉が来なくなった途端、急激に霊力が落ちた。」

蔵馬はすっかり考え込んでしまった。

「それ、もしかして昨日の事件とも関係があるんじゃないの。」
「そうかも。『霊力がギリギリまで失くなってる』って鈴木さんに言われたし。」

蔵馬は「鈴木さんって誰だ?」と戸惑い、すぐに「ああ、ピエロか」と思い直した。清春は空になったティーカップを置いて溜め息をついた。

「それに、実は昨日みたいなこと、三度目なんだ。」
「三度目!? 空から落ちてきたのが!?」
「違うよ。落ちたのは昨日が初めてだけど、起きたら知らない所にいたのが三度目。前は夜中入れないはずのビルの屋上にいて警察の世話になったこともあるくらい。」
「!」
「半年くらい前なんだけど、気味悪がられて当時の彼女に振られちゃって。それっきり……」

“フリー”をちらつかせる意図なのか、それとも彼女すら来ない散らかった部屋への言い訳か、清春はそう言って立ち上がった。

「コーヒー、もう一杯飲む?」
「ん、お願い。」

ほとんど機械的に返事をして、蔵馬はもう一度室内を見渡した。今度はすぐに戻ってきた清春が、彼女の観察に気がついた。

「多分何も見つからないよ。鴉にも見てもらったんだ。」
「違うよ。ただの好奇心。そこの雑誌見てもいい?」

確かにこれ以上の手がかりは見つかりそうにもない。蔵馬はこの件については棚上げすることに決め、本棚から雑誌を抜き出した。

「格好いいね! 綺麗めの服がよく似合ってる。」
「よく言われる。化粧もしてないし髪も染めてないのにビジュアル系だって。確かに白と黒ばっか着てるけどさ。」

蔵馬は別の号を手に取った。

「あ、これ何? 『鈴井清春がレクチャーするキャンパスライフ』だって!」
「うわ、ちょっと待て!! それすげー恥ずかしいからダメっっ!!」
「なになに、『四月十六日、昨日のコンパで隣に座ったコと付き合うことに』……?」
「やめろ〜!!」

清春が慌てて蔵馬から雑誌を取り上げようとした。が、蔵馬がそれをひらりとかわし、バランスを崩した彼は思いっ切り彼女に被さるように倒れ込んだ。

「!」
「わっ、御免!」

仰向けに倒れ込んだ蔵馬に清春が覆い被さって、まるで組み伏せたかのような形になっていた。慌てて身体を起こそうとした清春の手首を、蔵馬が急に握り締めた。動揺した清春に彼女は小さく首を振ってみせた。

「……秀……」

蔵馬は戸惑う清春の背中にそっと両の腕を回した。その仕草に、彼も引き寄せられるように強く蔵馬を抱き締めた。勢いに押されたまま、清春はやや強引に蔵馬の唇を求めた。彼女は抵抗しなかった……静かな室内に、二人が互いの唇を貪る音だけが聞こえた。

「……」
「……っ……」

視線がぶつかったのを合図に一旦離れた唇が再び触れた。清春は逃げるように顔を逸らした蔵馬を追い掛けるように口づけ、再びゆっくり舌を絡めた。薄いカットソーの上から清春の指が蔵馬の体のラインをゆっくりなぞり始めた。覚悟を決めたように蔵馬は瞼を閉じた。

……その時、静まり返った室内にけたたましいインターホンが鳴り響いた。

「!!」

夢から覚めたように二人は身体を離した。清春は名残惜しそうに身体を起こし、少し乱れた服を直しながら玄関に向かった。ドアを開け、彼は思わず声を上げた。

「あ……!」

玄関前に立っていたのは、鴉だった。

「どうしたの、まだ仕事中じゃ……」
「今日は客が少ないから店仕舞だ。女がいるのか?」

鴉が目ざとく一回り小さな靴を見つけた。

「秀だよ、南野さん。」
「南野? お前、いつの間に呼び捨てにする仲になったんだ?」

清春の顔が紅くなった。鴉は遠慮もなく室内に上がり込んだ。室内の蔵馬は既に、何事もなかったのように元の姿勢で座っていた。鴉の姿を認めた彼女はさっと立ち上がり、持ってきた鞄を掴んで清春を振り返った。

「じゃあオレ、そろそろ帰るから。」
「秀!」

そのまま蔵馬は部屋を飛び出していった。呆然と見送った鴉が、怪訝な顔で清春に尋ねた。

「何かあったのか?」
「別に、何も……」

清春はうつむいた。只ならぬ雰囲気に胡散臭そうな表情を向けながらも、鴉は散らばったままの雑誌を拾い上げた。乱雑になった雑誌の偶然開いたページに、ブランド物のニットを着こなす清春の写真があった。鴉の手が不意に止まった。

「清春、これ、本物のダイヤか?」

鴉の目を釘付けにしたのは一ページを丸ごとぶち抜いた、臙脂のローゲージニットの上に大粒の石のペンダントが煌めいている写真だった。石は太陽の光を浴びて七色の輝きを反射していた。強烈な存在感が、その石が決して硝子細工などでないことを雄弁に物語っていた。

「まさか。でも、確かによく出来てるよな。」
(違う、本物だ。時価三十億は下るまい。だが年代物だな。)

鴉の表情が険しくなった。比較的アップの写真で、カッティングがはっきりと分かる構図だった。蔵馬や黒鵺とは違い、鴉に盗賊としての鑑定眼はない。しかしその彼にも、この石の一種独特なカッティングが近代の流行でないことは明白だった。

(しかしこの石、何処かで見たような……)

その刹那、鴉の脳裏にある記憶がひらめいた。

「『モデル私物』とあるが、今この家にあるか?」
「ああ。でも大事なものだから、ちょっとだけな。」

清春はそう言いながらも、シルバーアクセサリーのコレクションと同じ陳列棚に置かれていたビロード貼りの小箱を手にし、中を空けて鴉に示した。

「ほら、こんなケースに入ってると本物っぽいだろ?」

鴉はすっかり言葉を失い、食い入るようにダイヤモンドを見つめていた。

(間違いない。霊界から紛失した、あのダイヤモンドだ。)

昨日、霊界図書館に侵入して調べてきたばかりだから間違いない。そのダイヤは紛れもなく“蒼龍妃の首飾り”に飾られていたダイヤモンドの一つだった。興奮を押し隠し、彼は様子を探るように尋ねた。

「一体何処で手に入れたんだ?」
「え、どっから話せばいいのかな……」

清春は急に困ったような表情になった。

「そういや今まで話したことなかったよな。実はオレ、両親の本当の子供じゃないんだ。」
「!」
「赤ん坊の時に駅の待合室に捨てられてたらしいんだけど、ペンダントはその時から持ってた物なんだって。」
「何だと?」

意外な告白に、鴉は身を乗り出した。

「その日たまたま、仕事で朝早く駅にいた男性がオレを見つけて養子にしてくれたんだ。その人が今のオレの父親。オレ身元が分かるものは全然持ってなくて、唯一あったのがそのペンダントなんだって。」
「……」
「本当の子供じゃないと聞かされた時、親父がそれを『お前の本当の親を知る手がかりだから絶対大事にしろ』って渡してくれたんだ。だから、そのペンダントが写真に写ってればいつか心当たりの人が見てくれるんじゃないかなって思ってさ。」

あまりに大きすぎて本物とは誰も思わなかったらしいダイヤモンドを、鴉はもう一度眺めた。

(そういえば、蔵馬はこのダイヤのことを知っているのか?)

後で蔵馬に確認せねばと思い、鴉はそこで自分が彼女の連絡先を知らないままであることに気がついた。彼女の電話番号を尋ねようとした鴉の腕に、清春が急にしがみついた。

「何だ。」
「今夜、暇? 付き合って。」

何故と問い掛けようとした鴉に、清春は黙ったまま弱く首を振ってみせた。

【第8章 完】

第7章 消えた封印

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翌朝、土曜日。午前十時頃に蔵馬のアパートを訪ねてきたのは凍矢だった。

『何でオレ一人で行かなければならないんだ!!』
『バカ、邪魔しないようにって心配り、何で分からないんだ?』
『アホかっ!!』

そんなやり取りの結果、結局彼一人が手土産(勿論鈴木達が気を利かせた品である)持参で蔵馬のアパートを訪問することになったのだった。

「いらっしゃい。久しぶり、どうしたの?」
「ああ、昨日事件があってな。」
「事件? ゆっくり聞かせてもらおうか。入って。」

出迎えた蔵馬は、アイボリーの無地のカットソーに黒い綿ベロアのジャージパンツという至ってラフな服装だった。凍矢が彼女に手土産の箱を差し出した。

「これ、陣と鈴木が。」
「『ポルト』のケーキ? すごい、美味しいって大学で評判なんだよ。早速開けるから待ってて。」

蔵馬の顔が明るくなり、凍矢は深層意識の底で二人の悪友に感謝した。台所へと一旦引っ込んだ蔵馬はすぐに紅茶のカップと皿に乗った二人分のケーキと共に戻ってきた。

「じゃあ頂きます。……わ、評判通りだね! すっごく美味しいケーキだ。」
「そうか。それはよかった。」
「有難う。二人にも伝えておいてよ。そうそう、今回は特訓に付き合えなくて御免。トーナメントそろそろだよね?」
「ああ。パトロールの合間を縫って少しずつ特訓してるところさ。」
「もうオレじゃかなわないね。ま、妖気封印したからどのみちだけど。」

その言葉に凍矢の表情が少し動いた。蔵馬が紅茶をすすりながら切り出した。

「そうだ、事件って何の話?」
「実は昨日、渋谷駅前を巡回中に空から人間が降ってきてな。」
「人が降ってきた?」
「ああ。ビルから転落したのかと思ったが上に何もない場所で、誰かに拉致され落とされたような感じだ。あと、霊力がギリギリまで消耗されていた。」
「霊力が? 誰かに吸い取られたのかな。」
「『吸い取られた』? それは、考えつかなかった。」
「空を飛べて、他人から霊力を吸収するといったら夢魔だけど……」

そこまで言いかけて蔵馬は首を振った。

「いや、いくら夢魔でも空中では“しない”か。」

蔵馬の言葉の意味を凍矢は分からなかったようだった。

「落ちてきた男ってどんなヤツ?」
「若い男だ。落ちてきた時は意識も霊力のほとんども失っていた。名前も聞いたな。確か、鈴井とか言ったような……」
「鈴井?」

蔵馬が驚いて聞き返した。

「もしかして鈴井、清春!? 妖怪みたいな顔した男。」
「そんな名前だ。知り合いなのか?」
「大学の先輩だ。昨夜はオレや幽助達と一緒にいたのに、帰った後かな。」
「本人の言い分では、寝ていたはずなのに服は着替えてるし靴は履いているしでどうもおかしいということだったが。」
「それは、注目すべき点だね。」

蔵馬は小首をかしげだ。

「彼が空中にいたのは誰か他人のせいかもしれないけど、その第三者が着替えまでさせる必要はないだろう。つまり、本人が無意識にやったことだと考えた方が自然だ。」

この推論に凍矢は目を見張った。

「でも、何故?」
「そこまでは知らないよ。夢遊病でも持ってるのかもね。」

蔵馬は少し紅茶をすすり、ぼそっと呟いた。
と、その時急にけたたましい電子音が部屋に響き渡った。

「何?」
「済まん、パトロールの呼び出しだ!」
「え、凍矢!」

ぽかんとする蔵馬を前に、凍矢は部屋を飛び出し玄関から走り去ってしまった。

(しまった!)

重要な用事を忘れていたことに気づき、蔵馬は思わず口を手で押さえた。そう、魔界パトロール隊が何故、自分を監視しているのかを問い質さねばならなかったのに。

「急に集合をかけて済まない。」

凍矢が蔵馬のアパートを飛び出して三十分後。日比谷公園の一角に、九名のS級妖怪が集合していた。輪の中心の黄泉を筆頭に、息子の修羅、飛影、酎、鈴駒、陣、凍矢、鈴木、死々若丸……いずれも、第一回魔界統一トーナメントで決勝トーナメントに進みつつも敗者となり、現在は魔界パトロール隊として人間界と魔界の治安のために勤務している面々である。

「今日集まってもらったのは他でもない、例の件についてだ。」
「何か進展があったのか?」

鈴木の言葉に黄泉は頷いた。

「先程、渋谷・新宿ブロックの妖気探知計が“例の物”を捉えた。」
「何だって!?」

一同がその言葉でざわめいた。

「それで、何か事件があったのか?」
「今のところは特にないようだ。しかも感知したのはほんの一瞬、盗人はまた行方を眩ましてしまった。」

飛影が苛立った様子で呟いた。

「チッ、厄介な話だぜ。邪眼で見えないのに妖気計が先に関知するようではオレは用無しだな。」
「ひがむな飛影、お前にはまだ働いてもらわねばならん。“あれ”を使うためには“器”が必要だ。それを見つけられるのはお前しかいない。」
「器?」
「そうだ。」

鈴駒の問いに黄泉が頷いた。

「“器”、すなわち空の肉体、魂の器だ。盗まれた物は魂から切り離された、いわば魂の一部。それだけでは如何に優れた妖術師でも何もすることは出来ない。」
「だが黄泉、それを言うなら魂の一部と肉体だけでも何も出来んだろう。使いこなすには魂を補完する術が必要だ。」
「そちらの面から魔界待機組に調査を頼んである。高等妖術師は魔界でも少ないからこちらのアプローチの方が早いかも知れんな。」

黄泉の言葉に、一同がしばらく沈黙した。飛影がうんざりしたように呟いた。

「フン、ぞろぞろ動いたところで何の解決にもならないなら、オレはこの件から手を引かせてもらう。」
「それは許さん。お前は軀から無理矢理借りてきている身だからな。」

軀の名が出た途端、飛影は黙り込んでしまった。黄泉はメンバーのまとまりのなさに疲れ溜め息をついた。険悪な雰囲気を変えるように、陣が口を開いた。

「やっぱ、蔵馬を入れた方が早く解決しね?」
「何だって!?」

皆が驚いて陣を振り返った。が、修羅が同調した。

「ボクもそう思ってた。パパだけじゃ頼りないよ。」
「なっ!」

黄泉の動揺ぶりに、一同は吹き出しそうになったのを何とか我慢した。修羅は小生意気な口ぶりで話し続けた。

「ボクは蔵馬って生意気で好きじゃないけどさ、確かに頭いいもん。パパがアイツに余計な心配させたくないってのも分かるけど、そのせいでこんなに手間取ってるんじゃボクらだっていい迷惑だよ。トーナメントも近いのに特訓も出来ないしさ。」
「オレは反対だ。蔵馬は妖力も封印し、魔界とはもう縁を切っている。それをオレ達が不甲斐ないからと言って引き戻していいのか?」

凍矢が珍しくはっきりと自分から意見を主張した。死々若丸が首を振った。

「いや、蔵馬はまだ魔界と縁を切った訳じゃない。本当に縁を切りたいのなら妖狐の力を“封印”じゃなく“抹殺”するはずだからな。万一の機会に備えて保険を掛けるというのはつまり、妖怪であることを捨てられないのさ。」
「オレも同意見だ。蔵馬のことは蔵馬に片付けさせるべきだ。」

飛影の言葉で一同の間に緊張が走った。酎が慌ててたしなめた。

「オイ飛影、事件の中身に関してその名を口に出すのは御法度だぞっ!」
「いい加減にしろ。オレはコソコソ隠れて何かするのは性に合わん。」

黄泉はしばらく考え込んでいたが、諦めたように溜め息をついた。

「……そうだな、相手の出方が分からない以上、蔵馬本人に正直に話した方がいいかも知れんな。」

飛影がようやく頷いた。そして、低い声で呟いた。

「“妖狐蔵馬の封印”が、盗まれたことをな。」
「……」

しばらくの沈黙の後、黄泉が一同を見(?)渡しながら切り出した。

「仕方ない、蔵馬には後でオレが話しに行こう。」
「え? おい凍矢、ライバルがあんなこと言ってるけどいいのか?」
「出し抜かれるぞ?」
「何の話だっ!!」

早速ツッコんだ鈴木と陣に凍矢は真っ赤になって叫んだ。黄泉は余裕の微笑を浮かべ、彼らを振り返って尋ねた。

「それよりパトロールで何か変わったことはなかったか?」
「昨日渋谷で墜落してきた男がいたけど……」

鈴木が代表して手短に昨夜の件を話した。凍矢が付け加えた。

「その男、蔵馬の知り合いだったぞ。同じ大学に通っているそうだ。」
「本当か!? まさか今回の件と何かの関係が!」
「そうかぁ? でも確かに、ちょっと人間離れした美形だったけどな。」
「蔵馬が好きそうなタイプだったなぁ。」
「む……」

陣の茶々に凍矢が反応した。一見無表情を装う黄泉も、内心穏やかではない様子だった。

「蔵馬といえば、オレにも報告がある。」

飛影が言った。

「鴉が蔵馬の近辺に出没している。既にヤツと接触しているかもしれん。」
「鴉!? えっ、あの野郎生きていたのか!?」
「鴉ってまさか、あの戸愚呂チームの“変態”!?」

武術会の参加メンバーがざわめいた。

「そういや、霊界のコエンマも蔵馬に接触しているという噂は本当か?」
「ああ。オレも見たぜ。真っ赤なフェラーリは目立ちまくるからな。」
「アイツは一体何をしに人間界に来てるんだ。」
「勿論、蔵馬がお気に入りだからだろ。」
「それだけじゃなさそうだぜ。最近あの男に厄介な仕事を頼まれた。」

飛影の言葉に一同が注目した。

「コエンマの奴がダイヤモンドの首飾りを探してほしいと言ってきた。詳しくは知らんが、蒼龍妃が身につけていた品で霊界の秘宝として宝物庫に眠っていたらしい。それがここ数十年の間に行方不明になったそうだ。」
「蒼龍妃? あの“魔界史一の悪女”って呼ばれてる伝説の女か?」
「それが蔵馬とどういう関係が……」
「知るか。ただ、コエンマが『蔵馬の周辺で見つかる可能性が高い』と言ったんだ。」
「!」

黄泉の顔に不意に緊張が走った。

「待て飛影、“蒼龍妃の首飾り”だと?」
「ああ。」
「……」

急に黙り込んでしまった黄泉を、一同は怪訝な顔で彼を見つめた。飛影が忌々しそうに呟いた。

「その件も、蔵馬本人には話さぬよう言われているがな。いや、本当は『誰にも話すな』と言われていたことだが。」

酎が頭を抱えて叫んだ。

「かーっ、確かに飛影じゃねえが面倒臭ぇ! 何で霊界の奴らがコソコソしてそんなことを!」
「確かに妙だな。高価な財宝だというだけでは霊界はそこまで探さんだろう。」

鈴木が酎の言葉を受けて訝しんだ。飛影がそれに頷いた。

「前に霊界の宝物庫に押し入ったことがあるが、あそこの宝は皆“保管”というより“封印”に近い陳列だったぜ。蒼龍妃の首飾りにも何かあるんじゃないのか?」

飛影は話しながらちらりと黄泉を見た。黄泉は小さく首を振った。

「オレは知らん。」
「んじゃそれもついでに蔵馬に訊いてくれよ。」
「気が進まんな。」

陣の言葉に黄泉が溜め息混じりで応えた。

「オレの記憶に間違いがなければ、その首飾りは元々蔵馬が持っていた品だ。で、蔵馬にそれをやったのは、あいつの昔の男だからな。」
「何だって!!?」

場の全員が、“蔵馬の昔の男”という言葉に反応して叫んだ。

【第7章 完】

第6章 墜落事件

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蔵馬が清春の車で家まで辿り着いた三時間後。渋谷の街を、三人の妖怪が歩いていた。かつて暗黒武術会で蔵馬達と出会い、その後彼女と共に黄泉の軍門に下ったこともある男達……陣・凍矢・“美しい魔闘家”鈴木であった。

「ふー、ったく、このガキ共は何でこんな時間にこんな所うろついてんだ!?」

鈴木が呆れたように大きな溜め息をついた。

「金曜日だから尚更人の出が多いな。魔界じゃなかなか見られない光景だ。」
「犯罪の巣窟だぜ。」
「そう言うなって鈴木、そんな所の治安を守るのがある意味オレらの仕事だろ?」
「そうかもしれんが……」

鈴木は渋い顔でズカズカと足を速めた。

「……とりあえず、今のところは平和だな。」

凍矢が呟いた。

「ああ。」

鈴木が頷いた。

「トーナメントももうすぐだしな。事件のない方が有難いぜ。」
「でも体が鈍りそうで参っちまうだ。今回は蔵馬も稽古つけてくれねぇしな。」

しばらく三人の間に沈黙が広がった。言葉を漏らしたのは凍矢だった。

「問題はその蔵馬だが。」
「ああ、まったく。本人が気づかないうちに事を片付けろなんて黄泉も無茶を言うぜ。」

鈴木が忌々しそうに呟いた。

「まあ確かに人間界に被害が出たら大変なことになるからな。早く見つけて対処しなければ。」
「でもオレ達じゃパトロールするくらいしか出来ないだ。飛影の邪眼で見つからないなら打つ手なしだろ?」
「それでも準備しておかなければいけないのさ。確かに、人間界に被害が出ないよう“あれ”に対処するにはS級クラスの妖怪が必要だろうからな。」

何やら曰くありげな会話をしながら、三人は更に人の多い渋谷駅前の方角へ近づいてきた。

「……そうだ凍矢、お前最近蔵馬に会ってるか?」
「いや。……それがどうかしたのか?」
「だーっ、そんなんじゃ黄泉に取られちまうだ!! コエンマも危険だぞ!!」
「……何の話だっ!?」
「オレ達の仲じゃないか、隠すこともないだろ。」
「だから何の話だっっ!!」
「お前、武術会の後からずーっと蔵馬との再会を待ってたもんな。」
「黄泉の件でも真っ先にOKしたのはオメだったしな。」
「今回蔵馬が特訓してくれないって知ってすげー落ち込んでたしな~っ。」
「違ーうっっ!!」

ヒット&アウェー、言うだけ言って一人でさっさと逃げるように先へ進んだ鈴木が、ふと空の一点の異変に気づいて立ち止まった。と同時に、後ろで小競り合っていた陣と凍矢も何かに気づき同じ方向へと視線を向けた。
上空から空気を切り裂く音が聞こえてくる。

「……人が、降ってきた……!!」

……三人の視線の先から重力落下の式に従い墜落してきた物体は、何と人間の男性だった。駅前にたむろしていた少年少女達も事件に気がつき悲鳴をあげた。

「オレが行くだ!!」

とっさに陣が風を操り、宙へと舞い上がった。

「……とっ……!! 危ねぇ、ギリギリだった!」

地面すれすれまで落ちてきた男を、衝撃を吸収するようにフワリと風で包み込み、陣が地面へと降り立った。群集も男が無事に助けられたことを知って安堵の溜め息を漏らした。

「すげーなお前ら!」
「さすが妖怪は違うぜ!」
「ねえ、その人大丈夫!?」

野次馬達の一部が英雄となった陣達を取り囲んだ。陣はそれに答えず、抱えていた男をそっと地面に寝かせた。

「……ちょっと、この人、見たことない?」
「代々木公園でよく歌ってる人じゃないの?」
「『メンズB』でモデルやってる奴だ!」

集まってきた少女が意識のない男を見て騒ぎ始めた。墜落してきた人物……それは何と、あの鈴井清春だった。
ぴくりとも動かない清春に鈴木が近寄り、脈を取った。

「……生きてる。怪我もなさそうだな。気を失っているようだが……。」
「ただの人間が何故、建物も何もない所から落ちてきたんだ?」

凍矢がそう言って、清春が降ってきた方角を見上げた。109 などのビルが立ち並ぶ渋谷駅前だが、彼が墜落してきた地点の上空には明らかに虚空が広がるばかりだった。

「……それにしても、極端に霊力値が下がっている。こんな状態で外に放置されていたら雑霊に体を乗っ取られかねないぜ。」
「一時的に何らかの理由で消耗したのだろう。まあ一晩も休めば回復するさ。」
「でも、こいつ何で空から落ちてきただ?」

と、その時、清春が目を覚ました。

「……うっ……」
「気がついたか?」
「……え……えっ!? ここは……!?」
「渋谷駅前だ。オメ、今空から降ってきたんだ。」
「えっ!?」

慌てて飛び起きた清春はぐるりと周囲を見渡し、自分が今いるのが渋谷駅前であることを確認して蒼白になった。

「……何でオレ、こんな所に……しかも、空から降ってきたって……」
「こいつがお前をキャッチしたんだぜ。」

鈴木が陣を指差した。

「……有難うございます。助けてもらって……よく分からないけど、助かりました。」
「オメ、家はどこだ?」
「麻川駅の近くなんですけど……」
「ここからは随分遠いな。終電ももう終わっただろ?」
「というか……オレ、家で寝ていたはずなんですけど……何でオレ、着替えてるんだろう。靴も履いてるし……。」

蒼い顔をした清春の肩を、鈴木がぽんと叩いた。

「まあいいさ、オレ達が送ってやるよ。こういう時のために車買ったんだから。」
「よく言うだ。本当は樹里とのデートのためじゃない?」
「何であのウナギ女とオレがっっ!?」
「うなっ……??」
「下らない会話は後だ。行くぞお前達!」

凍矢の一言で陣と鈴木が一旦休戦した。あまり遠くないところに停めてあった鈴木の車に乗り込み、四人は麻川駅方面へと向かった。

「……しっかし、人間にしちゃエラい綺麗な顔した男だな。」

車内で鈴木が隣の凍矢に囁いた。

「どう見ても妖怪の顔だぜ。夢魔とか吸血鬼とか、“夜の眷属”の顔立ちだ。」
「確かに、お前より簡単に伝説作れそうだな。」
「あのなぁ!」
「……オメ、何か妖怪に恨み買ったりしてないか?」

運転席と助手席の不毛な会話を無視し、後部座席で陣が清春に尋ねた。

「……何もないと思います。妖怪の知り合いはいるけど……。」
「一番考えられるのは空飛べる妖怪にさらわれて、いきなり落とされたってところだけどな。」
「というかそれくらいしかないだろう。他に何かあるか?」
「うーむ……。」
「霊力が急激に消耗しているのもおかしいな……お前、本当は霊能力者で妖怪と戦ったりしてんじゃないのか?」
「違いますよっ!」
「そっかぁ? ……お前細いけど結構締まった筋肉持ってるぜ。鍛えれば結構使い物になると思うぞ。」
「いや、確かに少し運動はやってますけど……別に戦う理由もないし……。」
「そうだ!」
「何だ陣?」

陣の反応に助手席の凍矢が振り向いた。

「麻川駅って西塩野の隣だろ? “彼女”の家、近いんでない?」
「『彼女』?」
「……バカかっ!!!」

きょとんとしている清春をよそに、過敏に反応したのは凍矢だった。

「真面目な話をしている時にお前は一体何を言い出すかと思えばっっ!!」
「まあ落ち着け凍矢、そこでムキになるのは何かある証拠だぞ。」
「そーだそーだ。オレはただ、彼女なら何か分かるかもなって言いたかっただけだ。」
「なっ……!!」
「やー、紅くなってもう凍矢ってばカ・ワ・イ・イ♪」
「鈴木……貴様ぁぁっ!!」
「わ、バカ!! 車が揺れるっっ!!」

怪訝な顔をしながらやり取りを聞いていた清春は、三人の口に上っている“彼女”が三時間前まで自分の助手席に乗っていた女性だとは全く思いもしなかった。

【第6章 完】

第5章 事件の幕開け

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十分後……清春の運転する白い S15 <シルビア> の助手席で、蔵馬は昨夜の鴉の話を思い出していた。

『単刀直入に言えば、霊界は“蒼龍妃の首飾り”を持ち出したのは黒鵺だと考えているようだ。』

鴉はブランコの周辺に巡らせてある柵に手を掛けて言った。

『噂を聞いただけだから詳しくは知らんが、黒鵺は実は最近まで霊界の重要な役職を務めていたらしい。しかし、数十年前に「もうすぐ現世に戻る」と言って消えてしまったそうだ。』
『本当か!?』

蔵馬が叫んだ。

『あいつはもう、転生しているのか……!?』
(黒鵺に、また会える……!!)

千年間待ち焦がれた再会の時がとうとう来たのだろうか。体の震えるのが自分でもよく分かった。

(いや……記憶を失った魂はもう“黒鵺”ではない。期待しても仕方ない。)

そう慌てて否定してみるものの、高鳴る胸は全く抑えられそうにない。が、鴉は手を掛けていた柵に腰掛け首を振った。

『ところが、だ。霊界は黒鵺がどこに行ったのか把握していない。つまり黒鵺は正規の手順、すなわち“魂の浄化”と“転生”を踏まずに行方を眩ましたのだ。霊界は黒鵺が生前盗賊で、蒼龍妃の財宝を蒐集していたことを知っていた。それで疑いを向けたというわけだ。』

蔵馬にも思い当たる節がある。コエンマが自分の元に何故あれほど頻繁に足を運ぶようになったのか。真の理由はそこだったのかと、蔵馬はぐっと唇を噛んだ。

『霊界は用心深い。黒鵺が現世に戻ったら必ずお前の元に現れる……そう考えて、お前を監視している。』

蔵馬の考えを見透かしたように鴉が言った。

『残念だが、黒鵺はオレの元には来ていない。』
『私もそう思っていた。今のお前にすれ違ってもきっと黒鵺は気づかない。それにお前は暗黒武術会の時より、更に人間臭くなった。』

蔵馬が反応した。

『……一年前、妖力を封印したんだ。』

木の葉がざわめいた。

『身辺が落ち着いたから、しばらく戦いから離れることにした。そうしたらあの強大な妖力は邪魔なだけだ。だから、』
『それで今のお前から妖力を感じないわけか。』

鴉の口許が笑った。

『お陰でとても歪に見える。妖怪の肉体に霊力を持つ……今のお前は奇妙な存在だ。』
『肉体は妖化してしまってもうどうにもならない。霊力は“南野秀”が生来持っていたものだ。』
『その微細な霊力で植物の武器化が出来るようになるまでは相当苦労しただろう。』
『余計なお世話だ。』
『黒鵺がいたら、お前は妖力を封印したりはしなかっただろう?』
『……』

蔵馬の顔が曇った。……それからしばらく二人とも黙り込んだ。夜も更けて風が少し冷たく感じられる。沈黙を破ったのは蔵馬だった。

『正規の手順を踏んでいないとしたら、霊体はどうなっている?』
『霊体のまま彷徨っているか、何かに憑依して隠れているか、あるいは何らかの理由で霊体ごと消滅してしまったか……どれか一つだ。』
『三つ目でないことを祈るしかないな。』

蔵馬がうめいた。鴉が立ち上がった。

『いずれにせよ、大事な“弟”が追われているなら私はかくまうまで。霊界の先回りをして事件を片付ける、それだけだ。』
『オレも協力する。今のオレでは役に立つか分からないが。』

蔵馬の心の中に、鴉との奇妙な連帯感が生まれていた。鴉は小さく溜め息をついた。

『まずは黒鵺だが消えた首飾りも探し出さねば。明日辺り霊界図書館に忍び込んでどんな代物か調べておくか。』
『多分、知ってる。』
『何?』
『元々オレが持っていた物だから。』

鴉の眉が動いた。蔵馬はぼんやりと風にざわめく新緑を眺めていた……

「やっぱりさ、何か悩んでるね。今の南野さん。」

運転席の清春の言葉に、蔵馬は顔を上げた。

「心がどっか行っちゃってる。よっぽど大事なことなんだ。」
「ゴメン。」
「いいよ、別に。話せないことなんだろ。」

昨日弱音を吐いていたのとは違うことなのだが、悩みが増えたのは事実だった。

Trrrrrr…

急に、ダッシュボードの上に置かれていた清春の携帯電話が鳴った。

「ゴメン南野さん、鴉だと思うから出てくれない?」

清春は車内に流れていた洋楽のボリュームを下げた。液晶画面には確かに“烏丸了”の名前が表示されている。

「はい。」
『その声、南野か?』

間違っていた場合を考えてくれたのだろうか、鴉は蔵馬を人間界の名で呼んだ。既に清春から彼女も加わるという連絡が伝わっているようだ。

「ああ。まだ仕事か?」
『済まん、今にも自殺しそうな客がやってきて手が離せなくなった。行けなくなったと清春に伝えてくれないか。』
「はぁ!? ちょっと待てよ、“財布”が来なかったらどうすんだよ! おい鴉!! ……切った!」
「え、まさか来れないって?」
「これから自殺志願者を説得するらしいよ。」
「何だよそれ! ……うわっ!」

がっくり来た清春のハンドルワークが乱れた。彼は慌てて運転を立て直しながら蔵馬に遠慮がちに尋ねた。

「どうする?」

蔵馬はちらっと清春の携帯の時計を見た。八時十分前……何とも中途半端な時間である。

「とりあえず、何か食べようか。」
「じゃあ何にしよう?」

何気なく窓の外を眺めて料理屋を物色していた蔵馬の眼に、ふとラーメンの屋台が目に止まった。

「あ、ラーメンでもいい?」
「ラーメン?」
「オレの友達がやってるんだ。ちょっと遠いけど……」
「オッケー、ナビ頼むよ。」

もしかしたら、今回の事件を知らなかったのは自分だけではないのか。とにかく、彼に聞けば何か分かるかもしれない。

「らっしゃい! ……おあっ!?」
「しっ! “南野”です、久しぶり。」

繁盛している屋台を一人で切り盛りしていたのは、蔵馬の盟友・浦飯幽助だった。

「久しぶりだな南野! 二ヶ月ぶりじゃねーか!」
「ゴメン、大学通い始めて色々忙しくてさ。」

幽助の挨拶はいかにも取ってつけたようだった。蔵馬が先回りしなかったらこの男は絶対に“蔵馬”と呼んでいたに違いない。と、幽助は蔵馬の背後に立つ長身の青年に気がついた。

「何だぁ!? 大学入って早速オトコが出来たか!?」
「違うよ。もう一人と三人で食事の予定が、来られなくなったらしくて。」
「こんにちは、鈴井です。」

清春は笑顔で幽助に挨拶した。幽助が声のトーンを潜めて蔵馬に囁いた。

「おい、この男、妖気も何もねーけどホントに人間?」
「君よりずっと妖怪っぽいよね。」

冗談混じりに蔵馬が答えた。それにしても、来られなくなったもう一人が鴉だと知ったら幽助もきっと驚くだろう。

「特製ラーメンを一つ。鈴井さんはどうする?」
「じゃあオレもそれを。ああ、“鈴井さん”なんてやめてくれよ。“清春”でいいから。」
「何言ってんの、オレは後輩だよ?」
「じゃあオレも呼び捨てするってことで。“秀”って呼んでもいいかな。それとも“南野”? 名前の方がいいか。」
「おーぅ、おアツいねぇ。」
「幽助は黙ってろっての。」

蔵馬はむっとした表情を見せた。

「最近他の人に会ってる?」
「ああ、桑原と雪菜ちゃんはよく来るぜ。陣とか酎とかあの辺の連中も時々。」
「ぼたんさん達には?」
「まあたまに。でも霊界 <あっち> の連中はオメーの方が会ってる回数多いんじゃねーの?」
「一人だけね。」

ぶすっとした顔を作りながらも蔵馬は、探りを入れるのに都合のいい方へ話が流れたことに内心喜んだ。

「君はその“彼”に会ってる?」
「最近はねーな。」
「何か、ここ一年の間に事件が持ち込まれたことはないか?」
「事件?」

蔵馬の問いに幽助は首を傾げた。

「ねーよ。そんな面倒なのがあったらお前にも連絡するぜ。」
「そっか、ありがと。」

幽助は嘘をつくのが下手だ。だからこそ彼は本当に何も知らない、と蔵馬は判断した。

「また分からない話してる。」

清春がくすくす笑って蔵馬を見た。彼女は小さく肩をすくめた。と、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「おぅ、今日も売り上げに貢献してやりに来たぞ!」
「えっ? 桑原君!」
「おおっ!? 南野じゃんか! おー久々っ!!」

桑原は幽助よりは“南野”の名に慣れているようだった。彼の後ろに今日は雪菜の姿がなかった。

「そいつは?」
「あ、鈴井です。君の友達……でいいのかな?」
「いいよそれで。」

蔵馬は笑顔で頷いた。まだ会って二日目だが、話がややこしくなるのでそういうことにしておこう。ところが桑原は案の定、別の捉え方をした。

「友達、じゃなくてもっと深い関係とか? うあ、す、すんませんっ!!」

蔵馬の殺気は妖気を封印した今でも相変わらずの恐ろしさだった。

「はい、特製ラーメンお待ちどぉ!」

幽助からラーメンを受け取り、蔵馬は早速一口麺をすすった。また腕を上げたな、と彼女は自然に笑顔になった。幽助は清春にもラーメンを手渡しながら、蔵馬の代わりに桑原へ話を振った。

「桑原、お前のところにコエンマから何か言ってきてないか? こいつがここ一年の間に変わったことがなかったかって。」
「『コエンマ』?」

割り込んできた清春に「しまった」と幽助は縮こまった。失言の彼を一瞬睨みつけた蔵馬が、諦めて清春に簡潔に説明した。

「人間界と魔界の他に、死んだ魂が辿り着く“あの世”があるんだよ。コエンマはそこの御曹司。閻魔大王の息子さ。」
「閻魔大王!?」
「ああ。」

蔵馬の手が胡椒に伸びた。隣の清春がくしゃみをするほど彼女は遠慮なくそれを麺にぶちまけた。「ゴメン」と一言謝ってから、蔵馬は改めて幽助達を清春に紹介した。

「幽助はこの前まで霊界探偵をやっててね。霊界の権力者とも直接会って話せる関係なんだ。桑原君も彼と一緒に色々な事件を解決してる。」
「他人事みたいに言うなって。オメーだって一緒にやってきたじゃねーか。」
「それにお前の方がコエンマには気に入られてるだろ。フェラーリが興譲大学の前に停まってるの見たってアネキが言ってたぜ?」
「えっ、まさかあの、学校で噂のフェラーリ!?」

蔵馬は桑原と清春の言葉を黙殺し、幽助が意図した味とは全く違うであろうスパイシーなラーメンを無表情ですすった。よく食べられるもんだと清春は感心した。桑原がぽんと手を叩いた。

「そうだ、オレ達じゃねーけどこの前、飛影がコエンマに会ったらしいぜ。何か探し物頼まれたとかブツブツ言ってたっけ。確かダイヤの首飾りとか……」
「!! その話、詳しく聞いてないか?」
「いや、オレもそれ以上は知らねぇけどよ。」
「そういや桑原お前、何だかんだ言って結構飛影と会ってるよな?」

二人の会話に、幽助が他の客の丼に替え玉を追加しながら割り込んだ。

「ああ。あの野郎、何故か時々雪菜さんに会いに来るんだ。くっそ、あいつやっぱり雪菜さんに横恋慕してんじゃねーのか!?」
「それは違うと思うけど……」

蔵馬が控えめに訂正した。未だに彼が真実を知らないとは気の毒にもなってくる。桑原は忌々しげな顔をしていたが、ふと思い出したように呟いた。

「そういやこの前アイツが愚痴ってたな。オメーが結界を張るようになってから“見えにくくて”仕事が面倒になったとか言ってたぜ。」
「オレが?」

蔵馬が怪訝な顔をした。確かに最近、妖力を封印してから身の安全のため身の回りに簡単な結界を張るようになったのだが、それが飛影に何の関係があるというのか。手が空いた幽助がカウンターから身を乗り出した。

「そういやオレも聞いたな。飛影じゃなくて酎と鈴駒なんだけどよ、魔界パトロール隊の人間界滞在組にお前を護衛しろという命令があったって聞いたぜ。あれ、何で本人が知らないんだよ。」

蔵馬の顔色が変わった。

「……何でオレを守れって?」
「いや、力を封印してしまっただろ。でもお前に恨み持ってる奴はまだゴロゴロいるから、そいつらからお前を守ることになったって聞いたけど。え、それお前の頼みじゃないのか?」
「オレがそんなこと、他人に頼むわけないだろう!」
「じゃあ誰が言い出したんだ?」

幽助達が顔を見合わせた。蔵馬の顔は真っ青だった。

(知らないうちに“監視”されていた……)

誰の依頼かは知らないが、幽助の話からから判断してここ一年以内のことだろう。と、清春が居心地悪そうに顔を上げた。

「あのさ、もしかして、オレが聞いていたらマズい話?」
「別にそういうわけじゃないけど……まあ、そうかもね。」

蔵馬は首を振った。今日はもう、何も考える気になれなかった。

【第5章 完】

第4章 蒼龍妃の首飾り

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翌日。蔵馬は朝からずっと“心ここにあらず”の状態だった。担当教官の都合で急に二限が休講となり、彼女と友人二人は今、構内のカフェテラスで雑談に花を咲かせていた……はずなのだが……

「……というわけでさ、あれ? ねえ秀、聞いてる!?」
「……」

昨夜のことが頭から離れない。鴉の話は、蔵馬にとって無関係では済まされない事件を予感させていた。

「秀っっ!!」

友人の大きな声で、ようやく気がついた。

「あ、御免。」
「どうしたの? 何か心配事でもあるの?」
「……」
「顔色悪いよ。具合悪いの?」
「大丈夫。」

ポーカーフェイスが取り繕えない状態の自分に、蔵馬は小さく溜め息をついた。

「あのさ、」
「何?」
「文学部の三年生でさ、鈴井清春って人、知らない?」
「!」

蔵馬の問いに、二人の友人は顔を見合わせた。

「勿論知ってるわよぉ!! チョー有名人だもん!!」
「あのすっごい美形で“ビジュアル系”な先輩でしょう!?」

知らなかったのは自分だけか、と蔵馬は驚いた。

「どんな人?」
「超カッコいいよ! メチャクチャ歌がうまくって時々渋谷で歌ってるんだけど、スカウトが何人も来てるらしいの。」
「歌?」
「それに時々『メンズB』のモデルやってるよ! 190 センチあるらしいし脚もめちゃ長いし何たって顔がキレイだし!」
「……」

予期しなかった答えに蔵馬は怪訝な顔をした。『メンズB』とは今日本で一番売れている男性ファッション雑誌の名前である。

「で、何で彼のこと知りたいの?」
「ちょっと。」
「え、秀、まさかっ!!」

カッパーブラウンの髪の友人が声を高くした。

「まさか秀、今度は鈴井さんをターゲットに!?」
「は?」
「さっきからの上の空はまさか鈴井さんを想ってっ!?」
「何の話だよ!」
「何の話?」

隣から急に男の声がして、三人は振り返った。

「あ!」

三人を上から覗き込むようにして立っていたのは、噂の張本人・鈴井清春だった。

「鈴井さんっっ!!」

言葉を忘れた蔵馬の代わりに友人二人が同時に叫んだ。

「すごーい、学校一の美青年に声かけられちゃったよぉ!」
「こんな間近で鈴井さんを見られるなんて……」

今日の清春はブランド物の黒いロゴTシャツの上に真っ白なシャツを重ね、シルバー製のペンダントを三つ重ねづけした服装だった。そのアクセサリーが黒鵺のペンダントを思わせ、蔵馬の眼が少し遠くなった。

「おはよう南野さん。昨日はどうも。」
「こちらこそ。」
「昨日!?」

清春の挨拶に、早速二人の友人が食らいついた。

「知り合いなのっ!?」
「いや、昨日初めて会ったんだけど。」
「ちょっと秀!! 昨日ってアナタ、あたし達と一緒だったんじゃ?」
「まさかあの後に!?」

ガックリ来る……のが蔵馬のいつものパターンだが、今日の彼女は違っていた。清春の顔を食い入るように見つめ、一言一言を聞き漏らさぬように神経を集中させている。その真剣な様子に、黒髪の友人が茶髪の友人をつついた。

「ちょっと、“違う”よ!?」
「うん、何だかマジっぽくない!?」
「これは、」
「本命ですか!?」

二人の友人はひそひそと耳打ちし合い、事の成りゆきを好奇心旺盛に眺めていた。清春はそれに気づかぬ様子で話を続けた。

「南野さん、今夜空いてる?」
「えっ?」

月曜テストが、と言いかけてやめた。黄泉でも来るなら断る口実に使うところだが。

「まあ。」
「よかった! いや、実は鴉が昨日言ってた食事ご馳走してくれるって電話してきてさ。南野さんも誘いたいけど連絡先が分からないから探しておけって言われて。」
「鴉が?」

蔵馬は明らかに嬉しくなさそうな顔をした。

「からすって、何?」

黒髪の友人が秀をつついた。

「知り合い。」
「麻川駅前で占いやってる若いお兄さん、知ってる? “からすま・さとる”、だから“からす”。」

素気ない蔵馬の返事を清春が補足した。本当はその逆で「鴉だから烏丸」なのだが、清春はこの辺の事情も知った上でうまくかわしたようだ。そして、その返事にまたしても友人達は過敏な反応を示した。

「えええっ!? あの超絶美形占い師っっ!? あたしも占ってもらったことあるよ!」
「ちょっと、秀ってばあの人とも知り合いなのっっ!?」

もうどうでもよくなってきた……。清春がはたと気づいて心配そうな顔になった。

「あ、でも南野さん、ひょっとしてあいつと仲悪い?」
「いや、昨日まではそうだったけど、和解した。」

わだかまりが完全に消えたわけでもないが、真実を知った以上彼を邪険に扱うわけにはいかない。それに“例の事件”については結託した同志なのだ。……清春はそんな蔵馬の内心を知らず、単純に安堵した。

「よかったぁ。オレ今日はゼミだから夕方まで動けないんだけど、六時くらいでどうかな?」
「どこ?」
「迎えに行くよ。車出すから。例の公園でいい?」
「うん。」
「あ、ちょっと時間ずれ込むかもしれないから何かあったら電話するよ。よかったら番号教えて。」
「そうだね、えっと……」

素直に携帯電話の番号を教える蔵馬を、友人達は信じられないものを見るような目で眺めていた。

「すごーい、秀の電話番号って、多分学内で知ってんのあたし達と彼だけだよ。」
「あんなにガード甘いなんて、これはやっぱり……」

清春が教えられた番号を打ち込み、蔵馬の携帯に発信した。電子音が一回だけ鳴って切れた。蔵馬は着信履歴を確認した。

「それがオレの番号。よかったら登録しといて。また何かあったら使うかもしれないしさ。」

清春がウインクした。それを見て蔵馬は微笑した。

「じゃあ、また後で。」

去っていく清春を見送る蔵馬を、友人達はキラキラ瞳を輝かせ見つめていた。蔵馬が振り返りギョッとした。

「何!?」
「秀、おめでとう! とうとう春が来たのねっっ!!」
「悔しいけど秀になら似合うわっっ!!」
「は?」

思いっ切り声が裏返ってしまい、蔵馬は一つコホンと咳払いした。が、確かに入れ込んでいる自分を認めないわけにはいかない。清春の笑顔はあの黒鵺の笑い方よりはずっと毒気が少ないが、蔵馬にとって懐かしい人の面影をそのまま宿していることに変わりはなかった。

「別に、そんなんじゃないよ。」
「でも、彼ならホント秀にお似合いだと思うよ。背も秀より高いし、モデルとか何とかで出席日数が少ないくせに成績は学年ダントツのトップなんだって。」

蔵馬の身長は 170 センチを軽く超えているので平均身長の男では格好がつかないのだった。

「何か魔界史研究科のホープとか言われてるらしいよ。学部生なのにもう研究論文が出てるって噂だし。」
「魔界史研究科?」

魔界との交流が進み妖怪の存在が認知され始めてから、人間界でも二つの世界の相互理解を進めるための研究が始まった。この興譲大学でもつい昨年から文学部魔界史研究科を筆頭に、いくつかの新研究科が誕生したのである。

「何の研究してんの?」

魔界史なんて、自分だってここ千年のことなら研究するまでもなくよく知っている。

「よく知らないけど、この前何かの表彰受けて学内新聞に載ってたよ。」
「あー見た見た! 論文の表彰でしょ? “魔界史一の悪女”の研究をしている、とか書いてなかった?」

その途端、蔵馬の顔色が変わった。

「“蒼龍妃”……」
「それだ! 何で秀、そんなこと知ってるの!?」

蔵馬の表情は、友人達が驚くほど厳しく強張っていた。

「ゴメン、今日は先に帰るよ。」

午後からの授業を珍しく放棄し、蔵馬は大学を後にした。

「やっぱ何か変。
「夜に食事とか言ってたけど、大丈夫かな?」

友人達は顔を見合わせて心配そうに首をかしげた。

家に辿り着き、蔵馬はカバンを投げ出して一目散にベッドに向かった。どさっと倒れこむと、ベッドは鈍い音を立てて持ち主を包み込んだ。

「首飾り、蒼龍妃、黒鵺、そして鈴井清春……」

真っ白な天井をぼんやりと長めながら、昨夜の鴉の話に出てきた注目すべきキーワードを、蔵馬は一つずつ口に出して数え上げた。彼女の頭の中でもそれらの単語の繋がりはまだ緩く、はっきりとした形を成していなかった。

『何、これ?』

遠い記憶……そう、千年以上昔の、ずっと忘れていた出来事だった。

『すげー金剛石だろ? 一個で百カラットはあるんじゃないかな。』

繊細な細工を施されたプラチナの首飾りに飾られたダイヤモンドを指して楽しそうに語ったのは、当時の相棒・黒鵺だった。蔵馬は今、テーブルの上で黒のビロード生地に乗せられた数々の宝飾品に感心している最中だった。

『すごいな、さすがは魔界史一の悪女にして権力者・蒼龍妃のコレクションだ。それに、一万年前の品とは思えないほど状態がいい。』
『あんな昔にこれだけ見事な宝飾品を一人で揃えられるんだから、その権力も推して知るべしだよな。』
『それをこうやって蒐集してるお前もすごいよ。』
『そりゃあオレは魔界一蒼龍妃を愛してる男だから。』
『歴史オタク。』

冷ややかな蔵馬の言葉に黒鵺は少々ムッとした表情を見せたが、次の瞬間にはとっくに機嫌を直し、手にした首飾りをうっとり眺めていた。

『確かにこの首飾りもすげーけどさ、きっとこれを着けてた蒼龍妃はさぞかしいいオンナだったんだろうなぁ。』
『アホかお前、一万年前に死んだ女に欲情してどうするよ。大体、蒼龍妃って処刑見物が趣味とかいう加虐愛好者 <サディスト> だったんだろ。お前、ひょっとして“M”?』
『バーカ。蒼龍妃は“魔界史一の悪女”かつ“魔界史一の美女”なんだぜ。ああ、オレも伝説の美女に狂わされてみてーなぁ……。』

夢想(妄想だろうか?)に浸り切っている黒鵺に、蔵馬は面白くなさそうな視線を向けた。

『アホらしい。「女なんか食い物だ」が信条じゃなかったのか?』
『オレだって相手は選ぶぜ? やっぱ美人で“上手”な方がいい。』
『サイッテー。』

露骨な言葉に、蔵馬はあからさまな嫌悪の表情を浮かべ顔を背けた。と、不意に黒鵺が先程から手にしていた見事なダイヤの首飾りを掲げ、正面に立っている女の首に重ね合わせる仕草をした。そっぽを向いていた蔵馬が気づいて振り返った。

『何?』
『似合ってる。』

蔵馬が怪訝な顔をするのと同時に黒鵺は立ち上がり、首飾りを手にしたまま背後にやってきてそれを彼女の首に回した。

『何だよっ!』
『試着。』
『!』

首筋に黒鵺の指先とひんやりした金属の感触を覚え、蔵馬の背筋がゾクリとした。首飾りの下になった銀の髪の毛をすくい上げ、黒鵺は部屋の隅にある鏡を指差した。

『!……』

指された鏡を見た蔵馬は、鏡の中の自分と首飾りに釘付けになった。それは見事なコラボレーションだった……彼女の白いデコルテで大粒のダイヤモンドは目映いばかりの光彩を放ち、白金細工の座金とチェーンは銀の髪の毛に溶け込むように調和していた。首飾り自体がまるで彼女に合わせて誂えたかのようだった。

我を忘れて見とれる蔵馬の肩を、黒鵺がぽんと叩いた。

『いいよそれ、お前にやるよ。』
『えっ!? ……うわっ!』

蔵馬は驚いて黒鵺を振り返った。と、思わぬ至近距離に彼の顔があって、再び驚いた蔵馬は仰け反った。黒鵺はニヤニヤ笑っていた。

『何、オレの唇でも盗むつもりだった?』
『バカかっっ!! でも、これはお前のコレクションだろう?』
『オレじゃ使えねーし。これだけの品眠らせといたら勿体無いだろ。』
『でもオレだって、使う場所なんかない。』
『そりゃあこんなダイヤ日頃から見せびらかしてたら危ねーよ。お前の結婚式にでもとっとくんだな。』
『結婚式!?』
『おや、その調子じゃアクセサリーが揃っても相手がいないってか? ……いってえっっ!!』

蔵馬が思いっ切り黒鵺の足を踏んづけた。

『お前なぁ! こーいうの着けてる時ぐらい女らしくしてろよっ!!』
『一番女扱いしていないのはどこのどいつだっっ!!』

カチンと来て言い返した蔵馬の顎に、不意に黒鵺の手が伸びた。

『エ!?』

そのままくいっと顎を持ち上げ、黒鵺は蔵馬の顔をじっと見つめた。

『え、な、何?』
『お前が女だってこと、誰より理解 <わか> ってるつもりだけど?』

黒鵺に瞳を覗き込まれ、蔵馬の顔が見る見るうちに朱に染まった。黒鵺は少し屈み込み、ゆっくりと彼女に顔を近づけていった。

『あの、黒鵺っ!?』
『……』
(嘘っ……)

突然の成りゆきにどう振る舞えばいいのか分からず、思わず蔵馬はぎゅっと眼をつぶってしまった……と、

『もぅホント、可愛いなぁオ・マ・エ♪』
『っっっ……!!』

黒鵺は鼻と鼻が一センチの至近距離まで近づいたところでピタリと止まり、すっと手を引っ込めた。からかわれた……と蔵馬が気づくのに時間はかからなかった。ニヤニヤ笑いながら黒鵺は、蔵馬の渾身の右フックを綺麗にかわし背を向けた。

『お前さ、蒼龍妃ってどんな顔してたか知ってる?』
『知るかっ。』

今度は怒りで紅くなった蔵馬が機嫌悪そうに答えた。黒鵺は彼女に背中を見せたまま伸びをした。

『肖像画が残ってるわけでもないし、オレも勿論知らねーけど……』
『だったら何だ。』
『……』

腕を下ろした黒鵺は次の言葉を告げるのに少し間を置き、ふっと一息ついた。そしていつもと変わらない、意味ありげな笑顔で振り返った。

『蒼龍妃は、銀の髪をした妖狐だったそうだぜ。』
『!』

悪戯っぽくウインクして、黒鵺はそのまま自分の部屋へと消えていった……

「……」
「あ、起きた?」
「……黒鵺……? あ!」

しまった、と蔵馬……南野秀は口を押さえた。彼女の顔を覗き込んでいたのは黒鵺ではなく、顔は瓜二つだが翼も長い耳も持ち合わせていない人間・鈴井清春だった。考え事をしているうちに眠ってしまったのだろうか?

「!!」

事態の異常さに気づいた蔵馬は、いきなり跳ね起きベッドから飛び退いた。

「何でオレの部屋にいる!?」

薔薇を握る右手を背後に隠し、蔵馬は叫んだ。殺気むき出しの彼女に清春はビクッとし、すぐにばつが悪そうに頭を下げた。

「ゴメン、電話しても全然繋がらなくて。運良く君の友達とすれ違ったから家を教えてもらって来たんだけど、鍵が開いてたのに灯りが消えてたから、何かあったかと思って、つい。」
「……!」

確かに部屋は真っ暗だ。はっとして時計を見ると短針は既に七時を回っていた。

「ご、ゴメンっ!! 全然気づかなくて!」
「いや、オレの方こそ不法家宅侵入で、済みませんっ!」

そう言われると会ったばかりの女の家に上がり込むこの男、かなり図太い神経をしているに違いない。蔵馬はとりあえず部屋の電気をつけることにした。

「いつ来たの?」
「いや、今来たばっかり……寝てたから近づいたら、南野さん起きたんだ。」
「鴉は?」
「まだ仕事が混んでるみたい。帰宅時間の今が稼ぎ時だからって。」
「そう。」

蔵馬はやや殺風景な部屋の隅に置かれた机に寄り、鏡を覗きながら手櫛で髪の毛を整えた。とにかく一刻も早く動悸を鎮めたかった。昔ならこんな隙は絶対見せなかった。増して相手は只の人間だ。

そんな蔵馬を遠慮がちに待っていた清春が、口を開いた。

「南野さん、さっき“くろぬえ”って言ってたけど、」
「何それ、オレそんなこと言ってた?」

蔵馬は空とぼけた。説明するには自分の正体を明かすところから始めなければならない。が、清春は図星をついた。

「魔界の盗賊の名前?」
「え!?」

蔵馬は驚いて振り返った。

「あ、いや、研究テーマとの絡みで聞いたことあるなって。今オレ蒼龍妃っていう妖怪の研究してんだけど、その黒鵺って盗賊が蒼龍妃の財宝コレクターだったらしくて。」

妙な因縁だ、と蔵馬は思った。“蒼龍妃”、“首飾り”、“黒鵺”、そしてこの“鈴井清春”……キーワードはそれぞれが緩く結びつき不思議な距離を保っている。

──さっきの夢も、何かの一端なのかもしれない──

蔵馬は短い転寝の中で見た夢を思い出していた。それは夢ではあったが、千年前彼女が現実に経験している出来事だった。

「何だか南野さんって、正体不明だな。」

不意に、ぽつりと清春が呟いた。

──オレも、君の正体が分からないよ──

……心の中で、そう蔵馬は答えた。

【第4章 完】

第3章 運命の輪

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結局半ば強引に引っ張って行かれた買い物や食事を終え、蔵馬は今家路の途中だった。既に時間は夜の十時を過ぎている……暗い夜道を歩きながら、蔵馬は昼間の出来事を思い出していた

(黄泉のヤツ、明日も来るだろうか……?)

一旦断ったことで簡単に引き下がるような男ではないだろう。只の勘だがまだ人間界に居座っていそうな気がする。コエンマと違い、決して黄泉は適当にあしらえる相手ではない。

『オレと、結婚してくれないか。』

あの男……黄泉にそう告げられたのはもう半年も前のことだった。あの時もあの男は「パトロールのついで」と言っていたような気がする。

『……結婚? 何寝惚けたこと言ってるんだ。』

突然の申し出に、蔵馬は怪訝な顔をした。しかし……実を言うと、それは“突然”ではあるが“予想外”の申し出ではなかった。あの千年ぶりに再会した日から、もしかしたらあるかもしれないとある意味待ち構えていた言葉でもあった。

『寝言でも冗談でもない。』
『寝言でも冗談でもなければ何だというんだ。オレはお前に刺客を差し向けた女だぞ。』
『本気だ。』

はっきりと黄泉は言い切った。その態度に照れや迷いといったものは一切汲み取れなかった。むしろ、自分の方が困惑してしまった……気づけば、黄泉がじっと自分の出方を待っている。蔵馬はしばしの沈黙の後、やっとのことで苦しい声を絞り出した。

『……急にそんな話をされても困る。しばらく考えさせてくれ。』
『「しばらく」? オレをまた千年待たせる気か?』
『それくらい待つ覚悟のある男じゃなければ相手には出来ない。』
『いいだろう。もう千年待つさ。』

黄泉は事も無げに承諾した。蔵馬はギョッとした。

『……正気かお前?』
『お前をこの腕に抱ける日が来るなら、千年だろうが一万年だろうがオレは待つ。』
『!!……』

……自分の意志とは無関係に急激に心拍数が速くなる。目の前の男にはこの動悸も顔の紅潮さえもきっと悟られているだろう。……しかし黄泉はそれを指摘することもなく、ただ静かにじっと蔵馬と向き合っていた。

(……あいつバカだから、本当に待つだろうな。)

蔵馬は街灯の少ない小さな公園に辿り着いた。ここから現在の住居までは二百メートルもない近所である。昼間は近所の子供が集う憩いの広場だったが、平日の夜の今日は彼女の他に誰もいない様子だった。蔵馬はふらりと引き寄せられるように園内に入り、無意識にブランコを目指した。

(今のオレに結婚なんか出来るわけない……けど、百年後ならきっと、答えが出ている。)

二つ並んだブランコの左側に座り、蔵馬は足を地面につけたままゆっくりと小さく揺れ始めた。百年後……それは“人間・南野秀”と関わる全ての人物がこの世を去っているであろう未来のことだった。

ここ数年、蔵馬は自分の今後の生き方について迷うことが増えた。今は家族や周囲の人間に素性を隠し、人間としての生活を続けている。しかしとっくに妖化してしまった肉体はいずれ、周囲の者達の衰えと明らかなズレを見せるだろう。その前に自分はどうするべきか、選択肢は二つだった。すなわち正体を明かすか、何らかの方法で雲隠れする(当然死ぬことも含まれる)こと……

(……怖い……今更、自分の正体は打ち明けられない。)

未来を思う度に蔵馬は首を振った。他の人物は正直どうでもよかったが、自分に愛情の全てを注ぎ込んで育ててくれた母・志保利にだけは話せない。彼女の腕の傷を目にする度、幽助との出会いともなった暗黒鏡の一件を思い出す度、どうしても身がすくんでしまう。このまま一生かけて彼女を騙していかねばならない……しかし、それは出来ない。

(だったら、消えてしまおうか?)

それも無理だ、と蔵馬は項垂れる。幽助が「あんなにバツのワリーもんはない」と語った、子供に先立たれ嘆き悲しむ母の顔が目に浮かんだ。先夫を失い大病を患い、志保利の人生は決して恵まれたものではなかった……そう、自分が消えることで彼女を再び不幸にするわけにはいかないのだ。

蔵馬は決して黄泉を疎んでいるわけではなかった。むしろ、長い闘いの末手に入れた平和な暮らしで自分の心にぽっかり空いた穴に気づかされてしまった彼女は、それを埋めるような彼の言葉に大きく揺れていた。千年前に耳を貸すこともなかった、「愛している」とのたった一言……迷惑と言ったら嘘になる。しかし、今の自分がそれに応えることは出来なかった。妖怪の実力者との結婚はすなわち、人間界の家族に自らの正体を明かすことに繋がるのだ。

「……誰か……助けてよ……」

思考がオーバーフローして、堂々巡りし始めた。それが気持ち悪くて、蔵馬は人前では絶対に見せない弱音を思わず口にしてしまった……その時だった。

「オレでよければ、力になるけど?」
「!!」

いつの間にやら園内にもう一人増えていたことに全く気づかなかった……あまりの驚きに蔵馬はブランコを止め、警戒心剥き出しで声の方向を睨みつけた。

……公園の東側、樹木の暗い陰に立っていたのは、蔵馬すなわち南野秀と同じくらいの歳と思われる人間の青年だった。

「……隣、いいかな?」
「!!……」

近づいてくる青年の顔を見た蔵馬は、体中の血が逆流するような衝撃を覚えた。

(…………“黒鵺”…………!?)

蔵馬は青年に二度、驚かされることになった。……彼は、あまりに似過ぎていた。遠い遠い記憶の中にいるあの男……かつて自分が“親友”と呼び、そして恋したあの青年に。

……蔵馬の狼狽に気づく風でもなく、青年は彼女の方へ歩み寄り静止したままの右のブランコへ腰掛けた。その一連の動作を、蔵馬はまるで視線で穴でも空けるかのようにじっと凝視した。……と、青年が彼女を振り返り、思いがけないことを言った。

「もしかして君、興譲大学の人じゃない?」
「えっ!? ……何で知ってるの。」
「いや、オレも興譲大なんだけど。経済学部にすごい美人が入ったって、噂だから。」
「……ああ。」

入学してひと月半。まさか同じキャンパスに通っているとは知らなかった。……すっかり黙り込んでしまった蔵馬を見て、青年は話を振り出しへ戻した。

「……で、何に困ってたの。」
「別に。……他人に話すことじゃない。」

冥界の手先・傀麒の件もある。油断は出来ない……蔵馬はあっという間にいつものポーカーフェイスに戻ってしまった。青年は彼女の変わり身の早さにやや呆気にとられていたが、はたと気づいて深く頷いた。

「……そっかゴメン、自己紹介がまだだった。オレは鈴井清春、文学部の三年生で二十歳。」
「すずい、きよはる?」
「鈴に井戸の井、清潔の清に季節の春だよ。『黒夢』のボーカルと同じ……って言っても分かんないか。」

清春と名乗った青年は、微笑を交えながら懇切丁寧にその字を教えてくれた。

「……オレは南野秀。秀は“秀でる”だよ。」

丁寧な自己紹介のお返しに、蔵馬は自分も人間名を名乗ることにした。“南野”は説明するまでもないだろう。

「南野さんか……女性で“オレ”って言う人は初めて見た。」
「昔からの癖でもう直らないんだ。」

千年も続けてきた癖は、母親の志保利が懸命に直してやろうとしても結局直らなかった(……当然だろうけれど)。

「で、オレも、一年生だけど二十歳。」
「え? ……二浪?」
「一旦就職したんだけど、仕事の都合で大卒資格が欲しくなって。」

蔵馬は簡単に自分の身上を語ってみせた。少し気を許している……馴染みのあった男とよく似ているからだろう。

蔵馬は話しながら改めて隣の青年を観察していた。……清春は、人間とはとても思えぬ秀麗な青年だった。暗い中でも仄白く見える肌は、まるで女のもののようにきめが細かかった。その白い顔にかかる柔らかそうな黒髪は、微妙な緩い曲線を描いて少し長めにカットされていた。切れ長の涼しげな瞳も薄いが形よい唇も、やはり見れば見るほど蔵馬のかつての親友……かつ想い人だった青年……黒鵺に、瓜二つだった。

(……まさか、生まれ変わってオレに会いに来てくれたのかな……なんて。)

他愛ない思いつきだったが、そんな考えが浮かんでふと、蔵馬の表情が遠くなった。

……黒鵺と過ごした時間……妖怪の長い生から比べたらほんの一瞬のような、僅か十年足らずの時間。それは蔵馬が心の奥底に閉じこめて、永久に封印したはずの想い出だった。自分の目の前で命を落とした愛する人。辛すぎた記憶はいつしか深い深い海の底に沈めた宝石のように、手に取り眺めて思い出すことすら出来なくなっていた。なのに……つい数年前“冥界”と名乗る組織の手先にその記憶を読まれ、蔵馬の心の傷は再び鈍い疼きを伴い痛み始めた。折しもその直後、自分のあの過去を知っている男・黄泉に再会し、封じ込めていたはずの過去の記憶が次々蘇ることになってしまった。

『忘れろとは言わない。だが……千年の間思い出さずにいたことだ。再び記憶の海に沈めてしまえばいい。』

黄泉の言葉にも蔵馬は簡単に頷くことが出来なかった。

(……でも、黄泉の言う通りだ。二度と黒鵺のことは考えまい。)

彼が蔵馬の元を去って千年以上。このまま待ち続ければ再び黒鵺の魂は浄化され、別の肉体と共に転生するだろう。いや……もしかしたらとっくにこの世に帰ってきているのかもしれない。しかし生まれ変わった彼はもう、前世の記憶を全て失い“黒鵺”ではなくなっているのだ。

「……やっぱり、話してくれないか。」

ぽつりと呟いた清春の声に、蔵馬は我に返った。

「……えっ……?」
「いや、さっきのさ。」
「……御免、全然違うこと考えてた。」

蔵馬の詫びに清春のブランコの鎖が軋む音がした。

「……何だ、この沈黙は何なのかと思って……気にして損した。」
「ふふっ。」

率直な清春の言葉に、蔵馬は思わず笑ってしまった。

「有難う……でも、そんな大した話じゃないよ。ホント気にしないで。」
「是非、そうする。」
「ははは……ゴメン。」

静かな公園に二人の声が低く響いた。

Trrrrrrr….

不意に、清春のポケットから携帯電話の呼び出し音が鳴り出した。自分と同じシンプルな着信音に蔵馬は親近感を覚えた。清春は相手を確認し、電話に応対した。

「おぅ、今どこ? ……何だ、オレ今麻川公園にいるんだよ。すぐそこだし来ない? ……うん、じゃあまた。」
「……彼女?」

電話を切った清春に、蔵馬は控えめに尋ねた。もしこれから現れる相手が女性なら自分は早々に退散した方が良さそうだ。が、清春は首を振った。

「男だよ。友達。最近ちょっと有名人になってるからひょっとしたら南野さん知ってるかもな。」
「有名人?」
「ああ。麻川駅前で占いやってんだけど、すごい当たるって評判らしいよ。」

聞いたことがない。麻川駅はこの公園から割と近い距離にある駅だが、蔵馬の家はその隣の駅の方が近い。そのためこの駅を彼女が利用することはほとんどなかった。

「何か今、女子大生やOLにモテモテらしくてさ。確かに顔がいいから当然なんだけど。……あ、来た!」

清春が立ち上がり、公園の入り口からやってきた人物に手を挙げて合図した。蔵馬もその方角に視線をやった。その瞬間、蔵馬は強烈な眩暈を覚えた。

(……あっ……!!!)

……今日は黄泉に清春に、やたらとゲストに驚かされた一日だった。……が……これぞまさしく、とどめとも言うべき巡り合わせだった。

衝撃で口もきけぬ蔵馬に、清春は“友人”を紹介した。

「紹介するよ南野さん、烏丸了っていうんだ。」

“からすま・さとる”……人間界でそう名乗っているらしきその男は、かつて暗黒武術会の決勝で蔵馬が命を賭けて葬り去ったはずの宿敵……鴉だった。

……一瞬の対峙が一分にも一時間にも感じられる。全身から冷汗が滲む蔵馬と顔を合わせ、鴉もすぐに相手を認めたようだった。二人の間に漂う緊迫感に全く気づかず、清春が蔵馬を鴉に紹介した。

「彼女は南野さん。実はたった今知り合ったばかりなんだけど。」
「……久々だな。まさかこんな所で再会するとは……。」
「エ……? ……まさか、知り合い!?」

清春が驚いて鴉を振り返った。蔵馬はぐっと拳を握り締め、精一杯鴉を睨みつけた。

「貴様……何故生きている!?」
「お前がとどめを刺し損ねただけだ。……確かに深手だったがな。目が覚めたら二年も経っていたよ。」
「ちょっとあの、何の話だよっ!?」

慌てて清春が鴉と蔵馬の顔を交互に見比べた。鴉が清春に応えた。

「いいよ清春、彼女は私の正体も知っている。かつて私と闘ったことのある者だ。」
「えっ? ……闘ったってどういう……」

どうやら、清春は鴉が妖怪と知った上で友人付き合いをしている様子だった。強硬な姿勢を崩さない蔵馬に鴉は余裕の微笑を見せつけた。

「偶然だな……私はこの街で暮らしながらずっとお前を探していた。……フ、そんな顔をするな、復讐など企んではいない。」
「ならば何の用だ!」

決して蔵馬は鴉に対し警戒を解こうとしなかった。険悪な雰囲気に圧され、清春は少し狼狽していた。鴉は蔵馬の顔を見つめ、それから清春をちらりと振り返った。その顔をしばらく……数秒見つめた鴉は、ふっと息をついて蔵馬の方へ向き直った。

「……今何時だ?」
「……?」
「もうすぐ十一時だけど……。」

蔵馬の代わりに清春が答えた。鴉は蔵馬を凝視したまま静かに告げた。

「少しお前と話がしたい。清春……済まないが席を外してくれないか。」
「えっ? ちょっと待てよ、オレ除け者!?」
「済まんな。」

「済まん」と言いつつ全く済まなそうな様子のない鴉に、清春は渋々諦めた。

「……分かった。その代わり今度食事おごってくれよ!」
「吉野家豚丼320円、それでいいか?」
「あんたやっぱサイテー! せめて PRONTO のトマトスパ680円にしろって!」

PRONTO はともかく吉野家にこの美貌のコンビが現れたらさぞかし異様だろう。……鴉は鼻先で笑いつつ、公園を去ってゆく清春に向かい手を振った。

宿敵と二人きり取り残された蔵馬は、清春のいた間よりはるかに殺気の度合いを強めていた。鴉はそれを気にせず、先程まで清春が座っていたブランコに腰掛けた。

「……改めて、久しぶりだな蔵馬。」
「お前との因縁はもう切れたはずだ。命が惜しければ二度とオレの前に姿を見せるな。」
「そうはいかない。その“因縁の糸”が再び繋がってしまったのだから。」
「何だと!?」

蔵馬の右手にはいつの間にか紅の薔薇が一輪握られている。それを無感情の瞳で見つめ、鴉は小さく首を振った。蔵馬の警戒とは裏腹に、彼は全く無防備だった。

 ……それは千年以上も昔の、今にも崩れ落ちそうな黒い雲の垂れ込める日だった。

星霜宮……かつて魔界で大きな勢力を誇っていた、とある都市の主の城。あの夜、阿漕なやり口で財を成したこの領主の元から財宝を盗み出そうとして侵入した黒鵺は、そこで罠に掛かり命を落とした。迫る追手をやっとのことで振り切り、必死の思いで脱出した相棒の蔵馬は、彼の亡骸さえもその場に残してくるしかなかった……その僅か二日後。

星霜宮の前の広場には今や、この領地内外から沢山の野次馬が集まっていた。「盗賊・黒鵺が死んだらしい」……その報せはマスコミのない時代でもあっという間に魔界中を駆け巡った。星霜宮の主が黒鵺の遺骸を見せしめにするという噂に早速、好奇心の塊で出来た民達が飛びついたのだった。

『あれがあの黒鵺のなれの果てかよ。酷いもんだな。』

野次馬達は竹槍が貫通したままの黒鵺の遺体を眺め、加虐的な興奮に浸っていた。

『色男だから余計に哀れを誘うよねぇ。別の人生もあったろうにさ。』
『盗賊なんてやるもんじゃないぜホント。』
『おい、よく見えねえぞ! 見たヤツはさっさと後ろに下がれよっ!!』

輪の外側の野次馬が内側に食い込もうと突進する。その群集の中、白いフードで身を隠すようにして人波に流されながら輪の中心へと近づく陰があった。蒼白い顔には生気もなく、瞳にも光が全く映らない。……そう……それこそ、掛け替えのない大切な存在を失い憔悴しきった蔵馬の姿だった。

『相棒の蔵馬は今頃、どこで何をしてんだろうな。』

すぐ隣にいた男が自分の名前を口にしたのを聞き、それまで虚ろだった蔵馬は怯えたように反応した。

『さあ……でもほとぼりが冷めるまではトンズラこいてるだろうな。』

連れの男が相槌を打った。

『ま、誰だって自分の命が可愛いさ。』

先に口を開いた男が嘲笑した。その陰で蔵馬はぐっと唇を噛んだ。彼女の存在に気づくこともなく、男は調子に乗って喋り続けた。

『それに、このままじゃ逃げ切れないと思った蔵馬が黒鵺を見殺しにしたって噂もあるくらいだからな。』
『!!』

蔵馬の顔が衝撃で蒼ざめた。男達はこの思いつきに納得して頷き合っていた。

『そっか、ありそー! 仲間を置いてけばその隙に自分一人逃げられるもんな。』
『ああ。盗賊なんて相棒とか仲間とか言いつつも、所詮利用し合うだけの関係なのさ。』
『……お前に、オレ達の何が分かる。』
『あん?』

男は話を遮られ、機嫌悪そうに声の方向を振り返った……が、彼の眼が蔵馬の姿を認める前に、その胴体は胸から上と下で離れていた。真っ赤な血と臓物がほとばしる中、真っ白なフードが宙へと舞い上がり、目映いばかりの銀の髪が煌いた。

『ひっ!! ……まさかっ……!?』

斬られた男の連れが腰を抜かした。フードの下から現れた銀の髪の妖狐……蔵馬が、顔に落ちた返り血を拭おうともせずに男の顔を睨みつけていた。

『本物の蔵馬だあぁ!!』

途端にその場はパニックへ陥った。怒りに圧され、蔵馬の傍にいた者達は後ずさった。蔵馬は茨の鞭を強く握り締めたまま顔を上げ、ぐるりと聴衆を一瞥した。その眼差しに睨まれた者達は皆、足がすくんでその場に崩れ落ちた。

『……答えろよ……』

低くうめくように蔵馬が呟いた。怒りと悲しみの波動が蒼い炎のように細い身体を包んでいた。

『……お前達の中に今のオレの絶望 、一人でも解ってる奴がいるのか!? ……答えろよ!!』

……それは静かで、激しくて、暗いがよく通る声だった。群集は静まり返っていた……今彼らの前に立っているのは“盗賊・蔵馬”ではなく、愛する男を失い今にも切れそうな自分を必死で繋いでいる、一人の女だった。

水を打ったような静けさの中、蔵馬が一歩足を踏み出した。

『!……』

その先にいた野次馬が慌てて飛び退き道を空けた。蔵馬の歩みに合わせ、道は輪の中心……黒鵺の亡骸へと続いて開かれていった。その中蔵馬はゆっくり歩みを進め、亡骸に触れられるほどの至近距離まで近づいた。そこまで辿り着き、彼女の表情はようやく優しくなった……愛おしさと悲しさをごちゃ混ぜにした、例えようもなく美しい表情だった。

『……ゴメン黒鵺、遅くなったけど……迎えに来たよ……。』

本当は直視するのも辛いであろう酷い傷を負った遺体を、蔵馬は愛しさに溢れた眼差しで眺めた。無言のうちに彼女はこの亡骸とどんな対話を交わしているのだろう……聴衆の誰もが固唾を飲み、蔵馬の一挙手一投足を見守っていた。

『……可哀想……』

誰かが呟いた。どす黒い血がこびりついたままの黒鵺の顔を見つめ、蔵馬は右の手を差し伸べて頬に触れようとした……

その時だった。

『!!?』

異変に気づき、蔵馬はとっさに自分の身を庇った。

ドオオォォォン……!!!

突如、激しい爆轟の音が一面に響き渡った。

『な……何だぁ!?』
『助けてくれえ! オレはまだ死にたくないぃ!!』

大きな火の玉と強烈な爆風に煽られ、蔵馬や近くにいた者達は強く地面に叩きつけられた。その爆発は間違いなく彼女のすぐ傍から起こったものだった。衝撃を免れた野次馬達も何が何やら分からぬまま、ただ蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。

『うっ……』

蔵馬はようやく顔を上げた……その刹那、目の前の悪夢のような光景に気づき、彼女の顔から血の気が引いた。

『……あ…………!!』

……先程まで手の触れる距離にいたはずの黒鵺が消えている。蔵馬の目前に転がってきたのは竹槍だったと思われる炭の一片……黒鵺の亡骸は、今や何の跡形もなく吹き飛ばされていた。

蔵馬はやがて、立ち込める白煙の中に誰かが立っているのに気がついた。目をこらす蔵馬の方へ、人影はゆっくりと近づいてきた。白煙が切れてゆく……その中から現れたのは、長い黒髪とマスクに隠した白い貌を持つ男……千年前の鴉だった。

『……初めまして、銀の髪の姫君。』
『……!?』
『貴女の代わりに、“ゴミ”を掃除して差し上げました……なんてな。』
『なっ…………貴様あぁぁ!!!』

「この男が黒鵺を」……我を忘れた蔵馬の足下から茨の蔓が伸び、闇雲に鴉を攻撃した。鴉はいとも簡単にそれをかわし、小さな爆発を起こして蔓を吹き飛ばした。

『自暴自棄の攻撃では、私に掠り傷すらつけられんよ。』
『死ねえぇ!!!』

蔵馬は素早く召還呪文を唱え、巨大植物を呼び寄せた。が、鴉は顔色一つ変えずにすっと手を上げた。

『何っ!? ……うあぁぁっ!!!』

大爆発が起こり、蔵馬は召喚した植物ごと吹き飛ばされた。再び地面に叩きつけられた蔵馬の元に鴉が歩み寄った。はっとして蔵馬は顔を上げた。氷のような紫の瞳が、じっとこちらを見据えていた……鴉の眼は、冷酷な笑いで引きつっていた。

『その傷では私と相討ちすら出来ないだろう。しかし……死ぬ価値もない。』
『何だと……!?』
『私はお前を殺しはしないよ。むしろお前が残酷な運命から死をもって逃れようとしても、私がそれを許さない。』
『……!!』

鴉は踵を返し、蔵馬に背を向けた。この場を立ち去る素振りだったが、蔵馬は逆に、自分の運命がこの男の手に絡め取られたことをはっきり悟った。……鴉は振り向くこともせず、蔵馬に名を告げた。

『この因果から逃れたくば私を倒しに来い。私の名は……鴉。』
『……鴉……!!』

名を呼ばれ、鴉の歩みが止まった。蔵馬は、うつ伏せに倒れた上半身をやっとのことで起こしながら叫んだ。

『貴様だけは絶対に許さない!! ……黒鵺を冒涜した貴様だけは……必ずオレが殺す!!』

鴉が振り向いた。一瞬、その紫の瞳が煌めいた。

『……楽しみにしている。』

去っていく鴉の後ろ姿を、遠のく意識の中で蔵馬はずっと憎悪の眼で睨みつけていた……。

「……清春には驚いただろう?」

鴉の言葉に、蔵馬の心臓がどきんと鳴った。五月の夜の風に木立のざわめく音が聞こえてくる。鴉はずっと月を見上げていた……月齢13の月は地上の全ての生物、無生物を柔らかく平等に照らしていた。

「……あの男とは半年前、偶然街ですれ違ったんだ。慌てて追い掛けた……黒鵺が人間に転生したのかと、多分今のお前と同じことを考えてな。」

くっくっと鴉は低い声で笑った。

「が、あの男は私のことも分からなかったし、私が妖怪であることすら気づかなかった。霊力が際立って高いわけでもない……ただの人間だった。」
「……その前に答えろ。何故お前が黒鵺に固執する? それに今の言葉……あいつはお前を知っていたと言うのか!?」
「話の腰を折るな。……だが、それを知らねば合点が行かないか?」

風に少し乱れた髪を掻き上げ、鴉は蔵馬をちらりと見やった。

「私は黒鵺の友人だ。お前よりずっと古い付き合いのな。」
「!」
「正確に言えば、私は元々黒鵺ではなく彼の兄の友人だった。黒鵺のことは生まれる前から知っている……弟みたいなものだ。」

鴉は素っ気なく答えた。蔵馬はすっかり沈黙してしまった……そう言われれば、心当たりがないでもない。

『……兄貴は死んじゃったけど、オレには兄貴の代わりみたいな人がいるんだ。いつかお前にも紹介するよ。』

黒鵺は蔵馬に生前そう話していた。何度か聞いた話だった……結局、その人物を紹介してくれる前に彼は逝ってしまったのだが……。

「……なら答えろ! 黒鵺の友なら何故、あの時お前はあいつの遺体を粉々にした!?」

蔵馬が叫んだ。その声が震えていて、心の動揺を如実に示していた。鴉は相も変わらぬ無表情な瞳で蔵馬を見つめた。

「お前と同じだ。惨めな姿で残酷な好奇の目に曝されている黒鵺が忍びなかった。」
「だからと言って、あの仕打ちはないだろう!!」
「……蔵馬、お前は私を憎んでいるか?」
「えっ……!?」

唐突な質問の意図が分からず、蔵馬は怪訝な顔をした。が、一瞬でその表情は厳しい物に戻った。

「当然だ!」

ぐっと唇を噛み締め、蔵馬は鴉を睨みつけていた。鴉は蔵馬を見つめ返した。その口許が微かに笑っていた。

「……そうだろうな、お前に憎まれるためにやったことなのだから。」
「何だと!?」
「その場しのぎかもしれないが、私への復讐心はお前の“生きる理由”になっただろう?」
「!!」

蔵馬の顔が蒼ざめた。

「黒鵺を失い死に場所を求めていたお前が、私への憎悪に支えられ生き延びた……私の意図した通りだよ、蔵馬。」
「……!!……」

……それは、蔵馬にとって自らの存在さえ根底から揺るがすような衝撃の事実だった。

「……じゃあお前は、千年ずっと演じていたというのか!? オレを生かすために……オレの仇を……!!」

千年の時間が蔵馬の脳裏を一瞬で通り過ぎてゆく。……危ない橋を幾つも渡ってきた。何度も死にかけたが、際どいところでいつも命を拾ってこられた。それはもしかしたら、この男が陰で自分を生かしていたからかもしれない。

──千年もの間、自分はこの男に支えられ生きてきたのか──

体中の震えが止まらない……強烈な眩暈に、蔵馬は思わずその場へへたり込んだ。

「……さて、そこまでは前置きだ。私がしたいのはその続き……切れたはずの因縁が再び繋がった話だ。」

鴉の言葉に、我を忘れていた蔵馬は顔を上げた。いつの間にか鴉はブランコを降り、彼女の眼の前に立っていた。彼は蔵馬に手を差し出し、掴まるように促した。蔵馬は首を振り、自らの力で立ち上がった。鴉は肩をすくめ、腕にした銀の時計を眺めて時間がまださほど経過してないことを確認した。

「……一年ほど前に、霊界である事件が起きたのを知っているか?」
「何だと?」
「霊界の宝物庫から“蒼龍妃の首飾り”が紛失した。いや……本当は、失くなったのはそのずっと前だろう。閻魔大王の裁判で捜索が行われている最中に気づいたらしい。」
「!」

“蒼龍妃の首飾り”……その秘宝の名に蔵馬は反応した。しかしコエンマとは頻繁に顔を合わせているが、その話は一度も聞いたことがない。

「私も暗黒武術会の後、たまたま霊界の関係機関で治療を受けていたので耳にした話だ。」
「……知らなかった。そういう話があれば真っ先に幽助やオレ達の所に来るのが普通なのに……。」
「で……黒鵺は確か、蒼龍妃の財宝コレクターだったな?」

蔵馬の表情が凍りついた。

「……待てよ! それとこれとどういう関係が……!!」
「蔵馬……私の知っている限りのことを話そう。霊界がお前に意図的に隠している話もな。」
「!」

【第3章 完】

第2章 尋ね人

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 死せる魂が辿り着く最終地・霊界。正しく生きた者には永遠の安らぎが、曲がった生を歩んだ者には相応の裁きが……などといった人間の勝手な想像は半分しか当たらず、日夜“魂の洗浄と転生”の業務に明け暮れているこの地は、今日もまた天地をひっくり返したようなパニックだった。

「どいてどいて~! バスが谷から落っこちて二十名様一挙御案内~!」

 着物姿の少女がボートをこぐオールのようなものに腰掛け空を飛んでやってくる。そのオールの後ろには老若男女取り合わせて二十名、不慮の事故で死んでしまった者達の魂がぞろぞろ続いていた。

「ちょっと! あの書類は何処行ったんだ!!」
「まだコエンマ様の机の上じゃないのか!?」
「ええっ!? 弱ったなぁ、あれがないとうちで預かってる連中送り出せないよ!」

 こちらでは鬼達が駆けずり回り必死の形相でただ一枚の紙切れを探し回っている。が、こんな状態では恐らく明日になっても見つからないだろう。

 そんな喧騒の中、一人の美少女がオールに乗ってやってきた。混雑した霊界の空をひらりとすり抜け飛ぶ姿はこの仕事のキャリアが相当長いことを感じさせる。猫を思わせる可愛らしい風貌だが、本当の年齢は一体幾つなのか……霊界案内人・ぼたんだった。

「ねえちょいと!」

 地面にすっと降り立ったぼたんは、パニックに陥ってる鬼達に声をかけた。

「何ですかぼたんさん! 今こっちは忙しいんですよっ!!」
「じゃあ手を動かしながら聞いとくれよ。昔ここで働いてた妖怪の男のこと訊きたいんだけど!」

 ぼたんの問い掛けに、山のような紙の束を一枚一枚ひっくり返していた鬼達の手が止まった。

「……もしかして、“あの人”のことか?」
「妖怪なんてこの霊界にそうそう住んでるもんじゃないからな。」

 鬼達が顔を見合わせ頷いた。ぼたんが苛立った声で詰め寄った。

「ちょっと、あんた達だけで勝手に納得しないどくれよ!」
「あ、いや済みませんっ! でも……“その方”が何か?」
「今何処にいるのかってこと!」

 鬼達は再び顔を見合わせた。

「……確か二十年ほど前に、『もうすぐ現世に戻る』って言ってましたよ……その後すぐいなくなりましたけど?」
「何処に行くとか聞いてないかい?」
「そんなの本人だって知らなかったでしょうよ! 御存知だとしたら閻魔大王様かコエンマ様くらいだと思いますけど。」
「そのコエンマ様が『調べてほしい』って言ってたんだよねぇ。閻魔大王様も御存知なかったって話だし。」

 現在閻魔大王は、人間界に暮らす妖怪達を排除する組織ぐるみの行為が発覚したことで霊界裁判を待つ身である。待遇は決して悪くないが行動の自由を制限され、手続きなしで彼と面会できるのは息子のコエンマだけであった。

「それじゃあ私等にも分かりませんよ。でも妖怪なんだからやっぱ魔界に行ったんじゃないんですか……?」
「そっかぁ、ありがと。邪魔したよ!」

 ぼたんは簡単な礼を述べ、再びオールで空へ舞い上がった。

「うーん……何処行っちゃったんだろうアイツ……。」

 霊界の空は十分前より少し空いたようだ。ゆっくりと風を感じながら飛ぶぼたんは今、記憶の中で、涼しい瞳をした一人の青年の姿を思い浮かべていた。

(……あれ? それよりあいつ……名前、何ていったっけ?)

 ぼたん自身はその男に会ったことは一度きりしかない。が、鬼達をよく従え死者の魂をてきぱき振り分ける姿は、あまり男性に関心を持たない彼女をも一時的な恋(ほんの数日だったが……)に落とし込んでしまったほどだった。

『……ここの仕事は結構楽しいよ。』

 あの時、あの青年は書類を届けにやってきたぼたんにそう語った。

『亡者の中でも一番凶暴な霊がここに来るんだ。連中が暴れ出したらオレの真の出番ってわけ。』

 屈託なく笑う青年はとても腕っ節が強そうには見えなかった。どちらかと言えば細い体躯で色も白く背ばかりが高く見えた。が、強さが決して外見に比例しないことは経験からぼたんもよく知っている。……実際、その時そこで起きた事件で彼女は青年の手腕の一端を知ることとなった。

『動くなぁっっ!!』
『!!』

 青年とぼたんが話し込んでいた丁度その時、運ばれてきた亡者が急に鬼達をなぎ倒し、ぼたんに駆け寄った。と同時に彼女の背後に回り、首を抱え込んで声を張り上げた。

『今すぐオレが天国に行く許可を出せ!! そうしないとこの女のどてっ腹に穴空けるぞっっ!!』
『ひっ!!』
『ぼたんさんっっ!!』

 予期せぬハプニングに鬼達は顔色を変え、ぼたんもさすがに背筋が凍りついた。

『ここの責任者は誰だ! ん、お前か!?』

 一人明らかに鬼達とは身なりの違う例の青年を見つけ、亡者は早速彼を脅迫にかかった。

『お前が書類をちょっと書き換えれば女は助けてやる! 早くしろ!!』
『……』

 青年は無言だった。冷静な眼で亡者を眺め、彼は次にぼたんに視線を向けた。恐怖で脚がガクガク震える彼女に、彼は優しく頷いてみせた。

『……しゃあねーな。』

 そう言いながら自分のデスクに近寄り、彼は一枚の紙切れを引っ張り出して亡者に示した。

『……これが行き先変更用の書類だ。でも、オレの判だけじゃ書類は出せないことになってる。ここにお前の拇印がいるから、彼女を離してこっちに来てくれないか。』
『阿呆め! 人質を先に開放する馬鹿が何処にいる!!』
『じゃあそのままでいい。オレがそっち行くから。』

 青年は書類を持ち、亡者に近づいた。

『へ、物分かりが良くて助かるぜ。』
『バーカ。』
『何!?』

 瞬間、青年が目にも止まらぬ早業で男の懐に飛び込んだ。

『っ……!』

 亡者の首にぴたりと当てられた鋭い刃が、一瞬での形勢逆転を明白に示していた。何が起きたのか分からず呆然としていた鬼達やぼたんもようやく、数秒の後に我に返った。

『き、貴様っ……』
『彼女を離しな。霊界でもう一度死ぬことはねーけど、首と胴体離れた状態で地獄に行きたいか?』
『うぐっっ……』

 青年の瞳は先程見せた優しさからは想像もつかぬほど冷たい光を湛えていた。気圧されて渋々ぼたんを離した亡者は、そのまま鬼達に取り押さえられ予定通りの地獄へと連行されていった。その様子を見送りながら、青年は刃を指先でくるくると回して消してしまった。どうやらこのナイフ、彼が自分の気を具現化した物らしかった。そのまま青年は、まだ落ち着かぬ様子で着物の歪みやポニーテールの乱れを直しているぼたんに近付いた。

『怪我はないか?』
『う、うん。ありがと。』
『まあここはこんなトコだからさ、男にはいいけど君にはちょっと危険かもな。早く帰った方がいいぜ。』
『うん……』

 ぼたんはオールに腰掛け、一旦空へ飛び上がった。が、ふと思い出し、そのままの姿勢で男に尋ねた。

『名前、訊いてもいいかい? あたしはぼたんって言うんだけど。』
『オレ?』

 ……三途の川の上までやってきた現在のぼたんは、そこまで思い出して呟いた。

「そうだ、あいつの名前……“黒鵺”だ。」

【第2章 完】

第1章 新生活

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桜も散り、若葉の緑が眩しいゴールデンウィーク明けの大学。キャンパスは今、新入生とそれを勧誘するサークルの呼び込みでごった返していた。

「水泳部で~す! 全国大会に出て北○康介と酒を飲みましょう!!」
「宇宙はオレ達の夢! 貴方も天文部で宇宙の神秘を解き明かしてみませんか!!」

その喧騒の中を縫うように、一際目立つ学生が同級生と思しき女性二人と並んで歩いていた。

「おい、あれ誰だ!?」
「何でも経済学部に入った新入生らしいぜ。」
「すげぇ美人じゃん! 是非うちのマネージャーになってもらおうぜ!!」
「それが……もうとっくに声かけたんだけどあっさりフラれちゃってさぁ……」
「アホ! 何度でもトライすんだよ!! うちはラグビー部なんだぞっっ!!」

キャンパス中の注目を浴びているのは、ボーイッシュなシャツスタイルがよく似合うすらりとした長身の女性だった。紅の髪の毛を緩く後ろで束ね、大きなキャンバス地のトートの他は白いシャツと細身のデニム、スニーカーというシンプルな服装だったが、それがかえってこの者の際立った美貌を引き立てていた。彼女の名は南野秀、いや、戸籍上は三年も前に「畑中秀」と改名しているあの人物……妖怪名・蔵馬、である。

「この前のテストどうだった?」

秀……蔵馬の隣を歩いていたカッパーブラウンのボブヘアの学生が切り出した。更にその隣の黒髪の女子学生が悲観したように首を振った。

「ダメダメ! レポート決定だよぉ。」
「日下先生の講義は全部、二回に一回テストがあるんだって。後期からは絶対取らない方がいいよ!」
「ねえ、秀はどうだった?」

話を振られて、それまで沈黙していた蔵馬は微笑した。

「ん、まあ何とか切り抜けたみたい。」
「さっすがぁ! いーなぁ、私も秀と頭の中身交換したいよ。」
「アタシは外側も一緒に交換したいわ。」
「あ、それいいや!」

蔵馬は苦笑いをし、ずり落ちかけた肩のトートバッグを反対の手に持ち替えた。

 高校卒業後、義父の会社に就職し一旦社会に出たはずの蔵馬が「大学に行くことにした」と打ち明けた時、悪友達は誰一人驚かなかった。

『……無反応なんだね。』
『そりゃ就職したって聞いた時の方がよっぽど驚いたぜ。』

大きく首を縦に振り、桑原が相槌を打った。三年前……当時高校生だった蔵馬が大方の予想を裏切り就職を決めた時は、盟王高校の教職員全員で会議が開かれるほどの騒ぎとなった。「目をつぶってでも東大に入れる」などと言われていた学年一の秀才はそんな周囲の狼狽をよそに頑として意志を変えず、そのまま義父の経営する小さな会社に就職してしまったのである。

さすがと言うべきか、蔵馬をスタッフに加えたこの会社は急成長を遂げ、僅か二年足らずで従業員を百名以上も抱える企業へと成長した。しかしこの急激な成長は組織内部の混乱をも招くこととなった。それまで大所帯を指揮した経験のない蔵馬の義父はすっかり弱ってしまい、この出来の良すぎる義理の娘に会社の運命を託すことにした。のはいいのだが……

『仕方なかったんだ。まだまだ日本は男尊女卑が強いからさ、例えばオレが他の会社へ取引に出向いても相手してもらえなくて。』
『でもオメーの交渉能力なら強引にでも押し切ることぐらい……』
『それが門前払いでさ、「高卒の女は大人しく事務でもやってろ」ってね。まあそんなこんなで親父に「大学行って来い」って言われちゃったわけ。』

プライドの高い蔵馬が、学歴や性別を理由にいわれなき差別を受け傷ついたことは想像に難くない。いや、千年以上も生きている彼女のこと、「見返してやる」という気持ちよりは「だったらどうすればスムーズにことが運ぶか」を熟慮した結果かもしれない。いずれにせよ三年前に頑として拒んだ進学を今回はあっさりと決め、蔵馬はこの春から興譲大学の経済学部一年生として花の(!?)キャンパスライフを送ることとなったのである。

……それから二ヶ月。都内某所にアパートを借りて一人暮らしを始めた蔵馬は、ここ数年の目まぐるしい混乱から一息ついてすっかり平和な生活を送っていた。

「ねえねえ、五コマ終わったらパルコ行かない? バイト代入ったから目ぇつけてたミュール買おうかと思ってさ。」
「行こ行こ! ね、秀も行くでしょ?」
「ん、オレはいいよ。服とかあんま興味ないし。」
「ダメっ! 折角素材がいいんだからもうちょっと気ィ遣いなさいっ!!」
「そうそう! ユニクロの“トータル五千円ファッション”続けてたら人間堕落するよっ!!」

何でバレてんだろうといささか冷や汗の蔵馬の腕を、黒髪の友人がグイと引っ張った。振り向く蔵馬にずいと詰め寄り、彼女は子供を叱る母親のようにまくしたてた。

「いい!? これから一カ月で秀には“ミス興譲”に変身してもらいますからねっ!! このままじゃあのイケメン君逃がしちゃうよっ!!」
「『イケメン君』? まさか、この前来た“彼”のこと?」
「決まってるでしょっ!」
「あーいたいたそんな人! あのフェラーリ乗ってたお坊ちゃまタイプの男の子でしょ!? カッコよかったよねー!」

数日前に蔵馬の元を訪ねてきたのは父親の不祥事発覚後、霊界の全権を握る実質的な閻魔大王・コエンマだった。目の回るような忙しさの間隙を縫って彼は、二週間に一度くらいは何らかの理由をつけて蔵馬と顔を合わせていた。それが一体何の目的か……「オメーに気があるからに決まってんだろ」などと幽助達に冷やかされるまでもなく蔵馬自身重々承知していたのだが、あえて気づかぬ振りをして“即かず離れず”の関係を保っていた。

『オレより腕力のない彼がオレに手綱つけられるわけないだろ。』

などと、本人が耳にしたらどれほど落ち込むか分からない言葉を口にしながら蔵馬は「霊界の有力者に気に入られるのは何かあった時に都合がいい」といういささか打算的なことも考えていた。そう、正直なことを言えば“良き友人”以上の感情を持つことなど考えられない。だが先に述べた理由に加え、コエンマは他の男を追い払うのに都合がいいカモフラージュだった。顔も良く金も持っていそうな雰囲気(何故彼は人間界移動用の車にフェラーリなど選んだのだろう)のコエンマは「あれくらいの男じゃないと彼女には相手にしてもらえない」と周囲の男子学生達に思わせるのには充分だったのである。……が、

(別にどうでもいいんだけどな……)

積極的に応援されても困るのだ。

「ねえねえ、今度カレのこと紹介してよ! いいトコの跡取り息子だったりするんでしょ!?」
「まあ、確かにそうかもしれないけど。」
「すっごーい、玉の輿じゃん!! いいなぁ秀ってば。」

冗談じゃない、と蔵馬は心の中で大きくかぶりを振った。未来の閻魔大王の妃など、盗賊上がりの自分にはとても耐えられそうにない。

その時、急に携帯の着信音が鳴り響いた。味気ない標準仕様の着信音は蔵馬の携帯だった。ジーンズの後ポケットからストラップ等の一切ない赤の携帯を取り出し、画面で相手を確認した蔵馬の顔が、急に不機嫌そうになった。

「はい。」

応答も素っ気ない。蔵馬は周囲の雑音を避けるように片方の耳を塞ぎ、もう片方の手でしっかり電話を耳に押さえつけていた。

「悪いが今夜は忙しいんだ。エ? 明日? 会社に顔出さなきゃいけないから行けない。次の日? 月曜テストだから。じゃあな。」

ほぼ一方的にまくし立て、蔵馬は電話を切ってしまった。と彼女は、じっと聞き耳を立てていたらしき二人の友人に気がついて思わず声を大きくした。

「何だよ!」
「え、いやぁ、機嫌悪そうだったからさ。」
「誰かなーって。まさか元カレとか?」
「違うっっ!」

断じて違う、と蔵馬は拳をぐっと握り締めた。と、その時。

「やはり、お前には直接顔を見せないと会ってもらえないようだな。」
「っ……」

蔵馬の表情が強張った。目の前に、銀色の携帯電話を握り冷笑を浮かべた妖怪の男……黄泉が立っていた。

「黄泉!!」
「ふ、男のあしらい方はまだまだ下手だ。」

黄泉は友人達に遠慮することもなく、ゆっくりと蔵馬に歩み寄った。彼の明らかに人間と異なる風貌に友人達は思わず後ずさった。

「だっ、誰、この人っ!?」
「人間じゃないよね、どう見ても……」

妖怪アイドルグループ『カルト』等の活躍で徐々に浸透はしているものの、まだ人間にとって妖怪は馴染みの薄い生き物である。キャンパス中の学生が黄泉に視線を釘付けにされている中、蔵馬がふうっと大きく溜め息をついた。

「お前までこれ以上、オレの頭痛の種を増やすな。」
「頭痛の種とは、お前を狙っている男達のことか?」

皮肉たっぷりな言葉に、蔵馬は忌々しげに黄泉を睨み付けた。

「何の用だ。」
「今夜辺りは“もう一人のお前”に会えるのではないかと思ってな。人間界に用があったついでに寄ってみた。」
「もう一人の、秀?」
「何でもない!」

黄泉の言葉に怪訝な顔をする友人達を大声で制し、蔵馬は黄泉に詰め寄った。

「それ以上余計なことを話したら、絶対に殺す!」
「懐かしいものだ。お前のそんな慌てふためく様子を拝むのは何年ぶりか。」

蔵馬が黄泉を睨み付ける視線がいっそう強くなった。

 第一回魔界統一トーナメントから早三年。敗者となった黄泉は息子・修羅との修行の旅から戻ってきた後、飛影や躯と同様にパトロール隊として招集されていた。任務を嫌がる飛影とは対照的に、黄泉は意外にも積極的に与えられた職務をこなしていた。

『こんな退屈な茶番の何が楽しいんだ。』

パトロール中、すっかりうんざりした飛影に尋ねられ、黄泉は事も無げに答えた。

『お前は「こんな任務放り出してさっさと躯 <オンナ> の元に戻りたい」と考えているだろう? オレも同じだ。』
『なっ!!』

真っ赤になって怒る飛影を無視し、黄泉は意味ありげに呟いた。

『人間界には、オレが千年以上想い続けた女が暮らしている。』
『!』

飛影もその人物に心当たりがないわけではない。何でも見える邪眼を持つこの男とは対照に、黄泉は永久に光を失った眼で霞む東京の街を遠く見つめていた。

「この前も言っただろ。オレがあの暮らしに、あの姿に戻ることはもう二度とない」

深呼吸を一つした蔵馬はすっかり、親愛の情の薄い相手に向ける独特の冷ややかな表情に戻っていた。それが見えないのは幸か不幸か……黄泉は小さく息をついて、静かな声で蔵馬に問いかけた。

「何も捨てないと……あの時お前はオレに、そう言ったのではなかったか。」

「何も捨てない」、それは三年前の魔界統一トーナメント、妖狐の力を封印したまま闘った蔵馬が黄泉に告げた言葉である。妖狐の自分も人間として生を受けた自分も、全てが“蔵馬”という只一つの存在。千年以上もの長い時間を迷い傷つきながら生きてきた、弱くて強い存在。それに胸を張って生きていこうという思いに今も変わりはない。が、

「……」

話が見えずに困惑している人間の友人を尻目に、蔵馬の視線は一瞬虚空を彷徨い、遠い空へ投げられた。

「全部がオレだ。でも、あの“力”は、もう必要ない。」

「ちょっと秀!! さっきの彼、誰なの!?」
「最初びっくりしたけど、よく見たら結構イイ男じゃん!!」
「……」

また会いに来ると言い残し、黄泉は意外にあっさりと帰っていった。しかしその後の激しい友人達の追及に、また一つ頭痛の種が増えてしまったと、蔵馬はガックリ肩を落とした。

「この前のイケメン君も良かったけど、今のカレも大人の魅力で高得点!!」
「しかもあの男のコより秀のこと、理解ってそうな雰囲気じゃなかった!? 妖怪なのはちょっとマイナスポイントかもしれないけど。」
「何か意味ありげなこと言ってたよねぇ、『もう一人のお前』とかさ!」
「ねえねえ、どういう意味?」

まったく、黄泉は何てことをしてくれたのだろう。

「別に、大した意味じゃないよ。」
「あ、もしかして秀って昔、ヤンキーだったとか!? レディースの総長みたいな!」

蔵馬は思いっ切り膝から崩れた。

「今でも一声かければ関東一円のゾクがエギゾースト鳴らして集合するとか!」
「あー言われてみれば! 何だかソレっぽいよね秀って!」
(『ソレっぽい』……)

ショックだがあながち間違ってはいないので、蔵馬は何も言えず黙り込むしかなかった。

「でも高校時代は優等生だったんでしょ?」
「それがさ、文学部の理恵知ってるでしょ? 高校時代の秀は私生活がよく分からない人だったって言ってたよ!」

理恵という女性は蔵馬の高校時代のクラスメイトである(二浪して彼女と同学年になったらしい)。

「ね、ね、ホントのトコ、どうなの?」
「いや、別に。」
「じゃあさ、今の人とはどういう関係?」
「それは……」

蔵馬は言葉に詰まってしまった。自分が妖怪であると知らない彼女達に“盗賊時代の部下”と説明するわけにはいかない。それに実は、蔵馬と黄泉の関係を正確に把握している者は蔵馬を妖怪と知る友人達の間にもいなかった。

(盗賊時代の部下……そう、それだけじゃない。)

幽助達には打ち明けていないが、黄泉の失明も自分の責任である。そして、それ以上に蔵馬と黄泉には複雑な事情があった。

すっかり黙り込んでしまった蔵馬の背中を、茶髪の友人がぽんと叩いた。

「まーまー、いいことですよモテるってのは。」
「そうだよ秀、二人選べなくて困ってるのはよく分かったけど、アタシ達が力になってあげるから!」

黒髪の友人も深く頷いて同調の意を示した。打ち消そうとして蔵馬は思い止まった。

「……そうだね、何か困ったら相談するよ。」

彼女達が生きている間にそんな機会は恐らくないだろうが、素直に困っているフリをした方が話が早そうだ。

タイミングよく、午後の講義開始を告げるチャイムが鳴った。三人は大慌てで「統計学概論」の行われる A305 号室へと駆け込んだ。

【第1章 完】