content-single-novel.php

第3章 運命の輪

結局半ば強引に引っ張って行かれた買い物や食事を終え、蔵馬は今家路の途中だった。既に時間は夜の十時を過ぎている……暗い夜道を歩きながら、蔵馬は昼間の出来事を思い出していた

(黄泉のヤツ、明日も来るだろうか……?)

一旦断ったことで簡単に引き下がるような男ではないだろう。只の勘だがまだ人間界に居座っていそうな気がする。コエンマと違い、決して黄泉は適当にあしらえる相手ではない。

『オレと、結婚してくれないか。』

あの男……黄泉にそう告げられたのはもう半年も前のことだった。あの時もあの男は「パトロールのついで」と言っていたような気がする。

『……結婚? 何寝惚けたこと言ってるんだ。』

突然の申し出に、蔵馬は怪訝な顔をした。しかし……実を言うと、それは“突然”ではあるが“予想外”の申し出ではなかった。あの千年ぶりに再会した日から、もしかしたらあるかもしれないとある意味待ち構えていた言葉でもあった。

『寝言でも冗談でもない。』
『寝言でも冗談でもなければ何だというんだ。オレはお前に刺客を差し向けた女だぞ。』
『本気だ。』

はっきりと黄泉は言い切った。その態度に照れや迷いといったものは一切汲み取れなかった。むしろ、自分の方が困惑してしまった……気づけば、黄泉がじっと自分の出方を待っている。蔵馬はしばしの沈黙の後、やっとのことで苦しい声を絞り出した。

『……急にそんな話をされても困る。しばらく考えさせてくれ。』
『「しばらく」? オレをまた千年待たせる気か?』
『それくらい待つ覚悟のある男じゃなければ相手には出来ない。』
『いいだろう。もう千年待つさ。』

黄泉は事も無げに承諾した。蔵馬はギョッとした。

『……正気かお前?』
『お前をこの腕に抱ける日が来るなら、千年だろうが一万年だろうがオレは待つ。』
『!!……』

……自分の意志とは無関係に急激に心拍数が速くなる。目の前の男にはこの動悸も顔の紅潮さえもきっと悟られているだろう。……しかし黄泉はそれを指摘することもなく、ただ静かにじっと蔵馬と向き合っていた。

(……あいつバカだから、本当に待つだろうな。)

蔵馬は街灯の少ない小さな公園に辿り着いた。ここから現在の住居までは二百メートルもない近所である。昼間は近所の子供が集う憩いの広場だったが、平日の夜の今日は彼女の他に誰もいない様子だった。蔵馬はふらりと引き寄せられるように園内に入り、無意識にブランコを目指した。

(今のオレに結婚なんか出来るわけない……けど、百年後ならきっと、答えが出ている。)

二つ並んだブランコの左側に座り、蔵馬は足を地面につけたままゆっくりと小さく揺れ始めた。百年後……それは“人間・南野秀”と関わる全ての人物がこの世を去っているであろう未来のことだった。

ここ数年、蔵馬は自分の今後の生き方について迷うことが増えた。今は家族や周囲の人間に素性を隠し、人間としての生活を続けている。しかしとっくに妖化してしまった肉体はいずれ、周囲の者達の衰えと明らかなズレを見せるだろう。その前に自分はどうするべきか、選択肢は二つだった。すなわち正体を明かすか、何らかの方法で雲隠れする(当然死ぬことも含まれる)こと……

(……怖い……今更、自分の正体は打ち明けられない。)

未来を思う度に蔵馬は首を振った。他の人物は正直どうでもよかったが、自分に愛情の全てを注ぎ込んで育ててくれた母・志保利にだけは話せない。彼女の腕の傷を目にする度、幽助との出会いともなった暗黒鏡の一件を思い出す度、どうしても身がすくんでしまう。このまま一生かけて彼女を騙していかねばならない……しかし、それは出来ない。

(だったら、消えてしまおうか?)

それも無理だ、と蔵馬は項垂れる。幽助が「あんなにバツのワリーもんはない」と語った、子供に先立たれ嘆き悲しむ母の顔が目に浮かんだ。先夫を失い大病を患い、志保利の人生は決して恵まれたものではなかった……そう、自分が消えることで彼女を再び不幸にするわけにはいかないのだ。

蔵馬は決して黄泉を疎んでいるわけではなかった。むしろ、長い闘いの末手に入れた平和な暮らしで自分の心にぽっかり空いた穴に気づかされてしまった彼女は、それを埋めるような彼の言葉に大きく揺れていた。千年前に耳を貸すこともなかった、「愛している」とのたった一言……迷惑と言ったら嘘になる。しかし、今の自分がそれに応えることは出来なかった。妖怪の実力者との結婚はすなわち、人間界の家族に自らの正体を明かすことに繋がるのだ。

「……誰か……助けてよ……」

思考がオーバーフローして、堂々巡りし始めた。それが気持ち悪くて、蔵馬は人前では絶対に見せない弱音を思わず口にしてしまった……その時だった。

「オレでよければ、力になるけど?」
「!!」

いつの間にやら園内にもう一人増えていたことに全く気づかなかった……あまりの驚きに蔵馬はブランコを止め、警戒心剥き出しで声の方向を睨みつけた。

……公園の東側、樹木の暗い陰に立っていたのは、蔵馬すなわち南野秀と同じくらいの歳と思われる人間の青年だった。

「……隣、いいかな?」
「!!……」

近づいてくる青年の顔を見た蔵馬は、体中の血が逆流するような衝撃を覚えた。

(…………“黒鵺”…………!?)

蔵馬は青年に二度、驚かされることになった。……彼は、あまりに似過ぎていた。遠い遠い記憶の中にいるあの男……かつて自分が“親友”と呼び、そして恋したあの青年に。

……蔵馬の狼狽に気づく風でもなく、青年は彼女の方へ歩み寄り静止したままの右のブランコへ腰掛けた。その一連の動作を、蔵馬はまるで視線で穴でも空けるかのようにじっと凝視した。……と、青年が彼女を振り返り、思いがけないことを言った。

「もしかして君、興譲大学の人じゃない?」
「えっ!? ……何で知ってるの。」
「いや、オレも興譲大なんだけど。経済学部にすごい美人が入ったって、噂だから。」
「……ああ。」

入学してひと月半。まさか同じキャンパスに通っているとは知らなかった。……すっかり黙り込んでしまった蔵馬を見て、青年は話を振り出しへ戻した。

「……で、何に困ってたの。」
「別に。……他人に話すことじゃない。」

冥界の手先・傀麒の件もある。油断は出来ない……蔵馬はあっという間にいつものポーカーフェイスに戻ってしまった。青年は彼女の変わり身の早さにやや呆気にとられていたが、はたと気づいて深く頷いた。

「……そっかゴメン、自己紹介がまだだった。オレは鈴井清春、文学部の三年生で二十歳。」
「すずい、きよはる?」
「鈴に井戸の井、清潔の清に季節の春だよ。『黒夢』のボーカルと同じ……って言っても分かんないか。」

清春と名乗った青年は、微笑を交えながら懇切丁寧にその字を教えてくれた。

「……オレは南野秀。秀は“秀でる”だよ。」

丁寧な自己紹介のお返しに、蔵馬は自分も人間名を名乗ることにした。“南野”は説明するまでもないだろう。

「南野さんか……女性で“オレ”って言う人は初めて見た。」
「昔からの癖でもう直らないんだ。」

千年も続けてきた癖は、母親の志保利が懸命に直してやろうとしても結局直らなかった(……当然だろうけれど)。

「で、オレも、一年生だけど二十歳。」
「え? ……二浪?」
「一旦就職したんだけど、仕事の都合で大卒資格が欲しくなって。」

蔵馬は簡単に自分の身上を語ってみせた。少し気を許している……馴染みのあった男とよく似ているからだろう。

蔵馬は話しながら改めて隣の青年を観察していた。……清春は、人間とはとても思えぬ秀麗な青年だった。暗い中でも仄白く見える肌は、まるで女のもののようにきめが細かかった。その白い顔にかかる柔らかそうな黒髪は、微妙な緩い曲線を描いて少し長めにカットされていた。切れ長の涼しげな瞳も薄いが形よい唇も、やはり見れば見るほど蔵馬のかつての親友……かつ想い人だった青年……黒鵺に、瓜二つだった。

(……まさか、生まれ変わってオレに会いに来てくれたのかな……なんて。)

他愛ない思いつきだったが、そんな考えが浮かんでふと、蔵馬の表情が遠くなった。

……黒鵺と過ごした時間……妖怪の長い生から比べたらほんの一瞬のような、僅か十年足らずの時間。それは蔵馬が心の奥底に閉じこめて、永久に封印したはずの想い出だった。自分の目の前で命を落とした愛する人。辛すぎた記憶はいつしか深い深い海の底に沈めた宝石のように、手に取り眺めて思い出すことすら出来なくなっていた。なのに……つい数年前“冥界”と名乗る組織の手先にその記憶を読まれ、蔵馬の心の傷は再び鈍い疼きを伴い痛み始めた。折しもその直後、自分のあの過去を知っている男・黄泉に再会し、封じ込めていたはずの過去の記憶が次々蘇ることになってしまった。

『忘れろとは言わない。だが……千年の間思い出さずにいたことだ。再び記憶の海に沈めてしまえばいい。』

黄泉の言葉にも蔵馬は簡単に頷くことが出来なかった。

(……でも、黄泉の言う通りだ。二度と黒鵺のことは考えまい。)

彼が蔵馬の元を去って千年以上。このまま待ち続ければ再び黒鵺の魂は浄化され、別の肉体と共に転生するだろう。いや……もしかしたらとっくにこの世に帰ってきているのかもしれない。しかし生まれ変わった彼はもう、前世の記憶を全て失い“黒鵺”ではなくなっているのだ。

「……やっぱり、話してくれないか。」

ぽつりと呟いた清春の声に、蔵馬は我に返った。

「……えっ……?」
「いや、さっきのさ。」
「……御免、全然違うこと考えてた。」

蔵馬の詫びに清春のブランコの鎖が軋む音がした。

「……何だ、この沈黙は何なのかと思って……気にして損した。」
「ふふっ。」

率直な清春の言葉に、蔵馬は思わず笑ってしまった。

「有難う……でも、そんな大した話じゃないよ。ホント気にしないで。」
「是非、そうする。」
「ははは……ゴメン。」

静かな公園に二人の声が低く響いた。

Trrrrrrr….

不意に、清春のポケットから携帯電話の呼び出し音が鳴り出した。自分と同じシンプルな着信音に蔵馬は親近感を覚えた。清春は相手を確認し、電話に応対した。

「おぅ、今どこ? ……何だ、オレ今麻川公園にいるんだよ。すぐそこだし来ない? ……うん、じゃあまた。」
「……彼女?」

電話を切った清春に、蔵馬は控えめに尋ねた。もしこれから現れる相手が女性なら自分は早々に退散した方が良さそうだ。が、清春は首を振った。

「男だよ。友達。最近ちょっと有名人になってるからひょっとしたら南野さん知ってるかもな。」
「有名人?」
「ああ。麻川駅前で占いやってんだけど、すごい当たるって評判らしいよ。」

聞いたことがない。麻川駅はこの公園から割と近い距離にある駅だが、蔵馬の家はその隣の駅の方が近い。そのためこの駅を彼女が利用することはほとんどなかった。

「何か今、女子大生やOLにモテモテらしくてさ。確かに顔がいいから当然なんだけど。……あ、来た!」

清春が立ち上がり、公園の入り口からやってきた人物に手を挙げて合図した。蔵馬もその方角に視線をやった。その瞬間、蔵馬は強烈な眩暈を覚えた。

(……あっ……!!!)

……今日は黄泉に清春に、やたらとゲストに驚かされた一日だった。……が……これぞまさしく、とどめとも言うべき巡り合わせだった。

衝撃で口もきけぬ蔵馬に、清春は“友人”を紹介した。

「紹介するよ南野さん、烏丸了っていうんだ。」

“からすま・さとる”……人間界でそう名乗っているらしきその男は、かつて暗黒武術会の決勝で蔵馬が命を賭けて葬り去ったはずの宿敵……鴉だった。

……一瞬の対峙が一分にも一時間にも感じられる。全身から冷汗が滲む蔵馬と顔を合わせ、鴉もすぐに相手を認めたようだった。二人の間に漂う緊迫感に全く気づかず、清春が蔵馬を鴉に紹介した。

「彼女は南野さん。実はたった今知り合ったばかりなんだけど。」
「……久々だな。まさかこんな所で再会するとは……。」
「エ……? ……まさか、知り合い!?」

清春が驚いて鴉を振り返った。蔵馬はぐっと拳を握り締め、精一杯鴉を睨みつけた。

「貴様……何故生きている!?」
「お前がとどめを刺し損ねただけだ。……確かに深手だったがな。目が覚めたら二年も経っていたよ。」
「ちょっとあの、何の話だよっ!?」

慌てて清春が鴉と蔵馬の顔を交互に見比べた。鴉が清春に応えた。

「いいよ清春、彼女は私の正体も知っている。かつて私と闘ったことのある者だ。」
「えっ? ……闘ったってどういう……」

どうやら、清春は鴉が妖怪と知った上で友人付き合いをしている様子だった。強硬な姿勢を崩さない蔵馬に鴉は余裕の微笑を見せつけた。

「偶然だな……私はこの街で暮らしながらずっとお前を探していた。……フ、そんな顔をするな、復讐など企んではいない。」
「ならば何の用だ!」

決して蔵馬は鴉に対し警戒を解こうとしなかった。険悪な雰囲気に圧され、清春は少し狼狽していた。鴉は蔵馬の顔を見つめ、それから清春をちらりと振り返った。その顔をしばらく……数秒見つめた鴉は、ふっと息をついて蔵馬の方へ向き直った。

「……今何時だ?」
「……?」
「もうすぐ十一時だけど……。」

蔵馬の代わりに清春が答えた。鴉は蔵馬を凝視したまま静かに告げた。

「少しお前と話がしたい。清春……済まないが席を外してくれないか。」
「えっ? ちょっと待てよ、オレ除け者!?」
「済まんな。」

「済まん」と言いつつ全く済まなそうな様子のない鴉に、清春は渋々諦めた。

「……分かった。その代わり今度食事おごってくれよ!」
「吉野家豚丼320円、それでいいか?」
「あんたやっぱサイテー! せめて PRONTO のトマトスパ680円にしろって!」

PRONTO はともかく吉野家にこの美貌のコンビが現れたらさぞかし異様だろう。……鴉は鼻先で笑いつつ、公園を去ってゆく清春に向かい手を振った。

宿敵と二人きり取り残された蔵馬は、清春のいた間よりはるかに殺気の度合いを強めていた。鴉はそれを気にせず、先程まで清春が座っていたブランコに腰掛けた。

「……改めて、久しぶりだな蔵馬。」
「お前との因縁はもう切れたはずだ。命が惜しければ二度とオレの前に姿を見せるな。」
「そうはいかない。その“因縁の糸”が再び繋がってしまったのだから。」
「何だと!?」

蔵馬の右手にはいつの間にか紅の薔薇が一輪握られている。それを無感情の瞳で見つめ、鴉は小さく首を振った。蔵馬の警戒とは裏腹に、彼は全く無防備だった。

 ……それは千年以上も昔の、今にも崩れ落ちそうな黒い雲の垂れ込める日だった。

星霜宮……かつて魔界で大きな勢力を誇っていた、とある都市の主の城。あの夜、阿漕なやり口で財を成したこの領主の元から財宝を盗み出そうとして侵入した黒鵺は、そこで罠に掛かり命を落とした。迫る追手をやっとのことで振り切り、必死の思いで脱出した相棒の蔵馬は、彼の亡骸さえもその場に残してくるしかなかった……その僅か二日後。

星霜宮の前の広場には今や、この領地内外から沢山の野次馬が集まっていた。「盗賊・黒鵺が死んだらしい」……その報せはマスコミのない時代でもあっという間に魔界中を駆け巡った。星霜宮の主が黒鵺の遺骸を見せしめにするという噂に早速、好奇心の塊で出来た民達が飛びついたのだった。

『あれがあの黒鵺のなれの果てかよ。酷いもんだな。』

野次馬達は竹槍が貫通したままの黒鵺の遺体を眺め、加虐的な興奮に浸っていた。

『色男だから余計に哀れを誘うよねぇ。別の人生もあったろうにさ。』
『盗賊なんてやるもんじゃないぜホント。』
『おい、よく見えねえぞ! 見たヤツはさっさと後ろに下がれよっ!!』

輪の外側の野次馬が内側に食い込もうと突進する。その群集の中、白いフードで身を隠すようにして人波に流されながら輪の中心へと近づく陰があった。蒼白い顔には生気もなく、瞳にも光が全く映らない。……そう……それこそ、掛け替えのない大切な存在を失い憔悴しきった蔵馬の姿だった。

『相棒の蔵馬は今頃、どこで何をしてんだろうな。』

すぐ隣にいた男が自分の名前を口にしたのを聞き、それまで虚ろだった蔵馬は怯えたように反応した。

『さあ……でもほとぼりが冷めるまではトンズラこいてるだろうな。』

連れの男が相槌を打った。

『ま、誰だって自分の命が可愛いさ。』

先に口を開いた男が嘲笑した。その陰で蔵馬はぐっと唇を噛んだ。彼女の存在に気づくこともなく、男は調子に乗って喋り続けた。

『それに、このままじゃ逃げ切れないと思った蔵馬が黒鵺を見殺しにしたって噂もあるくらいだからな。』
『!!』

蔵馬の顔が衝撃で蒼ざめた。男達はこの思いつきに納得して頷き合っていた。

『そっか、ありそー! 仲間を置いてけばその隙に自分一人逃げられるもんな。』
『ああ。盗賊なんて相棒とか仲間とか言いつつも、所詮利用し合うだけの関係なのさ。』
『……お前に、オレ達の何が分かる。』
『あん?』

男は話を遮られ、機嫌悪そうに声の方向を振り返った……が、彼の眼が蔵馬の姿を認める前に、その胴体は胸から上と下で離れていた。真っ赤な血と臓物がほとばしる中、真っ白なフードが宙へと舞い上がり、目映いばかりの銀の髪が煌いた。

『ひっ!! ……まさかっ……!?』

斬られた男の連れが腰を抜かした。フードの下から現れた銀の髪の妖狐……蔵馬が、顔に落ちた返り血を拭おうともせずに男の顔を睨みつけていた。

『本物の蔵馬だあぁ!!』

途端にその場はパニックへ陥った。怒りに圧され、蔵馬の傍にいた者達は後ずさった。蔵馬は茨の鞭を強く握り締めたまま顔を上げ、ぐるりと聴衆を一瞥した。その眼差しに睨まれた者達は皆、足がすくんでその場に崩れ落ちた。

『……答えろよ……』

低くうめくように蔵馬が呟いた。怒りと悲しみの波動が蒼い炎のように細い身体を包んでいた。

『……お前達の中に今のオレの絶望 、一人でも解ってる奴がいるのか!? ……答えろよ!!』

……それは静かで、激しくて、暗いがよく通る声だった。群集は静まり返っていた……今彼らの前に立っているのは“盗賊・蔵馬”ではなく、愛する男を失い今にも切れそうな自分を必死で繋いでいる、一人の女だった。

水を打ったような静けさの中、蔵馬が一歩足を踏み出した。

『!……』

その先にいた野次馬が慌てて飛び退き道を空けた。蔵馬の歩みに合わせ、道は輪の中心……黒鵺の亡骸へと続いて開かれていった。その中蔵馬はゆっくり歩みを進め、亡骸に触れられるほどの至近距離まで近づいた。そこまで辿り着き、彼女の表情はようやく優しくなった……愛おしさと悲しさをごちゃ混ぜにした、例えようもなく美しい表情だった。

『……ゴメン黒鵺、遅くなったけど……迎えに来たよ……。』

本当は直視するのも辛いであろう酷い傷を負った遺体を、蔵馬は愛しさに溢れた眼差しで眺めた。無言のうちに彼女はこの亡骸とどんな対話を交わしているのだろう……聴衆の誰もが固唾を飲み、蔵馬の一挙手一投足を見守っていた。

『……可哀想……』

誰かが呟いた。どす黒い血がこびりついたままの黒鵺の顔を見つめ、蔵馬は右の手を差し伸べて頬に触れようとした……

その時だった。

『!!?』

異変に気づき、蔵馬はとっさに自分の身を庇った。

ドオオォォォン……!!!

突如、激しい爆轟の音が一面に響き渡った。

『な……何だぁ!?』
『助けてくれえ! オレはまだ死にたくないぃ!!』

大きな火の玉と強烈な爆風に煽られ、蔵馬や近くにいた者達は強く地面に叩きつけられた。その爆発は間違いなく彼女のすぐ傍から起こったものだった。衝撃を免れた野次馬達も何が何やら分からぬまま、ただ蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。

『うっ……』

蔵馬はようやく顔を上げた……その刹那、目の前の悪夢のような光景に気づき、彼女の顔から血の気が引いた。

『……あ…………!!』

……先程まで手の触れる距離にいたはずの黒鵺が消えている。蔵馬の目前に転がってきたのは竹槍だったと思われる炭の一片……黒鵺の亡骸は、今や何の跡形もなく吹き飛ばされていた。

蔵馬はやがて、立ち込める白煙の中に誰かが立っているのに気がついた。目をこらす蔵馬の方へ、人影はゆっくりと近づいてきた。白煙が切れてゆく……その中から現れたのは、長い黒髪とマスクに隠した白い貌を持つ男……千年前の鴉だった。

『……初めまして、銀の髪の姫君。』
『……!?』
『貴女の代わりに、“ゴミ”を掃除して差し上げました……なんてな。』
『なっ…………貴様あぁぁ!!!』

「この男が黒鵺を」……我を忘れた蔵馬の足下から茨の蔓が伸び、闇雲に鴉を攻撃した。鴉はいとも簡単にそれをかわし、小さな爆発を起こして蔓を吹き飛ばした。

『自暴自棄の攻撃では、私に掠り傷すらつけられんよ。』
『死ねえぇ!!!』

蔵馬は素早く召還呪文を唱え、巨大植物を呼び寄せた。が、鴉は顔色一つ変えずにすっと手を上げた。

『何っ!? ……うあぁぁっ!!!』

大爆発が起こり、蔵馬は召喚した植物ごと吹き飛ばされた。再び地面に叩きつけられた蔵馬の元に鴉が歩み寄った。はっとして蔵馬は顔を上げた。氷のような紫の瞳が、じっとこちらを見据えていた……鴉の眼は、冷酷な笑いで引きつっていた。

『その傷では私と相討ちすら出来ないだろう。しかし……死ぬ価値もない。』
『何だと……!?』
『私はお前を殺しはしないよ。むしろお前が残酷な運命から死をもって逃れようとしても、私がそれを許さない。』
『……!!』

鴉は踵を返し、蔵馬に背を向けた。この場を立ち去る素振りだったが、蔵馬は逆に、自分の運命がこの男の手に絡め取られたことをはっきり悟った。……鴉は振り向くこともせず、蔵馬に名を告げた。

『この因果から逃れたくば私を倒しに来い。私の名は……鴉。』
『……鴉……!!』

名を呼ばれ、鴉の歩みが止まった。蔵馬は、うつ伏せに倒れた上半身をやっとのことで起こしながら叫んだ。

『貴様だけは絶対に許さない!! ……黒鵺を冒涜した貴様だけは……必ずオレが殺す!!』

鴉が振り向いた。一瞬、その紫の瞳が煌めいた。

『……楽しみにしている。』

去っていく鴉の後ろ姿を、遠のく意識の中で蔵馬はずっと憎悪の眼で睨みつけていた……。

「……清春には驚いただろう?」

鴉の言葉に、蔵馬の心臓がどきんと鳴った。五月の夜の風に木立のざわめく音が聞こえてくる。鴉はずっと月を見上げていた……月齢13の月は地上の全ての生物、無生物を柔らかく平等に照らしていた。

「……あの男とは半年前、偶然街ですれ違ったんだ。慌てて追い掛けた……黒鵺が人間に転生したのかと、多分今のお前と同じことを考えてな。」

くっくっと鴉は低い声で笑った。

「が、あの男は私のことも分からなかったし、私が妖怪であることすら気づかなかった。霊力が際立って高いわけでもない……ただの人間だった。」
「……その前に答えろ。何故お前が黒鵺に固執する? それに今の言葉……あいつはお前を知っていたと言うのか!?」
「話の腰を折るな。……だが、それを知らねば合点が行かないか?」

風に少し乱れた髪を掻き上げ、鴉は蔵馬をちらりと見やった。

「私は黒鵺の友人だ。お前よりずっと古い付き合いのな。」
「!」
「正確に言えば、私は元々黒鵺ではなく彼の兄の友人だった。黒鵺のことは生まれる前から知っている……弟みたいなものだ。」

鴉は素っ気なく答えた。蔵馬はすっかり沈黙してしまった……そう言われれば、心当たりがないでもない。

『……兄貴は死んじゃったけど、オレには兄貴の代わりみたいな人がいるんだ。いつかお前にも紹介するよ。』

黒鵺は蔵馬に生前そう話していた。何度か聞いた話だった……結局、その人物を紹介してくれる前に彼は逝ってしまったのだが……。

「……なら答えろ! 黒鵺の友なら何故、あの時お前はあいつの遺体を粉々にした!?」

蔵馬が叫んだ。その声が震えていて、心の動揺を如実に示していた。鴉は相も変わらぬ無表情な瞳で蔵馬を見つめた。

「お前と同じだ。惨めな姿で残酷な好奇の目に曝されている黒鵺が忍びなかった。」
「だからと言って、あの仕打ちはないだろう!!」
「……蔵馬、お前は私を憎んでいるか?」
「えっ……!?」

唐突な質問の意図が分からず、蔵馬は怪訝な顔をした。が、一瞬でその表情は厳しい物に戻った。

「当然だ!」

ぐっと唇を噛み締め、蔵馬は鴉を睨みつけていた。鴉は蔵馬を見つめ返した。その口許が微かに笑っていた。

「……そうだろうな、お前に憎まれるためにやったことなのだから。」
「何だと!?」
「その場しのぎかもしれないが、私への復讐心はお前の“生きる理由”になっただろう?」
「!!」

蔵馬の顔が蒼ざめた。

「黒鵺を失い死に場所を求めていたお前が、私への憎悪に支えられ生き延びた……私の意図した通りだよ、蔵馬。」
「……!!……」

……それは、蔵馬にとって自らの存在さえ根底から揺るがすような衝撃の事実だった。

「……じゃあお前は、千年ずっと演じていたというのか!? オレを生かすために……オレの仇を……!!」

千年の時間が蔵馬の脳裏を一瞬で通り過ぎてゆく。……危ない橋を幾つも渡ってきた。何度も死にかけたが、際どいところでいつも命を拾ってこられた。それはもしかしたら、この男が陰で自分を生かしていたからかもしれない。

──千年もの間、自分はこの男に支えられ生きてきたのか──

体中の震えが止まらない……強烈な眩暈に、蔵馬は思わずその場へへたり込んだ。

「……さて、そこまでは前置きだ。私がしたいのはその続き……切れたはずの因縁が再び繋がった話だ。」

鴉の言葉に、我を忘れていた蔵馬は顔を上げた。いつの間にか鴉はブランコを降り、彼女の眼の前に立っていた。彼は蔵馬に手を差し出し、掴まるように促した。蔵馬は首を振り、自らの力で立ち上がった。鴉は肩をすくめ、腕にした銀の時計を眺めて時間がまださほど経過してないことを確認した。

「……一年ほど前に、霊界である事件が起きたのを知っているか?」
「何だと?」
「霊界の宝物庫から“蒼龍妃の首飾り”が紛失した。いや……本当は、失くなったのはそのずっと前だろう。閻魔大王の裁判で捜索が行われている最中に気づいたらしい。」
「!」

“蒼龍妃の首飾り”……その秘宝の名に蔵馬は反応した。しかしコエンマとは頻繁に顔を合わせているが、その話は一度も聞いたことがない。

「私も暗黒武術会の後、たまたま霊界の関係機関で治療を受けていたので耳にした話だ。」
「……知らなかった。そういう話があれば真っ先に幽助やオレ達の所に来るのが普通なのに……。」
「で……黒鵺は確か、蒼龍妃の財宝コレクターだったな?」

蔵馬の表情が凍りついた。

「……待てよ! それとこれとどういう関係が……!!」
「蔵馬……私の知っている限りのことを話そう。霊界がお前に意図的に隠している話もな。」
「!」

【第3章 完】