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第5章 事件の幕開け

十分後……清春の運転する白い S15 <シルビア> の助手席で、蔵馬は昨夜の鴉の話を思い出していた。

『単刀直入に言えば、霊界は“蒼龍妃の首飾り”を持ち出したのは黒鵺だと考えているようだ。』

鴉はブランコの周辺に巡らせてある柵に手を掛けて言った。

『噂を聞いただけだから詳しくは知らんが、黒鵺は実は最近まで霊界の重要な役職を務めていたらしい。しかし、数十年前に「もうすぐ現世に戻る」と言って消えてしまったそうだ。』
『本当か!?』

蔵馬が叫んだ。

『あいつはもう、転生しているのか……!?』
(黒鵺に、また会える……!!)

千年間待ち焦がれた再会の時がとうとう来たのだろうか。体の震えるのが自分でもよく分かった。

(いや……記憶を失った魂はもう“黒鵺”ではない。期待しても仕方ない。)

そう慌てて否定してみるものの、高鳴る胸は全く抑えられそうにない。が、鴉は手を掛けていた柵に腰掛け首を振った。

『ところが、だ。霊界は黒鵺がどこに行ったのか把握していない。つまり黒鵺は正規の手順、すなわち“魂の浄化”と“転生”を踏まずに行方を眩ましたのだ。霊界は黒鵺が生前盗賊で、蒼龍妃の財宝を蒐集していたことを知っていた。それで疑いを向けたというわけだ。』

蔵馬にも思い当たる節がある。コエンマが自分の元に何故あれほど頻繁に足を運ぶようになったのか。真の理由はそこだったのかと、蔵馬はぐっと唇を噛んだ。

『霊界は用心深い。黒鵺が現世に戻ったら必ずお前の元に現れる……そう考えて、お前を監視している。』

蔵馬の考えを見透かしたように鴉が言った。

『残念だが、黒鵺はオレの元には来ていない。』
『私もそう思っていた。今のお前にすれ違ってもきっと黒鵺は気づかない。それにお前は暗黒武術会の時より、更に人間臭くなった。』

蔵馬が反応した。

『……一年前、妖力を封印したんだ。』

木の葉がざわめいた。

『身辺が落ち着いたから、しばらく戦いから離れることにした。そうしたらあの強大な妖力は邪魔なだけだ。だから、』
『それで今のお前から妖力を感じないわけか。』

鴉の口許が笑った。

『お陰でとても歪に見える。妖怪の肉体に霊力を持つ……今のお前は奇妙な存在だ。』
『肉体は妖化してしまってもうどうにもならない。霊力は“南野秀”が生来持っていたものだ。』
『その微細な霊力で植物の武器化が出来るようになるまでは相当苦労しただろう。』
『余計なお世話だ。』
『黒鵺がいたら、お前は妖力を封印したりはしなかっただろう?』
『……』

蔵馬の顔が曇った。……それからしばらく二人とも黙り込んだ。夜も更けて風が少し冷たく感じられる。沈黙を破ったのは蔵馬だった。

『正規の手順を踏んでいないとしたら、霊体はどうなっている?』
『霊体のまま彷徨っているか、何かに憑依して隠れているか、あるいは何らかの理由で霊体ごと消滅してしまったか……どれか一つだ。』
『三つ目でないことを祈るしかないな。』

蔵馬がうめいた。鴉が立ち上がった。

『いずれにせよ、大事な“弟”が追われているなら私はかくまうまで。霊界の先回りをして事件を片付ける、それだけだ。』
『オレも協力する。今のオレでは役に立つか分からないが。』

蔵馬の心の中に、鴉との奇妙な連帯感が生まれていた。鴉は小さく溜め息をついた。

『まずは黒鵺だが消えた首飾りも探し出さねば。明日辺り霊界図書館に忍び込んでどんな代物か調べておくか。』
『多分、知ってる。』
『何?』
『元々オレが持っていた物だから。』

鴉の眉が動いた。蔵馬はぼんやりと風にざわめく新緑を眺めていた……

「やっぱりさ、何か悩んでるね。今の南野さん。」

運転席の清春の言葉に、蔵馬は顔を上げた。

「心がどっか行っちゃってる。よっぽど大事なことなんだ。」
「ゴメン。」
「いいよ、別に。話せないことなんだろ。」

昨日弱音を吐いていたのとは違うことなのだが、悩みが増えたのは事実だった。

Trrrrrr…

急に、ダッシュボードの上に置かれていた清春の携帯電話が鳴った。

「ゴメン南野さん、鴉だと思うから出てくれない?」

清春は車内に流れていた洋楽のボリュームを下げた。液晶画面には確かに“烏丸了”の名前が表示されている。

「はい。」
『その声、南野か?』

間違っていた場合を考えてくれたのだろうか、鴉は蔵馬を人間界の名で呼んだ。既に清春から彼女も加わるという連絡が伝わっているようだ。

「ああ。まだ仕事か?」
『済まん、今にも自殺しそうな客がやってきて手が離せなくなった。行けなくなったと清春に伝えてくれないか。』
「はぁ!? ちょっと待てよ、“財布”が来なかったらどうすんだよ! おい鴉!! ……切った!」
「え、まさか来れないって?」
「これから自殺志願者を説得するらしいよ。」
「何だよそれ! ……うわっ!」

がっくり来た清春のハンドルワークが乱れた。彼は慌てて運転を立て直しながら蔵馬に遠慮がちに尋ねた。

「どうする?」

蔵馬はちらっと清春の携帯の時計を見た。八時十分前……何とも中途半端な時間である。

「とりあえず、何か食べようか。」
「じゃあ何にしよう?」

何気なく窓の外を眺めて料理屋を物色していた蔵馬の眼に、ふとラーメンの屋台が目に止まった。

「あ、ラーメンでもいい?」
「ラーメン?」
「オレの友達がやってるんだ。ちょっと遠いけど……」
「オッケー、ナビ頼むよ。」

もしかしたら、今回の事件を知らなかったのは自分だけではないのか。とにかく、彼に聞けば何か分かるかもしれない。

「らっしゃい! ……おあっ!?」
「しっ! “南野”です、久しぶり。」

繁盛している屋台を一人で切り盛りしていたのは、蔵馬の盟友・浦飯幽助だった。

「久しぶりだな南野! 二ヶ月ぶりじゃねーか!」
「ゴメン、大学通い始めて色々忙しくてさ。」

幽助の挨拶はいかにも取ってつけたようだった。蔵馬が先回りしなかったらこの男は絶対に“蔵馬”と呼んでいたに違いない。と、幽助は蔵馬の背後に立つ長身の青年に気がついた。

「何だぁ!? 大学入って早速オトコが出来たか!?」
「違うよ。もう一人と三人で食事の予定が、来られなくなったらしくて。」
「こんにちは、鈴井です。」

清春は笑顔で幽助に挨拶した。幽助が声のトーンを潜めて蔵馬に囁いた。

「おい、この男、妖気も何もねーけどホントに人間?」
「君よりずっと妖怪っぽいよね。」

冗談混じりに蔵馬が答えた。それにしても、来られなくなったもう一人が鴉だと知ったら幽助もきっと驚くだろう。

「特製ラーメンを一つ。鈴井さんはどうする?」
「じゃあオレもそれを。ああ、“鈴井さん”なんてやめてくれよ。“清春”でいいから。」
「何言ってんの、オレは後輩だよ?」
「じゃあオレも呼び捨てするってことで。“秀”って呼んでもいいかな。それとも“南野”? 名前の方がいいか。」
「おーぅ、おアツいねぇ。」
「幽助は黙ってろっての。」

蔵馬はむっとした表情を見せた。

「最近他の人に会ってる?」
「ああ、桑原と雪菜ちゃんはよく来るぜ。陣とか酎とかあの辺の連中も時々。」
「ぼたんさん達には?」
「まあたまに。でも霊界 <あっち> の連中はオメーの方が会ってる回数多いんじゃねーの?」
「一人だけね。」

ぶすっとした顔を作りながらも蔵馬は、探りを入れるのに都合のいい方へ話が流れたことに内心喜んだ。

「君はその“彼”に会ってる?」
「最近はねーな。」
「何か、ここ一年の間に事件が持ち込まれたことはないか?」
「事件?」

蔵馬の問いに幽助は首を傾げた。

「ねーよ。そんな面倒なのがあったらお前にも連絡するぜ。」
「そっか、ありがと。」

幽助は嘘をつくのが下手だ。だからこそ彼は本当に何も知らない、と蔵馬は判断した。

「また分からない話してる。」

清春がくすくす笑って蔵馬を見た。彼女は小さく肩をすくめた。と、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「おぅ、今日も売り上げに貢献してやりに来たぞ!」
「えっ? 桑原君!」
「おおっ!? 南野じゃんか! おー久々っ!!」

桑原は幽助よりは“南野”の名に慣れているようだった。彼の後ろに今日は雪菜の姿がなかった。

「そいつは?」
「あ、鈴井です。君の友達……でいいのかな?」
「いいよそれで。」

蔵馬は笑顔で頷いた。まだ会って二日目だが、話がややこしくなるのでそういうことにしておこう。ところが桑原は案の定、別の捉え方をした。

「友達、じゃなくてもっと深い関係とか? うあ、す、すんませんっ!!」

蔵馬の殺気は妖気を封印した今でも相変わらずの恐ろしさだった。

「はい、特製ラーメンお待ちどぉ!」

幽助からラーメンを受け取り、蔵馬は早速一口麺をすすった。また腕を上げたな、と彼女は自然に笑顔になった。幽助は清春にもラーメンを手渡しながら、蔵馬の代わりに桑原へ話を振った。

「桑原、お前のところにコエンマから何か言ってきてないか? こいつがここ一年の間に変わったことがなかったかって。」
「『コエンマ』?」

割り込んできた清春に「しまった」と幽助は縮こまった。失言の彼を一瞬睨みつけた蔵馬が、諦めて清春に簡潔に説明した。

「人間界と魔界の他に、死んだ魂が辿り着く“あの世”があるんだよ。コエンマはそこの御曹司。閻魔大王の息子さ。」
「閻魔大王!?」
「ああ。」

蔵馬の手が胡椒に伸びた。隣の清春がくしゃみをするほど彼女は遠慮なくそれを麺にぶちまけた。「ゴメン」と一言謝ってから、蔵馬は改めて幽助達を清春に紹介した。

「幽助はこの前まで霊界探偵をやっててね。霊界の権力者とも直接会って話せる関係なんだ。桑原君も彼と一緒に色々な事件を解決してる。」
「他人事みたいに言うなって。オメーだって一緒にやってきたじゃねーか。」
「それにお前の方がコエンマには気に入られてるだろ。フェラーリが興譲大学の前に停まってるの見たってアネキが言ってたぜ?」
「えっ、まさかあの、学校で噂のフェラーリ!?」

蔵馬は桑原と清春の言葉を黙殺し、幽助が意図した味とは全く違うであろうスパイシーなラーメンを無表情ですすった。よく食べられるもんだと清春は感心した。桑原がぽんと手を叩いた。

「そうだ、オレ達じゃねーけどこの前、飛影がコエンマに会ったらしいぜ。何か探し物頼まれたとかブツブツ言ってたっけ。確かダイヤの首飾りとか……」
「!! その話、詳しく聞いてないか?」
「いや、オレもそれ以上は知らねぇけどよ。」
「そういや桑原お前、何だかんだ言って結構飛影と会ってるよな?」

二人の会話に、幽助が他の客の丼に替え玉を追加しながら割り込んだ。

「ああ。あの野郎、何故か時々雪菜さんに会いに来るんだ。くっそ、あいつやっぱり雪菜さんに横恋慕してんじゃねーのか!?」
「それは違うと思うけど……」

蔵馬が控えめに訂正した。未だに彼が真実を知らないとは気の毒にもなってくる。桑原は忌々しげな顔をしていたが、ふと思い出したように呟いた。

「そういやこの前アイツが愚痴ってたな。オメーが結界を張るようになってから“見えにくくて”仕事が面倒になったとか言ってたぜ。」
「オレが?」

蔵馬が怪訝な顔をした。確かに最近、妖力を封印してから身の安全のため身の回りに簡単な結界を張るようになったのだが、それが飛影に何の関係があるというのか。手が空いた幽助がカウンターから身を乗り出した。

「そういやオレも聞いたな。飛影じゃなくて酎と鈴駒なんだけどよ、魔界パトロール隊の人間界滞在組にお前を護衛しろという命令があったって聞いたぜ。あれ、何で本人が知らないんだよ。」

蔵馬の顔色が変わった。

「……何でオレを守れって?」
「いや、力を封印してしまっただろ。でもお前に恨み持ってる奴はまだゴロゴロいるから、そいつらからお前を守ることになったって聞いたけど。え、それお前の頼みじゃないのか?」
「オレがそんなこと、他人に頼むわけないだろう!」
「じゃあ誰が言い出したんだ?」

幽助達が顔を見合わせた。蔵馬の顔は真っ青だった。

(知らないうちに“監視”されていた……)

誰の依頼かは知らないが、幽助の話からから判断してここ一年以内のことだろう。と、清春が居心地悪そうに顔を上げた。

「あのさ、もしかして、オレが聞いていたらマズい話?」
「別にそういうわけじゃないけど……まあ、そうかもね。」

蔵馬は首を振った。今日はもう、何も考える気になれなかった。

【第5章 完】