死せる魂が辿り着く最終地・霊界。正しく生きた者には永遠の安らぎが、曲がった生を歩んだ者には相応の裁きが……などといった人間の勝手な想像は半分しか当たらず、日夜“魂の洗浄と転生”の業務に明け暮れているこの地は、今日もまた天地をひっくり返したようなパニックだった。
「どいてどいて~! バスが谷から落っこちて二十名様一挙御案内~!」
着物姿の少女がボートをこぐオールのようなものに腰掛け空を飛んでやってくる。そのオールの後ろには老若男女取り合わせて二十名、不慮の事故で死んでしまった者達の魂がぞろぞろ続いていた。
「ちょっと! あの書類は何処行ったんだ!!」
「まだコエンマ様の机の上じゃないのか!?」
「ええっ!? 弱ったなぁ、あれがないとうちで預かってる連中送り出せないよ!」
こちらでは鬼達が駆けずり回り必死の形相でただ一枚の紙切れを探し回っている。が、こんな状態では恐らく明日になっても見つからないだろう。
そんな喧騒の中、一人の美少女がオールに乗ってやってきた。混雑した霊界の空をひらりとすり抜け飛ぶ姿はこの仕事のキャリアが相当長いことを感じさせる。猫を思わせる可愛らしい風貌だが、本当の年齢は一体幾つなのか……霊界案内人・ぼたんだった。
「ねえちょいと!」
地面にすっと降り立ったぼたんは、パニックに陥ってる鬼達に声をかけた。
「何ですかぼたんさん! 今こっちは忙しいんですよっ!!」
「じゃあ手を動かしながら聞いとくれよ。昔ここで働いてた妖怪の男のこと訊きたいんだけど!」
ぼたんの問い掛けに、山のような紙の束を一枚一枚ひっくり返していた鬼達の手が止まった。
「……もしかして、“あの人”のことか?」
「妖怪なんてこの霊界にそうそう住んでるもんじゃないからな。」
鬼達が顔を見合わせ頷いた。ぼたんが苛立った声で詰め寄った。
「ちょっと、あんた達だけで勝手に納得しないどくれよ!」
「あ、いや済みませんっ! でも……“その方”が何か?」
「今何処にいるのかってこと!」
鬼達は再び顔を見合わせた。
「……確か二十年ほど前に、『もうすぐ現世に戻る』って言ってましたよ……その後すぐいなくなりましたけど?」
「何処に行くとか聞いてないかい?」
「そんなの本人だって知らなかったでしょうよ! 御存知だとしたら閻魔大王様かコエンマ様くらいだと思いますけど。」
「そのコエンマ様が『調べてほしい』って言ってたんだよねぇ。閻魔大王様も御存知なかったって話だし。」
現在閻魔大王は、人間界に暮らす妖怪達を排除する組織ぐるみの行為が発覚したことで霊界裁判を待つ身である。待遇は決して悪くないが行動の自由を制限され、手続きなしで彼と面会できるのは息子のコエンマだけであった。
「それじゃあ私等にも分かりませんよ。でも妖怪なんだからやっぱ魔界に行ったんじゃないんですか……?」
「そっかぁ、ありがと。邪魔したよ!」
ぼたんは簡単な礼を述べ、再びオールで空へ舞い上がった。
†
「うーん……何処行っちゃったんだろうアイツ……。」
霊界の空は十分前より少し空いたようだ。ゆっくりと風を感じながら飛ぶぼたんは今、記憶の中で、涼しい瞳をした一人の青年の姿を思い浮かべていた。
(……あれ? それよりあいつ……名前、何ていったっけ?)
ぼたん自身はその男に会ったことは一度きりしかない。が、鬼達をよく従え死者の魂をてきぱき振り分ける姿は、あまり男性に関心を持たない彼女をも一時的な恋(ほんの数日だったが……)に落とし込んでしまったほどだった。
『……ここの仕事は結構楽しいよ。』
あの時、あの青年は書類を届けにやってきたぼたんにそう語った。
『亡者の中でも一番凶暴な霊がここに来るんだ。連中が暴れ出したらオレの真の出番ってわけ。』
屈託なく笑う青年はとても腕っ節が強そうには見えなかった。どちらかと言えば細い体躯で色も白く背ばかりが高く見えた。が、強さが決して外見に比例しないことは経験からぼたんもよく知っている。……実際、その時そこで起きた事件で彼女は青年の手腕の一端を知ることとなった。
『動くなぁっっ!!』
『!!』
青年とぼたんが話し込んでいた丁度その時、運ばれてきた亡者が急に鬼達をなぎ倒し、ぼたんに駆け寄った。と同時に彼女の背後に回り、首を抱え込んで声を張り上げた。
『今すぐオレが天国に行く許可を出せ!! そうしないとこの女のどてっ腹に穴空けるぞっっ!!』
『ひっ!!』
『ぼたんさんっっ!!』
予期せぬハプニングに鬼達は顔色を変え、ぼたんもさすがに背筋が凍りついた。
『ここの責任者は誰だ! ん、お前か!?』
一人明らかに鬼達とは身なりの違う例の青年を見つけ、亡者は早速彼を脅迫にかかった。
『お前が書類をちょっと書き換えれば女は助けてやる! 早くしろ!!』
『……』
青年は無言だった。冷静な眼で亡者を眺め、彼は次にぼたんに視線を向けた。恐怖で脚がガクガク震える彼女に、彼は優しく頷いてみせた。
『……しゃあねーな。』
そう言いながら自分のデスクに近寄り、彼は一枚の紙切れを引っ張り出して亡者に示した。
『……これが行き先変更用の書類だ。でも、オレの判だけじゃ書類は出せないことになってる。ここにお前の拇印がいるから、彼女を離してこっちに来てくれないか。』
『阿呆め! 人質を先に開放する馬鹿が何処にいる!!』
『じゃあそのままでいい。オレがそっち行くから。』
青年は書類を持ち、亡者に近づいた。
『へ、物分かりが良くて助かるぜ。』
『バーカ。』
『何!?』
瞬間、青年が目にも止まらぬ早業で男の懐に飛び込んだ。
『っ……!』
亡者の首にぴたりと当てられた鋭い刃が、一瞬での形勢逆転を明白に示していた。何が起きたのか分からず呆然としていた鬼達やぼたんもようやく、数秒の後に我に返った。
『き、貴様っ……』
『彼女を離しな。霊界でもう一度死ぬことはねーけど、首と胴体離れた状態で地獄に行きたいか?』
『うぐっっ……』
青年の瞳は先程見せた優しさからは想像もつかぬほど冷たい光を湛えていた。気圧されて渋々ぼたんを離した亡者は、そのまま鬼達に取り押さえられ予定通りの地獄へと連行されていった。その様子を見送りながら、青年は刃を指先でくるくると回して消してしまった。どうやらこのナイフ、彼が自分の気を具現化した物らしかった。そのまま青年は、まだ落ち着かぬ様子で着物の歪みやポニーテールの乱れを直しているぼたんに近付いた。
『怪我はないか?』
『う、うん。ありがと。』
『まあここはこんなトコだからさ、男にはいいけど君にはちょっと危険かもな。早く帰った方がいいぜ。』
『うん……』
ぼたんはオールに腰掛け、一旦空へ飛び上がった。が、ふと思い出し、そのままの姿勢で男に尋ねた。
『名前、訊いてもいいかい? あたしはぼたんって言うんだけど。』
『オレ?』
†
……三途の川の上までやってきた現在のぼたんは、そこまで思い出して呟いた。
「そうだ、あいつの名前……“黒鵺”だ。」
【第2章 完】