桜も散り、若葉の緑が眩しいゴールデンウィーク明けの大学。キャンパスは今、新入生とそれを勧誘するサークルの呼び込みでごった返していた。
「水泳部で~す! 全国大会に出て北○康介と酒を飲みましょう!!」
「宇宙はオレ達の夢! 貴方も天文部で宇宙の神秘を解き明かしてみませんか!!」
その喧騒の中を縫うように、一際目立つ学生が同級生と思しき女性二人と並んで歩いていた。
「おい、あれ誰だ!?」
「何でも経済学部に入った新入生らしいぜ。」
「すげぇ美人じゃん! 是非うちのマネージャーになってもらおうぜ!!」
「それが……もうとっくに声かけたんだけどあっさりフラれちゃってさぁ……」
「アホ! 何度でもトライすんだよ!! うちはラグビー部なんだぞっっ!!」
キャンパス中の注目を浴びているのは、ボーイッシュなシャツスタイルがよく似合うすらりとした長身の女性だった。紅の髪の毛を緩く後ろで束ね、大きなキャンバス地のトートの他は白いシャツと細身のデニム、スニーカーというシンプルな服装だったが、それがかえってこの者の際立った美貌を引き立てていた。彼女の名は南野秀、いや、戸籍上は三年も前に「畑中秀」と改名しているあの人物……妖怪名・蔵馬、である。
「この前のテストどうだった?」
秀……蔵馬の隣を歩いていたカッパーブラウンのボブヘアの学生が切り出した。更にその隣の黒髪の女子学生が悲観したように首を振った。
「ダメダメ! レポート決定だよぉ。」
「日下先生の講義は全部、二回に一回テストがあるんだって。後期からは絶対取らない方がいいよ!」
「ねえ、秀はどうだった?」
話を振られて、それまで沈黙していた蔵馬は微笑した。
「ん、まあ何とか切り抜けたみたい。」
「さっすがぁ! いーなぁ、私も秀と頭の中身交換したいよ。」
「アタシは外側も一緒に交換したいわ。」
「あ、それいいや!」
蔵馬は苦笑いをし、ずり落ちかけた肩のトートバッグを反対の手に持ち替えた。
†
高校卒業後、義父の会社に就職し一旦社会に出たはずの蔵馬が「大学に行くことにした」と打ち明けた時、悪友達は誰一人驚かなかった。
『……無反応なんだね。』
『そりゃ就職したって聞いた時の方がよっぽど驚いたぜ。』
大きく首を縦に振り、桑原が相槌を打った。三年前……当時高校生だった蔵馬が大方の予想を裏切り就職を決めた時は、盟王高校の教職員全員で会議が開かれるほどの騒ぎとなった。「目をつぶってでも東大に入れる」などと言われていた学年一の秀才はそんな周囲の狼狽をよそに頑として意志を変えず、そのまま義父の経営する小さな会社に就職してしまったのである。
さすがと言うべきか、蔵馬をスタッフに加えたこの会社は急成長を遂げ、僅か二年足らずで従業員を百名以上も抱える企業へと成長した。しかしこの急激な成長は組織内部の混乱をも招くこととなった。それまで大所帯を指揮した経験のない蔵馬の義父はすっかり弱ってしまい、この出来の良すぎる義理の娘に会社の運命を託すことにした。のはいいのだが……
『仕方なかったんだ。まだまだ日本は男尊女卑が強いからさ、例えばオレが他の会社へ取引に出向いても相手してもらえなくて。』
『でもオメーの交渉能力なら強引にでも押し切ることぐらい……』
『それが門前払いでさ、「高卒の女は大人しく事務でもやってろ」ってね。まあそんなこんなで親父に「大学行って来い」って言われちゃったわけ。』
プライドの高い蔵馬が、学歴や性別を理由にいわれなき差別を受け傷ついたことは想像に難くない。いや、千年以上も生きている彼女のこと、「見返してやる」という気持ちよりは「だったらどうすればスムーズにことが運ぶか」を熟慮した結果かもしれない。いずれにせよ三年前に頑として拒んだ進学を今回はあっさりと決め、蔵馬はこの春から興譲大学の経済学部一年生として花の(!?)キャンパスライフを送ることとなったのである。
……それから二ヶ月。都内某所にアパートを借りて一人暮らしを始めた蔵馬は、ここ数年の目まぐるしい混乱から一息ついてすっかり平和な生活を送っていた。
「ねえねえ、五コマ終わったらパルコ行かない? バイト代入ったから目ぇつけてたミュール買おうかと思ってさ。」
「行こ行こ! ね、秀も行くでしょ?」
「ん、オレはいいよ。服とかあんま興味ないし。」
「ダメっ! 折角素材がいいんだからもうちょっと気ィ遣いなさいっ!!」
「そうそう! ユニクロの“トータル五千円ファッション”続けてたら人間堕落するよっ!!」
何でバレてんだろうといささか冷や汗の蔵馬の腕を、黒髪の友人がグイと引っ張った。振り向く蔵馬にずいと詰め寄り、彼女は子供を叱る母親のようにまくしたてた。
「いい!? これから一カ月で秀には“ミス興譲”に変身してもらいますからねっ!! このままじゃあのイケメン君逃がしちゃうよっ!!」
「『イケメン君』? まさか、この前来た“彼”のこと?」
「決まってるでしょっ!」
「あーいたいたそんな人! あのフェラーリ乗ってたお坊ちゃまタイプの男の子でしょ!? カッコよかったよねー!」
数日前に蔵馬の元を訪ねてきたのは父親の不祥事発覚後、霊界の全権を握る実質的な閻魔大王・コエンマだった。目の回るような忙しさの間隙を縫って彼は、二週間に一度くらいは何らかの理由をつけて蔵馬と顔を合わせていた。それが一体何の目的か……「オメーに気があるからに決まってんだろ」などと幽助達に冷やかされるまでもなく蔵馬自身重々承知していたのだが、あえて気づかぬ振りをして“即かず離れず”の関係を保っていた。
『オレより腕力のない彼がオレに手綱つけられるわけないだろ。』
などと、本人が耳にしたらどれほど落ち込むか分からない言葉を口にしながら蔵馬は「霊界の有力者に気に入られるのは何かあった時に都合がいい」といういささか打算的なことも考えていた。そう、正直なことを言えば“良き友人”以上の感情を持つことなど考えられない。だが先に述べた理由に加え、コエンマは他の男を追い払うのに都合がいいカモフラージュだった。顔も良く金も持っていそうな雰囲気(何故彼は人間界移動用の車にフェラーリなど選んだのだろう)のコエンマは「あれくらいの男じゃないと彼女には相手にしてもらえない」と周囲の男子学生達に思わせるのには充分だったのである。……が、
(別にどうでもいいんだけどな……)
積極的に応援されても困るのだ。
「ねえねえ、今度カレのこと紹介してよ! いいトコの跡取り息子だったりするんでしょ!?」
「まあ、確かにそうかもしれないけど。」
「すっごーい、玉の輿じゃん!! いいなぁ秀ってば。」
冗談じゃない、と蔵馬は心の中で大きくかぶりを振った。未来の閻魔大王の妃など、盗賊上がりの自分にはとても耐えられそうにない。
その時、急に携帯の着信音が鳴り響いた。味気ない標準仕様の着信音は蔵馬の携帯だった。ジーンズの後ポケットからストラップ等の一切ない赤の携帯を取り出し、画面で相手を確認した蔵馬の顔が、急に不機嫌そうになった。
「はい。」
応答も素っ気ない。蔵馬は周囲の雑音を避けるように片方の耳を塞ぎ、もう片方の手でしっかり電話を耳に押さえつけていた。
「悪いが今夜は忙しいんだ。エ? 明日? 会社に顔出さなきゃいけないから行けない。次の日? 月曜テストだから。じゃあな。」
ほぼ一方的にまくし立て、蔵馬は電話を切ってしまった。と彼女は、じっと聞き耳を立てていたらしき二人の友人に気がついて思わず声を大きくした。
「何だよ!」
「え、いやぁ、機嫌悪そうだったからさ。」
「誰かなーって。まさか元カレとか?」
「違うっっ!」
断じて違う、と蔵馬は拳をぐっと握り締めた。と、その時。
「やはり、お前には直接顔を見せないと会ってもらえないようだな。」
「っ……」
蔵馬の表情が強張った。目の前に、銀色の携帯電話を握り冷笑を浮かべた妖怪の男……黄泉が立っていた。
「黄泉!!」
「ふ、男のあしらい方はまだまだ下手だ。」
黄泉は友人達に遠慮することもなく、ゆっくりと蔵馬に歩み寄った。彼の明らかに人間と異なる風貌に友人達は思わず後ずさった。
「だっ、誰、この人っ!?」
「人間じゃないよね、どう見ても……」
妖怪アイドルグループ『カルト』等の活躍で徐々に浸透はしているものの、まだ人間にとって妖怪は馴染みの薄い生き物である。キャンパス中の学生が黄泉に視線を釘付けにされている中、蔵馬がふうっと大きく溜め息をついた。
「お前までこれ以上、オレの頭痛の種を増やすな。」
「頭痛の種とは、お前を狙っている男達のことか?」
皮肉たっぷりな言葉に、蔵馬は忌々しげに黄泉を睨み付けた。
「何の用だ。」
「今夜辺りは“もう一人のお前”に会えるのではないかと思ってな。人間界に用があったついでに寄ってみた。」
「もう一人の、秀?」
「何でもない!」
黄泉の言葉に怪訝な顔をする友人達を大声で制し、蔵馬は黄泉に詰め寄った。
「それ以上余計なことを話したら、絶対に殺す!」
「懐かしいものだ。お前のそんな慌てふためく様子を拝むのは何年ぶりか。」
蔵馬が黄泉を睨み付ける視線がいっそう強くなった。
†
第一回魔界統一トーナメントから早三年。敗者となった黄泉は息子・修羅との修行の旅から戻ってきた後、飛影や躯と同様にパトロール隊として招集されていた。任務を嫌がる飛影とは対照的に、黄泉は意外にも積極的に与えられた職務をこなしていた。
『こんな退屈な茶番の何が楽しいんだ。』
パトロール中、すっかりうんざりした飛影に尋ねられ、黄泉は事も無げに答えた。
『お前は「こんな任務放り出してさっさと躯 <オンナ> の元に戻りたい」と考えているだろう? オレも同じだ。』
『なっ!!』
真っ赤になって怒る飛影を無視し、黄泉は意味ありげに呟いた。
『人間界には、オレが千年以上想い続けた女が暮らしている。』
『!』
飛影もその人物に心当たりがないわけではない。何でも見える邪眼を持つこの男とは対照に、黄泉は永久に光を失った眼で霞む東京の街を遠く見つめていた。
†
「この前も言っただろ。オレがあの暮らしに、あの姿に戻ることはもう二度とない」
深呼吸を一つした蔵馬はすっかり、親愛の情の薄い相手に向ける独特の冷ややかな表情に戻っていた。それが見えないのは幸か不幸か……黄泉は小さく息をついて、静かな声で蔵馬に問いかけた。
「何も捨てないと……あの時お前はオレに、そう言ったのではなかったか。」
「何も捨てない」、それは三年前の魔界統一トーナメント、妖狐の力を封印したまま闘った蔵馬が黄泉に告げた言葉である。妖狐の自分も人間として生を受けた自分も、全てが“蔵馬”という只一つの存在。千年以上もの長い時間を迷い傷つきながら生きてきた、弱くて強い存在。それに胸を張って生きていこうという思いに今も変わりはない。が、
「……」
話が見えずに困惑している人間の友人を尻目に、蔵馬の視線は一瞬虚空を彷徨い、遠い空へ投げられた。
「全部がオレだ。でも、あの“力”は、もう必要ない。」
†
「ちょっと秀!! さっきの彼、誰なの!?」
「最初びっくりしたけど、よく見たら結構イイ男じゃん!!」
「……」
また会いに来ると言い残し、黄泉は意外にあっさりと帰っていった。しかしその後の激しい友人達の追及に、また一つ頭痛の種が増えてしまったと、蔵馬はガックリ肩を落とした。
「この前のイケメン君も良かったけど、今のカレも大人の魅力で高得点!!」
「しかもあの男のコより秀のこと、理解ってそうな雰囲気じゃなかった!? 妖怪なのはちょっとマイナスポイントかもしれないけど。」
「何か意味ありげなこと言ってたよねぇ、『もう一人のお前』とかさ!」
「ねえねえ、どういう意味?」
まったく、黄泉は何てことをしてくれたのだろう。
「別に、大した意味じゃないよ。」
「あ、もしかして秀って昔、ヤンキーだったとか!? レディースの総長みたいな!」
蔵馬は思いっ切り膝から崩れた。
「今でも一声かければ関東一円のゾクがエギゾースト鳴らして集合するとか!」
「あー言われてみれば! 何だかソレっぽいよね秀って!」
(『ソレっぽい』……)
ショックだがあながち間違ってはいないので、蔵馬は何も言えず黙り込むしかなかった。
「でも高校時代は優等生だったんでしょ?」
「それがさ、文学部の理恵知ってるでしょ? 高校時代の秀は私生活がよく分からない人だったって言ってたよ!」
理恵という女性は蔵馬の高校時代のクラスメイトである(二浪して彼女と同学年になったらしい)。
「ね、ね、ホントのトコ、どうなの?」
「いや、別に。」
「じゃあさ、今の人とはどういう関係?」
「それは……」
蔵馬は言葉に詰まってしまった。自分が妖怪であると知らない彼女達に“盗賊時代の部下”と説明するわけにはいかない。それに実は、蔵馬と黄泉の関係を正確に把握している者は蔵馬を妖怪と知る友人達の間にもいなかった。
(盗賊時代の部下……そう、それだけじゃない。)
幽助達には打ち明けていないが、黄泉の失明も自分の責任である。そして、それ以上に蔵馬と黄泉には複雑な事情があった。
すっかり黙り込んでしまった蔵馬の背中を、茶髪の友人がぽんと叩いた。
「まーまー、いいことですよモテるってのは。」
「そうだよ秀、二人選べなくて困ってるのはよく分かったけど、アタシ達が力になってあげるから!」
黒髪の友人も深く頷いて同調の意を示した。打ち消そうとして蔵馬は思い止まった。
「……そうだね、何か困ったら相談するよ。」
彼女達が生きている間にそんな機会は恐らくないだろうが、素直に困っているフリをした方が話が早そうだ。
タイミングよく、午後の講義開始を告げるチャイムが鳴った。三人は大慌てで「統計学概論」の行われる A305 号室へと駆け込んだ。
【第1章 完】