content-single-novel.php

第1章 想

“十年一昔”とは言うけれど、その調子で行けば一体どれほどの昔になるのだろう。目をつぶれば、遠い遠い記憶が蘇る。今ではもう、夢に見ることもなくなった故郷。いつの日か、思い出すことさえ難しくなった幼い頃の想い出。

……記憶の海に沈んだ過去を引き上げる……

「蔵馬! おーい蔵馬!」

金の髪をした青年の妖狐が、甘い香りの漂う花苑に踏み込んだ。青年が呼んでいるのは、この花苑の主……この世に生を受けてまだ十数年足らず。しかし、誰もを惹き付けずにはおかない類い希な銀の美貌と、植物と意の通う特別な力を持った少女の名前。尋ね人は、樹の上に佇んでいた。

「ああ蔵馬、長老がお呼びだ!」
「分かった、今すぐ行く。」

青年の呼び掛けに応じ、少女はひらりと飛び降りた。軽やかな身のこなしを見送りながら、青年は気の毒そうに呟いた。

「…大変だよなぁ、あんな綺麗に育っちまうと周りの男が自由を束縛してしまう。」

今からおよそ千と百年前。まだ人間界と魔界との間に境界が存在しなかった時代。齢十五の蔵馬は、魔界三層北東部にある小さな集落で暮らしていた。狐が変化して妖 <あやかし> となった妖狐が魔界や人間界の至る所から流れ着いて自然発生した小さな地域社会 <コミュニティ>。

蔵馬は妖狐の両親から生まれた、生来の妖怪だった。そのためか植物と意志を通じる特殊能力を持ち、両親亡き後は里の長老直々に育てられた。やがて十三になった彼女は、里の薬草苑の番人を任されるようになった。仕事は樹木の育成と、貴重な植物を奪いに来る侵入者との闘い……当時の彼女は、外の世界を知らない少女だった。

花苑を後にした蔵馬は、集落の中央にある白い石造りの大きな建物の中に足を踏み入れた。そこは、里を統べる長老が暮らす館だった。その建物の威厳に臆することなく、彼女はずんずんと中へ歩みを進めた。やがて彼女は、畳の敷き詰められた広い部屋へと辿り着いた。

「お呼びですか、長老?」
「ああ来たか蔵馬。」

御簾の隙から豪奢な金の髪を誇る美貌の青年が、笑顔で蔵馬を出迎えた。うら若く見えるこの絶世の美青年が既に四千年を生きる里一番の長老とは、とても信じがたい話だった。長老は少し申し訳なさそうに切り出した。

「…またお前が気を悪くする話で済まないのだが、隣村の領主がお前を嫁に迎えたいと言って寄越してきてな。」

その言葉を聞いた蔵馬が途端に不快の表情を浮かべた。

「またですか? 前に申し上げた通り、まだそのようなお話をお受けする気はありません。」
「そういきなり断られると私の立つ瀬がないのだよ。一度会って、話だけでも聞いてくれないか。」
「私はまだ十五です。家に収まる前にやりたいことは沢山あります。」
「そう言うものではない。領主夫人となれば今よりずっといい暮らしもできる。優しい夫と沢山の子供に囲まれて生きるのが女として一番の幸せだぞ。」
「人から与えられた幸福で生涯を終えるくらいなら、自分で選んだ過ちで死ぬ方がマシです!」
「お前はまだ幼いからそんな生意気なことを考えられるのだ。私の言う通りにすれば間違いはない。」
「いくら親代わりの長老のお言葉でもそればかりは聞けません! 失礼します!!」
「蔵馬!」

長老の呼び止めも聞かず、蔵馬はくるりと踵を返し、あっという間に館を飛び出した。人一倍気性の激しい彼女は、何度も持ち込まれる縁談とその度に繰り返される説教に我慢が出来なかった。そして、それ以上にこの縁談の裏に見え隠れする真の理由が納得出来ずにいた。

(長老の魂胆は分かっている。近隣の有力者に私を嫁がせ、勢力を拡大していくのが目的……身寄りのない私なら、政略結婚の餌食になっても誰も困らないから。)

彼女も長老が自分に目をかけて育ててくれたことは感謝していた。が、いつしか彼女は彼が本当は、自分を間者 <スパイ> に育てようとしていたことを気づいてしまった。「所詮自分は“道具”にすぎない」……その状態が歯痒くて仕方ないのに、彼女はその状況をどう打破していいのか見当もつかなかった。

(……私は……いつまでこの箱庭に閉じ込められているのだろう……。)

花苑に逃げ込むように辿り着き、木々の間に座って空を見上げてみる。雲がかかった、ぼんやりとした空。それはまるで彼女の心をそのまま写しているようだった……と、その時。

「よお蔵馬。」

急に足元から声がして、蔵馬は声の方向へ顔を向けた。そこに、頭に角を生やした黒髪の少年が立っていた。

「黄泉!」

将来蔵馬と共に盗賊団を組むことになる黄泉は当時、妖狐の里の隣にある食人鬼の集落に住む少年だった。二つの里は友好関係にあり、蔵馬と彼は一緒に教育や戦闘訓練を受けた“幼馴染み”だった。

「おっかない顔してたぜ、何かあったのか?」
「…うん、ちょっと。」
「まさか…また縁談か?」
「御名答。」
「またかよ! ったくあのジジィ、ちったぁ蔵馬の気持ちも考えろってんだ。」

黄泉は怒りを露わに叫んだ。蔵馬の顔が曇った。黄泉はしばらく妖狐の里の長老へ向かい悪態をついていたが、ふと我に返って急に話題を変えた。

「…と、悪ィ。話があって来たんだった。実はさ、オレ…里を出るつもりなんだ。オレは、盗賊になる。」
「盗賊!?」

突飛な話に蔵馬が驚いて聞き返した。彼女は黄泉の言葉を非難するかのように眉をひそめていた。黄泉がそれに気づき笑って答えた。

「花守のお前にはいいイメージないかもしれないけど、この世で富と名声を一度に手に入れる一番手っ取り早い方法は盗賊だぜ。それに盗賊にも色々いる。いいヤツも悪いヤツも。」
「…一人でやる気?」
「いや、村から数人連れて行くつもりだ。盗賊団の形の方が大きな仕事をやりやすいしな。」

黄泉はそう言って、急に真顔になった。

「…なあ蔵馬、オレ絶対有名になってやるからよ、いつか迎えに来るからそしたらオレと……」
「え?」

ふと黄泉の言葉が途切れた。蔵馬が聞き返した。黄泉の顔が急に真っ赤に染まった。

「…何でもない! じゃあなっ!」
「ちょっと、待ってよ!」

蔵馬の呼び止める声も聞かず、黄泉は言葉の続きも言わぬまま慌てて逃げるように立ち去った。蔵馬は呆気にとられたまま彼を見送ったが、その顔が見る見るうちに曇ってしまった。

「……どうせなら、私も連れてってよ……。」

今はもういない黄泉に向け、蔵馬は小さく呟いた。思わず自分の身体を抱き締めながら彼女は空を見つめた。その目にふと、宙を舞う一羽の白い鳥が飛び込んできた。鳥は花苑の上を旋回し、ふいと遠くへ飛び去っていった。蔵馬はしばらく鳥の去った方角を見つめていた。その顔に、愁いの表情が浮かんだ。

(…繋がれているのは私だけ…。私はこの鎖の断ち切り方も知らない。)

 それから間もなく、宣言通り黄泉は里を出て行った。妖狐の里では近く戦が始まるとの噂があり、兵になるよりはと彼についていった若者は想像以上に多かった。…そして一年が過ぎた頃。

妖狐の里と食人鬼の里を繋ぐ道の途中、食人鬼と妖狐が数人、立ち話を交わしていた。

「黄泉の盗賊団がまたやったぞ。今度は西の街の金貸しの家を襲ったらしい。」
「里の恥晒しが…まさか若い者達が揃いも揃って盗賊に堕ちるとはな。」
「そちらの里で八名、こちらの里で七名……兵役逃れとはいえ、一体何を考えているのやら。」

口にするのも汚らわしいといった様子で黄泉の噂を囁き合う男達の横を、銀の髪を持つ少女が通り過ぎた。十六になり、急に大人びた蔵馬の姿を見て男達は話題の矛先を変えた。

「…そういえば蔵馬の縁談の話はどうなったのだ?」
「引く手数多だからすぐ決まるだろうさ。長老は隣村の若領主に嫁がせるつもりでいるらしい。」
「里一番の器量よしを余所のヤツに奪られるのか。口惜しいもんだな。」
「全くだ。」

男達は本人に聞こえないように囁いていたつもりだろうが、一流の戦闘訓練を受けていた蔵馬の耳にはしっかりと届いていた。顔を曇らせた彼女は歩みを早め、逃げるようにその場を後にした。男達の姿が見えなくなった頃、彼女は茂みに潜む何かの気配を察知した。と…

「シーッ! オレだ。」
「……黄泉……!」

たった今噂に上っていた黄泉が、茂みからひょっこり顔をのぞかせていた。……蔵馬は黄泉を花々咲き乱れる薬草苑へ導き、中に設置されている見張り用の小屋の中へ案内した。

「ここなら誰も来ないから。」
「悪ぃな、助かるぜ。」
「何かあったの?」
「バーカ、お前の顔を見に来たんだよ。」

笑いながら黄泉はそう答えた。少し逞しくなった…と、蔵馬は思った。その黄泉が急に声を高くした。

「おっ…しばらく会わねえうちに随分成長したんじゃねぇの?」

怪訝に思って黄泉の顔を見ると、彼の視線は白魔装束から零れんばかりの自分の胸元に注がれている……蔵馬は一つ溜息をつき、冷静に切り返した。

「そっちは成長しすぎてオヤジ化したみたいね。」
(相変わらずキツい女…。)

口では蔵馬に勝てないと、黄泉は幼い頃から思い知っていた。

「“活躍”ぶりは聞いてるよ。派手にやってるじゃない。」
「まーな。懸賞金も上がったんだぜ。懸賞金の額は盗賊のステータスだからな。」
「あまり無茶しないでよ。」
「大丈夫、オレ達なんてまだまだザコだから。この辺で今一番すげえヤツは、その首に一億がかかってる。」
「一億!?」
「ああ。」

信じられないという様子の蔵馬に、黄泉は溜息混じりにその“すげえヤツ”の名を語った。

「お前、黒鵺…って知ってるか?」

……黒鵺……そう、将来蔵馬にとって掛け替えのない存在となるその夢魔の名前を、彼女が初めて耳にした瞬間だった。

「…“くろぬえ”…?」
「三年位前から魔界の上層部を中心に活動してる盗賊だ。一人 <ピン> でやってんだけど、黒狼城や水妖殿を陥落 <おと> して逃げおおせてる凄腕らしい。」
「! …どんなヤツなの?」
「まだ人相書きは出回ってないが、噂によれば黒髪で背中に蝙蝠の翼を持っているらしい。」
「黒髪に蝙蝠の翼……夢魔 <ナイトメア> だね。」

夢魔は妖狐や氷女と並び、姿形の美しい種族として知られている。実際目にしたことはないが、夢魔は一様に白い肌、黒髪、紫の瞳に蝙蝠の翼という特徴を備えているということを、蔵馬は知識として知っていた。……黄泉は蔵馬の反応を確かめるように、彼女の顔を覗き込みながら話を続けた。

「そして、これがショックなんだが……まだオレ達と同じくらいのガキだそうだ。」
「えっ…!?」

まだ生まれて十数年そこらの“子供”が、難攻不落と謳われた城郭を次々に破っている……その事実に蔵馬は言葉を失った。その時だった。

「蔵馬いるか! 長老がお呼びだぞ!」

自分を呼ぶ仲間の声で蔵馬は我に返った。黄泉が立ち上がった。

「…んじゃオレも行くわ。しばらくこの辺で暴れる予定だし、また来るぜ。」
「うん、気をつけてね。」
「ああ。お前も…まだ結婚なんてすんじゃねーぞ! じゃあな!」

黄泉の言葉に蔵馬は力なく笑った。彼を見送り、蔵馬は花苑の外へ歩き出した。

(…それにしても長老の御用って、まさかまた例の縁談?)
「…あ!」

ある事実に気づき、彼女は思い出したように花苑を振り返った。

「違う、そういえば今夜は大名月だったわ…。」

 夜になり、蔵馬は一人、薬草苑に座り込んでいた。空には大きな銀の満月が輝き、眠る花々を蒼白く染め上げていた。

『なあ蔵馬、街へ遊びに行こうぜ!』
『今夜は月も綺麗だし、物言わぬ植物よりオレ達に構ってくれよ。』
『悪いけど満月だからこそ付き合えないよ。植物が月の魔力を吸って生長する大事な夜だから。』

男達の誘いをサラリとかわし、蔵馬は今、大切な用事のために花苑を訪れていた。

(そう…この夜を狙って来る賊も多いからね。)

昼間、自分を呼び出した長老が念を押した。

『今夜は一年で最も月の魔力が満ちる大名月だ。薬草苑を頼むぞ。』
(勿論…絶対に守り切ってみせる。)

蔵馬にとってこの薬草苑は里の財産というだけでなく、自分の大切な庭だった。「余所者に荒らされるわけにはいかない」…蔵馬の握り締めた拳に自然と力が入った。

その時、花苑の奥で芝を踏む物音が聞こえた。

「誰だっ!!」

蔵馬は茨の鞭を構え、気配の方向へ走り寄った。

「!!…」

視線の先に醜悪な妖怪が五匹突っ立っているのを見つけ、蔵馬は身構えた。男達がこちらに気づき笑い出した。

「何だぁ? 妖狐の薬草苑の番人は女かよ。」
「へへへっ、オレ達もナメられたもんだなぁ。」
「…早速お出ましってわけか。盗れるものなら盗ってみなっ!!」

賊の言葉には耳も貸さず、蔵馬は鞭を一閃した。賊のうち四人は先制攻撃をかわしたが、一人が避け切れず斬られた。

「ぎゃあぁっ!!」
「次、来い!」
「このアマっ…!!」

仲間をやられ、次は二人が同時に蔵馬に襲い掛かった。蔵馬は何とか防戦したが、想像以上の苦戦に表情を歪めた。

(ちっ…こいつら結構強い!)

何とか一人倒し、蔵馬は残った一人に対峙した。と、脇で眺めていた男の一人が割り込んできた。

「くっ…!」

防戦一方の彼女を、賊がせせら笑った。

「へっへっ、さっきの威勢はどうした!」
「手加減してやれよ、折角の上玉だ。後でたっぷり遊んでやろうぜ。」

戦闘に加わっていない一人がニヤニヤと皺だらけの醜い笑顔を浮かべた。

「ナメるなあっ!!」
「ギャアッ!」

鞭を一閃し、蔵馬はやっとの思いで一人を倒した。が……安堵の息をついた一瞬の隙に、いきなり何かに身体を締め上げられた。それは、只一人残って高見の見物を決め込んでいた男が背後から投げた縄だった。

「!!」
「残念だったな、キツネちゃんよぉ!」

縄をかけた男はぐっと力をかけ、蔵馬を引き倒した。

「きゃあっ!! ……あっ……!」

バランスを失い地面に倒れた蔵馬の元に男達が近づいてきた。暴れる蔵馬を眺めながら、男達は下劣な笑いを浮かべていた。

「…ぐっ…! 触るなっ…!!」
「もがいても無駄だぜ、オレの結界縄は女の腕じゃ千切れねぇ。」
「散々てこずらせやがって。さあ、可愛がってやるぜ。うへへへ……」
「いやあぁっ…!!」

醜い男達が手を伸ばした。その手が胸の辺りに触れ、蔵馬は金切り声を上げた。その時だった。

…ヒュン!

虚空から飛んできた何かが空気を一閃し、蔵馬の自由を奪っていた縄を彼女の肌すれすれで切り裂いた。

ドスッ!!

賊達は慌てて手を引っこめた。鈍い音を立てて地面に突き刺さったのは、白銀に輝く鎌の刃だった。

「誰だっ!?」

男達が振り返った。蔵馬も、突然差し伸べられた救いの手に驚いて顔を上げた。

「…ふー…これだからダセぇ面 <ツラ> は困るよな。正攻法じゃ女がオチないからこんな情けねーマネしたがる。」
「!!…」

蔵馬は驚いて自由になったばかりの体を起こし、眼を見張った。聞こえてきた声はまだ年端も行かぬ少年の物…白霊木の大樹から月の光を背にして飛び降りてきたのは、背中に黒い翼を持つ黒髪の美少年だった。

「何だぁこのガキ!? 邪魔しやがって!!」
「構わねぇ、殺っちまえ!!」

男達が飛び掛かった。少年はそれをヒラリとかわし、空へ舞い上がった。蔵馬は少年の素速い身のこなしに目を見張った。

(飛んだ…!)
「遅ぇ! 雑魚じゃあオレは倒せないぜ?」
「ぐっ…!」

宙で羽ばたき一点で制止した少年の手に、いつの間にやら新しい鎌が握られていた。少年がそれを投げつけ、正確なコントロールで男達の武器を切り裂いた。

「!!」
「くそっ!!」

賊は慌てて懐から別の刀を出した。と、その手が背後から迫ってきた茨の鞭で締め上げられた。

「忘れるな、お前らの相手は私 <あたし> だっ!!」
「ぐっ…」

少年と蔵馬に挟まれた男達は、目配せして武器を棄てた。蔵馬がその様子に鞭の縛りを解いた。

「くそっ、覚えてやがれっ!!」

捨て台詞を残し、賊達は一目散に逃げ去っていった。危機を脱し蔵馬はようやく息をついた。顔を上げると少年と目が合った。

「……助けてくれて、ありがと……。」
「怪我はないか?」
「え? ……うん……」

少年が微笑んだ。……彼は、蔵馬が今までに見たことのないような端正な顔をしていた。月灯りでもはっきり分かる白い肌、艶めく長い黒髪、切れ長の瞳……思わず見とれた蔵馬は、次第に自分の頬が熱くなるのを感じた。彼女がじっと見つめているのに気づかない様子で、少年は転がっていた鎌を拾い上げた。彼の手の中で鎌は姿を消してしまった。

「アイツら結構強かったもんな。でもあれくらいの盗賊は世の中にゴロゴロいる。見張り増やした方がいいぜ。じゃあな。」
「えっ!? あっ、ちょっと待って…!!」

蔵馬に何も言わせぬまま、少年は地面を蹴り空へ舞い上がった。

「……消えた……。」

自分を救った時と変わらぬ素速さで姿を消した少年を、蔵馬は呆然と見送った。

(…誰だったんだろう…。)

幻でも見ているようだった……夢現を彷徨うような顔をしながら、蔵馬は立ち上がった。何気なく少年の現れた方角へ歩き出した蔵馬は直後、悪夢のような事態に気がついた。

「…あっ……!!」

蔵馬は異変に慌て、花壇に走り寄った。

「月想花が…消えてる……!!」

……月想花は魔界仙人掌科の薬用植物であり、年に一度、大名月の夜に一株につき一輪のみ花をつける性質を持つ。魔界の特定の地域で五十年毎に大流行する壊腐病の特効薬として、月想花はとても貴重な植物だった。が、その一方、白銀に輝く美しい大輪の花と得も言われぬ芳香を持つこの花は、平時は収集家の間で高値で取り引きされる観葉植物でもあった。

先程見回った際は確かに咲いていた月想花は今、茎と葉を残して折り取られていた。

「まさか今の小競り合いの間に……違う、妖気を感じたのはさっきの盗賊五人と彼一人だけ……あ!!」

蔵馬はハッとして思わず叫んだ。

「あいつだっ!! ……あの男だっ……!!」

彼女の脳裏に浮かんだのは、自分を助けてくれたあの黒髪の少年……先に入っていた賊は明らかに花苑の奥の方から侵入していて、入口に近い月想花に近づく余裕はなかった。それに気づいた蔵馬の顔面から血の気が引いた。

「あの男っ……親切なフリして何てヤツ……!!」

あまりの出来事に、蔵馬はその場にへたり込んでしまった。が……

(……あいつ……格好良かった……。)

少年の笑顔がふと脳裏に蘇り、彼女は思わず瞳を閉じた。

(自分も泥棒のクセに……何で花守の私を助けたの?)

鮮やかな手際に、悔しさよりも賞賛の思いの方が強かった。目を開くと、少年が拾い忘れた鎌が目に飛び込んできた。そっと近寄り、蔵馬は拾い上げて刃に指を沿わせてみた。その鎌は、自分の身体を締め上げていた縄を切り裂いたあの救いの一手だった。

「……完敗だわ……。」

小さく呟き、蔵馬は微笑んだ。

 翌日。蔵馬は長老の館で、村の有力者達が集う目の前に決まり悪そうに立っていた。一同は蔵馬の報告を聞き、お咎めではなく大笑いを始めた。

「あーはっはっは!! 花苑の番人もとうとう花泥棒にやられたかっ!!」
「笑わないで下さいっ!! …一応、責任感じているんですから。」
「済まん済まん。しかし危ないところだったな。その男が来なければお前は今頃どんな目に遭っていたか。」
「ええ…確かにその点では感謝しますけど…。」

蔵馬は口ごもった。と、蔵馬の報告に只一人静かに聞き入っていた長老が、口を開いた。

「一つ気になることがある。」

皆が振り返った。

「先程私も薬草苑へ足を運んだのだが、根から持ち去ったのではなく花だけ摘み取られていた。あの手折り方はどう見ても月想花の価値を知る者の行為ではない。」
「…!」
「と言いますと?」
「恐らく、通りすがりの気紛れで行ったことだろう。」
「“通りすがり”?」

その言葉に一人の妖狐がハッとして顔を上げた。彼は、里の若者達の教育を担う責任者だった。

「まさか…!!」
「何かあったのですか?」
「今朝騒ぎになっていたのですが、昨夜……隣村の領主宅に盗賊が侵入したそうです。」
「何だと!?」
(…隣村の領主…!?)

自分の結婚相手にされかけている男の呼称を口にされ、蔵馬の顔が引きつった。それを長老が冷ややかに見つめた。教育長は話を続けた。

「しかも、侵入したのはあの噂の盗賊・夢魔黒鵺だとか。」
「!!…」
「黒鵺だと!?」

妖狐達の間に緊張が走った。蔵馬も心当たりを思い出した。

(…まさか、黄泉が昨日言っていた凄腕の盗賊…!?)

少年の姿を思い浮かべ、蔵馬は黄泉の話を一つ一つ検証した。言われてみると少年の特徴は全て、黄泉の語った人相と一致していた。

「蔵馬…お前、何もなかったか。」

長老が不意に蔵馬に言葉を向けた。

「はっ…エ?」
「例えば、犯されたとか。」
「!!」

突拍子もない長老の言葉に、蔵馬の顔がみるみる朱に染まった。

「あっ…ありませんっ!! そんなこと…!!」
「運が良かったな。黒鵺の顔を見た者は男なら容赦なく命を奪われ、女なら犯され妖気を吸い取られた後に嬲り殺しに遭うそうだ。」
「!…」

蔵馬の顔が引きつった。一人の妖狐が長老に尋ねた。

「…ではなぜ蔵馬は助かったのでしょうね。」
「隣村の追手が来るのを恐れて逃げたのだろう。」
「でも、それならなぜ私を助けて…」
「お前を襲うつもりが予想以上に時間がかかって諦めたのだ。その腹いせに花を持ち去ったのだろうな。」
「そんなバカなっ…」

釈然とせず、蔵馬は異議を口にした。それを黙殺し、里の有力者達は互いの顔を見合わせた

「しかしまさか黒鵺がこんなところにまで来るとは…恐ろしいことだ。」
「今夜から花苑の見張りは男に任せ、人数も増やそう。蔵馬、お前は植物の育成にのみ専念してもらう。嫁入り前の大事な体だからな。」
「!…」

蔵馬の顔が一瞬怒りに染まった。長老はそれを無視し、更に冷や水を浴びせるような話を始めた。

「…そうだ蔵馬、昨日黄泉がお前を訪ねてきたようだな。」
「えっ…」
「今後あの者と関わることは禁ずる。盗賊に落ちぶれた者が里に立ち入ることは断じて許さぬ。」
「……!!」

幼馴染みを“恥曝し”と扱われたことに、蔵馬の顔は怒りで蒼白になった。

「…失礼しますっ!!」
「蔵馬!!」

背後から制止する声を無視し、蔵馬はその場を走り去った。大樹の下まで全速で走って辿り着き、蔵馬は幹にぐっと両手をついた。

「…ふざけるなっ…!!」

怒りに肩を振るわせ、彼女は叫んだ。その時、不意に彼女の背後から女の笑う声が聞こえてきた。

「うっそぉ!? それホント!?」
「ホントホント!! 昨日の昼間、黒鵺に会ったのよ私!!」

道の向こうを歩いていたのは蔵馬と同じ年頃の妖狐の少女達だった。“黒鵺”の名に蔵馬は思わず聞き耳を立てた。

「井戸の水汲み手伝ってくれたの!! でねでね、ちょっと話したんだけど『妖狐の女のコは皆美人でオレ好みだなー』だって!」
「きゃーっ!!」

少女達が一斉に色めき立った。無邪気な噂話に蔵馬の顔にもふっと笑みが零れた。

(…長老の話と本物の黒鵺は大違い……ま、噂話に尾ヒレがつくのは世の常だけど。)

……小さな部屋に戻り、蔵馬は寝床に倒れ込んだ。枕を引き寄せ、彼女はそれをぎゅっと抱き締めた。

(…でも……カッコつけすぎだよ、黒鵺。)

 数日後の夜……しんと静まり返った部屋で、蔵馬は一人灯りもつけずに座り込んでいた。何に心を囚われているのか、彼女はとても虚ろな表情だった。不意に、窓に何かが当たる音がして彼女は怯えたように顔を上げた。怖々近づくと、窓の外に黄泉が立っていた。ホッとした顔で蔵馬は窓を開けた。

「…見つかったら危ないよ。」
「バカ、お前が心配で来たんだろーが。」

黄泉は窓を乗り越え、室内に飛び降りた。

「花守をクビになったそうじゃねえか。」
「…それだけじゃないよ。」

元座っていた場所に戻った蔵馬の顔が途端に悲しそうに曇った。

「長老に隣村の領主との結婚を決められた…次の新月の夜に祝言だって。」
「なっ…十日後!?」
「ひどいよね。私一体何なのって感じ。」

黄泉は呆然と蔵馬を見つめた。しばらく彼は無言のまま立ち尽くしていたが、蔵馬がふっと顔を伏せたのを見て何かを決意したように拳をぐっと握り締めた。

「蔵馬……オレと一緒に来ないか。」

名を呼ばれ、蔵馬は顔を上げた。黄泉の様子はいつもと違っていた……唇は震え、表情は厳しいほどに強張っていた。

「本当はもうちっと後に、もっと強くなってから言うつもりだったけど、こうなりゃなりふり構ってられねえ。」

蔵馬は黄泉の只ならぬ気配に怪訝な表情をした。目の前の幼馴染みは、彼女が今まで見たこともないほど真剣な眼差しだった。

「……ガキの頃からずっと、何一つ自分の自由にならないお前が見てて可哀想だった。絶対この里から連れ出してやるって…そう思ってたよ。一緒に行こうぜ。女のお前に盗賊暮らしは厳しいかもしれねえけど…オレが守るから…!」

蔵馬は呆気に取られ、早口で何とか最後まで言い終えた黄泉を見つめた。彼の言葉は明らかな“告白”だった……彼女はしばらく言葉を忘れていたが、返事もしないままふっと顔を伏せ、小さな声で呟いた。

「…貴方とこの前会った日の夜、黒鵺に会ったの。」
「えっ? …何だって!? 黒鵺っ!?」
「花を奪いに来た盗賊達から私を助けてくれたの。」
「!」

黄泉の顔が驚きで色を失った。蔵馬はふらりと立ち上がり、窓枠にもたれるように手をかけた。その眼は遠く、欠けゆく月を見つめていた。

「…極悪非道の盗賊と聞いたけど、誰がそんな噂立てたんだろ。本物の黒鵺は綺麗な眼をしてた……強くて、とても優しかった。」
「!」

黄泉の顔色がさっと蒼くなった。

「…まさかお前、黒鵺のことっ……」
「彼のことが頭を離れない。もう一度会いたい。その為になら何だってする。今の私を全部棄ててでも、彼にもう一度会いたいの……。」
「ばっ…バカかお前!? 行きずりの盗賊に本気 <マジ> になってんじゃねぇだろうな!?」

黄泉は手を伸ばし、ぐっと蔵馬の肩を掴んだ。蔵馬は虚ろな表情のまま黄泉を見つめ返した。視線を逸らし、彼女は黄泉の手を振り払った。

「…そうかもね。こんな気持ちになったの初めてだから、よく分からないけど。」
「……!!」

言葉も出ないでいる黄泉をちらりと振り返り、蔵馬は微笑んだ。

(…うっ……!)

黄泉はハッとしてその顔を見つめた。これまで彼女が見せたどの表情より、今の微笑が美しいと思った。しかし……彼女を美しくしたのは、自分ではない男へ寄せる恋心なのだろうか……。

「……黄泉…有難う、嬉しいよ。一年前ならきっと私、貴方について行った。」
「!」
「でも……黒鵺を見て気づいたの。人に流されるだけじゃあんな風にはなれないって。私もっと強くなりたい。自分の運命は自分で決めたいの。」

窓から射し込む月灯りが蔵馬の銀の髪の毛を照らした。冴え冴えとした光沢が触れれば切れる刃を思わせ、黄泉は戦慄を覚えた。いつの間に蔵馬はこんな強さを手に入れたのだろう……一年前は何処か頼りなく思えた少女が、今ではしなやかな強靱さをもって自分を威圧していた。

「…ねえ黄泉、私、この里を出ようと思うの。」
「な…何だって!?」

黄泉は慌てた。

「一人で行く気か!? バカ、やめろよっ!! お前…夢魔がどんな妖怪か知っているのか!?」

その言葉に蔵馬の表情が動いた。黄泉は激しい剣幕でまくし立てた。

「大人になった夢魔は自分で妖気を作ることが出来ない。だから他人から SEX で妖気を吸い取るんだ。だけど、そのせいで奴等は誰かにマジになって惚れることは絶対ない! お前がいくら黒鵺を想っても……お前が傷つくだけだ!」

蔵馬は表情一つ動かさず、ただ黙って黄泉の話を聞いていた。瞼を伏せ、蔵馬は微笑を交えて口を開いた。

「……勿論、知ってるよ。私は別に、彼の恋人になりたいわけじゃないの。ただ……会いたいの。会って、私が彼に勇気を貰ったこと……自分の運命は自分で切り開くって決意できたことを伝えたいの。『有難う』って、一言そう言いたいだけ。」
「!」
「勿論彼は目標だよ。だからこそ、再会するならその時は今の私じゃなくて、自分一人の力で歩いている自分で会いたい。彼のように、自由に生きていきたい。」

すっと蔵馬は顔を上げた。白銀の月灯りが、彼女の銀の髪を輝かせるように照り映えていた。

「…黄泉、本当に有難う。でも……」

蔵馬の金の瞳がきらりと光った。

「…貴方じゃ私のこと、止められない。」
「……!!」

 翌朝、妖狐の里は朝から天地をひっくり返すような大騒ぎだった。村中の男や女が駆り出され、何かを必死に探していた。その輪の中心にいるのは、血相を変えた里の長老……豪奢な金の髪は乱れ、いつもはやや冷たい印象を与える白い顔は血の気を失いますます白くなっていた。

「蔵馬が逃げたぞ!」
「探せ!! 探すんだ!!」

慌てふためく故郷を見下ろす高台に、旅支度を整えた蔵馬が立っていた。少し名残惜しそうに里を見つめていた彼女は、思いを振り切るように顔を上げ、視線を遠くへと移した。彼女の視線の先には地平線が広がり、太陽が眩しく輝いていた。

(…何て広い世界。)

強い風が銀の髪をなびかせた。その風の心地よさに、蔵馬の表情が柔らかくなった。

(……この世界すべてが、私の生の舞台になる。)

地平の彼方には何が待っているのだろう。どんな出逢いが自分を待ち受けているのだろう。期待と不安に胸を躍らせながら、蔵馬は初めて感じた外の世界の風に、只ひととき身を委ねていた。

【完】