しん……と静かな寒い夜。深く暗い森の中を男が一人、苛立った様子で歩いていた。背筋の伸びるような冷気が立ちこめ、吐く息は口から飛び出した途端白い蒸気へと凝固する。足が地面を踏みしめるたび、さくさくと音を立てて霜柱が砕ける。
男は魔界で今最も勢いのある盗賊団の副長だった。五十名あまりの団員の中で彼が底辺から努力してその地位に登り詰めたなら大したものだが、真相は元々自分のものだった組織を旧知の女に乗っ取られ、総長の座を追われてしまったという惨めなものだった。男の名前は黄泉、そして彼を副長に追い落とした女の名は蔵馬といった。
(畜生、あの女……絶対ぶっ殺してやる。)
歩きながら黄泉は物騒な怒りを増幅させていた。実はつい数時間前、彼は部下達の前で総長・蔵馬に大目玉を食らったばかりだった。先日豪族の屋敷を襲撃した際、彼の率いる分隊が命令無視をして危険な行動に出たことを責めるものだった。自分のミスは棚に上げ、黄泉はただ一心に蔵馬への不満を募らせていた。
(大体蔵馬のヤツ、女のくせに可愛げの一つもねえんだよ! 女王様よろしく男を顎で使いやがって……女は女らしく、男の陰にすっ込んでりゃいいんだ!)
面倒なことに黄泉は典型的な男尊女卑主義者だった。そしてそれ以上に、蔵馬は彼にとってどうしても“弱い女”であり続けてほしい存在だった。いや、よくよく思い起こせば彼女は端 <はな> から全然弱い女ではなかったはずなのだが……とにかく彼女が自分の上にいるという現状に、黄泉はどうしても我慢することが出来なかった。
(どうする? 首でも締めて五体バラバラで肥溜めに放り込んでやろうか? それとも……ん、待てよ……?)
突然、黄泉の口元がニヤリと歪んだ。
(男には勝てねえと、肉体 <からだ> に直接教えてやるか。ただバラすのは勿体ねえし、味見してからでも悪くねえよな?)
鼻にかけたりはしないものの、蔵馬は自分の美貌が強力な武器であることを熟知していた。その気もないくせに高露出の装束で肌をちらつかせ、部下の男共に余分な情欲を抱かせる。自分勝手なはずの荒くれ達は皆、蔵馬に“もしかしたら”という邪まな期待を煽られていることを自覚しながら、それでも一様に大人しく彼女に付き従っていた。蔵馬のその辺の匙加減は全く絶妙で、今のところ力ずくで彼女を組み伏せようという野蛮な者はいなかった。しかし……黄泉だけは他の男達と事情を異にしていた。
(蔵馬も所詮は女、腕力だけならオレの方が上だ。男をナメてかかったらどういうことになるか思い知らせてやる。)
彼女を組み伏せる瞬間を想像し、黄泉の胸は躍った。思い描いていた状況とは随分掛け離れているが、実はそれは彼が昔から抱き続けていた願望でもあった。
蔵馬と黄泉とは幼少時代から互いを知る幼馴染みだった。今でこそ上司と部下の間柄の二人も、元は同じ年に同じ山合の集落で生まれ、同じ塾で勉学を習い同じ道場で戦術を学んだ友人同士だった。いや、“友人”と思っていたのは蔵馬だけで、黄泉の方は「オレ達はいずれ結婚する」と本気で信じていた節があった……そう、蔵馬が黒鵺という男に恋をし盗賊に身を落とすまでは。
黒鵺の死後、黄泉は蔵馬を自分の結成した盗賊団に呼び寄せた。空中分解しかけている組織を立て直してほしいというのが名目だったが、愛した男を喪い傷ついた彼女を救いたいというのが真の理由だった。少々遠回りをしたが幼い日の予定通り、これからは自分がずっと彼女を守るのだ……と、彼の胸中にはそんな自負があった。しかし、蔵馬は最早、黄泉が知る少女時代の彼女ではなかった。
彼女は総長の座に収まるや否や、恐るべき辣腕ぶりをもって組織改革を行った。部下の優れた功績への賞賛は惜しまず、その反面過失には厳罰をもって対処した。冷酷な処分を食らうのは黄泉とて例外ではなかった。いや……むしろ蔵馬は彼に対し殊更辛く当たった。一つ失態を犯せば部下達の面前で吊るし上げられ、焦りや苛立ちが次のミスを招く悪循環に陥った。後入りの団員からは「名前ばかりの副長」と揶揄され、黄泉は彼らの“反面教師”としての存在感ばかりが増していた。彼の心は深く傷つき、積もり積もった不満はいつしか裏切られた恋慕と相まって憎悪に変わった。もっとも彼の失態は射幸心剥き出しの無謀な行動に因るところが殆どだったのだが、それも元はと言えば少しでも早く蔵馬の支えになりたいという焦りから来るものだった。……それなのに。
(くそっ、蔵馬のヤツ……)
オレの気持ちも知らないで……と思いかけて、黄泉は強く首を振った。組織が強固になるにつれ、裏腹に自分達の距離は遠のいた。最早蔵馬は自分にとって心労の原因でしかない。彼女は自分を必要とせず、幼馴染みの甘い感傷さえ微塵も残していない。ならばこちらもそれ相応の態度で臨めばいい……迷う必要はない。今まで硝子細工に触れるように接してきた女を、この腕で粉々に潰してやる。
……突然、目の前がぱっと明るくなり、黄泉は顔を上げた。いつの間にか森の中にぽっかりと空いた空間に足を踏み入れていた。おぼろげな雲の隙間から覗く細い月の光が舞台照明のように降り注ぎ、この場所を深い森の闇から白々と浮かび上がらせている。輝いているのは一面に氷の張った、小さな湖だった。
(あ……!)
そのほとりで白い何かが動き、黄泉は咄嗟に身を隠した。誰かがいる……こちらに向けた細い背中に、長い銀の髪が光の糸のように零れ落ちている。
(蔵馬……!?)
そこにいたのは、たった今心の中で悪態をついていた相手・蔵馬だった。思いがけぬ遭遇に唖然としていた黄泉の顔が、ニヤリと笑った。
(……は……丁度いいぜ。)
こんな時間に一人で何をしているのか知らないが、人目もないし強姦にはうってつけだ。しかし……良からぬことを考えたのもほんの一瞬。息を潜めて背後から近づこうとした黄泉の足が突如すくんだ。
「!……」
──泣いている──
……何故か、そう思った。蔵馬の肩幅狭い後ろ姿が緊迫した空の下で一際頼りなげに見えた。啜り泣きが聞こえる訳でもなく肩も震えている訳ではないのに、何故か黄泉は彼女の白い頬を涙が伝う図を思い描いた。……呆然と見つめる彼の前で蔵馬は突然足を踏み出し、凍った水面を踏んだ。
「!」
氷の上を滑るように、蔵馬は歩き出した。一歩……二歩……三歩…………湖の中心に向かい、彼女はゆっくり歩みを進めた。凍る水面が仄白く輝きその姿を照らし出した。彼女の眼は遠く、東の空にかかる細い月を見上げていた。薄雲に霞む月の、蒼く淡い光に惹き寄せられるように…………
……パリーン!!
突如、静寂が破れた。次の瞬間、大きな音と飛沫を上げて女の身体が湖の中へと落下した。
「っ!? ……蔵馬っ!!」
金縛りが解けたように黄泉の身体が反応した。何が起こったのかと考えるより先に、彼は木陰から飛び出し躊躇なく氷の割れた口から冷たい水へと飛び込んだ。
(蔵馬っ……!!)
ぼんやり白い影が力なく水底へと沈んでゆく。真冬の湖は全身の神経を麻痺させ意識までも奪うように感じられたが、黄泉はがむしゃらに真っ暗な水を掻き分け、蔵馬に近づき無我夢中で腕を掴んだ。女の口から空気の泡が二つ三つ、真珠のように零れた。顔を上げると割れた氷の隙間から月光が射し込み、凍てつく死の国から二人を導くように水中に光の道を描いていた。その光の帯を辿り、黄泉は蔵馬の身体を抱えて一心に水上を目指した。
ザバッ………
「はっ……!!」
水面に顔を出し、黄泉は大きく息を吐いた。蔵馬も同じように大きな息をついた。冷たい水がどんどん二人の体温を奪っていく。黄泉は最後の力を振り絞って氷の上へとよじ登り、蔵馬を水から引きずり出した。
「…………」
……ぽたっ……ぽたっ……
二人の身体から水が滴り氷の上に散った。何とか助け出したものの何を言えばいいのか分からず、二人の間を居心地の悪い沈黙が漂った。突如冷たい風が吹きつけ、黄泉は思わず身を縮めた。身体にべっとり張りついた服は湖の水より更に重く冷たく感じられた。全身が形容しがたい寒さで震えている。このずぶ濡れの状態で明け方までじっとしていたら二人して氷の彫像に化けかねない。
「……お前、いたの……?」
「!」
蔵馬がようやく口を開いた。我に返った黄泉が堰を切ったように叫んだ。
「なっ……何やってんだお前っ!! 死ぬつもりか!!?」
「……自死ならもっとましな方法を選ぶさ。」
蔵馬は小さく首を振った。動きに合わせて銀の髪から水滴が滴り落ちた。水死は最も醜い死の一つ……思わず彼女の白い体躯が湖の底でぶよぶよに腐り崩れていく様を想像し、黄泉はぞっと身震いした。
「だったら、こんな夜更けにこんな場所で何を……」
蔵馬は答える代わりに白い溜め息を混じえ呟いた。
「……お前、まさか本気でオレが溺れると思ったのか?」
「…………」
黄泉は絶句した。腹が立ったのが自分でも分かった。馬鹿にされたと思ったからではない……彼女が本音を隠したと感じたからだった。
(だったら、どうしてお前は水に逆らわなかった?)
尋ねてもどうせ答えは返って来ないだろう……黄泉は言葉を飲み込んだ。再び冷たい風が吹いた。蔵馬が自分の身体を抱き締めた。それを見て思わず黄泉は手を伸ばした。冷気から守るように肩を抱くと、蔵馬は彼に咎めるような視線を向けた。
「……戻るぞっ。」
黄泉がやや強引に身体を引き寄せた。蔵馬は仕方なさそうに立ち上がった。凍えるような夜風が自然と彼らの距離を近づけた。二人の足元に氷の欠片が散らばっていた……鋭利な破片が一瞬、遠ざかる二人の後ろ姿を映して煌いた。
†
人目を気にしながら二人は無言のまま、歩いて宿営地に戻ってきた。ずぶ濡れの姿を部下達に見つかればあらぬ憶測を立てられることは想像に難くない。黄泉が先にテントの輪の中に入り、他の団員がうろついていないことを確かめた。合図を受けて蔵馬はようやく宿営地に足を踏み入れ、自らのテントの前に立った。と、彼女は数歩後ろでぼんやり突っ立ったままの黄泉に気づき、手招きをした。
「……あ?」
「ちょっと。」
「はぁ!? あのな、こんなずぶ濡れで……」
「いいから!」
渋る黄泉を強引に引き止め、蔵馬は彼をテントの中へ導き入口を締めた。
「……」
(何の用だ、口止めか……?)
意図が読めず、黄泉は顔をしかめた。それにしても仕事以外の時間に蔵馬と二人きりになったのは何年ぶりだろう。
(寒っ……)
突然、すっかり冷えた身体が大きく震えた。と同時に何かが宙を舞い、ふわりとした感触で黄泉の肩を包み込んだ。それは蔵馬が投げたタオルだった。背を向けたままもう一枚別のタオルで身体を拭き始めた彼女を、黄泉は落ち着かない思いで見つめていた。
(……おいおい……犯されてもこの場合、女の方が悪いぜ絶対。)
蔵馬は濡れた装束を肩から落とし、無防備な素肌の背中を晒していた。つい先程まで彼女に襲い掛かる場面を色々空想していた黄泉はすっかり毒気を抜かれてしまった。と、蔵馬が思い切りよく上半身の服を脱ぎ捨てた。
「!! ば……馬鹿っっ!!」
泡を食った黄泉が叫んだ。蔵馬は裸の背中を向けたまま、醒めた口調で応えた。
「何慌ててるんだ? 昔は一緒に風呂も入っただろ。」
「いつの話だっっ!?」
幼少時代にはそんなこともあった……のかもしれないが、少なくとも黄泉には全く思い出せないほど昔の話だった。蔵馬は彼に背を向けたまま部屋の隅の寝台に寄り、置かれていた裾の長い寝巻を羽織った。それからようやく腰から下の服を脱ぎ去った。髪の毛の水分を拭き取りながら、彼女は未だずぶ濡れの黄泉に気がついた。
「……風邪引くぞ。」
「オレの着替えはオレのテントなんだよ!」
「あ……そっか。」
蔵馬は首をすくめた。昼間彼を叱り飛ばした“上司”の顔ではなく、気心の知れた相手に向ける寛いだ表情だった。彼女は今度は部屋の隅に鎮座していた火鉢を引っ張り出し、中の炭に火を灯した。続けて彼女は毛布を運んできて黄泉へ放り投げた。
「服脱いでこれかぶってろ。火の上に吊しておけばすぐ乾くだろ。」
「……は?」
「早く!」
唖然としていた黄泉は急かされて渋々服を脱いだ。蔵馬はそれを奪い取るようにひったくり、手際よく水気を絞って火鉢の上に渡したロープにかけた。
(……くそっ……)
黄泉は思わず下を向いた。女を脱がせるどころか先に自分が全裸にされるとは……そう考えるとつくづく格好の悪い状況だ。と、鼻先で花の香りがして彼は再度顔を上げた。目の前に錫の杯を差し出し蔵馬が立っていた。黄泉は杯を受け取りながら中身に鼻を近づけた。強い香りはそこから漂うものだった。
「……何だこいつは。」
「花蜜酒だ。甘いけど身体は温まる。」
「……そっか。」
ぐいっとそれを飲み干す黄泉の隣に、もう一つ杯を手にして蔵馬が腰を下ろした。再度花の香りが黄泉の鼻腔をくすぐった。二人の距離が少し近すぎるような気がして、彼の胸は騒いだ。
部屋に再び静寂が訪れ、蔵馬はようやく落ち着いたように小さく息を漏らした。二人のすぐ傍で火鉢の炭がぱちぱち音を立て燃えていた。
「…………おい蔵馬、」
頃合いを見計らい、黄泉がためらいがちに切り出した。
「……さっき、何してたんだ?」
蔵馬が顔を上げた。
「夜中に湖で考え事なんて、悩みでもあるのか?」
「……別に。」
「何かおかしいぜ。いつもの威勢は何処行った?」
黄泉はそう言いつつ蔵馬の顔を覗き込んだ。先程までのわだかまりはいつの間にやら霧消し、彼の胸に旧友を気遣う思いが湧き上がっていた。が、蔵馬はすげなく首を振った。
「何もない……いつものことさ。」
「嘘つけっ。」
「嘘じゃない。お前達の前じゃともかく、二十四時間“御頭”でいられるわけがないだろう。」
「だからと言って毎日水ン中に落ちてるわけじゃねえだろうが。」
「あれはたまたま。」
「毎晩一人で湖眺めてんのかよ。」
「……」
蔵馬が黙った。……ふと、黄泉の頭にある人物の面影がよぎった。一つ息を整え、彼はそっと隣の女の様子を窺うように切り出した。
「……もしかして……“あいつ”のこと、思い出してたのか?」
「!」
突如、蔵馬の顔が強張った。それを見て黄泉は追い討ちをかけた。
「黒鵺のこと…………まだ、忘れてないのかよ。」
……木炭のはぜる音がして、それきり部屋は静かになった。蔵馬が顔を逸らし、黄泉は図星を指したことを確信した。
自分にとって蔵馬がそうであるように、黒鵺が蔵馬にとってどれほど大切な存在であったか、彼らをずっと傍で見つめていた黄泉は痛いほどに理解していた。だからこそ“黒鵺”の名が彼の死後、どんな刃よりも鋭く蔵馬の胸をえぐる凶器に変わったことも容易く想像できた。それゆえ意識的に避けて、ここ十年ほど何があっても決して口にしなかった名前……しかし黄泉は今あえて、その封印を破った。
答えを待つ彼の前で蔵馬は一旦杯に口をつけ、冷ややかに首を振った。
「……阿呆、死んだ奴のことなんかいちいち覚えてない。」
「また嘘か。」
「本当だ。忘れてたんだから思い出させるな。」
蔵馬が黄泉を睨んだ。それでもまだ追及しようとした彼に、彼女は冷静に切り返した。
「そう言うお前の方が、未だに黒鵺のこと引きずってるんじゃないのか?」
「……何だって?」
「とっくにこの世にいない男と何張り合ってるんだ? いつもいつも無茶ばかり繰り返して……もう少し自分の実力見定めて行動しろよ。手柄を急ぐと命が幾つあっても足りないぞ。」
「!」
黄泉の額から冷や汗が噴き出した。
(……こいつ……!)
図星を指されたのは彼の方だった……やはり蔵馬には悟られていたのだ。自分が死んだ男に敵対心を燃やし、何度咎められても“大穴狙い”を止められなかったことを。
(でもこの女、他人事 <ひとごと> みたいに言うか……!?)
彼と黒鵺との間にいるのは自分だと知りつつ、蔵馬は完全に“部外者”の口ぶりだった。……すっかり言葉を失ってしまった黄泉の手から空の杯を取り上げ、彼女は酒を注ぎ足して返した。
「黄泉……お前、黒鵺がどうして死んだのか知ってるか?」
「……あ?」
突然話題が変わり、黄泉は瞬いた。
「いや、全然……」
怪訝に思いながら彼は首を振った。てっきり侵入先の宮殿で番兵に殺されたのだと思っていて、今まで疑問に感じたことすらなかった。蔵馬は溜め息をついた。
「別に見張りに捕まったわけじゃないんだ。盗る物盗って逃げる途中にあいつ、下げてた首飾り <ペンダント> 落として、それ拾いに戻って罠を踏んだんだ。」
「……は!?」
黄泉の声が裏返った。蔵馬はもう一つ溜め息を吐きながら言った。
「馬鹿だろう? 同情の余地もない……そんな最期なら追手と一戦交えて死ぬ方が余程いい。」
「……」
黄泉はぽかんと口を開けたまま固まった。当事者から聞いた話でなければ到底信じられそうもない……あの気障男にしては女の前であまりに間抜けで身勝手な死に方だと、さすがの彼も呆れ返った。
「本当、今でも思い出すだけで腹が立つ……だからもう考えたくない。黒鵺のことは過去なんだ。」
低い声でそう言って、蔵馬は再び酒に口をつけた。桜色の唇が錫の杯に触れるのを黄泉はぼんやりと見つめていた。
「……だったら、湖で何してたんだ。」
話題を戻され、蔵馬の眉が動いた。
「………… ……最近、疲れてるのかもしれない。」
答えに逡巡した後、蔵馬は仕方なさそうに口を開いた。その顔が何処か気弱で、彼女らしくないと黄泉は感じた。
「『疲れてる』?」
「さすがに、ここまで来ると……ちょっとな。」
そう言って蔵馬は首をすくめた。
「盗賊団が段々オレの手に負えなくなってる。」
「は……何処ぞの誰かさんがキリキリやった結果だろうが。自業自得だ。」
「阿呆、副長のお前が役立たずだからだ。お前がしっかりしてればもう少しオレの肩の荷が下りるんだよ。」
「何だと!?」
黄泉が声を高くし、蔵馬は彼に冷ややかな視線を向けた。
「いつも言ってるだろ、組織の善し悪しは副将次第だと。なのに向こう見ずで飲んだくれで女と博打に明け暮れてる副長じゃ“悪い見本”として扱うしかないだろうが。」
「なっ……」
痛いところをぐっさりと刺され、黄泉は居心地の悪さを誤魔化すために杯の中身を一息であおった。
「……黄泉、」
「何だっ。」
「オレは、お前を信じているからな。」
「……あ?」
手酌をしていた黄泉が顔を上げた。蔵馬は杯の中身を口に運びながら話し続けた。
「馬鹿とか無能とか色々言う奴もいるが、オレはお前を高く買ってる。お前の潜在能力はうちの盗賊団で一番だ。力の磨き方も向ける先もまだ知らないだけで、いずれはオレよりもずっと上に行く男だと思ってる。」
「はぁ? ……んなバカな、有り得ねえ。」
「自分を卑下するな。卑屈な男は成長しないぞ。」
「うるせえよ!」
「お前と黒鵺の一番の差はそこだ。あいつは自分を磨くことを怠らなかった。お前は勝負の前から諦めて自堕落になってるんだ。」
「!」
かつての恋敵と比べられ、黄泉の顔が強張った。蔵馬は力のない声で言った。
「いきなり改心しろとは言わないが、もう少し自分の立場を自覚しろよ。オレが死んだらお前がこの盗賊団を指揮するんだから。」
「……お前が、死ぬ?」
「戦いの中で死ぬかもしれないし、湖で一人淋しく溺れ死ぬかもしれない。」
「!……」
ぎょっとして、黄泉は蔵馬を見つめた。
「…………やっぱり、本当に死ぬ気だったのか。」
「……それはないさ。」
蔵馬が自嘲気味に笑った。
「ただ……確かに、お前が来なかったら死んでいたな。」
「……何?」
黄泉が眉をひそめた。一瞬、蔵馬が次の言葉をためらった。
「……水の中へ落ちた時、このまま死んでも構わないと……そう思った。」
「!……」
黄泉の顔から血の気が引いた。いつの間にか蔵馬は膝を抱えていた。黄泉はうつむいた彼女の顔を覗き込んだ……何故か、胸騒ぎがする。
「蔵馬……?」
「…………呼ばれたような、気がしたんだ…………。」
そう言った蔵馬の声が掠れていた。
「誰に……」
「…………」
蔵馬が沈黙し、黄泉の顔が強張った。心臓が一つ、大きく波打った。
(…………お前……やっぱり…………)
震えた手で杯を握り締め、黄泉は内心の動揺を隠そうと努力した。精一杯の平静を装い、彼は尋ねた。
「……黒鵺に、か……?」
「…………」
蔵馬が一層深くうつむいたのを、黄泉は呆然と見つめた。彼女の眼は虚ろだった…………顔を逸らし、黄泉は手にした酒を一口でぐっと飲み干した。空の杯を突っ返し、彼は投げやりな口調で呟いた。
「阿呆……あの男がンなことするかよ。あの世でお前に出くわしたらあの野郎、『今すぐ帰れ』って怒鳴るぜきっと。」
「…… ……そうかもしれない……。」
蔵馬が暗い声で答えた。黄泉は吐き捨てるように続けた。
「呼んでいるのはあっちじゃねえ、お前が黒鵺を呼んでいるんだ。」
「……!」
途端、弾かれたように蔵馬が顔を上げた。
「それは、ない!」
蔵馬は声を荒らげ叫んだ。いつになく動揺した態度が黄泉をひどく傷つけた。彼は自らを奮い立たせるように、彼女に負けないくらいの声で言い返した。
「だったら二度と、黒鵺の名前は口にすんな! 忘れたって言いながら、あいつの話題で酒飲むんじゃねえよ!」
「……何だって!?」
蔵馬の顔が蒼ざめた。黄泉は畳み掛けるように叫んだ。
「昔のことだなんて、自分にまで嘘つきやがって! 半端に気持ちごまかして、後追い考えるほど苦しんで……!」
「それはっ……」
「嘘つくなら完璧にやれよ! 破綻を見せんな!!」
「!……」
酔っているのかもしれないと思いつつ、止められなかった。怯えたように一歩引いた彼女の手を黄泉が掴んだ。細い手首が折れそうなほど彼は力を込めて握り締めた。蔵馬は振り解こうとしたが、黄泉はそれを許さなかった。……逃がすわけにはいかない。今までずっと待っていたのだ。彼女の身体を……心をこの手で捕らえることの出来る瞬間を。
「お前がそんな調子じゃあの男も浮かばれねえし、お前も苦しいだろ!? それに……オレが困るんだよ! お前、オレの気持ちは知ってんだろう……!?」
「……!……」
……蔵馬の瞳が黄泉を射抜いた。黄泉も負けじと彼女を見つめ返した。二人はしばらく、互いを見つめ合ったまま動けなかった。……先に視線を逸らしたのは、蔵馬の方だった。
「蔵馬っ……」
黄泉が思わず名を呼んだ。蔵馬は小さく項垂れた……諦めたように、彼女は弱々しく首を振った。
「……本当に……忘れたいんだ……。いつまでも黒鵺のこと、引きずってるの…………馬鹿らしいよ…………。」
今にも泣き出しそうな顔で蔵馬は瞼を伏せた。黄泉が何か言おうとしたその時、彼女が突如ふらりと立ち上がった。
「……蔵馬?」
恐る恐る声をかけた黄泉の前で、蔵馬が突然、肩から寝巻を落とした。
「!!……」
目を逸らすのが遅かった。白い裸体が露わになり、黄泉は後ろへ仰け反った。
「なっ……」
腰が抜けて動けぬ彼の前で、蔵馬が膝をついた。這うような姿勢をとり、彼女はゆっくり黄泉へと近づいた。
「……蔵馬っ……!?」
「……」
蔵馬が手を伸ばし、後ずさる黄泉の頬に触れた。思い掛けない事態に彼は完全に飲まれていた……心臓が高鳴り、すっかり暖まったはずの身体が再び震え出した。蔵馬は這いつくばった姿勢のまま身を乗り出した。そのまま惹き寄せられるように彼女はゆっくりと、黄泉の胸に擦り寄った。
「……!……」
とん……と、圧された背中が床に触れた。倒れた黄泉に蔵馬はそのまま覆い被さるように縋りついた。裸の肌と肌が密着した。
「!……」
至近距離から蔵馬に瞳を覗き込まれ、黄泉の胸が波打った。震える手を伸ばし、彼は蔵馬を強く抱き締めた。彼女もまた黄泉の肩にそっと両手を置いた。
「寝台に……」
「……」
蔵馬が首を振って拒んだ。そこで黄泉は彼女を床に抑えつけ、自らが上位に代わった。多少強引だったが蔵馬は逆らわなかった。彼女も黄泉の腰に手を回し、自分の身体を寄り沿わせた……先程まで氷のように冷たかった身体が灼けるように熱かった。黄泉はそっと、蔵馬の太股に指を這わせ奥深くへと滑り込ませた。
「……あ……」
思わず声を漏らした蔵馬は、そのことを恥じるようにぱっと顔を背けた。首筋を目の前にし、黄泉は唇でそれに触れた。蔵馬が熱く息を零した。黄泉は彼女の下腹を探りながら、唇と舌を滑らせ上体の皮膚をなぞった。彼女は瞼を閉じ、時折荒い息を吐きながらされるがままに身を委ねていた。しばらくの愛撫の後、彼女の芯が潤んでいるのを確かめ、黄泉は手をかけて強引に彼女の脚を開いた。
「……入れるぞ。」
「……」
蔵馬は拒まなかった。黄泉はのし掛かって腰を落とし、彼女の体の深くへと沈み込んだ。
「……っ……!」
蔵馬の両腕が強く、黄泉の背中を締めつけた。
……組み敷いた女が縋るように腕を絡めてくる。逸る気持ちを抑えながら黄泉は出来るだけゆっくりと動いた。しばらく眼を閉じていた蔵馬が彼の気遣いに気づき、掠れた声で囁いた。
「……いいよ、もっと手荒で……」
「でもお前…… !」
……その瞬間、黄泉は悟った。
(こいつ…………初めて、じゃない…………)
黄泉の顔が蒼ざめた。……男を知らないと思っていた女に、他の男の影を見てしまった。
(……アイツか……!?)
黄泉の脳裏によぎったのは、眼差し涼しい黒髪の夢魔……。他に思い当たらなかった……蔵馬が自分の奥へ、心の底へ立ち入ることを許した相手が他にいるはずもない。
(あの野郎……!)
「……黄泉……」
「!」
蔵馬が動揺する黄泉を見上げた。その瞳が悲しく光り、彼の胸を突いた。
「……全部、忘れさせて……」
「……えっ!?」
「お前が……オレを、愛して…………。」
「!……」
……黄泉は覚悟を決めた。蔵馬が再び瞼を閉じた。それを合図に二人は更に激しく互いの肌を求め合った。感覚が過剰なほどに研ぎ澄まされ、相手の些細な動き一つにも体が反応した。交わる音が外へ漏れぬよう気遣いながら、二人は本能へひたすら身を委ねた。無我夢中の行為の中、黄泉は無意識に蔵馬の唇を求めた。……が、彼が唇を寄せるのと同時に蔵馬が顔を逸らし、ふっと瞼を閉じた。
「……!」
一瞬、黄泉が凍りついた。しかし蔵馬は変わらぬ様子で彼に身を任せていた。代わりに彼女の、黄泉の首を抱く腕が更に力を帯びた。
(……気のせいか……!?)
不安を振り払うように黄泉は、より一層激しく女の身体を求めた。しばらく声を上げないよう耐えていた蔵馬が突如、全身を強く痙攣させた。
「……っ……!!」
細い腕が黄泉の背を強く締めつけ、しばらくの間その力を保ち続けた。やがて全身の緊張から解放され、彼女は虚ろな視線のまま荒い呼吸を繰り返した。黄泉がそっと身体を離した。
「……感じすぎだぜ……。」
からかわれて蔵馬は、紅くなった顔を黄泉の首筋へ埋めた。その姿勢のまま、彼女は掠れた声で囁いた。
「…………黄泉…………」
「ん?」
「……お前は絶対、オレの前で死ぬなよ。」
「!」
そっと身体を離し、蔵馬がゆっくりと顔を上げた。白い顔がふと、淋しそうに笑った。
「あいつ以上に情けない死に方したら、墓も作ってやらないからな。」
「……」
約束を交わすように頷くと、蔵馬は安堵して微笑み瞼を閉じた。黄泉は彼女の長い睫毛の端に涙の粒を見たような気がした。
†
「…………」
……薄暗いテントのいささか頼りない天井を見上げながら、黄泉は行為の後の心地よい気怠さにまどろんでいた。傍らに銀の髪を散らして眠る女がいる。幼い頃からずっと、結ばれる日を夢に見ていた愛しい女が。
「……蔵馬……」
そっと手を伸ばし、その髪の毛をすくってみる。指の隙間から水が零れるように、柔らかな銀の糸がするすると滑り落ちた。蔵馬は何も気づかず眠り続けていた。薄く薄く開いた唇から、微かな呼吸が漏れていた。
「……」
黄泉の心に突如、暗い陰がよぎった。
(本当に、偶然だったのか…………?)
……唇を寄せたあの時、蔵馬ははぐらかすように顔を背けた。その仕草があまりに自然で、かえって黄泉は違和感を覚えた。繋がっていた身体が離れ、微かな違和感は大きな不安へと膨らみ始めている。
眠り続ける女に引き寄せられるように、黄泉はそっと唇を近づけた。……柔らかな皮膚と皮膚が軽く触れ合った。
「…………」
ふっ……と息を漏らしながら、それでも蔵馬は目覚めなかった。それが黄泉を駆り立てた。触れただけの唇をより深く求めようと口づけた、その瞬間。
「!……」
黄泉は、愕然とした。背筋に寒気が走り、彼は弾かれたように身体を離した。
──冷たい──
……蔵馬の唇は、熱の残る肌と裏腹に奇妙なほどよそよそしかった。それが黄泉に気づかせてしまった……物理的な温度ではなく想いの温度差、心の内に踏み込まれることを拒む“壁”の存在を。
(…………それが、お前の本心か…………。)
黄泉は呆然と、眠る女の顔を見つめた。意にそぐわぬ口づけに気づかない彼女への後ろめたさと相まって、黄泉の胸に後悔が去来した。触れなければよかった……肌を重ねていた間の、あの身体と身体を貼り合わせたような一体感が一瞬にして砕け散った。……蔵馬は「忘れたい」と言った。そして自分に「愛してほしい」と懇願した。その言葉は確かに本心だっただろう。しかし……彼女が欲しているものはあくまで“黒鵺の代わり”であり、決して“黄泉 <自分>”そのものではないのだ。
……大きく息をつき、黄泉は頭を振って悪い思考を追い払った。
「関係ねぇ……生きてるヤツが勝ちなんだ。」
負け惜しみかもしれないと思いつつ、小さな声で呟いた。蔵馬は確かに言った。「お前だけは、オレの前で死ぬな」と……生きて、自分を愛してほしいと。
(代わりだろうが何だろうが、お前が選んだのはオレだ。だから……何度でも求めてやる。何度でも「お前が欲しい」と……望む限り囁いてやる。)
それが自分の精一杯の想い方。片思いが度を過ぎて、とても恋だの愛だの呼べる関係ではない。それでもそれが蔵馬の望みなら……と、黄泉は覚悟を決めた。いつかきっと、通い合う日が来る。この想いを釣り合わせて、いつか必ず愛情に昇華させるのだ。
再び身を屈め、そっと蔵馬の頬に触れる。相変わらず彼女は目覚めない。しかし、この無防備さこそ彼女が自分に気を許している証しに違いない。
「……蔵馬……」
少しためらい、もう一度、唇で唇に触れた。相変わらず素気ない感触だったが、ひるむわけにはいかなかった。……有り余る想いを移すように黄泉は、僅か開いた蔵馬の唇へ微かな呼気を吹き込んだ。彼女が答えるように、ほっ……と小さく息を零した。
†
ぱちぱち騒いでいた火鉢の炭もすっかり大人しくなり、部屋には蔵馬と黄泉、二人の息遣いの音のみが静かに繰り返されていた。黄泉はふと、時間が気になった。
(戻らなきゃな……)
まだ夜明けには遠いはずだが、早起きを決め込む気紛れな部下がいないとも限らない。本当は皆に今宵の出来事を触れ回りたい。しかしそれが蔵馬の意に反することは充分承知している。彼女との関係は密やかなものでなければならない。“本命”になるまでの辛抱だ……と黄泉は自分に言い聞かせた。と同時に彼は湖のことを思い出した。
(あれ……騒ぎになったりして……)
あの小さな湖は盗賊団の水汲み場でもある。湖面には人が落ちた明白な証拠が残っているが、それを団員の誰かが見咎めはしないだろうか。派手に砕けた氷はこの寒気をもってしてもそう簡単に元通りにはなるまい。面倒になりそうだ……と思った瞬間、黄泉の脳裏にある考えが閃いた。
(……あ……!)
……あの湖は、蔵馬の心そのものなのだと気づいた。表は波一つ立てない平静を装いながら、冷たい氷のすぐ下に底知れず深い悲しみを湛えている。張ったばかりの薄い氷は些細な刺激でいとも簡単に壊れてしまう……そして彼女は再び暗い記憶に溺れてしまうのだと。
黄泉は眠る女を見つめ、心の中で語り掛けた。
(……思い出さなきゃいい。あれだけ惚れてた男、忘れるなんて絶対無理だ。だけど……考えなければいつか、思い出せないくらい遠い記憶になる。)
今はもろい薄氷も時を重ねれば厚みを増し、冷たい湖水をすっかり覆い隠すことだろう。
(それまでオレが傍にいる。だから……暗い水の底を覗くのはもう止めろ。)
……このままいつまでも寄り添っていたい。しかし、夜が明ければまた組織の長と副長に戻らねばならない。名残を惜しむように傍らの女の髪に触れ、黄泉は寝台から立ち上がった。すっかり乾いた服に袖を通し、彼は外へ踏み出した。厳しい寒さに息が凍る。夜明け前の、大地が最も冷える時刻。だが……この時さえ乗り越えれば輝く太陽が朝を運んでくるのだ。
[完]