「黒鵺! これ何だか知らない?」
洞穴の奥から呼ぶ声がして、オレは手にしていた宝箱を脇に置いて立ち上がった。二ヶ月に一度の“在庫整理”の日。色々な所から掻き集めてきた財宝の良し悪しを見極め、競売にかける前に大まかな値踏みをする。オレも蔵馬も実はこの雑用が好きだった。かっぱらってきたきり殆ど眺めてもいないお宝から掘り出し物を発掘する作業が骨董市に似た感覚で楽しかったのだ。
「…何。」
「リュートだと思うんだけど……傷だらけだし弦は切れてるし。」
蔵馬が大きな木製の物体を持ち上げてオレに見せた。オレが叫んだ。
「あ! それ、何処にあった!?」
「エ? いや、そこの埃かぶった長持の陰に……何、お前が持ち込んだのこのガラクタ!?」
「ガラクタじゃねーよ! 売りに出したら三千万は下らないぜ。」
「ホント!? すっごいお宝じゃん! どういう謂れ?」
「天下の美形大盗賊・黒鵺サマの私物。」
「……何だ、やっぱりガラクタか。」
大層ガッカリしたように蔵馬が溜め息をついた。最早完全に興味を失ったあいつは“お宝”そっちのけで大好きな宝石の詰まった箱にぱたぱた尻尾を振っていた。普段はちっとも愛想のないくせに、金銀財宝の前でだけは“可愛いオンナ”に早変わりする。こいつの飼い主になる男はきっと苦労するんだろうな。
オレは蔵馬にそっぽ向かれたリュートの残骸を持ち上げ、じっくりと状態を確認した。思い出す限り三年は触っていない。下手したらそれ以上……。オレの記憶の中にあったこいつは磨き込まれた黒檀を張り合わせた艶めかしい曲線のボディを持っていた。それが今や虫に食われたりあちこちにぶつかったりした傷でボロボロ、弦は根元しか残っていないし、胴にはロゼッタから侵入した砂や埃がたっぷり詰まってる。修理代だけでいくらするのか考えただけでも気が重いけど、金がかかるのは生身の女も同じ……そう思えば許そうかという気にもなってくる。
「…ったく、こいつの良さが分からないうちは“イイ女”には程遠いぜ?」
こそっと呟いてみたが、蔵馬には (あんなにデカい耳してるくせに) 聞こえていないようだった。
†
「……よくもまた、ここまでボロボロにしてくれたものだな?」
形のよい細い眉を吊り上げて、鴉が呆れたように呟いた。沢山の人が行き交う市場の一角、ちょっとした料理を出す露店でオレ達は例のリュートを間にサンドイッチをつまんでいた。
「だから修理できるトコ教えてほしいんだ。あんたなら心当たりあるだろ?」
「この街の修理屋は料金の割に腕が悪い。頼むなら隣の街だ。」
「さっすが、助かるよ鴉。早速持っていこうっと。」
「ここまで傷んだら胴から全部交換かもしれないな。まったく……こんなになると知っていたらお前にやるんじゃなかった。」
鴉は深々と溜め息をつきながら、弦のないリュートを構える仕草をしてみせた。幼い頃は女にしか見えなかったという白い顔と細い指が如何にも優雅で、この古めかしい楽器に素晴らしく似合っている……のだが、実は彼にはこいつを全く弾きこなせないという事実をオレは知っている。
「悪かったよホント! 今度はちゃんと修理して部屋に置いとくからっ。」
「飾っておくだけなら私が引き取る。お前なら少しは弾いてくれると思ってやったんだ。」
「だってお尋ね者が日常的にデカい音立てられるわけないじゃんか。」
「紫はよく弾いていたよ。」
「兄貴のお目当てはそれを伴奏に踊るあんただったに決まってるじゃん。」
「その話は二度とするな!!」
鴉が突如恐ろしい顔になって叫んだ。剣幕の凄さに周りの席の客が皆こっちを振り返り、“お尋ね者”のオレは身を縮めた。
鴉の出身は流浪の民の集団。今から数十年前、旅芸人の一座がオレの故郷でもある夢魔の里にやってきた時、一座の花形踊り子と里の男が懇ろの関係になって生まれたのが彼だと聞いている。母親譲りの美貌の持ち主だった鴉は、父親を探してうちの里にやってくる前まで (当時オレはまだ生まれていない) 若くして死んだ母の代わりに女のなりをさせられ踊り子を務めていたらしい。すっかり騙されたオレの兄貴が熱烈にモーションかけまくっていたという噂を聞いたことがあるけど、兄貴は真相を明かさないまま死んでしまい、鴉はその“恥ずかしい過去”に触れただけで一切何も話してくれなくなる……という有り様で真実は未だ闇の中だ。ただ、鴉が兄貴との賭けに負けて兄貴の伴奏で舞踊を披露させられてるのはオレも一度見たことがあり、その時の鴉は確かに魂抜かれそうなくらい綺麗だった。
「…とにかく、お前が弾かないなら返してもらう。育ての親の形見なんだから。」
「待てってば! ボロボロにしたのはオレなんだからせめてオレの金で修理させて! 頼むっ!」
何とか鴉に許しを乞い、豊満なボディを持つそいつはしばらくオレの手元に残ることになった。
†
「……おい黒鵺、それまさかこの前のガラクタ?」
ソファの後ろから蔵馬がオレの肩越しに例のリュートを見つけ声をかけてきた。大枚をはたいて修理したそれは幸いにも丁度同じ材質の木が工房にあったことで、通常よりずっと早い期間で手元に戻ってきた。よく寝かせ磨きこまれた黒檀の表面板に虹色に光る白い螺鈿が施されている。弦は昔のものよりずっと進化した、音により深みの出る高級品に張り替えた。三千万は大袈裟かもしれないが数百万の価値は大いにある……つーか実は修理にそれだけかかったんだけど蔵馬には内緒だ。
ボロン……
一番低い音の出る弦をつまんでみる。深く空気を震わせて、柔らかな音が宙を漂う。
「いい音!」
さっきまで小馬鹿にしていた蔵馬が、驚いたように声を上げた。オレの正面に回り込み、あいつは興味津々の顔でオレに尋ねてきた。
「もしかして、お前それ弾けたりするの?」
「ん? さーな。」
すっとぼけてみせる。一応弦楽器と名のつくものなら大抵はこなせるんだけど、一つくらいこいつに秘密の特技があっても面白いんじゃないか……なんて悪戯心が頭をもたげている。蔵馬はオレの返事に呆れたように言った。
「じゃあ何でリュートなんか後生大事にしてるんだよお前。」
「だってオレと似てるから。」
「はぁ? どの辺が?」
「美女相手じゃないと本気出さない辺りが。」
蔵馬はますます呆れ顔になった。オレは知らん顔で美しい木のボディをずっと撫で回していた。正直言えばオレはこのリュート自体が「美女」だと思うんだけど……ふっくらした胴は成熟した女体を思わせる色っぽさ。ちょっと触れればいい声で鳴いてくれるし……おっと、楽器に興奮してたらタダの変態だ。
†
数日後……オレは再び財宝を保管している例の洞窟に来ていた。リュートと一緒に貰ったはずのバチを探しに来たのだが、そこでオレは見慣れない物を見つけて立ち止まった。
(…何だこれ?)
それは着物だった。大きな衣装掛けに白い薄衣の着物が掛けられている……淡雪のような半透明の衣に白い絹糸で刺繍が施してあるものだった。近づくとよく分からないが、少し離れてみるとどうやら桜吹雪の意匠のようだ。満開の桜の花が、風に吹かれて花片を落としている。
(高そうな細工物だな……百万はしそうだ。でも、こんなのあったっけ?)
この前の在庫整理の時に見た記憶がない。蔵馬が持ち込んだのだろうか。
(あいつ、着もしない服を買い込むのが趣味だからなぁ…。)
女らしいといえば聞こえはいいけど要するに“無駄遣い”……金をかけるところを間違ってるんじゃないだろうか。…と、オレはすぐその隣に漆塗りの小さな箱があるのに気がついた。紐が解けていてオレは興味をそそられ蓋を開けてみた。
(…何だぁ…?)
小箱に収められていたのは、着物同様半透明の布を張った大振りの扇子だった。香木で出来ているのか、広げると同時に辺りにふわりといい香りが漂った。布にはやはり桜の文様が縫い取られ、着物と対であることは明らかだった。が……オレが疑問に思ったのは絹の房飾りだった。扇を広げた左右の端から下がった二本の房飾りにそれぞれ三つずつ鈴が編み込まれている。こんなので仰いだらうるさいだけじゃないだろうか。
「あんま乱暴に触るなよ、オレの宝物なんだから。」
急に背後で声がしてオレは飛び上がった。振り返ると蔵馬が腰に手を当て突っ立っていた。
「…宝物って……お前いつこんなの買ったんだよ。」
「買ったんじゃない。里から持ってきたのを陰干ししてるんだ。」
「何、お前の“嫁入り道具”なのコイツ!?」
「誰がいつお前のトコに嫁入りしたんだっ!」
蔵馬が即座にツッコんだ。聞き流せない辺りがまだまだ可愛いところだ。ニヤニヤ笑いながらもオレはこの品の謂れについて更に尋ねることにした。
「…もしかして、例の領主サマと結婚する時の婚礼衣装だったとか?」
「アホ、そんなの家出した直後に売っ払ったよ。」
「じゃあ家族の形見だったり?」
「お前のペンダントじゃない。」
一応解説しておくと蔵馬は故郷にいた頃、隣村の領主と政略結婚させられそうになり逃走したという過去を持つ。逃げ出された男の方は当時はエラい恥かいただろうけど、長い目で見たら蔵馬と結婚しなかったのはきっと生涯最大のラッキーだったに違いない。このジャジャ馬 (狐だけど!) を飼い馴らせるのは魔界広しと言えどこの黒鵺サマくらいなもんだろう。いや、正直言ってオレにも全然自信はない……。
「これは、舞の衣装なんだ。」
そう言いながら蔵馬はオレの手から扇子を取り上げ、さっと開いた。
(…エ…?)
何故か蔵馬が扇を広げただけで、ぴん……と張り詰めた空気がその場に漂った。
……シャン…………シャランシャラン……
蔵馬は宙に手を延べて、扇ごとくるりと掌を返した。漂う甘い香りと耳に心地よい鈴のリズムにオレは一瞬我を忘れた。が……蔵馬はたった一度手を動かしたきりパタリと扇子を閉じ、元のように箱に収めてしまった。
「……あ……」
オレが我に帰った。
「…お前、踊れんの…?」
「ん? …さあ。」
蔵馬がオレを見て微笑した。ゾクリとするような、恐ろしく綺麗な笑顔だった。あいつは (いつもからは想像できないほど) 色っぽくオレにウインクしてみせた。
「…オレも、美青年の伴奏でしか本気出せないから。」
「……」
……非常に気になる発言ではあった。
†
数日後、蔵馬が留守してる時にオレは例のリュートを引っ張り出していた。向こうが留守番してることは多いけどオレが居残ってるのは結構珍しい。今日の蔵馬は幼馴染みの黄泉と会う約束があるとか言って朝から出掛けている。オレも黄泉とは前に会ったことがあるけど、昼間っから酒臭くガリガリに痩せた顔色の悪い男だった。あの男は初対面のオレになに勘違ってるのか「蔵馬はオレのモンだ」と言わんばかりの敵意剥き出しな視線をぶつけてきた。隣にいた蔵馬のヤツもまんざらじゃなさそうな様子で……まったく、あの女の趣味は分からない。
ザン……
軽く和音を鳴らしてみる。バチは無事見つかったんだけど (多少傷んでいたがこっちは高いものじゃないので自分で修理した)、指で掻き鳴らす音の方が好みで結局発掘したまま部屋に置き去りだ。ガランとした居間のソファに座り、オレは弦の調律を始めた。修理直後だからそうそう狂ってはいないと思うがやっぱり自分で確かめないと心配だ。
「……こんなもんかな?」
微妙にペグ (糸巻き) を動かし好みの音色になったリュートを膝に抱え、久々の感触を確かめるために簡単な曲を奏でてみた。故郷の童謡……オレと同じお里の女なら、ガキの頃この曲で鞠つきをしたことが一度はあるはずだ。……ワンフレーズ終わる頃には大分勘を取り戻してきたので、次は対象年齢を上げて街で今流行りの少ーしエッチな戯れ唄を鳴らしてみることにした。歌詞が命だから当然オレのボーカルつきになった。
「……ほれ見な通るよ、街一番の器量良しっ……」
……以下略っ。いくら部屋に一人でも素面 <しらふ> で唄うにはこっ恥ずかしくて途中で止めてしまった。蔵馬が聴いてたらすっごい顔で睨まれること間違いなしだ。けど、唄っていてオレは何となくあいつを思い出してしまった。省略した歌詞に出てくるのは真っ白な肌をした飛びきりのグラマー。それが夜な夜な違う男のベッドで……てな展開になるんだけど。
(…そういや蔵馬、今頃何してんだ?)
ふと、あいつのことが気になった。帰りの時間を聞いていなかったけど陽が落ちる前には戻ってくるんだろうか。まさか黄泉のベッドで尻尾…いや、腰を振ってはいないと思うが、一瞬そんなシーンを想像してしまいソワソワした気分になってきた。
(いや、別に誰もあいつらが“デキてる”とは言ってないんだけど……。)
頭を振って気色悪い想像を追っ払う。けど、“可愛くねーオンナ”も他の男の前では可愛かったりして……そんなこと考えて心臓が速打ちになってくる。何となく落ち着かない……まさかこの不安、“嫉妬”ってヤツじゃないだろうな?
…ジャーン!!
イライラしてきて思わず不協和音を鳴らしてしまった。いけない、楽器に当たるのは誉められたことじゃない。ふぅ…と溜め息をつき黒々と輝くリュートを眺める。今度はそっと弦に触れると、見事なフォルムの“美女”はオレの苛立ちをいなすように笑いさざめいた。
「アホか……女が気になる夢魔 <ナイトメア> なんて、“お伽噺”じゃねーんだぜ。」
自分に言い聞かせ、オレは気を紛らすために三曲目を奏でることにした。それは……オレの育った里に伝わる恋の唄だった。最初は規則正しいアルペジオが次第に崩れていく。その乱れたリズムに合わせて唄が乗っかる、実はとっても難しい曲。
『これはわざと崩すんだ。』
……そう教えてくれたのは死んだ兄貴だった。
『冷静でいられなくなるんだよ。惚れた女が自分をどう思ってるのか分からなくて不安に苛まれる、その様子を表しているんだ。』
今思えば兄貴も七つか八つのガキに随分マセたこと教え込んだもんだ。弟のオレが言うのもなんだけど、兄貴のリュートは本当に凄かった……口も達者だけど演奏も一流、鴉に聞いたところでは兄貴の弾き語りで落ちない女は一人もいなかったとか。兄貴はオレにこの唄を教えてくれた時、古語で書かれた詞がどういう意味なのかいちいち丁寧に説明してくれた。
『…で、女が去る日が近付いてくる。男はとうとう想いを打ち明ける決意を固める。色んな美辞麗句を考えたけど、結局男はリュート一本を手に女の窓辺を訪れる……。』
兄貴がリュートを弾くといつも周りに大勢のギャラリーが集まっていた。日頃「男なんかエネルギーの足しにしかならない」と嘲っている里の女共 (これは男も同じなんだけど……夢魔ってのはそういう生き物だ) がリュートを奏でる兄貴にだけは熱い溜め息を漏らしていて子供心に驚かされたものだ。
『……で、結局この話は最後どうなったの?』
大勢集まった女達の中、無邪気にオレが尋ねると兄貴はニヤッと笑って答えた。
『それは、奏者の腕次第さ。』
『?…』
『つまり、この唄の主人公は歌ってるヤツ本人……今ならオレってこと。演奏でオンナを落とせれば恋は成就したことになるし、ダメだったら失恋ってわけだ。』
兄貴が歌えばこの唄はいつもハッピーエンド…ということらしい。
『…あのさ、そもそも“恋”ってどういう気持ちのこと?』
まだ子供のオレが尋ねた。兄貴は一瞬きょとんとした顔をして、うーんと難しそうに考え込んだ。「あまりいい例えじゃないけど」と前置きし、兄貴はオレに逆に質問してきた。
『……お前さ、ダチと手ぇ繋いだりキスしたりしたいって思う?』
『思わないよっ。』
『ある時突然男は女に、女は男にそういう感情を抱くもんなんだって (例外もいるけど)。それが恋だ。』
『…そんだけ? 全然分かんないけど…』
『当たり前だろ。お前はまだガキだし、第一、夢魔 <ナイトメア> は元々そういう感情を持てないんだよ。』
兄貴はそう言いながらリュートを大切そうに撫でていた。
『……なんだけど、時々例外的に恋をしてしまう夢魔がいるんだって。この唄の主人公もそうさ。旅の踊り子にマジ惚れした夢魔の男が里の連中に馬鹿にされながら一途に想いを貫く……という昔の伝説なんだ。本当にあったことかどうかも分かんない“お伽噺”だけどな。』
それが、兄貴が語ってくれたこの唄の物語だった。……だけど、当時のオレはロマンチックな情景より“踊り子”という単語に過敏な反応を示した。
『…それって…もしかして、兄貴と鴉のこと?』
刹那、兄貴 (プラスその場のギャラリー全員) が固まった。目が点になっていた兄貴は一つ大きな深呼吸をして、オレの肩にぽんと手を置いた。
『……黒鵺……何処から聞いたか知らねーけど、命が惜しかったらその話、絶っっっ対鴉の前でするんじゃねーぞ。』
『何で?』
『いーからっ!』
肩にかかる手が急に重くなった。いつになく恐ろしい顔をした兄貴に怯え、オレはこくこくと何度も首を縦に振った。
……昔のことを思い出していたら曲は佳境に入っていた。狂ったように弦を掻き鳴らすクライマックスは難易度が高く、当時里では兄貴の他に弾けるヤツがいなかった。勿論オレも弾けるはずがなくて (そもそも指がちゃんと弦に届いていなかったんだけど) メロディを頭に叩き込まれただけだった。もしかしたら兄貴が弾いてたのとは二、三個音が違うかもしれない。そして……長い長い恋唄は終わり、室内に再び静寂が帰ってきた。
「……」
ふっと溜め息をつく……ちょっとだけ、唄の主人公の気持ちになってみる。兄貴は「主人公は演奏者自身」と言っていたけど、だとしたらギャラリーなしで演奏してる今のオレは見事な“一人相撲”ということになるんだろうか。
(練習だ練習、馬鹿らしい……。)
他愛ない思いつきを消そうと次の曲を弾く構えをした、その時。無人のはずの室内に人の気配を感じてオレは顔を上げた。
「! …蔵馬っ…!?」
入口のドアの前に、蔵馬が立っていた。……きっとその時のオレはかなり間抜けなツラしてたに違いない。擬音をつけるならやっぱり“ぽかーん”という辺りだろうか。
「…居たのお前!?」
「いや、帰ってきたばっか……だけど……」
答える蔵馬も“ぽかーん”という顔をしていた。
「……凄い……」
「えっ?」
「凄い凄い凄いっっっ…!!」
急に声を上げて蔵馬がぱっとソファに飛び乗った。ソファの上で四つん這いになり、あいつはオレの手元を覗き込むようにわさわさ近寄ってきた。
「凄いじゃんお前っ!! 何で今まで隠してたのさ!!」
「…聴いてたの!?」
「帰ってきたらすっごい演奏が聴こえてくるんだもの! 楽師でも呼んだのかと思った!!」
「……」
顔が紅くなるのが自分でもよく分かった。何処から聴いてたのか知らないけど、あの曲目じゃどれ聴かれても恥ずかしいことには変わりない。
「ね、もっと聴かせて!」
蔵馬が身を乗り出して頼んできた。
(うっ……。)
可愛い……見上げるようにしてオレの眼を覗き込む、その視線に何故かグッと来る。左にいた蔵馬は突然、右手でオレの肩に、左手でオレの太腿に触れた。艶っぽい仕草に脈拍が上がり、オレは柄にもなく上ずった声で尋ねた。
「…何だよお前、熱でもあんのかっ!?」
「ん、体温上がっちゃったかも……さっきの唄で。」
(唄!?)
マジかよっっ…!?
「まさか、全部聴いてたの!?」
「途中からだよ……だからさ、最初から聴かせて。」
「……」
呆気にとられ、オレは蔵馬をまじまじと見つめた。白い頬が心なしか上気し、黄金色の瞳が潤んで見える。
「……特別だぞっ。」
掠れた声でオレが囁いた。蔵馬は嬉しそうに「うん」と頷いた。
†
……演奏が終わり、オレはリュートを膝から下ろして深々と一呼吸した。再び静かになった室内で、テーブルにリュートが触れるコトリという音が響いた。いつの間にやら蔵馬は無言のまま、オレの傍らでぺたんとうつ伏せに横たわっていた。
「…蔵馬…?」
声をかけるとあいつはのそりと身体を起こし、オレにもたれる仕草をした。白魔装束の深い合わせから量感たっぷりの胸の谷間が覗き、オレは慌てて目を逸らした。
「…ダメ、とろけた……。」
「は…?」
思わぬ言葉にビックリして蔵馬を見ると、言葉通りあいつの視線はとろんと夢でも見ているようだった。それを見て思わずイった後の恍惚の表情……を想像し、内心オレはかなり動揺した。そんなオレの思考に合わせたように、蔵馬が吐息混じりの声で囁いた。
「…今日ならお前に何されても許せる……かも。」
「!! ……そーいうセリフはもっとオンナ磨いてから言えっっ!」
銀色の頭を小突きながら、真っ赤になったのを悟られないよう顔を背けた。背けながら、すげぇ……と自分で自分に感動してしまった。百戦錬磨、狙った女は百発百中の兄貴でもこれほどの上玉を釣り上げたことは絶対にないはずだ。最っっ高に可愛くねーと思っていた女狐が、ちょっと“おねだり”するだけでこれだけオレを緊張させる。蔵馬はとろけた身体を支えるようにそのままオレに摺り寄った。ヤバい……何とかしてこの状況を打開しないとっっ。
「……蔵馬、」
「何…?」
「ひょっとして“発情期”?」
「!!」
ドゴッッ!!
……夢から醒める強烈な左フックをみぞおちにモロに喰らってしまった。いってぇ……あー、やっぱり蔵馬はこうじゃなきゃ! ほっとした…けど、実は内心かなり勿体無かったりもして……。でも女に主導権取られるのはオレのプライドが許さない。すっかり拗ねてそっぽ向いてしまったあいつに、オレは機嫌を確かめるように切り出した。
「…あのさ、」
「何。」
「オレの特技も披露したことだし、今度はお前の特技…見せてくれない?」
蔵馬が振り返った。
「…踊れって?」
「あの……伴奏するけど。」
オレはリュートを持ち上げてみせた。じーっ……と蔵馬はオレの顔とリュートを変わりばんこに見つめていた。急に手を伸ばし、あいつがオレの頬に触れた。金の瞳が至近距離で射抜くようにオレを見据える。何だよ、緊張するだろっ? ……と不意に、あいつが微笑った。
(…!…)
ドキッ……とした。うあ……薄く笑っている表情が一番こいつを綺麗に見せる。例えようもなく妖しくて……悪女伝説を沢山残してる、“妖狐”という種族独特のゾクゾクするような美しさ。
「……ま、合格ラインかな。」
冷やかすように蔵馬が言った。その声で、魂奪われてたオレがようやく我に帰った。
「……えっ……?」
「言っただろ、『美青年の伴奏でしか本気出せない』って。」
「……!」
蔵馬は悪戯っぽく笑い、オレの頬に手を添えたままコツン…と額をオレの額にぶつけた。
†
まるで自然がこの時のために用意してくれていたような、平たい巨石の上。柳の木の下で今、観客ゼロの舞の演技が始まろうとしていた。石造りの舞台の下でオレはリュートを構え、風が止まるのを待っていた。目尻と唇に紅を差した蔵馬が、凪と同時に白い手を虚空に延べる。指先に半透明の扇を構え、あいつの視線は更にその先を見据えている。身体を包むのは淡い紫の着物の上に羽織った、あの朧のような桜吹雪の舞装束……散り際に色を変えるという薄墨桜を思わせる意匠が銀の髪の毛に映えてとても綺麗だった。…ぴたりと静止した美貌の舞い手が一瞬、ちらりとオレに目配せした。
ザンッ……
それを合図に羽根製のバチが弦を引っ掻いた。指奏の時より控えめな音が主役の舞を際立たせる。長い眠りから目覚めるように、じっとしていた蔵馬がゆるゆると歩みを進める。鈴の音がリュートに重なり不思議な共鳴を生み出している。微妙な音が少しずつ速くなっていく……まるで、あいつが作り出した幻の中にオレを誘うかのように。
…シャン……シャン…………
鈴が震える。舞い散る花片を追うように扇がゆらゆら揺れる。衣擦れの音までが耳に心地よい。艶やかな花の精霊の舞は天女のように優雅で、リュートの音さえ霞ませてしまうほど、圧倒的に美しかった。
(……桜の下で、見たいな。)
季節が違うので咲いていないけど、春になったらもう一度、桜吹雪の下でこの舞を見てみたい。花の幻に時を忘れて埋もれてみたい。……花が散っていく……花片の最後の一枚が、静かに静かに大地へと還っていく…………
……シャン……
…最後の鈴が鳴った。舞い終わり、銀髪の花の精は“現実の世界”に帰ってきた。
「……どう?」
「!…」
…しまった……完全に呑まれていた。
「……あっ……すげぇ………キレイだった…。」
慌てて感想を述べると、蔵馬はちょっと嬉しそうにはにかんだ。が…それも一瞬のこと。次の瞬間には蔵馬のヤツ、からかうような目つきに変わっていた。
「お前、途中で三度トチっただろ?」
「…う…」
痛いところを……。でもシャクだから「見とれてしまったんだ」とは口が裂けても言えない。それにしても、オレの予想をはるかに超えた見事な舞だった。
「…何処で覚えたの。」
「花嫁修業の一環で習った。」
蔵馬は舞装束のまま、無造作に舞台の下に飛び降りた。
「花嫁修業? とてもそんな“おままごと”には見えなかったけど……」
「筋が良かったらしくて免許皆伝されちゃった。着物もその時師匠に貰った。」
「…」
唖然としてオレはあっけらかんとしている相棒を見つめた。蔵馬は一番上に纏っていたあの半透明の衣を脱ぎ、軽く畳みながら言った。
「昔はさ、これ一枚で踊ったんだって。」
「え?」
「だから裸の上にこれ一枚で。」
ぶーっ!とオレが吹いた。
「何だそれっっ!! そんなスケスケで……」
「だから、適齢期の女がこれで婿を引っ掛ける……っていうのが流派の元なんだって。」
「…オレ、そっちの方が見たいかも…。」
「トチりが増えるからダメ。」
「……」
仰る通りです…ハイ。「誰かオレの代わりに伴奏してくれ」と願ってしまった。そのうちに蔵馬は薄紫の衣も脱ぎ去り、下に着たままだった白魔装束姿に返って言った。
「さっきの唄さ、良かったら……また聴かせて。」
「え…?」
「あれで踊ってみたい。振付け考えてもいい?」
「…ん…。」
頷きながらオレは、冗談めかして提案した。
「…オレ達さ、盗賊辞めてこれで食っていかない?」
蔵馬がけらけら笑い出した。くるくる変わる表情が眩しくて、オレはいつまでもあいつに見とれていた。
†
「……てわけでさ、すっげー楽しかった! ホントありがと。」
一週間後、オレは街中の酒場で鴉と顔を合わせていた。入手困難なレア物ワインを添えてオレは彼に例のリュートを返そうとした。…が、
「お前が持っていろ。約束したんだろう? また聴かせると。」
「…でも…」
「どうせ私は弾けないし、お前が鳴らしてくれるならこいつもその方が本望だ。」
そういって鴉はワインの瓶に手をかけ「こっちだけ貰っていくよ」と笑った。オレは「有難う」と、リュートを手元に引き取った。
「…鴉…オレさ、」
一段声を落として囁いた。それは……オレにとって、一大決心の告白だった。鴉が顔を上げた。
「ん?」
「……蔵馬に……本気で惚れてるかもしれない……。」
我ながら最後の方は消え入りそうな声だった。…鴉が怪訝な顔で瞬いた。オレが紅くなった。
「何だよっ、どーせ『夢魔のくせに変なヤツ』って思ってんだろ!?」
「…お前、今まで気づいてなかったのか?」
「エッ!?」
「私は最初から知ってたが。」
「……」
肘をついて鴉は呆れたような顔をしていた。絶句したオレに、鴉はグラスを軽く上げた。
「まあ、ようやく自覚したということで…おめでとう。」
「やめてくれっ、恥ずかしい。」
オレが遮った。鴉は空振りになった乾杯のグラスを一口だけ飲んでテーブルに戻した。
「私も見てみたかったな……その“桜の精”の舞いを。」
「ホント綺麗だったよ。あ…そうか、あんたその前に蔵馬に会ったことないんだよな? 今度紹介する。」
「いいよ、わざわざセッティングして貰わなくても結婚式に呼んでくれれば。」
「そんな予定はないっっ。」
鴉が笑い出した。ムッとしてオレは“必殺技”を繰り出した。
「……その前に、あんたと蔵馬で踊り対決させたら面白いかもしれないな?」
途端、鴉のこめかみに青筋が浮いた。
「…地雷踏むのと手榴弾喰らうのとどっちがいい?」
「どっちも嫌っっ。」
慌てて首を振る。鴉の髪の毛の裾が金色を帯びていたのはきっと気のせいではなかっただろう。今の彼はもう女と間違われることはないだろうけど、一度でいいから兄貴がアブない道に踏み込みかけたという噂の美貌を見てみたかった……なーんて。口にしたら手榴弾どころかスカッドミサイルが降ってきそうだ。
「……黒鵺、そろそろ出ないか。」
ようやく落ち着いた鴉が言った。
「エ? …この店お気に召さない?」
「いや、」
鴉が首を振った。
「私も久々にそのリュートを聴きたいんだ。…弾いてくれないか、よければ歌付きで。」
「…ああ。」
笑って頷き、オレはグラスに残っていた酒を飲み干した。
「男に聴かせるのは特別中の特別だぜ?」
「……本当にお前、紫そっくりになってきたな。」
さも嘆かわしそうに鴉が頭を振った。オレはくすくす笑いながら漆黒のリュートを抱え立ち上がった。
[完]