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第10章 四者会談

ガタッ!

鴉が勢いよく窓を開けた。

「サーンキュ!」

そう言いながら室内にするりと滑り込んできた男を見て、蔵馬があっと小さく声を上げた。

(黒鵺に、よく似てる……)
むらさき!!」

鴉が叫んだ。

「えっ?」

蔵馬が彼を振り返り、それからもう一度“むらさき”と呼ばれた男を凝視した。各パーツの位置が微妙に違うが、切れ長の涼しい目元や悪戯っぽい微笑を湛えた唇が黒鵺とよく似ていて、蔵馬は呆然と男の顔を見つめた。男はくすくす笑って、蒼白の鴉に近づき肩をぽんと叩いた。

「久しぶりだなー鴉。元気だった?」
「紫! お前、どうして……!」

男はいきなりピシッと踵を揃えて“気をつけ”をし、おどけたように敬礼のポーズを取った。

「今日から特別捜査隊に入ることになりましたっ。宜しくな。」
「!!」
(まさか!)

蔵馬がようやく気づいた。

「もしかして黒鵺の、お兄さん!?」
「何だと?」

黄泉が驚いて声を上げた。紫は蔵馬に向かって微笑んだ。その笑顔がやたらと眩しくて蔵馬の顔が薄紅くなった。

「君、オレのこと知ってるんだ。」
「ずっと黒鵺から聞いてたから。自慢の兄貴だったって……そう。」

紫の表情が優しくなった。黄泉がコエンマに尋ねた。

「どういうことだ? この男、黒鵺の兄という話だが。」
「この男は黒鵺より先に死んだはずだ。それが何故ここに……」

鴉もコエンマを振り返った。コエンマは小さく頷き、紫を一同に紹介した。

「今言った通りだがこの紫は黒鵺の兄だ。千百年ほど前に死亡したが、黒鵺と同じくずっと霊界の組織で働いてもらっていた。仕事は、不完全な状態で霊界へ辿り着いた魂の修復と再生。」
「魂の、修復……」
「そうか紫、お前は高等妖術師だったな。」
「!」

鴉の言葉に黄泉と蔵馬が反応した。

「で、魔界か人間界に転生させるはずだったが適当な後継者が見つからず、仕方なくそのまま霊界の民として新しい命を与えている。」
「つまり、姿形も記憶も前世のまんま残ってるけど、今は妖怪じゃなくて“霊界人”ってわけ。」

そう言って紫は勧められてもいないソファに勝手に座り込んだ。鴉は未だ落ち着かぬ視線で彼とコエンマの顔を見比べていたが、小さく頭を振ってどっかりとソファに腰を下ろした。と、紫が声を掛けた。

「何だよ、オレにはお茶出てこないの?」
「自分でやれっ。」
「相変わらずツレねーなぁ。」

くすくす笑って紫は空いていたカップとポットに手を伸ばした。カップは鴉が“五人の来客”(正確には一人は占いの客なので残りの四人)を見越して余分に用意していた物だった。

(やだなぁ、ホント黒鵺にそっくりだ。)

蔵馬の顔がほころんだ。鴉がコエンマを見て呟いた。

「ようやく分かったよ、お前が私のところに話を持ち込もうとした理由がな。」
「お前が黒鵺の知人だということもこの男に聞いて知ったんだ。だからお前に、紫の補佐に回ってもらおうと考えた。」
「変な話だな。蔵馬には隠そうとしたくせに、私やら紫やら黒鵺の関係者ばかりに事件を持ち込むとは。」
「あまりツッコむなよ鴉。コエンマはただ、そこの赤毛の彼女から黒鵺ライバルを隠しておければそれでよかったんだろ。」

その言葉にコエンマの顔が紅くなった。コホンと一つ咳払いをし、彼は立ち上がって一同を見渡した。

「ではワシは忙しいから帰るぞ。紫、毎日夜九時の定期連絡を忘れるなよ。」
「ああ、あんたこそその時間に会議入れんじゃねーぞ。」

紫はにっと笑って頷いてみせた。コエンマは少し名残惜しそうに立ち上がり、蔵馬を振り返った。その視線に気づいた蔵馬が微笑んだ。ぐっとコエンマは拳を握り、四人に背を向けた。

「じゃあ邪魔したな、鴉。」
「ああ、後は私達に任せろ。」
「コエンマ、本当に有難う。」

蔵馬の言葉を聞き、コエンマは自らを奮い立たせるように一つ頷きそのまま部屋を出て行った。と、同時に黄泉が立ち上がった。

「お前も帰るのか?」

蔵馬が尋ねた。

「今日は魔界でパトロール隊のミーティングなんだ。人間界組の長として参加せねばならないのでな。」
「魔界組にも首飾りと黒鵺を捜す件、伝えてくれ。」
「ああ。本当はあの男が出てこない方がオレも有難いのだがな。」
「どうだ蔵馬? ああいうセコい輩は。」
「正直な男は嫌いじゃない。」

鴉の問い掛けに、蔵馬は微笑を交えて答えた。黄泉も微かに笑い、蔵馬に向き直った。

「蔵馬、一つ予告しておく。」
「何だ?」
「次のトーナメント、オレが優勝したら最後の挨拶で、魔界中に中継が流れている所でお前に求婚する。」
「!」

紫と鴉が思わず顔を見合わせた。黄泉はくるりと蔵馬に背を向け、付け加えた。

「勿論、受ける受けないはお前の自由だ。ではな。」

黄泉は長い黒髪を翻して出て行った。紫がヒューッと口笛を吹いた。

「カッコいいじゃん! ちょっとあいつに惚れたねオレ。」
「お前が惚れてどうする。」
「いやぁ、オレだけじゃなさそうだぜ?」

振り向くと蔵馬が顔の火照りを隠すように俯いていて、鴉はぎょっとした。

「すげーなぁ、魔界の実力者に閻魔大王の御曹司、おまけにこの霊界一の美青年の DNA を引く天才盗賊。綺羅星みたいな男ばっかだ。」
「『霊界一の美青年』? あの世で新ネタ覚えてきたのか?」
「バカお前、オレ以上にイケてる男見たことある!?」
「黒鵺も昔同じことを言ってたぞ、この馬鹿兄弟が。」

憎まれ口を叩きつつ、鴉は視線の端でようやく平静に戻った蔵馬を捉えていた。紫が目ざとく反応した。

「あ、もしかしてお前も彼女に惚れてたりする?」
「私が?」

鴉がふっと笑った。

と、その時急に蔵馬のポケットから携帯の着信音が鳴り出した。液晶画面で相手の名を確認した彼女の顔が強張った。

「はい。」

蔵馬が電話に出たため、鴉と紫は一時沈黙した。鴉は蔵馬がいつもと少し違う様子であることに気がついた。彼女は受話器と口許を右手で覆い、音が外に漏れないように注意を払っていた。

「え? ん、でも……そう、じゃあ……うん。」

話の内容を二人に悟らせないように配慮したのか、蔵馬はほとんど言葉を発しなかった。電話を切って蔵馬は立ち上がった。

「済まん、用を思い出したから帰る。お前から彼に事件の説明をしておいてくれないか。」
「それは、構わないが?」

語尾上げで疑問を匂わせた鴉を無視し、蔵馬はそれ以上は何も語ろうとしなかった。仕方なく鴉は立ち上がり、電話の隣に置いてあったメモ用紙とボールペンを彼女に差し出した。

「ならせめてホットラインの番号置いていけ。」
「そうだな、忘れてた。」

蔵馬はメモ用紙に携帯電話の番号を記した。それと交換に鴉が自分の携帯電話の番号を書いて差し出した。蔵馬はそれを受け取り、中身を確かめもせずポケットに突っ込んでいそいそと部屋を出て行ってしまった。それを見送りながら鴉は小さく呟いた。

「昨日からどうもおかしい。」
「おやオトコかな?」
「そうかもしれん。」
「妬いてる?」
「私が妬く理由がない。」

絡んできた紫を鴉はあっさりと斬り捨てた。

「黒鵺の、オンナなんだよな彼女?」
「違う。あくまで“相棒”だ。黒鵺は彼女にだけは臆病だった。よく情けない弱音を聞かされていたよ。」

紫が笑い出した。

「ははは、アオいなーっ! でも夢魔なんだし『ちょっと妖力切れそうなんだよー』とか言いながらHなこと迫ったりとか……」
「そこまで私が知るかっ。」

鴉は呆れてそっぽを向いてしまった。紫はニヤニヤしながら、感慨深げな声で呟いた。

「夢魔が女に惚れるなんてよっぽどだぜ。彼女、そんなにイイ女?」
「“女”として見れば半人前だ。だが、胸を突かれるような美貌と男を惹きつける不思議な翳がある。」
「翳は後からついてきたもんだろ。黒鵺が惹かれたとしたらそれじゃねーな。よっぽど縁が強かったんだろうさ。前世でも来世でもずっとこいつと添い遂げるってくらいの。」

紫はティーポットに手を伸ばし、すっかり温くなったお茶を注ぎ足しながら言った。

「話変わるけど、そろそろ今までの事件の流れを説明してくれないか? お前が把握してること全部。」

促されて鴉は、知りうる限りの情報……清春のことやダイヤのこと、その他全てを紫に話し、更にもう一つの懸案事項、すなわち妖狐蔵馬の封印が紛失した事件のことも付け加えた。紫は腕組みしながらそれらを全部、口を挟まずにじっと聞いていた。鴉の話が終わると同時に、彼は立ち上がり、鴉に身体を擦り寄せるように座り直した。鴉が後ずさった。

「何だっ。」
「シッ、内緒の話。」

立てた右手人差し指を唇に当てて合図し、紫は懐から小さく折り畳まれた紙を取り出して鴉に差し出した。

「持ち出し厳禁、霊界の極秘資料のコピーだ。」
「?」

鴉は紙を広げ、さっと中身に目を通した。途端にその顔色が変わった。紫が説明した。

「汚れ切った魂や破損がひどい魂はオレ達みたいな修復係の所に送られてきて、洗浄や補完の手間を掛けてから転生させられる。その時作られる資料なんだ。そいつはオレが働き始める前のモンだけど。」

鴉は食い入るように書類を見つめていた。A4程度の大きさの紙に記されていたのは、一人の女の転生記録だった。記されていたのは前世での死亡年月日と、転生後の生年月日。特殊な機械で測定したらしき処理前と処理後の魂の解析パターン、そして前世の名前と現世での名前……

前世の欄には“蒼龍妃”と、そして現世の欄には“蔵馬”と記されていた。

「……紫!」
「しっ、読んだらこっちへ。」

鴉から紫に手渡された書類は、彼の手の中で紫色の炎を上げてあっという間に消え去った。

「霊界でコエンマに蔵馬のこと聞いてさ、下調べしておこうと思って探したら偶然、意外なところで繋がってたわけ。」
「お前にしては大手柄だな。もっとも、意味があるかどうかは別問題だが。」
「相変わらず毒舌だなぁ。最後まで聞けって。」

紫は笑った。

「蒼龍妃の怨念ってのは、それだけじゃあまり使い物にならないんだ。せいぜい他人に植え付けてそいつの人格を変えるくらいしか出来ない。後は魔物を呼び出すための餌にするとかな。ところが、同じ魂を持っている蔵馬に彼女の記憶と怨念が憑依すれば?」
「蒼龍妃が復活するとか?」
「御名答。蒼龍妃ってのは今の霊界のランク付けでいえば間違いなくS級、しかもトップクラスの化けモンだ。高等妖術をマスターし集団洗脳もお手の物。現世にいきなり現れたら大パニック必至だぜ。」
「だが、本当に犯人側はそれを意図しているのか?」
「オレもそれは疑問だけど。」

紫はカップの中の紅茶をぐっと一気に飲み干し、空になったカップを鴉に差し出した。鴉は冷静にソファの背後の棚に置かれていた小さな金属缶に手を伸ばし、中のティーバッグを一つ、差し出されたカップに放り込んだ。

「ティーバッグかよ。お湯は?」
「そこのポットだ。」
「自分でやれって?」

紫は苦笑いして仕方なく、立ち上がって部屋の隅の台に置かれていたポットに近づいてお湯を入れた。紅茶が零れないよう注意深くソファへ戻りつつ、紫は話の続きを始めた。

「オレは、二つの封印の盗難事件は別だと思ってる。時期も違うし、第一蔵馬の前世なんて知っているヤツがいるとは思えないから。」
「だが断言は出来ないし、偶然二つの封印が揃う可能性もある。一刻も早く回収すべきであることに変わりはない。しかし、お前が持ってきた書類の件は他の連中には黙っておいた方がいいのか?」

鴉が尋ねた。紫はしばらく考え、小さく頷いた。

気がつけば外の雨は激しさを増していた。窓に目をやった紫が「すげーな」と小さく声を上げた。鴉が紫を振り返った。

「お前、そういえば濡れてないな。」
「オレが来た時は止んでたよ。」
「また降り出したということか。鬱陶しい雨だ。」

そう言いながら鴉は立ち上がり、窓に近寄ってカーテン越しに外を眺めた。

「蔵馬は、清春に会いに行ったのか。」
「え?」
「さっきの電話だ。私達に相手を隠そうとしていただろう?」

鴉は窓の外を眺めたまま言った。紫の顔に笑みが浮かんだ。

「やっぱ気にしてる。」
「気になるさ。清春は素性が不明だ。黒鵺に瓜二つというのも気がかりだし、“トワ”という謎の女の影も気にかかる。」
「オレも気になる……つーか早く会いたいな。オレ、黒鵺のガキの頃しか知らないし、どんな顔してんのかなって。」
「憎たらしいくらいお前に似ているよ。」
「へえ、そりゃすげーモテるだろ?」
「そのネタはもう飽きた。」
「早っ。」

鴉は窓の外の眺望から室内へ視線を戻し、ふと紫の顔をじっと見つめた。

「ん、何?」
「忘れていた。お前に返す物がある。」
「オレ何か預けてた?」

怪訝な顔をした紫を置いて、鴉は壁際のチェストへ寄り、小さな宝石箱のような物を開けた。そこから何かを取り出して彼はソファへ戻った。その手に、紅い石のついた銀製のペンダントが握られていた。

「! これ、まさか……」
「お前が黒鵺に渡した物だ。今では黒鵺の形見だが。」
「……」

紫が手を伸ばし、鴉の掌からペンダントを摘み上げた。長い年月を経てペンダントはすっかり黒ずみ輝きを失っていた。千切れた鎖に気づき、紫の眼差しが遠くなった。

「……鴉、」
「何だ。」
「鈴井清春に電話して。会いたいんだ。」

紫の言葉に、鴉の眼が微かに笑った。

 gggggggggg……

「出なくていいの。」

テーブルの上で震えている携帯電話を無視したままの男に、向かって座っていた蔵馬が問い掛けた。男……清春は小さく頷き、再び顔を伏せた。電話は十五秒の間振動して、諦めたように静かになった。清春は静かになった携帯電話を手に取り電源を切ってしまった。

「すごい雨だね。」

蔵馬が呟いた。清春は無言のまま、ずっとうつむいていた。蔵馬は困ったように溜め息をつき、目の前のコーヒーを一口すすった。二人がいるのは某コーヒーのチェーン店。店内の客は、図抜けた容姿の二人連れに気づいて賞賛の溜め息をついていた。

「ごめん……」

長い長い沈黙の後、清春がようやく口にしたのは謝罪の言葉だった。

「昨日のこと? いいよ、オレも悪かった。」
「それもあるけど、もっと正直なこと謝らなきゃいけないんだ。昨日のことは悪かったと思ってる。だけど今日、君を呼び出したのは謝るためじゃない。本当は、ただ会いたかっただけなんだ。」

そう言って、清春はぬるくなってしまったのにほとんど減っていないコーヒーカップを両手で包み込んだ。やはり中身を飲むでもなく、彼はそのまましばらくまた黙り込んだ。

「もう気づいてると思うけどオレ、君が好きなんだ。」

さして驚いた風でもなく、しかし急に虚ろな表情になって、蔵馬はその言葉を聞いていた。彼女が微動だにしないことに少し傷ついたように清春は更に深くうつむいた。蔵馬は無言のままコーヒーをすすった。カップの中身があっという間に空になり、彼女は眉をひそめた。

「オレも、君には興味があるよ。」

飲み物を切らして仕方なく口を開いた蔵馬に、清春がようやく顔を上げた。外を走る車の水を切る音が聞こえてくる。蔵馬は無表情だった。

「君の正体に興味がある。正直言って、君自身のことはよく分からない。」
「?」
「君が一昨日、空中から落ちてきた理由が分かった。」
「! えっ?」

蔵馬は静かな声で淡々と、昨夜出会った夢魔の話をした。清春は話が進むにつれ、どんどん蒼白になっていった。

「オレが、寝ている間に妖怪に?」
「そう。夢魔という妖怪を知ってる?」
「人の夢に侵入して悪夢を見せる妖怪だろ。」
「実際にそんなことしてる夢魔はほとんどいないけどね。まあ間違ってはいない。」
「オレは、妖怪なの?」
「少なくとも今の君は人間だ。何故かは知らないけど、寝てる間だけ妖怪の姿を取るらしい。オレは、その時の君の正体を知りたいんだ。」
「……」

清春は蒼い顔のまま呆然と言葉を失っていた。蔵馬は彼に一瞬だけ目をくれて、再度テーブルの上に視線を落とした。

「御免、こうして向かい合っている時も、オレの目は君を見ていない。オレが見ているのは君の後ろにいる、昔の君。」

乾いた言葉に清春の顔が強張った。蔵馬はそれを光のない目でとらえ、ふっと瞼を閉じた。清春は身体の震えを止めようと一口だけコーヒーを飲み、しばらく躊躇った後、顔を伏せたまま意を決したように切り出した。

「君のこと、昨日鴉に聞いた。」
「オレのこと?」
「君が妖怪だってこと。そして、昔死んでしまった好きな人を今でも想い続けてるってこと。」

蔵馬の瞳に一瞬怯えの色が浮かんだ。清春は目を伏せた。

「ほんと、何故だかさっぱり分からないんだ。オレは君のことを何も知らない。君が好きな物も嫌いな物も、家族のことも友達のことも、本当に何にも知らない。なのに、君のことは知っている気がした。君がどんなことで笑ってどんなことで怒るのか。どんなことで喜んでどんなことで悲しむのか、全部分かるような、そんな気がするんだ。」
「……」
「秀、君はオレの前世を知っているんじゃないのか? オレは昔、君に会ったことがあるんじゃないのか? もしかして君が愛していた人は、昔のオレじゃないのか?」

清春が瞼を開いた。深い紫色の瞳が店内の照明に煌めいた。蔵馬の顔に一瞬よぎった狼狽を、清春は見逃さなかった。

「秀、オレは君が見ているものが何だって構わない。君がオレの顔で誰を思い出しても、それで君が少し楽になるならそれでいい。君を、救いたいんだ。」
「!……」

店内に流れる底抜けに明るい歌が妙に虚しく響いてくる。少し小降りになって雨宿りの客が店を出たためか、先程より店内は静かだった。

「……オレは……」

そこまで口にして、蔵馬は次の言葉が出てこなかった。清春が更に畳み掛けた。

「分かるんだ。君もオレに何かを感じてる。オレに惹かれてる。だからもっと、近づきたい。」
「オレは、」
「逃げるな!」

テーブルの上の手を抑えつけられ、蔵馬の顔が蒼ざめた。

「逃げないでほしい。逃げたって、何も変わらないよ……」

清春がうつむいた。蔵馬は清春を見つめていた。その目は最早虚ろではなかった。隠し切れない惑いに震えた、雨に濡れる新緑の翠だった。

【第10章 完】