content-single-novel.php

第10章 四者会談

明け方から降り出した小糠雨が街を湿った空気で包んでいた。麻川駅から徒歩二分、十五階建高級マンションの最上階、遮光カーテンで太陽を完全に遮断したその部屋の灯りは、仄暗い紫色の炎を燃やす不思議な匂いの蝋燭が五本のみだった。室内には小さなテーブルを挟み、男と女が座っていた。女は男の客だった。カーテンを背にし、相談者に向けて卓上に並んだカードが示す彼女の運命を事細かに説明している男……それは、烏丸了こと鴉だった。

「有難うございました。」

相談者の女性が立ち上がり、会計を済ませて部屋を後にした。それを端正な微笑で送り出した鴉は、ドアの閉まった瞬間ふーっと大きく息をついた。室内に戻り、鴉は部屋の遮光カーテンをさっと開いた。いつもよりは大分弱い太陽の光が白い室内をくっきりと照らし出した。鴉は壁の掛け時計をちらりと見やった。

「そろそろ次か。」

不思議な独り言が終わるか終わらぬかのうち、室内にインターホンの呼び出しが鳴った。鴉はふっと笑い、壁のインターホン用受話器を取り上げた。

「はい、烏丸です。」
『オレだ、蔵馬だ。』

受話器の向こうで低く囁く女の声に、鴉の顔が微笑した。

「今開けてやる。受話器を置いて待ってろ。」

そう言って鴉は、受話器の隣にあるボタンを押した。マンションの入り口自体にセキュリティがあり、暗証番号を打ち込むか中の住人に開けてもらわない限り中に入れない構造になっている。十五階のこの部屋へ辿り着くには一分かかるだろうか。……しばらくして、もう一度インターホンが鳴った。今度は部屋の前からの呼び出しに違いない。鴉は玄関に近寄りドアを開けた。立っていたのは、少し蒼い顔をした朱い髪の女だった。

「よくここが分かったな。」
「駅で聞いたんだ。有名人なんだなお前。」
「まあな、入れ。」

蔵馬は手にしたビニール傘を傘立てに突っ込み部屋に上がり込んだ。

「靴は?」
「脱がなくていい。一応店舗だから。」

鴉は蔵馬を先程とは違う部屋へ案内した。豪華な本革張りのソファと年代物の高価な調度品が並んだ居間に、蔵馬は信じられないものを見るような表情を浮かべていた。

「いい暮らししてるんだな。」
「魔界との相互通行が始まる前は暗殺請負で稼いでたから。」
「生首のコレクションは?」
「何?」
「気に入ったヤツの首を並べて飾ってるんじゃないのか……?」
「お前、まさかあの時の言葉を本気にしてたのか?」

呆れ返った顔で鴉は蔵馬を眺めた。「あの時」とは勿論、暗黒武術会の決勝戦である。鴉は蔵馬にソファを勧め、自分はその対面に座った。

「昨日、清春の家で証拠物件を発見したぞ。」

蔵馬が口を開くより先に、鴉が昨日の出来事を話し始めた。

「――清春が、ダイヤを持っていた?」
「ああ、見てみろ。」

清春を何とか丸め込んで借りてきた雑誌を、鴉は蔵馬に放り投げた。片手で受け止め、蔵馬は付箋の貼られたページを見て頷いた。

「間違いない、首飾りのダイヤだ。五つあったうち左から二番目の石だと思う。」
「そんなことまで分かるのか?」
「あの石だけうっすら傷があったんだ。ここに見えるだろ。」

印刷の汚れじゃないかと思うような微かな傷を蔵馬は鴉に示した。鴉は首をひねりながら雑誌を目に近づけていた。蔵馬はその様子をちらりと眺め、溜め息をついた。鴉が顔を上げた。

「どうした。」
「やっぱり、清春は黒鵺なのか……?」
「可能性が高まったな。何かしたのか?」

蔵馬の表情はいつの間にか曇っていた。彼女はうつむいたまま小さな声で切り出した。

「鴉お前、“トワ”って名前の女知らないか。」
「“トワ”? 知らないな。何者だ?」
「こっちも事件があったんだ。」

何故自分がその時間に清春の家を訪ねたのかは伏せ、蔵馬は昨夜の出来事を話した。鴉は話を聞き終え、首をひねった。

「“清春”が眠っている間だけ“黒鵺”になるということか。しかし妙だな。あの男が本当に黒鵺なら、夜の間に知己の私を訪ねてきている筈だ。」

蔵馬が頷いた。

「だからオレも、清春は黒鵺とは別人なのかと思っていたんだ。」

それが当初は混乱していた蔵馬が、頭が冷えた後にやっと辿り着いた結論だった。

「でも、清春があのダイヤを持っているとしたら、やっぱり黒鵺と関係があるのか……?」

そう問い掛けた蔵馬の声は少し震えていた。

(“トワ”が気になるのか。天下の大盗賊もやはり女だ。)

鴉の口許が少し緩んだ。それに気づかず、蔵馬はソファにもたれ呟いた。

「霊界に、新しい情報を貰いに乗り込もうと思ってる。」
「その必要はない。」
「何故だ。」
「向こうからやってくる。」

鴉の予言めいた言葉と同時に、室内にインターホンの呼び出し音が響き渡った。鴉は立ち上がり、壁に掛かった受話器を取り上げた。

「はい、烏丸です。」
『そこに蔵馬がいるな、通してもらおうか。』

受話器を通して聞こえてきた声に蔵馬は飛び上がった。低い声は黄泉のものだった。少々慌てた様子で蔵馬は、エントランスの電子錠の解除ボタンを押して戻ってきた鴉を見上げた。

「おい鴉、霊界の方じゃなくて魔界パトロール隊だぞ?」
「順番が違ったか。まあいい、もう片方もじきに来るさ。四者会談と行こうじゃないか。」

そう言いながら鴉は、ダイニングへ向かい呑気にお茶を入れ始めた。インターホンが鳴り、蔵馬が彼の替わりにドアを開けた。多少機嫌の悪そうな黄泉が立っていた。

「黄泉……」
「入るぞ。」

室内に上がりこんだ黄泉は、何も言われぬままにソファへ座り込んだ。しばらく無言のままで彼と蔵馬は部屋の主を待った。鴉がティーポットとティーカップを持って戻ってきた。

「初めまして。」
「お前が鴉だな。」
「そういうお前は? ああ、目がイカれてるところを見ると黄泉か。」
「オレを知っているのか。」
「千年前からな。黒鵺から蔵馬の幼馴染みと聞いている。」
「黒鵺? お前、あの男とも知り合いだったのか?」

二人は互いの腹を探るように抜け目なく相手の出方を窺っていた。どうやら黄泉は情報網を駆使して一夜のうちに鴉の所在を割り出したようだ。いや、もしかしたら彼の耳に飛び込んできた音のみで判断したのかもしれない。鴉はカップに注いだ紅茶を黙って黄泉の前に置いた。

「まあいい。まずは蔵馬、お前が肩入れしているあの鈴井清春という男は何者だ?」

カップに触れもせずいきなり話を切り出した黄泉に、蔵馬の紅茶を受け取る手が宙で止まった。

「オレは昨日の夕方頃まで人間界にいたのだが、」
「“聞いていた”というわけか。」

蔵馬は意味ありげに呟いてみせた黄泉を睨みつけた。

「だったら、お前がここに着く前にオレと鴉が話していたことも聞こえているはずだな?」
「あの男と、黒鵺が関係しているかもしれないという話か。」
「そうだ。オレと鴉はそれを探るために動いている。」
「それだけでもなさそうだが。」
「?」

再び蔵馬が黄泉を睨んだ。鴉は二人の険悪な空気を今ひとつ計りかねている様子だった。黄泉が小さく溜め息をついた。鴉は冷ややかにそれを観察していた。

(残念そうだなこの男。黒鵺が「蔵馬に相手にされてない」と話していたが、今もその状態は変わっていないらしい。)
「先程、ダイヤモンドの話をしていたな。」
「ああ、霊界が保管していた蒼龍妃の首飾りが消えたそうだ。その首飾りのダイヤの一つを清春が持っているらしい。昔、お前にも首飾りのことは話したはずだな?」
「覚えている。黒鵺から貰った品だと、お前がそう言っていたからな。」
(ふ……ん、なるほど。この男は未だに黒鵺への嫉妬と劣等感に苛まれているわけだ。)

鴉はニヤリとした。黄泉がそれに気づいた。

「何がおかしい。」
「何だお前、私の顔が見えているのか。」
「この男を盲人と思わない方がいい。」

蔵馬が口を挟んだ。黄泉は彼女の方へ向き直った。

「お前が知っているならその話は一旦置いておこう。オレが来たのは別件だ。」
「もしかして、魔界パトロール隊がオレを見張っている件か?」
「さすがに感づいていたようだな。」

蔵馬の素早い反応に黄泉が微笑した。蔵馬はその様子に、まさか一昨日まで知らなかったとは言えず、一瞬だけ顔を赤らめた。それに気づいているのかいないのか、黄泉はようやく、鴉の注いだ紅茶に手を伸ばした。

「お前には今まで黙っていたが、ひと月ほど前に妖狐蔵馬の封印が盗み出された。」
「!」
「何だって!?」

思いがけない言葉に、鴉と蔵馬の顔色が変わった。蔵馬が立ち上がり、黄泉に詰め寄った。

「何でそんな重大なこと今まで隠してたんだっ!!」
「妖力のないお前では何の手も打てない、そう思ってオレ達だけで解決しようと考えていた。黙っていたのはオレの判断だ。済まん。」

そう言って黄泉は頭を下げた。素直な謝罪に蔵馬も何も言えず再び座り直すしかなかった。

「腑に落ちんな。封印は蔵馬の能力、つまり霊体の一部だけだろう? そんな半端な物を盗み出して何するつもりなんだ。霊体の一部という形を取る以上、他人が利用することも出来まい。」

鴉の問いに黄泉が首を振った。

「術の使い手ならば“蔵馬”をお前の体内に戻し、代わりに“南野秀”を切り離すこともできる。術者が強力ならば復活させた蔵馬を自らの意のままに操ることも思いのままだ。」
「だからオレを護衛していた訳か。」
「済まん。」
「いや、“監視”じゃなかったと聞いて安心した。」

蔵馬はそういって表情を少し緩めた。黄泉は逆に顔を厳しくした。

「だがしかし封印の利用法はそれだけではない。例えば高等妖術師なら霊体を補完する術を持っている。つまり、器となる肉体さえ手に入ればここにいる“南野秀”とは別に“蔵馬”を再生することが可能だ。」
「!」
「高等妖術……」

その言葉に反応して、何故か鴉の顔に影が差した。蔵馬が口を開いた。

「確か、あの封印は魔界統一政府に保管してもらっていたはずだが?」
「トーナメントはすなわち政権交代と同意語だからな。交代時期が近づいて統一政府内がゴタゴタしている隙を突かれたようだ。」

蔵馬は呆れたように溜め息をつき、鴉を振り返った。

「どっちの問題の方が緊急度が高いと思う?」
「まさか占えと?」
「よく当たるんだろ、“烏丸さん”。」

鴉は肩をすくめた。

「私の勘では、第四・第五の客人が答えを持ってくると思うが。」

その時、まるでその言葉に合わせるように部屋のインターホンが鳴り響いて蔵馬と黄泉は顔を見合わせた。鴉が立ち上がった。

「まったく、今日は金にならない客に大人気だ。はい、烏丸です。」
『鴉だな。霊界のコエンマだ。お前に話がある。』

黄泉と蔵馬の顔に緊張が走った。鴉の口許が笑った。

「じゃあ入ってくれ。ほら、お出ましだ。」
「信じられん……」
「もう一人後で来る。お前達が関係するかどうかは知らんが、今日ここに来る客は全部で五人だ。」
「お前、予知能力があるのか?」
「ほんの少しだけ未来が見えることもある。残念ながら万能の能力ではない。」

と、もう一度インターホンが鳴った。鴉が玄関へ向かい、薄手のスーツに身を包んだコエンマを連れて戻ってきた。

「く、蔵馬っ!! それに黄泉まで……」

室内に足を踏み入れたコエンマが二人の姿を認め、狼狽して後ずさった。

「オレがいたらまずい話ですか?」

自分にできる精一杯の不機嫌そうな顔を作って蔵馬はコエンマを睨んだ。

「いや、そういうわけではっ……」
「なら正直に話してもらいましょうか。蒼龍妃の首飾りの一件ですね?」
「! やっぱり、お前に隠し事は出来んな。」

観念してコエンマは項垂れた。鴉が紅茶を注いでそっと差し出した。

「ああ、済まんな鴉。」
「何故私を訪ねてきた? 私が蔵馬と接触する可能性を考えていなかったのか。」
「それは考えたが、霊界とのコネクションと色々な条件を考えたらお前しか見つからなかったのだ。」
「『コネクション』? 二年も霊界病院でベッドを塞いでたというコネクションか? それに条件とは何だ。」
「後で説明する。別に重要な問題ではない。」

コエンマの素っ気ないに鴉は肩をすくめた。蔵馬が口を開いた。

「オレ達が把握しているのは、ここ数十年の間に霊界の宝物庫から蒼龍妃の首飾りが消えたということ、そして貴方達がそれに気づいたのは最近だということ、そして二十年前まで霊界で働いていた黒鵺を重要参考人として捜索していること。それだけです。」
「そして、お前は首飾りを飛影に探させているな?」

黄泉が付け加えた。コエンマはがっくり肩を落とした。

「飛影? あいつ、やっぱり喋りおったか……」
「昨日あの男が言っていたが、霊界の宝物庫に保管されている財宝はいわくつきの物ばかりだそうだな。だとしたらもっと組織的に探す必要があるんじゃないのか。」

コエンマは居心地悪そうに黙りこんだ。蔵馬がやれやれという調子で首を振った。

「隠さないでほしいですね。オレ達だって別に貴方と争うつもりはない。むしろ進んで協力する気ですけど?」
「だが容疑者がお前の昔の仲間となると、お前の耳に入れるわけには行かんだろう。」
「それなんですけど、」

蔵馬がじっとコエンマを見つめた。

「やっぱり、黒鵺にかけた嫌疑は取り除いてもらえませんか。」
「何だと!?」

静かな口調だったが、瞳は強い光を湛えていた。コエンマは慌てた。

「首飾りとは無関係かもしれんが、少なくともあやつは霊界から無断で姿を眩ましたのだぞ?」
「黒鵺は自分の転生の時期が近いことを知っていた。その彼が理由もなく逃亡するはずがないと思いませんか。まして罪を重ねて転生の時期を自分で遅らせるような馬鹿じゃない。」
「黒鵺が首飾りを盗んだ可能性がゼロとは言わない。だが、それならそれだけの理由があるはずだ。」

鴉も蔵馬の言葉に同意を見せた。蔵馬が頷いた。

「黒鵺は自分の欲望のための盗みはしない男でした。それが彼なりの美学だった。そういうのにやたら拘るヤツだったから。」

コエンマは顔を上げて蔵馬を見つめた。淋しそうな表情にコエンマは胸を突かれた。蔵馬は静かに言った。

「だから、オレ達にも彼の捜索を手伝わせて下さい。オレ達も真実が知りたいんです。もし真実を調べた結果、黒鵺が己の欲に負けたというのなら、罰は貴方達の代わりにオレ達が下します。」
「私からも頼む。どうだコエンマ?」

鴉が二、三度頭を振り、美しい黒髪を払ってからコエンマに向き直った。コエンマは蔵馬と鴉、そして黄泉の顔を見比べ、渋々頷いた。

「分かった、霊界特防隊にもそう伝えておこう。但し、霊界の事件だから黒鵺の処遇はやはりワシらで決めねばならん。決して不当な扱いはしないと約束するが、場合によっては霊界裁判を受けさせることになるかも知れんぞ。」

蔵馬と鴉が顔を見合わせ、同時に頷いた。コエンマが付け加えた。

「確認しておくが、お前達が探さねばならないのは二つ。首飾りと黒鵺だ。だが、この二つでは首飾りの方を優先させてほしい。」
「首飾りを?」
「ああ、人間界と魔界を守るためだ。」
「ちょっと待て、その捜索メンバーにオレも入っているのか?」

黄泉が遮った。鴉が皮肉めいた笑みを浮かべた。

「気が乗らないか? 確かに、恋敵に現世に戻ってこられてはさぞかし困るだろうが。」
「何だと?」
「そんな狭い度量だから惚れた女に裏切られ捨てられると言ってるんだ。」
「こいつ、言わせておけば……」

二人の妖気が蒼白く燃え、テーブルの上のカップがカタカタと音を立て始めた。

「さっき黄泉も言ってましたが、蒼龍妃の首飾りには何か秘密があるんですか?」

蔵馬は一触即発の彼らを無視してコエンマに向き直った。コエンマが深く頷いた。

「ああ。あの首飾りには邪悪な怨念が封印されておるのだ。その昔、この世界を破滅一歩手前まで追い込んだほどの強力な怨念をな。」
「!」

はっとした蔵馬が、コエンマの表情を探るような眼差しで問い質した。

「まさか封印されているのは、蒼龍妃自身?」
「察しがいいな。さすがは蔵馬だ。」
「!」

臨戦体制だった鴉と黄泉も、その言葉に争いを止めた。カップが鳴り止んだ。コエンマは三人の顔を見渡した。

「お前達は蒼龍妃の伝説を知っているか?」
「約一万年前に魔界のほとんどを支配下に置いていた女帝ですよね。恐怖政治を五百年ほど続けて、人間界にも手を伸ばそうとして、最後は霊界から戦力を派遣してようやく征伐したって。」
「私も聞いたことがある。名前の通り元々蒼龍王という小国の王の妃だったが、夫を暗殺して権力の座に就いてからは周辺の国を次々に侵略し、巨大帝国を築き上げた……そうだったな?」

蔵馬が頷いた。コエンマは紅茶のカップを手に取って話を引き継いだ。

「では“魔界史一の悪女”と異名を取るほど残虐な政を続けていた蒼龍妃が、五百年間も魔界を支配できた理由は何だと思う?」
「さあ。あ、もしかして清春が詳しいんじゃないのか?」

蔵馬が鴉を振り返った。黄泉は“清春”の名に面白くなさそうな顔をしながらコエンマを促した。

「謎かけをしている場合ではないだろう。正解は何だ。」
「伝説によれば蒼龍妃には特殊な能力があったらしい。他人を意のままに操る力……いわば強力な催眠術といったところだな。」
「催眠術?」
「催眠術というより洗脳に近いものだったそうだがな。周りの男共は『色香に迷わされた』という言い方をしていたようだ。」
「なるほどな。蒼龍妃は魔界史一の美女とも呼ばれているが、実体は色香ではなく洗脳による人格操作だったというわけか。」
「いや、まあ……あながちそうとも言い切れんが。」

コエンマは一息入れるためにカップに口を付けた。

「……ともかく、彼女のその強大な能力は憎悪から生まれたものだったという。」

“憎悪”という不穏な単語に一同が反応した。

「ワシも本人に会ったことがあるわけではないから知らんが、群衆を思い通りに操れるほど強力な蒼龍妃の妖力の源は、生きとし生けるもの全てに対する憎悪だったそうだ。……当時はまだ、魔界の上に冥界が存在していた時代だった。冥界の奴等は蒼龍妃の死後、その強大な憎悪の念を利用して霊界と人間界を手中に収めようと画策したのだ。霊界はそれを何とか食い止め、冥界を宇宙の果てに封じ込めた。そして、蒼龍妃の魂は霊界を通じて転生し、怨念だけがあの首飾りに封印されたのだ。」

蔵馬はずっと沈黙していた。彼女の脳裏には数年前、黒鵺の姿を借りてやって来た冥界鬼のことが思い出されていた。鴉が鬱陶しそうに長い黒髪を掻き上げた。

「それが冥界の封印は破られ、蒼龍妃の封印は知らぬ間に消えていたというわけか。蔵馬の封印もそうだが、物騒な物はもう少し丁重に扱ってもらいたいものだ。」
「蔵馬の封印?」
「魔界でも事件が起きているんだ。妖狐蔵馬の封印が最近盗難に遭ったらしい。」
「!」

コエンマの表情が険しくなった。

「……見つかっていないのか。」
「ああ。私も蔵馬も今しがた知ったばかりだ。実際は少し前の事件らしいがこの男が隠蔽してくれたお陰でな。」

鴉が視線で黄泉を指した。黄泉は不快な表情を見せたが、蔵馬の表情が少し曇ったのを察知して黙り込んだ。
と、その時急にコエンマの胸ポケットから携帯の着メロが流れ出した。

「おお、お前か。」

応対したコエンマの顔が少しだけ明るくなった。蔵馬がちらりと黄泉を見た。電話の相手の声が聞こえているはずだが、彼は「オレは知らん」と言わんばかりに首を振ってみせた。

「着いたか。じゃあ鴉にエントランスを開けてもらうから上がって来い。」
「いいよ、もう部屋の前だから。」

さっきは聞こえなかった電話の相手の声が、急に蔵馬達の耳に飛び込んできた。いや、黄泉だけは電話の向こうと窓の外、両方からその声が聞こえてくることをいち早く察知していた。

「誰だ!?」

鴉が窓に駆け寄った。と、その表情が急に凍りついた。リビングの窓の外で一人の男が窓ガラスをコツコツ叩いていた。

「開けてくれよ、中に入れてほしいんだけど。」
「!!」

地上十五階のこの部屋に、窓の外から入ってこようとする男がいる。確かにそれだけでも驚きだが、乳白色のレースのカーテン越しに見える男の姿に鴉の白い顔は更に血の気を失っていた。蔵馬も息を飲んだ。

夢魔ナイトメア……?)

顔はカーテン越しではっきりとは確認出来ないが、黒髪に尖った長い耳、そして蝙蝠の翼……男は黒鵺と同じく、夢魔の身体的特徴を備えていた。