content-single-novel.php

One Day

 今日も蔵馬は一人だった。

 盗賊だというのに「定住の方が便利だから」と黒鵺が買い求めた、小さな居住空間。居間とそれぞれの個室の計3部屋に炊事場等の水回りがついただけの必要最小限のものだった。どうやってこんな好立地を見つけたのか知らないが、水場には温泉の湯まで引き込まれていて、確かにアジトとしては何の不満もなかった。が…実際はこの隠れ家に黒鵺がいる時間は少なかった。

「また時間オーバーか?」

 軽く舌打ちし、蔵馬はテーブルに置かれたゼンマイ式の時計を忌々しげに睨みつけた。10時まであと数分……目の前には冷めたスープとひからびかけたパンが、食べられるのを今や遅しと並んで待っている。ふっと息をつき、蔵馬はパンに手を伸ばした。これ以上はもう待てない。

 朝食は8時、朝帰りでも9時には戻る…それは今から約二年前、二人が生活空間を共にすることになった時、初めに交わした取り決めの一つだった。が、実際は破られることの方が多い約束だった。遅くなるなら一言断ってくれれば、自分一人の朝食くらい昨夜の残りで我慢したのに…馬鹿らしい。一応スプーンも並べたけれど一人の食卓で行儀よく振る舞う必要はない。蔵馬は両手で皿を持ち上げ、縁に唇をあてがってそのまま中の液体を胃に流し込んだ。が、その瞬間、美しい顔が不快に歪んだ。

「…不味いっ…。」

 料理は好きじゃない。手を抜いたのは確かだ。けど、温かいうちなら充分美味しく飲めたはず……蔵馬は眉をしかめて空になった木皿を洗い場に放り込んだ。食事当番は交代で行うというのも取り決めの一つだった。実際は二人して「どれだけ手を抜けるか」を競っていて、前の食事が余っていたらそれを温めて出すだけという駆け引きもまさしく“日常茶飯事”だったのだが……いずれにせよ、この取り決めを破るのもまた黒鵺の方が多かった。

 少なくとも洗い物だけは黒鵺にやらせよう。流しを振り返ることもせず、蔵馬はテーブル脇に無造作に置かれていた読みかけの古文書を手にしてクッションの上に寝転んだ。次の標的に定めた城の隠し部屋を記した暗号で、数日前に蔵馬と黒鵺はこれの解読を巡って賭けをしていたのである。

「先に解読した方が負けた方に欲しいもの一つねだれるってのはどう?」

 そう言い出したのは黒鵺の方だった。

「いいけど、お前オレに“頭”で勝てると思ってんの?」
「バーカ、面倒だからいつもお前に任せてるけど、たまにはオレの実力見せてやる。」
「あーそう、じゃあいいよ。オレが勝ったら『ルミリエ』の新作ジュエリー全部セットで買ってもらおっと。」
「使う予定も見せる相手 <オトコ> もねーのに何でそんなもん欲しがるんだよ。」
「余計なお世話だっっ!!」

 いつも黒鵺は一言多い。怒る蔵馬を見てニヤニヤ笑いながら

「そうだな、オレが勝ったら………まーいいや、ちょっと用事があるから出掛けてくる。」

 と、そのまま黒鵺は街へと出て行ったのである。それから三日…蔵馬でもてこずるような暗号を、黒鵺は全く解読しているそぶりはなかった。というよりもこの三日、彼が家に戻ってきたのは合計で五時間もない。お情け程度に顔を見せ、昼食を取ったらまた出掛ける…という日が続いていた。

「どうでもいいから、とにかく早く帰ってこいよっっ!」

 ちらりとテーブルの上を見る。時計は陰になってよく見えないがもう十時半を回ったようだ。一人きりが急に淋しく思え、蔵馬はクッションを抱えてうつ伏せた。

 一時間後…黒鵺が帰ってくる気配はなかったが、蔵馬はもう待つ気にはなれなかった。昼の太陽が差し込む部屋で、蔵馬は念入りに服を選んでいた。向こうが帰って来ないならこちらも出掛ければいいのだ。気づくのが少し遅かったが、とにかくこれ以上一人で部屋にこもっていても暗号解読がはかどるとは思えなかった。

「黒鵺はあんなこと言ってたけど、オレにだって綺麗な服や宝石を身に着ける権利はあるんだ。」

 今となっては蔵馬も黒鵺も魔界で五本の指に入る懸賞首である。二人揃うと悪目立ちしすぎるため、蔵馬が黒鵺と並んで街を歩くことは殆どなかった。が…時々外出先で鉢合わせしてそのまま一緒に過ごすこともないわけではなく、そんな時彼女が服やら宝石やらに目を奪われているのを黒鵺はいつも不思議そうに眺めていた。

「…本気になれば、その辺の女には絶対負けない。」

 言い聞かせるように蔵馬は着替えの終わった鏡の中の自分に向き合った。細い体に柔らかな紗の衣装をまとい、首には細い白金の三連のチェーン。滑らかな白い頬や薄く色づいた唇は、決して人工的に描いた表情ではなかった。…蔵馬は自分の恵まれた容姿をよく知っていた。その美貌ゆえに、故郷では政略結婚に送り出されそうになったこともある。だが、一つ屋根の下に住む男には何の意味もなかった……少なくとも、黒鵺が自分には見向きもせず外に女を買いに行っているのは事実だった。もしかしたら今頃も自分の知らぬ女と後朝の別れを惜しんでいるのかも知れない。

「……ああぁぁっ!! どうでもいいんだよあんな男はっっ!!」

 大きな声で叫んで蔵馬はぶんぶんと頭を振った。と、その時蔵馬は忘れてはいけない大切な装飾品・金髪のかつらを忘れていることに気づいた。銀髪の妖狐は珍しい。特に蔵馬のようなきらきら輝く銀の髪は妖狐だけでなく魔界中を探しても滅多にいない。黒鵺ですらその見事さには素直に感服していたが、逆にそれゆえ蔵馬を敵に狙われやすくしている代物でもあった。事実、一人きりで行動している時に賞金稼ぎに遭遇した回数は、蔵馬の方が黒鵺の五倍を軽く超えた。

 蔵馬は手際よくカツラを装着し始めた。殆どの妖狐は金の髪であり、金髪のカツラは目立たなくなるのに一番都合がいい。櫛で軽く整えた後、蔵馬は鏡台の前に置かれた瓶を手にした。それはごくごく薄い黄色の染料だった。冴え冴えとした銀がアンティークのような黄味を帯びる程度の色しか着かない上、その色もたった数時間しか維持できない。しかし耳と尻尾程度ならこの瓶の中身で誤魔化せる。

 …十分もしないうちに、一見しただけでは大盗賊・妖狐蔵馬とは決して分からない金髪美女が完成した。鏡に映る自分の姿を抜かりなくチェックした蔵馬は、満足の笑顔の代わりに小さな溜め息を一つつき家を出た。

 外は太陽が燦々と降り注ぐ快晴だった。人間界に近いこの辺りは魔界とは思えぬほど清浄な空気と明るい光に満ち溢れていて、蔵馬はこの街を歩くのが好きだった。特に心が曇り空のこんな日には。

「お、すげーいいオンナ!」

 街行く男達が皆蔵馬を振り返っていく。女達からは羨望と嫉妬の眼差しが刺さるようだ。自分では気づいていなかったが結局、変装しようが何しようが蔵馬は目立っていた。が、彼女に声をかける勇猛果敢な男はいなかった……今日の蔵馬があからさまに不穏なオーラをまとっていたためである。

「…折角出てきたけど、何しようか…。」

 一人きりの時間には慣れている。馴染みの店も増えてきた。蔵馬が訪ねて行けば食後のデザートと飲み物をおまけしてくれる料理屋もあるし、新作が入荷したらまず真っ先に彼女に着せたがる服屋もある。が、何となく今日は挨拶回りに行くのも鬱陶しい。外には出てきたものの沢山の人が行き交う街の中で自分だけ独りのような気がして、蔵馬は何となく眩暈を感じてしまった。

「ああもう嫌っ……」

 認めたくないけれどこの憂鬱の原因はやはり、いるべき男がいないせいなのだ。いつもと違う……今までは、多少帰りが遅れても午前中には必ず帰ってきていたのに。しかも、朝帰りを連続でしたことは同居を始めてこの二年間、只の一度もなかった。

 相棒の今の居場所について色々思いを巡らせていたその時、蔵馬の脇を少し疲れた顔をした、化粧の濃い女が通り過ぎた。昼の街に似合わぬ露出の高い装いに、思わず蔵馬は振り返った。

「…あの女…もしかして……」

 きっとこの通りの三本南にある花街で春を売る仕事をしているのだ…と、蔵馬は判断した。行ったことはないが、黒鵺が“食事”と称して月に二、三度女を買いに行くのはその辺りだと聞いている。よもやこの女が黒鵺の…とは思わないが、女はこれから短い眠りを貪り、夜になれば再び化粧と際どい衣装で武装して通りに立つのだろう。夜の顔は知らないが、少なくとも昼間の太陽の下でその姿はひどく滑稽に映った。

「……あんな女達の、何がいいワケ?」

 本人に聞こえないように注意しつつも、苛立った声で蔵馬は呟いた。かつて実際、この疑問 (というより苛立ち) を黒鵺に直接ぶつけたことがある。黒鵺の答えは明快だった。

「恋愛感情が絡まなくて楽だから。」

 絶句した蔵馬に黒鵺は更に続けてこう言った。

「女を愛せないヤツに惚れたら女も気の毒だろ?」

 …それからしばらく蔵馬はひどく落ち込んだ。“夢魔は異性を愛せない”、それは魔界の常識でもある。が、改めて黒鵺が女という生き物を“食い物”としてしか見ていないことを知って、蔵馬は自分の性を呪った。それを「自分以外の女に入れ込むこともないんだ」とやや前向きに考えられるようになるまで二ヶ月はかかった。そしてその二ヶ月が過ぎてからも、表面上は何も変わらず黒鵺の「良き友」「良き相棒」を演じ続けている自分の二面性に蔵馬はいささか嫌悪感を覚えたりもしたのである。…それなのに。

「……まさか、本気になった女が出来たんじゃ……」

 異性を愛してしまった夢魔の伝説がないわけでもない。不穏な朝帰りの理由はそれくらいしか思いつかなかった。疑い出したら切りがない。もし黒鵺にそんなことを告げられたらまさに悪夢だ。そして、蔵馬はそんな悪夢がすぐ隣まで来ているような恐怖を感じていた。

 気づけば蔵馬は雑多な露天街を抜け、街の中心の広場に辿り着いていた。公園と呼べるほどには整備されていないが、芝生の上を家族や友人達、恋人達が思い思いに陣取って語らいの時間を共有している。…この街は平均して裕福だった。まさに“オアシス”…荒涼とした魔界の中で一際異常なユートピアだった。この地域を囲む砂漠や山脈を一つ越えれば、周辺の国や集落は貧困に喘ぎ“間引き”や“姥捨て”、ひどい場合は“食い合い”すら日常的に行われているというのに。それを蔵馬は黒鵺に聞かされたのである。

「…平和惚けって怖いよな。」

 黒鵺の何気ない一言が妙に蔵馬の耳に残った……そう、そういえばそんな会話をしたのはこの広場だったっけ。

 蔵馬は人の輪を避けるように、木陰の薄暗がりに座り込んだ。と、不意にその目の前に男の影が立ち塞がった。

「よぉ、そこのカ・ノ・ジョ。」
「!」

 目の前に立っていたのは何と、黒鵺だった。

「…黒鵺っ…!」
「何やってんだよ、そんな似合わねーカッコして。」
「!」

 カチンと来た…というより、傷ついた。ダメージが大きくて言い返す気力もない。ぐっと我慢して俯いた蔵馬の隣に、黒鵺は何の断りもなく座り込んだ。蔵馬は少し顔を叛けたが、黒鵺はその行動を無視して話し掛けた。

「金髪より、やっぱ銀の髪の方がイメージなんだけど。」
「…えっ?」
「んな微妙な変装しないで、たまにはもう少し堂々と街歩いたら?」

 何だ、黒鵺は髪の色の話をしていたのか…少しほっとして振り返ると、黒鵺はじっと蔵馬の顔を覗き込んでいた。その眼が僅かに笑んでいる。蔵馬は自分の頬が薄赤くなるのを感じた。本人曰く、この瞳が今や魔界中の女を虜にしている…のだとか。

「折角綺麗な色してんだし、銀髪のままでいいじゃん。それにその方が“妖狐蔵馬”が女だってことアピールできるんじゃないの。」
「別にそんなことは知られてなくてもいいんだよっ。」

 実は魔界中で蔵馬が女だと認識している者は少なかった…隠しているわけでもないのに、女の盗賊がここまで有名になった前例がなかったためだった。

「でも、その方がオレも有り難いし。」
「え?」
「お前って何だかんだ言って美人だしさ。お前が女だって知られて、しかも『オレの』オンナだと勘違いされた方が変な女もあまり寄って来なくなるだろ。助かるなって。」
「…なっ…」

 美人、の一言はちょっと (いや相当) 嬉しいが、理由が今ひとつ納得行かない。

「そんなに女が嫌いなら、女のいない世界に行ってしまえ。」
「無理だって! 女がいなきゃ生きていけない。」
「…これだから夢魔ってサイテー。」
「そう言うけどさ、妖狐だって妖怪になる時は男とヤってエネルギー吸うんだろ?」
「オレは生まれつき妖狐だから関係ありませんー。」
「何だよ、『私は純潔です』なんてフリして。」

 本当に何も知らないと言ったら、この男はどんな顔をするだろう。…と、蔵馬はふと思い出した。すっかり忘れていたが黒鵺には問い詰めなければならないことがあったはずだ。

「…そういや黒鵺、お前今日まで何してたわけ?」

「“何”って、何?」
「ずっと家を留守にして、昼に飯食いに帰ってくるだけで…もう三日目だ。」
「エ? ああ、それね。」

 黒鵺は懐から折り畳まれた紙を取り出し蔵馬に差し出した。彼の服装は仕事時の服装ではなくラフな麻のシャツだった。この男が胸元の大きく開いた服装ばかり好むことに蔵馬は最初疑問を感じていた。今ではそれが、いつも肌身離さぬ銀製のペンダントを隠さないようにするためだということを知っている。

「…あっっ!!」

 紙を開いて蔵馬は息を飲んだ。あまり大きくない、今で言えばA4サイズ程度の紙に書かれていたのは、黒鵺の几帳面な字と図面でしたためられた城の見取り図……例の暗号の解答だった。

「オレの勝ちでいい?」

 涼しい声で黒鵺はそう言った。

「嘘っ……」
「どうやって解いたか訊きたい?」

 蔵馬はこっくりと深く頷いた。黒鵺はニヤニヤ笑っていた。

「じゃあヒント。今回は“暗号を解く”こと自体を目的に取り組みました。」
「…はぁ?」
「だから、“城に安全に忍び込む”のが暗号解読の目的じゃないわけ。」
「……分からない。」
「簡単さ、答えは“直接城まで見に行った”、です。」
「何だって!?」

 思わず蔵馬が叫んだ声に、広場に集まっていた住民達が皆振り返った。

「しーっ! 静かにしろって!」
「阿呆!! 何でそんな危ないマネを一人でっ!!」
「危なくねーよ。あの城はこの前忍び込んだ蒼闇宮と設計者が同じなんだぜ。罠 <トラップ> まで同じもん揃えてあってスゲー拍子抜け。」
「そういう問題じゃない!! 万一見つかって殺されたらどうするんだ!!」
「一回忍び込んで無理そうだったら『ルミリエ』まで宝石買いに行こうと思ったけど。」
「バカかお前はっっっ!!!」

 あまりの黒鵺の無謀ぶりに、蔵馬はそれだけ怒鳴るのが精一杯だった。この三日、女の影を疑っていた自分があまりに情けなかった……いや、侵入先で捕まるよりはそちらの方がよっぽどマシかもしれない。

「まあまあ、悪かったって。」
「悪いと思ったらもっと真剣に謝れっ!!」

 半分泣き出しそうな顔の蔵馬を見て、黒鵺は苦笑いして肩をすぼめた。

「…心配かけて済みませんっ。もう一人で危ないコトしませんから。」

 黒鵺はあっさり自分の非を認めた。しおらしい言葉に蔵馬もようやく落ち着きを取り戻した。

「………で、オレは何を払えばいいの。」
「賭けの金? …いいよ、余計な心配させたみたいだし。」
「阿呆、それだけ危ないことしてきてタダなんてそれこそ大バカだ。」

 黒鵺が微笑んだ。この男の笑い方は絶対に“優しい笑顔”という種類のものではない。少し皮肉っぽくて、悪戯っぽくて……蔵馬の眼にその笑顔はどうしようもなく魅力的に映った。しばらく考えて黒鵺は、蔵馬の反応を確かめながら控えめに提案した。

「…じゃあさ、今日の残り半分オレに預けてくれよ。デートしよう。」
「デート…?」
「珍しく女らしいカッコしてんだしこのまま帰ったら勿体ないだろ。まあ、まずはそのうざったい金髪やめてさ。」

 黒鵺は蔵馬の肩に手を伸ばし、無造作に金の髪の毛を引っ張った。それはするりと滑り落ち、下から陽の光を反射して眩しく輝く銀色の髪の毛が零れた。……その瞬間、黒鵺が眩しそうに眼を細めたことに、蔵馬は気づかなかった。

「何すんだよっ!」
「いいじゃんか、お前だって本当は変装なんてうざいだろ。」
「でも誰かに見つかったら……!」

 蔵馬は落ち着かない様子で周囲を見回した。が、最初に木陰を選んで座ったために、この美しい銀髪の持ち主が有名な盗賊と気付いて騒ぎ立てる無粋な者達はいないようだった。黒鵺は周りに気を取られている蔵馬の隙を見て手を伸ばし、白銀の髪を一束すくい上げた。

「何だよっっ。」

 …少し焦って声が上ずってしまった。お構いなしに黒鵺は、手に取った蔵馬の髪をしげしげ眺めていた。

「なあ蔵馬、これって遺伝?」
「…違う、オレの親はどっちも金髪だったって聞いてる…もう顔も覚えてないけど。」
「ふーん、特別変異かぁ…残念。」
「何で。」
「お前の子供がこの銀髪を受け継がない可能性もあるってことだろ。」
「オレの子供!? 何でそんな話…」
「いやさ、自分の子供がもし女で、しかもこんな銀髪だったらすげー可愛いだろうなぁと……いつかお前にオレの子供でも作らせてみようかと思ってさ。」
「は……!? …ばっ……バカかお前はっっ!!」
「その台詞さっきも聞いたような気がするんだけど、お前の口グセ?」
「お前がバカだからだっっっ!!」

 ムキになる蔵馬を黒鵺は面白そうに眺めていた。ニヤニヤ笑うその顔がたまらなく憎たらしい…なのにその表情こそが、自分と同い年の黒鵺を少し大人びて見せているのも事実だった。黒鵺は立ち上がり、服についた草や砂を払った。

「さあ行こうぜ。一番街にちょっとうまい料理出してくれる店が出来たんだ。昼飯まだだろ?」

 そういえばあの冷めたスープを飲み干してから四時間、何も口にしていない。黒鵺は貴族の令嬢でもエスコートするかのように手を差し出した。その手に掴まり蔵馬は立ち上がった。温もりが心地よくて、蔵馬の顔にようやく笑みが浮かんだ。

「…やっぱり慣れてる。」
「何に。」
「女の扱いにさ。」
「何だよ、今日はやけに噛みつくなぁ。」

 そう言いながらも黒鵺の眼は笑っていた。深い紫が綺麗だと蔵馬は思った。黒鵺は蔵馬に肩をすくめてみせた。

「別にオレは女に優しいワケじゃねーよ。今日は特別。」
「本当か?」
「ホントホント、連れが特別だから。」

 黒鵺は蔵馬に、飛び切りの笑顔でウインクしてみせた。

 …“特別”の意味するところ何処なのかは知らない。けれど、蔵馬にとって黒鵺がそうであるように、黒鵺にとって蔵馬は他の誰よりも“特別”なのだ。それを直接彼の口から聞けた、今日という日もまた“特別”……何の気なしに蔵馬はそんなことを考えた。午前中は曇り空で、雨まで降り出しそうで、でも午後からは快晴の一日。

「…でも、今夜から三日間はお前に食事当番してもらうからなっ。」
「えっ!? いやちょっと待てよ、それはっ……」
「お前の留守中もオレは毎食二人分準備して待ってたんだよっっ!」

 冷え切ったスープの惨めな味を思い出し、心の中で蔵馬は「それとこれとは別の話だ」と切り分けた。

[完]