清春のアパートを飛び出して六時間後。蔵馬は今、麻川公園にいた。昼間あんなにしつこく電話してきた黄泉も、他に用があるのか夜になってから全く連絡を寄越さない。小さな公園に彼女は今、独りきりだった。
(どうかしている。)
二日前の夜と同じブランコに腰掛け、蔵馬はぼんやりと地面を見つめていた。
『オレでよければ、力になるけど?』
あの時、声を掛けてきた清春に息を飲んだことが思い出される。懐かしい人にあまりに似すぎていた、彼の顔。自分の身長が当時と違うから分からないが、きっと背丈も黒鵺と同じくらいだろう。「黒鵺じゃない、清春だ」、そう思い込もうと努力すればするほど、期待ばかり大きく膨らんで手に負えなくなってきている。
(だからといって、素性も知らない相手に何てことを。)
偶然倒れ込んできた清春を、まるで誘うかのように引き留めてしまった。激しい口づけの後で我に返って顔を逸らした時は、既に遅かった。清春の熱に浮かされた瞳……それを見て、蔵馬は彼に火をつけてしまったことを悟った。あの時彼は彼女に対し、唇だけでなく身体を、そして心さえも求めようとした。あの時鴉がやって来なければ一体どうなっていたのだろうか。
ふーっと溜め息をつき、蔵馬は深々と頭を垂れた。
(もし彼が黒鵺の生まれ変わりだとして、それが何だと言うのだろう。)
蔵馬は冷静に自分を「ロマンチストの傾向がある」と分析している。“運命の出逢い”は本当にあると信じている。しかしこれがその運命だとしたら、何と残酷なことだろうか。
(オレは“蔵馬”のままだ。どんなに努力しても黒鵺との想い出を忘れることなど出来ない。でも彼は既に記憶を失っていて、あの想い出を共有することは永久に出来ない。)
風に流された雲が一瞬、夜空の月を覆い隠した。今夜の風は二日前より冷たかった。
(仮に記憶があったとしても千年ぶりに再会した相手が昔のままのはずがない。それならいっそ他人の方が気が休まるかもしれない。でも、清春には致命的な欠点がある。それは、彼が人間だということだ。)
ブランコの鎖が悲しげな音を立てて軋んだ。
(この身体はとっくに妖化して、何もなければ少なく見積もっても千年は耐えるだろう。でも、彼には百年足らずの時間しかない。)
目をつぶると木の葉がざわめきが一層はっきりと聞こえてくる。木々はまるで彼女の不安を煽るかのようにガサガサと神経質な音を立てていた。
(残酷だよ。千年待って一緒に過ごせる時間はたったそれだけ。オレはまた、置いていかれるのか?)
蔵馬の胸に、我が身を裂かれるような黒鵺の最期が蘇った。辛い記憶に彼女の顔が歪んだ。心に浮かんだ暗雲を消し去るため、彼女は懸命に頭を振った。
(過去のことだ。もう忘れるつもりだった。今更何が起きたってもう思い出さなければいい。でも……)
無意識のうちに、先程の口づけの感触を確かめるように蔵馬は唇に触れていた。
(でも、もう遅すぎる。)
もう一つ小さな溜め息をつき、蔵馬は面を上げた。二日前のように、彼が今目の前に現れたりはしないだろうか? そんな淡い期待をする自分に、蔵馬は悲しくなって表情を曇らせた。
──清春に謝ってこよう──
しかし何を謝るというのだろう。謝るにしても電話で済む話ではないのか。ただ彼に会いたい口実ではないのか。が、彼女には理由などどうでもよかった。とにかく、今夜は一人でいたくない。ブランコから立ち上がり、蔵馬は小走りで公園を飛び出した。清春の家はここから数百メートルの距離である。歩いてだって十分もあれば到着するが、いても立ってもいられなかった。
五分もしないうちに蔵馬は清春のアパートの下に辿り着いた。見上げると、四階の清春の部屋は既に灯りが消えていた。土曜から日曜に移り変わる深夜〇時。二十歳の青年が眠りにつくには少々早い気がする。外出しているのだろうか?
「何やってんだオレは……」
拍子抜けして蔵馬は自嘲気味に呟いた、その時。
ガタッ
頭上で窓の開く音がして、蔵馬は建物を見上げた。その目に驚くものが飛び込んできた。
「!」
清春の部屋の窓から、男が身を乗り出していた。とっさに蔵馬は身を隠した。人影は眼下の景色を確認し、誰もいないと見て取ると窓枠を蹴ってふわりと宙に舞い上がった。
「あ!」
蔵馬の表情が凍りついた。蝙蝠の翼を広げ虚空へ飛び出したその人影は鈴井清春、いや……
──黒鵺!?──
髪の毛こそ肩にもつかぬ短さだったが、夢魔特有の尖った耳と蝙蝠の翼、そして白い顔。それは蔵馬の記憶の中にいる、黒鵺と寸分違わぬ姿だった。
(追わなければ!)
目の前の光景に、蔵馬の膝が震え出した。やっとの思いで彼女は宙を舞う男を追い掛けた。が、その飛行速度があまりに速すぎて、あっという間に振り切られてしまった。男を見失い、諦めた蔵馬は道路の真ん中で座り込んだ。
(昔からスピードだけはやたらあったもんな、あいつ。)
決して腕力が強い訳でもなく、しかもその力にムラのある黒鵺が“魔界一の天才盗賊”と呼ばれていた最大の理由が、逃げ足の速さだった。逃げる場合に限らず、闘いにおいても彼のスピードは驚異的だった。S級とランクされる妖怪でも彼を捉えられる者は一体どれほどいるだろう。
その時、蔵馬はあることに気がついた。
(清春の家! もしあいつが清春なら絶対に戻ってくるはずだ。)
蔵馬は冷静な判断力で元来た道を引き返し、アパートに戻って階段を駆け上がった。案の定玄関のドアは施錠されたままだった。昔取った杵柄、僅か三秒で鍵をこじ開け、蔵馬は用心深く中に侵入した。予想通り、部屋はもぬけの空だった。
何となく酒臭い……顔をしかめながら蔵馬は目を凝らし電灯のスイッチを探し当てた。明るくなった室内には空の酒瓶とスナック菓子の袋が転がっていたが、それらの残骸には目もくれず蔵馬は机に寄った。優等生という評判は伊達でないらしく、洋服や雑誌が散らかる床と違ってこちらは辞書と文献資料で埋め尽くされていた。蔵馬はそのまま窓枠へ寄った。開け放しになった窓から、五月にしてはやや冷たい夜風が吹き込んだ。
(そうか、それで……)
ようやく納得した。黒鵺は夢魔……自分で妖力を作ることが出来ないため平常は“清春”という人間として生活し霊力を蓄える。“清春”が眠りにつくと同時に彼は霊力を妖力に変換し、短い時間を“黒鵺”として過ごすのだ。昨日は空中で霊力を使い果たし、“清春”に戻ってしまったために墜落したのだろう。邪眼でも持たぬ限り、妖怪を捜す場合は妖気計を用いるのが手っ取り早い。しかし、彼が普段は人間として生活し、夜も僅かな霊力を更に僅かな妖力に変換して暮らしているとなれば、相当近くまで来ない限り絶対に見つかるはずがない。
蔵馬はベッドに寄り、座り込んで部屋の主の帰りを待った。ベッドにはまだ温もりが残っていた。
「!」
不意に空気を激しく打つような羽ばたきの音が聞こえ、蔵馬は身構えた。窓に近づいてきた男が、部屋に灯りがついていることに驚いて宙で止まった。
「誰だ!? あ、秀!」
相手が自分の名前を呼んだことに蔵馬はやや驚いた。
「オレを知ってるのか。」
「当たり前だろ、昼間会ってるじゃん。」
答えながら“黒鵺”は軽々と窓枠をくぐり、室内へ戻ってきて窓に鍵を掛けた。
「どうやって入ったの。」
「表の鍵を開けさせてもらった。」
「! すごい、まるで盗賊だな。」
自分もそうだろうに何をしらばっくれるつもりかと、蔵馬は不愉快な表情を浮かべた。もっとも、姿も違う上妖力の全くない今の自分では、如何に黒鵺といえども“蔵馬”と見分けることは不可能だろう。
「お前に“清春”の記憶はあるみたいだな。」
「そうだな、“清春”にオレの記憶はないみたいだけど。」
男はそう言って机の前に置かれた椅子に座り込んだ。蔵馬はぐっと拳を握り締めた。
「お前は、誰だ?」
蔵馬が正面から男を見据え、震える声で尋ねた。僅かな沈黙の後“黒鵺”は少しためらいがちに話し始めた。
「オレは、“鈴井清春”だよ。ただ、“清春”が眠っている間は前世の姿と記憶を取り戻しているだけ。」
「『前世』……」
蔵馬の瞳が揺れた。“黒鵺”は脚を組み、椅子を回して蔵馬の方へ向き直った。蔵馬は体が震えるのを堪え、目の前の男の次の言葉を待った。が……
「あのさ、君に訊いても無駄だと思うけど“トワ”って女、知らないか?」
「え?」
予想外の言葉に、蔵馬はぎょっとして訊き返した。
「“トワ”って……誰。」
「昔オレが惚れてた女の名前。やっぱ知らないよな。」
「!」
何か言おうとしたのに、唇が上手く動かず言葉にならない。蔵馬が混乱しているうち、急に“黒鵺”の表情が緊迫した。
「御免、そろそろ妖力が切れるからオレ眠るよ。“清春”のこと、宜しくな。」
ふらりと立ち上がり、“黒鵺”はいきなり服を脱ぎ始めた。慌てて蔵馬は背を向けた。元々着ていたらしい部屋着に戻り、脱いだ服と靴を痕跡の残らぬように片付け、“黒鵺”は不意に蔵馬を背後から抱き締めた。
「!」
「“清春”は君に惚れてる。じゃあ、お休み。」
蔵馬がその言葉に驚いて振り向いた。その目の前で“黒鵺”の翼は霧か煙のように薄くなり、消えてしまった。ベッドの上に倒れ込み、そのまま彼は意識を失っていた。
「……」
蔵馬はその場に崩れ落ちた。まさか、こんな展開が待っているとは思わなかった。ようやく顔を上げた彼女の目に、何事もなかったかのように寝息を立てている清春の姿が映った。
(そうだ、とにかくここを出なければ。)
千年の時間が蔵馬に冷静過ぎる判断力を身につけさせていた。後ろを振り返ることもなく、彼女はそっと部屋を後にした。
【第9章 完】