潮の香りを含んだ風が悲しげな泣き声を立てて滑ってゆく。鬱蒼とした森に囲まれた、時忘れの朱の花が咲き乱れる野に、男が一人立っていた。蝋のような白い貌、時折風に煽られて揺れる漆黒の髪。存在自体さえどこか危うい美貌の持ち主の手に、今、一本の朱い花……
†
「勝ち上がったな、予想通り。」
豪華な内装のスイートルームで最高級のワインを片手に呟いたのは、暗黒武術会の優勝候補筆頭・戸愚呂チームのオーナー左京だった。ゲストとして招かれた浦飯幽助とその仲間達がつい一時間ほど前、一回戦で六遊怪チームを破ったばかりだった。
「なかなか楽しませてくれるゲストじゃないか。人選は間違っていなかったな。」
「ええ。」
傍らで左京に相槌を打ったのは、チームの実質的な大将・戸愚呂弟だった。
「しかし、あのチームでは所詮我々の敵にはならんでしょうな。壁を壊すような、画期的な力の源が出てこない限り。」
「力だと?」
「今の状態でこれ以上のパワーアップを見込めるのは飛影のみ。浦飯はまだ霊光波動拳の正式な継承者とは程遠く、桑原も我流の技では今が限界。蔵馬は内在している能力に比べ、肉体が弱すぎる。そして、覆面こと幻海は言うまでもない。」
「ふ、つまらんな。」
「だからこそ、彼らだけでなく私も期待しているんですよ……“Break-Through”をね。」
そう言って戸愚呂はポケットの中の手をサングラスを直すために顔へ移動させた。左京はワイングラスを揺らしながらふと呟いた。
「そういえば、我々のチームの残り一人はまだ来ていないのかね。」
「おや、先程共に浦飯チームの試合を観戦していたのですが…挨拶に来てないんですか。」
「ああ。全く……相変わらず、チームワークのかけらもない。」
「本当に強い者に団結などと言うものは必要ありませんよ。」
左京は戸愚呂の言葉に微笑した。
†
風の冷たい夕暮れ時。何時間そこに居座っているのか……男は朱い花に埋もれたまま、まるで花に同化するかのようにじっと風に吹かれていた。
(死人花は、死を暗示する花……)
血の紅よりも毒々しく、見る者を魔性の淵へと引きずり込む妖しい花。ほんのひと時華やかに咲き、あっという間に色褪せてしまうこの花に、男は忌むべきものと念じながらも強い愛着を抱いていた。
(時忘れの花よ、次は誰の死を願う…?)
心の内で花に問うてみる。朱の花は無言で、しかし雄弁に誰かの死を暗示する。
(……願わくば、次こそは私の番で……。)
そっと眼を閉じる。花の朱が瞼の裏で、血の色と重なる。
†
『…お前ってさぁ、もうちょっと明るい予言できないの?』
遠い昔、男がまだ“死”に魅せられる前のこと……黙々とカードを捌く彼の目の前で憎まれ口を叩いていたのは、今は亡き彼の友人だった。
『戦が始まるとか、病気が流行るとか、確かによく当たるけど……そんな未来ばっか見せられちゃ人生に絶望したくなってくる。』
『悪かったな、そういうのしか見えなくて。』
『別に悪かねーけど、暗い予言するなら解決策も一緒に提示しろって言ってんの。』
そう言いながら友人は、男の占いの道具であるカードを弄んでいた。男がそれを見咎め慌ててカードを取り上げた。
『触るなっ。お前が触ると霊感が落ちる。』
『別にいいじゃんか。嫌なことばっかり見えるくらいなら、未来なんて分からない方がいい。』
屈託なく笑う友人はまるで男と対照的だった。彼はどんな苦境の中でも明るく前向きな青年だった。何処か影の方ばかり向いて進んでいくようなところのある自分を、彼がいつも光の方へ引き戻してくる……自分でも気付いていなかったが、男はこの友人に救われていた。そう……今思えば、千年近い生の中で“親友”と呼んでいい数少ない友人だったろう。
『そうだ! いいこと思いついた。オレのこと占ってみろよ。』
『…お前を?』
友人の申し出に、男は不思議そうな表情をした。友人は笑顔で頷いた。
『どうせお前のことだから、オレについても嫌な未来しか見えないだろ。でもオレがそれを避けることが出来たらどうする?』
『…どうするって…』
『お前が告げた悪い運命をオレが全部避けてみせる。そうすりゃオレが、お前の占いに勝つ方法を知ってるって証明になるだろ。』
『…?』
『そしたらさ、オレ達で新しい商売始めようぜ。やって来た客にお前が占いで「これからこういう危険がありますよ」って注意する。で、オレがその隣で解決策をアドバイス。どう、無敵の人生アドバイザーコンビ結成だぜ?』
『…何だって!?』
『あーよかったぁ、盗賊稼業はやっぱ性じゃないし別の金儲け考えてたトコなんだよなオレ。』
唖然とした男の前で、友人はくすくす笑い彼の肩を叩いた。
『さー矢でも鉄砲でもどんと来い、始めようぜ。』
『……』
呆れた溜息を交えつつも男は言われるままにカードを切り始めた。
(本当に不思議だ……いつもお前は、私を楽にしてくれる。)
カードを捌きながら、男は目の前に座る友人へ意識を集中した。彼は、流浪の民の中で育ち仲間の死ばかりを目の当たりにしてきた男が初めて心を開いた同年代の友人だった。迷いの多い自分にとって彼こそが唯一確かな道標に思えた。この交流が途切れる日が来ることなど考えられもしなかった。……が………
『……』
男がカードを並べ、一枚ずつ表に返していく。色とりどりの絵柄が友人の辿る今後半年の運勢図を描いていく。淡々とカードの示すものを読み取っていた男の手が、ふと宙で止まった。
『…!』
『…どうした?』
友人が不思議そうに尋ねた。男は強張った顔を隠すように俯き、自ら結果を否定するように頭を振った。その震える指先に、鮮やかな血の色をした花のカード………“死人花”は名の通り、友人の“死”を暗示していた。
『……克てよ……お前の運命に、絶対……!』
今まで一度たりとも外れたことのない、死の暗示。珍しく取り乱す男に友人は困惑しながら約束した。「運命には敗けない」と。……が……悲しい予言は、現実の物になってしまった。
†
「あーあ痛々しい…折角の綺麗な顔が台無しじゃんよ。」
浦飯チーム陣営の女性陣が固まって宿泊している部屋で、蔵馬の顔の傷を眺めながらまるで自分のことのように溜息をついているのは温子だった。
「どうしちゃったの? 途中でいきなりあんなヤツの言いなりになってさ。」
「いや…ちょっと。」
肩をすくめ、蔵馬は自分で調合した薬を頬の刀傷に擦り込んだ。家族を人質に取るという卑怯な呂屠のやり口も、所詮彼女にとって何の脅しにもならなかった。
「…ま、いきなり倒すのも気の毒だから手加減してやったんですけどね。」
「さっすが! 全く、うちの和真とはエラい違いだわ。」
「ねえ蔵馬クン、そういやあたし達出場チームのこともよく知らないけど誰が強いの?」
温子に質問され、自らの治療を終えた蔵馬は小首を傾げた。
「うーん…オレ達も実は戸愚呂兄弟以外の選手はよく知らないんですよね。人間界に強い妖怪はあまりいないから、名前の通った連中なら参加してる可能性は高いんですけど。」
「パンフレットとか準備してくれりゃいいのにねぇ。ちょっと大会本部、不親切じゃない?」
「唸るほど金持ってんだからそんなところでケチらなくたっていいのに。」
お気楽な女性陣の会話に苦笑しながら蔵馬は立ち上がった。螢子が振り返った。
「蔵馬さん、どちらへ?」
「…ちょっと散歩に。」
「気をつけてよ! 変な連中がウヨウヨしてるんだから。」
「大丈夫ですよ。」
心配してくれた静流に笑顔で応え、蔵馬は部屋を後にした。廊下を抜け、コソコソ陰口を叩く野次馬へ脅しにも似た殺気を投げつけながら彼女はホテルの外へ踏み出した。
(さてと…今のうちに“植物採集”でもしておくか。)
妖力の弱い今の自分では、戦闘中の消耗で人間界の植物召還さえままならなくなる可能性がある。種さえ確保しておけば何もないところに“呼び出す”よりは武器化がはるかに楽になる。…森へ分け入り、彼女は躊躇うことなく奥へと歩みを進めた。
(少々勝手が違うな…この島の植生は。)
自分の現在の住まい周辺ではなかなか見かけない植物があちらこちらに生えている。しかし蔵馬は、それだけには留まらないもう一つの「違い」に気づいていた。
(“春”の植物じゃない…。)
学生である自分や幽助、桑原の春休みに合わせたようなこの大会。なのに今彼女の周りに生えている植物は季節感に少々欠けていた。夏の植物、秋の植物……あまりに節操のない多種多様ぶりに、蔵馬は苦笑しながらも内心有難いと喜んだ。種を一粒、芽を一株、少しずつ“お裾分け”を貰いながら彼女はどんどん森の奥へと踏み込んでいった。
不意に彼女は、目の前に明るい陽射しが降り注いできたのに気づき顔を上げた。
「あ……!!」
思わず声を上げ、蔵馬は足を速めた。木々が途切れ急に開けた視界の中に、広大な“海”が広がっていた。紅く紅く燃える、花の海。
(彼岸花……!?)
朱の炎一つ一つが、鮮やかに燃える彼岸花だった。季節を忘れた花の群生に分け入り、蔵馬は指で触れた。
(何て綺麗!)
ここまで見事な群生は滅多に見られない。殺伐とした島の中で朱の花は一際悲しげに燃える松明のようだった。そういえば彼岸花の花言葉は確か、「悲しい想い出」ではなかったか。
――魔界でも一度だけ、こんな光景を見た――
花の炎は蔵馬の脳裏に遠い昔の記憶……“悲しい想い出”を呼び起こした。忘れることのない、あの風景。花の海の中で向き合っていたのは、かつて命を賭して愛したひと。切なげに自分を見つめていた、懐かしい面影だった。
(あれからもう、千と百年ほど。なのに、今でもこんなに悲しい……)
あの光景を眺めてからひと月も経たぬ内に去っていった“彼”のことを、今でも忘れられない。想いを完全に通わせられぬまま引き裂かれたことが、千年経っても悔やまれて仕方ない。
「……黒鵺……」
千年恋焦がれた“名前”を口にしてみる。彼女の心の波風に応えるように、朱の炎がさざめいた。
――その時。
「!?」
少し離れた場所で、黒い影が一つ揺れた。驚いて顔を上げた蔵馬はその影を見咎め、あっと声を上げた。
「“鴉”っ……!?」
風が人影の黒髪を舞い上げた。ぐっ…と蔵馬は唇を噛んだ。“鴉”と呼ばれた人影は、蔵馬の姿を認めると五メートルほどの至近距離まで近づいてきた。
「久しぶりだな、蔵馬。」
「まさか、こんな場所で会えるとは……捜していたぞ、鴉!」
蔵馬の身体を包むように激しい妖気が燃え上がった。鴉はしばらく彼女の顔を見つめ、小さく呟いた。
「ハンターに追われ人間に憑依したと聞いていたが……フ、それがお前の新しい肉体か…。」
「貴様が何故ここにいるんだ!」
「暗黒武術会に呼ばれたのだ。」
「何だと…?」
「左京という男に雇われて来ている。…そういえばお前も“ゲスト”だったな。」
「……!」
まさかこの男が戸愚呂達のチームにいたとは。蔵馬はぐっと拳を握り締めた。彼女にとって、鴉は憎むべき相手だった。黒鵺の亡骸に屈辱を与えた男。それ以後ずっと、自らの運命を影で掌握し続けてきた男。面と向かって対峙するのは数百年ぶりだったが、恐らくその間もこの男は陰から自分の生を好奇の目で愉しんできたのだろう。
「お前はようやく、自由になる機会を得たのだ。」
静かに呟いた鴉の言葉に、蔵馬は握った拳に更なる力を込めた。
「お前が私を倒すか、それとも私がお前を殺すか。いずれにせよ、この因縁が切れる時が来たようだ。もっともその脆弱な肉体では、私の支配を逃れることなど叶うべくもないが。」
「何だと!?」
「せめて私を失望させるなよ。上がってこい……決勝まで必ず。」
鴉はとん、と自分の胸を叩き蔵馬を誘った。顔の半分をマスクで覆い表情の殆どを読み取れなかったが、その瞳は何処までも静かな紫色だった。
†
『大事なヤツが出来たんだ。』
鴉が友人・紫を失ってから十年近く過ぎたある日のこと。晴れやかな笑顔で彼にそう語ったのは紫の弟・黒鵺だった。
『…オンナか?』
『いや、まあ女には違いないけど…そうじゃなくて“親友”。あ、“相棒”かな?』
薄暗い酒場で酒を飲むような歳になった黒鵺は、ちょっとした仕草の一つ一つが誰に教わったのか亡兄そっくりに育っていた。石細工の杯になみなみ注いだ葡萄酒を口にしながら、彼は鴉に新しい友人のことをさも嬉しそうに語り始めた。
『最高のパートナーだぜホント! 頭は切れるし腕も立つし、何よりオレとピッタリ息が合うっていうか…オレの考えること何でもすぐ分かってくれるから一緒にいて気持ちがいいんだ。おまけに目の醒めるような美人でさ、性格は全っ然可愛くねーけど実はそんなトコもオレ好みだったりして。』
『やっぱり惚れてるんじゃないか。』
『違うって! あいつが男だろうが女だろうがオレ達は親友になってた。絶対!』
『…そうか。』
思わず鴉の口許に微笑が浮かんだ。黒鵺はまくし立てるように相棒の話を続けた。
『蔵馬っていってさ、銀髪の妖狐なんだ。珍しいだろ? 髪の毛も凄いけど眼も金色でさ、もう人形か何かみたいに綺麗なんだ。更に言えばムダに超ナイスバディでさぁ…今一緒に暮らしてんだけど、オレいつまで理性持つかなぁ? でも仕事の相棒だからヘタに襲って気まずくなるのも困るし…』
『…今止めなければ何時間でも喋っていそうだな、お前は。』
『えっ? …あっ、ゴメンっっ!!』
紅くなって慌てて話をやめた黒鵺に、鴉は笑って酒を注いでやった。
『まあいいさ、今夜は真実の愛を見つけたお前に乾杯だ。』
『やめてくれって! ベタ惚れてんのは認めるけど、オトコとオンナの関係じゃない。本気だからこそ、そういう関係にしたくないんだ。』
否定しながらも黒鵺はまんざらではない様子だった。笑顔で注がれた酒に口を付けた彼を、鴉は穏やかな眼差しでじっと見つめていた。
黒鵺が兄を失ったのは、彼がまだ八つの頃だった。兄・紫は腕の立つ妖術師だったが、戦で疲弊した里のために気の進まない盗賊稼業に手を染めていた。その首に掛かった懸賞金を目当てにあろうことか里長に裏切られ刺客を向けられたのだった。
兄を殺され、命からがら里を脱出した黒鵺を成人するまで庇護していたのは鴉だった。戦闘訓練を施したり生きるために必要な知識を与えたり、紫が存命ならば弟にしてやっただろうと思えることを、彼は全て黒鵺に与えた。それは決して黒鵺のためだけではなかった。いつしか友の代わりを務めることこそが、鴉自身の“生きる理由”となっていったのである。
(ようやく、黒鵺の瞳から翳が消えた。)
兄を襲った下手人とそれを雇った里長に復讐を果たしてからも、黒鵺は何処か捨て鉢な生き方をしていた。わざわざ兄の命を奪った盗賊稼業に身を染め、無謀とも思える挑戦を繰り返す日々が続いた。…その黒鵺が、ようやく心から笑っている。
(見つけたんだな。お前はお前自身の“生きる理由”を。)
例え自分の手を離れても、今の鴉にとって黒鵺が“生きる理由”であることに変わりはなかった。自らも杯を傾けながら彼は安堵と少しの寂しさを覚えふっと笑った。
†
「何処行っていたんだお前?」
ホテルの室内に戻ってきた鴉に、ソファの上でいかがわしい雑誌を広げながら話しかけたのは戸愚呂兄だった。
「左京さんに挨拶もしないなんて、後でどうなるか分からねぇぜ?」
返事さえ面倒と言わんばかりの態度で、彼は戸愚呂兄から一番離れた席へ腰を下ろした。鴉はこの下劣なチームメイトを疎んでいた。弟の方の闇を求める生き方には何処か共感を覚え惹かれていたが、兄だけならば決して軍門に下ろうとは思わなかっただろう。
「おい鴉、左京さんの機嫌一つで弟が手を下すかもしれないんだぞ? 悪いことは言わねえぜ。」
「言っておくが、私が本気でやればお前達など一瞬で粉になる。お前達の言うことを聞いているのは金になるから…それだけだ。」
「ひゃはは、口だけなら何とも言えるからな。」
鴉が戸愚呂兄弟より強いのは事実だった……霊界のランク付けを借りれば戸愚呂弟がB級、鴉はA級だった。蔵馬を追って人間界に渡って以降、彼が真の力を発揮したことはなかった。強力な妖怪ほど霊界にマークされやすい。十数年前この兄弟に敗れたのも、人間界で目立たぬように徹した結果だった。
再び雑誌に向き合った戸愚呂兄の前で、鴉は懐から何かを取り出しテーブルに並べ始めた。戸愚呂兄が顔を上げた。
「何だ? …カード?」
テーブルの上に並び始めたのは、年季の入った紙のカードだった。
「…占いでもしてんのか? 相変わらず根暗な野郎だな、へへへ。」
「…」
冷やかしを黙殺し、鴉はカードを並べ続けた。上に五枚、下に五枚並べたところで鴉はカードを順に表に返し始めた。
「!」
戸愚呂兄が息を飲んだ。カードの図柄は、不吉な紅い花……“死人花”の異名を持つ、彼岸花の姿だった。上の五枚のうち二枚、下の五枚の内一枚が上下正しく並んでいて、残り全ては逆位置だった。
「…何だお前、そのカードは何だ?」
「死人花は“死”の暗示。正位置のカードが死者を表す。」
「あ…?」
「決勝で、私達のチームに二人の死者が出る。左京も入れた、五人の中でだ。」
「何だと!?」
戸愚呂兄が身を乗り出した。
「ちょっと待て、相手は…?」
「一人だ。決勝に残るのは多分ゲストの浦飯達だろう……とすれば、恐らく死ぬのは幻海だ。」
「…!」
戸愚呂兄はしばらく信じられないような表情でカードを眺めていたが、そのうちニヤリと笑った。
「ヘッ、オレは何があろうが生き残るぜ。テメェこそ自分の身を心配するんだな。」
「…ああ……ようやく死ねるのかもしれない。」
「何だと?」
カードを掻き集め鴉は立ち上がった。そっと窓に寄り、彼は森の方へ視線を投げかけた。視界の端に朱の炎が……彼岸花咲き乱れる野が見える。
(……やっと、楽になれるのか……。)
鴉はそっと瞼を閉じた。
†
悪夢のようだった。紫に続き、黒鵺が死んだ。死人花の暗示は彼の上にも現れた。強烈な喪失感に襲われ、鴉はしばらく立ち上がることすら出来なかった。
(お前まで、去っていくのか……!?)
紫の時に続いて、予見しておきながら防げなかった、悔しさと無力感に身を引き裂かれるようだった。
(私はこれから、何を支えに生きればいい?)
妖怪の長い生に比べ、短い間に喪ったものがあまりに大きすぎた。この世に生を受け僅か数十年しか経っていない鴉にこの悲しみはとても耐えられないと思われた。しかし、黒鵺の遺体が白日の下に晒されるとの噂を聞き、彼は残った気力を振り絞り友人に別れを告げに行こうと決意した。………その別れの場で、鴉は蔵馬と対峙した。
群衆に交じり成り行きを見守っていた鴉の前に、銀の髪の女が現れた。誰よりも愛しい男を失い、それでも最後の務めとして彼の亡骸を引き取りに来た女の姿に、鴉は胸を貫かれるような衝撃を受けた。
(美しい……)
何故か、他のどの感情よりも先に浮かんだ素直な思いだった。極限の悲しみは世界中の何よりも美しい。咄嗟に彼は思った、「彼女を見届けたい」と。「黒鵺の代わりに、彼女を守りたい」と。そして気がついたのである、蔵馬が死ぬ気であることを。
蔵馬の目の前で鴉は黒鵺の亡骸を破壊し、彼女を挑発した。
『この因果から逃れたくば私を倒しに来い。』
その言葉で、それまで虚ろだった蔵馬の眼に光が戻った。
『貴様だけは……必ずオレが殺す!!』
『…… 楽しみにしている。』
悪役を演じてまで、彼女を救いたかった。
── それが自分にとっての救いにもなる ──
本能的に、鴉はそう感じ取っていた。
†
「そういや鴉、お前は何が欲しいんだ?」
背中から戸愚呂兄に声をかけられ、鴉は振り返った。
「何の話だ。」
「聞いてないのか? 優勝したら何でも好きなモン貰えるんだぜ。」
「……」
そう言われれば大会への参加を誘われた時に聞いたような気もする。鴉はしばらく沈黙した。
(そもそも、勝利など望んでいない。)
見せ物ではなく、存在意義を賭けた戦い。蔵馬と自分の、千年に渡る因縁への決着。
(私は、護り続けてきた物を自らの手で壊さねばならないのだ。これ以上の葛藤が他にあるだろうか?)
何かを喪う苦しさは二度と味わいたくない。だが自ら選んだ茨の道は、互いに殺し合うことでしか決着をつけられそうになかった。
(だが、敗れるわけにはいかない。)
つい先程までは、闘いの中で死ぬのも悪くないと思っていた。十数年前に蔵馬を見失い、彼は生きることに意味を見いだせなくなっていた。風の便りで蔵馬は人間社会の中で家族を得て平和に暮らしていると聞いた。「最早、私が支えることもない」、ずっとそう思っていた。……しかし。
(蔵馬は今でも囚われている。黒鵺の記憶に縛られ、心を閉ざしたままでいる。千年の時間も、彼女を救えなかった。)
朱い花の野で、蔵馬は黒鵺を呼んでいた。「悲しい想い出」の花言葉が示す通り、咲き乱れる彼岸花は彼女の悲しい記憶に共鳴して震えていた。それを目撃してしまい、鴉の心にさざ波が立った。
(結局、蔵馬は黒鵺を忘れられないのだ。)
そう気づき、鴉の胸を今まで覚えたことのない痛みが刺した。それが黒鵺に対する“嫉妬”であることを、彼自身認めないわけにはいかなかった。
(だから蔵馬、私がお前を殺す。)
自らの手に留まらないものをせめて自らの手で止めてしまう。決して望む結末ではないが、いつの間にか自分の心を支配していた蔵馬への強い愛着に、何らかの形で決着をつけねばならない。
(お前を殺して、それから……)
好奇心に満ちた視線を向ける戸愚呂に、鴉は静かに呟いた。
「……私が望む物は、私自身の死、だ。」
この答えに戸愚呂はいきなり笑い出した。
「ひゃーひゃっひゃっ!! 何処までも根暗な野郎だぜ! まあそんなマイナス思考じゃ生きてたって何にも面白いこともないだろうがな!」
「面白可笑しいだけの生など、私は望まない。」
鴉は冷ややかに斬り捨て、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「悲しみも苦しみも、全てに耐えて懸命に生きる姿こそが美しいのだ。だが、それはとても辛いこと……」
再び窓枠に手をかけ、遠い彼岸花の苑を見つめる。潮の香りの風が花の炎を揺らめかせていた。
†
数日後。鴉が再びあの野に足を踏み入れた時、既に花は色褪せ萎れた姿を晒していた。
(儚いものだな。)
萎れた花に触れてみる。色を失った彼岸花はあまりにみすぼらしく、滑稽にさえ思えた。
(死ぬのが誰かは、一人一人を観れば分かること。だが……それを知りたいとも思わない。)
指先に少し妖気を込めると、花の残骸は物悲しい音を立てて砕け散った。鴉は散り散りになった花の残骸を虚ろな眼で見つめていた。
(蔵馬、もし明日の決勝で、私とお前双方が生き残ることがあったら……)
有り得ない結末だ、と思いつつも敢えてそんな状況を想定してみる。空想の中で蔵馬が振り返る。彼岸花と同じ色の髪をした、美しく悲しい存在が。
(もし二人とも生き残ったら、今度こそ私はお前に真実を話そう。紫のこと、黒鵺のこと、そしてこの胸に生まれた、複雑すぎる想いを……)
眼を閉じて潮風のざわめきに耳を傾ける。花のさざめく声はもう聞こえない。鴉はそっと立ち上がり、炎の消えた野を後にした。
【完】