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Special Event

クリスマスイブ。街中に家族や恋人達の笑い声がさざめき、甘いケーキと夢のような贈り物に胸躍らせる日……のはずだが、何故かここに約一名、心からこの日を楽しめないでいる者がいた。

(あーあ、みんな彼女いるんだもんな。)

雨に煙る窓の外を眺めながら、蔵馬は独り暮らしの家の中で一人溜息をついていた。別に誘いを掛けていたわけではないが数日前に会った時、幽助も桑原も、そして飛影までもが「24日の夜は用事がある」みたいなことを言って、さすがの蔵馬も少々寂しい思いに襲われてしまった。こんな時にこそ誘ってほしい、日頃入れ替わり立ち替わりやって来て自分に“粉を掛けてくる”男達も何故か今日は誰もいない(来ないだけならまだいいが、どうも今夜はそれぞれに用事がある様子だった)。

大体、今日は実家に帰って家族と過ごすはずだったのに、商店街のくじ引きで豪華ホテルペア宿泊券を引き当てた両親は嬉々として出掛けてしまい、義弟も出来たばかりの彼女との約束があるとか何とかで帰る場所がなくなってしまったのだ。

(まして雨だなんて、最悪。)

例年なら雪に変わっていそうな天気も、暖冬の今年は雨止まりでロマンの欠片もない。暇を持て余してテレビに手を伸ばしかけたが、それではあまりに普通の日と同じで味気なさ過ぎる。

「…御馳走でも用意しようかな。一人分。」

“一人分”に重きを置いて、蔵馬は小さく呟いた。

『クリスマスぅ!?』

数日前に会った時、黒鵺にそことなく24日の予定の探りを入れてみたところ、彼は素っ頓狂な声で大袈裟に驚いた。

『お前、クリスマスなんか祝ってんの?』
『な、何だよっ。お前は何もしないの?』
『当ったり前だろ。クリスチャンでもねーのに何でわざわざ街が混んでる時に騒がなきゃなんないんだよ。』

言い切った彼に、蔵馬は「暇なら一緒に食事にでも行こう」の一言を完全に飲み込む羽目になってしまった。黙り込んでしまった彼女に、逆に黒鵺が蔵馬に突っ込んできた。

『お前は何か予定あんの?』
『…… 別に、何もないよ。実家に帰ろうかな。』

そう言って蔵馬はそのまま何も言えず、帰ってきてしまったのだった。それから数日間、お互いに全く連絡を取っていなかった。尤もそれはいつものことであって、決して特別仲違いをしているわけではないのだけれど。

「いいんだよっ。ああいうデリカシーのない男にこんな特別な日、仕切られたらたまんないし!」

胸のもやもやを吹っ切るように蔵馬は大声を上げ、意を決して台所へ向かった。が、冷蔵庫を開けて彼女は再び表情を曇らせた。冷蔵庫は、殆ど空だった。

(そうだ、卵も野菜も切らしたんだっけ…。)

昨日の午前中まで実家に帰るつもりでいたので、冷蔵庫を空ける努力をしていたのだった。結局外へ出るしかないのかと、蔵馬は顔をしかめて仕方なく部屋に戻った。クローゼットにかけてあったデニムのジャケットを着込みマフラーを巻いた彼女は、財布と携帯だけを掴んで外へ飛び出した。

 外へ出ると既に真っ暗で、街灯が点っていた。先程まで細かく降っていた雨は止み、すっかり冷たくなった空気だけが街を重く包み込んでいる。

「寒い……。」

口に出すとますます寒く感じる。ふと家々の窓に目をやると、暖かな光やクリスマスの飾り付けが視界に飛び込んできた。プレゼントの包みをほどいて喜んでいる子供の姿が目に映り、蔵馬はくすっと笑った。

(そういや、オレも15年くらい前は演技してたっけなぁ…。)

妖狐の頃の記憶を持ったままの蔵馬は“子供の無邪気さ”を装うのに相当な苦心を払っていた。おもちゃやゲームをねだり、子供らしく母・志保利や亡くなった実父の前で大袈裟に喜んでみせたりもした。

(あれ、結構大変だったんだから。)

意を決して自らの正体をすっかり家族に打ち明けた今となっては笑い話だが、母親に「貴女が私の子供であることに変わりはない」と言ってもらうまでは墓場まで持ち込むつもりの秘密だった。

その時、蔵馬はふと自分の前方から歩いてくる人影に気がついて顔を上げた。

「…あっ…!」

向こうも蔵馬に気がついて少し驚いた顔をした。大きな羽根と耳をしまい込んで“普通の人間”を装って歩いている黒鵺だった。

「あれ、蔵馬?」
「黒鵺っ……!」

蔵馬の表情が強張った。黒鵺は白いシャツの上に黒いコーデュロイのジャケットという出で立ちだった。大きく開いたシャツの胸元に例の銀のペンダントが光っていた。彼は軽く手を挙げ、蔵馬に近づいてきて隣を歩き始めた。

「何だお前、どっか行くの?」
「夕飯の買い物。冷蔵庫が空になったから。」
「そう。」
「…お前こそどこか行く途中だったんじゃないの? 今向かってるの、来た方向じゃないのか?」

黒鵺は今、来た道を引き返す格好になっていた。彼は肩をすくめた。

「別にいいよ。日課の散歩に出てただけだし。」
「“日課の散歩”!?」
「ああ。ここ数日歩いてんだ。徒歩で往復30分、飛んだら5分以下。」
「…?」

黒鵺の意味ありげな笑顔に蔵馬は首をひねった。と、彼女はふと彼の腕に下がっている布製のトートバッグに気づいた。

「…あれ、お前何持ってんの?」
「これ? 手に入れたばかりの魔界23層産の葡萄酒なんだけど、」
「何だって!?」

急に蔵馬の目の色が変わった。

「ちょっと待て、まさか『銅浄路』の赤じゃないだろうな!?」
「御名答、しかも魅惑の1910年物。」
「ずるーいっ!!」

蔵馬がわっと黒鵺の肩を掴んだ。

「何だよそれ! どこで見つけたんだよっっ!!」
「んー、一昨日魔界でオークションやっててさ。ちょっと高かったけど奮発してみた。」

間違いなくブランド物、しかも最高の当たり年と言われた年の葡萄酒である。「ちょっと」と言っても数百万はするだろう…人間界で暮らしても黒鵺には何処から金が入ってくるのか分からないようなところがある。こんな金の使い方、友人達や人間の家族が聞いたら卒倒するに違いない。

「いーなぁ、オレにも一口!」
「えー…どうしよっかなぁ。」
「何だよ! “日課の散歩”なんて言って本当はオレのこと誘いに来たんだろっ?」
「それより晩飯の買い物じゃなかったの?」

黒鵺に言われて気がついた。二人は既にスーパーの前までやって来ていたのだった。黒鵺は「んー」と少し首を傾げながら言った。

「でもさ、ここまで来て言うのも何だけどスーパーにはロクなつまみないと思わない?」
「オレは夕飯の買い物に来たんだよっ!」
「お前普通に飯食いながらこれ飲む気?」

黒鵺はトートを軽く持ち上げてみせた。彼の意見は一応筋が通っていて、蔵馬は反論出来なかった。黒鵺はくすくす笑いながら、彼女の背中をぽんと叩いた。

「じゃあ帰ろっか。」
「帰るって…」
「オレん家。もっとマシな食い物用意してあるからさ。」
「…はぁ?」
「来んの? 来ないの?」

そう言われたら行かないわけにはいかない。

(…結局仕切られているんだよな…。)

何となく悔しいけれど、彼に従う方が楽しい夜になりそうだというのは認めないわけにはいかない………やっぱり、癪だけれど。

 黒鵺も現在、蔵馬の家からさほど離れていないところで独り暮らしをしていた。昔のように一緒に住みたいと思う蔵馬も、自分からはなかなか切り出せずに時々互いの家を行き来する状態に甘んじていた。

「…何用意してあるの?」
「炎山羊のチーズと雷猪のハムと……あと征峰魚の卵とか。」
「すっごい…超高級食材ばっか。随分気合い入ってる。」
「まーな。ちょっと頑張ってみた。」

蔵馬はアパートの階段を上りながら、先を歩く黒鵺と会話していた。

「何だよーお前、クリスマスに特別なことはしないって言ってたくせに。」
「別にクリスマスの為じゃねーよ。」
「無理するなってば。」

蔵馬の冷やかしに黒鵺は小さく肩をすくめた。部屋の前につき、黒鵺はドアを開けて蔵馬を先に通した。蔵馬は室内に上がり込んで「あっ」と声を上げた。…1K8畳の室内は、まるで空き部屋のように空っぽだった。

「…何だよこれ…。」
「何って、何?」
「とぼけるな、部屋の中の荷物はどうした?」
「そこ。もうほとんど運び出して後はそれだけ。」

黒鵺はジャケットを脱ぎながら、部屋の隅に積んである段ボール2つを指さした。

「…まさか、引っ越すのか?」
「うん。あれ、言ってなかった?」
「聞いてないっ!」

黒鵺はニヤニヤ笑っていた。自分で話してもいないことを知りながら、すっとぼけているのは明らかだった。

「まあいいだろ、早くこれ開けようぜ。」

やんわりと蔵馬にそれ以上の追及を許さず、黒鵺は唯一部屋に残っていた卓袱台のような小さなテーブルにトートバッグの中身を置いた。彼は「手伝って」と蔵馬を促し、台所へ向かった。冷蔵庫の中からハムやら何やらがたっぷり載せられた紙の皿を次々取り出して彼女に手渡し、最後に黒鵺はクラッカーの箱とワイングラスを二つ手にして部屋へ戻ってきた。

「…いいグラスだな。」
「兄貴に貰った。この前旅行に行ってきたんだって。」

蔵馬は霊界で重要な仕事を任されているはずなのに何故か人間界や魔界を飛び回っている黒鵺の兄・紫を思い出した。

(あいつも黒鵺そっくりなんだよなぁ……奔放でお気楽で、羨ましいくらい。)

そんな紫はこの前ばったり会った時、「飛行機乗ってきた!」と嬉しそうにはしゃいでいた。美しいクリスタルガラスはその旅先の土産物に違いない。

「じゃ、乾杯!」

黒鵺の言葉で蔵馬は慌ててグラスを上げた。二つのグラスを合わせると、空気が震えて澄んだ音を奏でた。紅の液体を一口すすった蔵馬は、眩暈を感じるほどの深い香りに小さな溜息をついた。

「…うわぁ…すごいいい酒。」
「よかったぁ。すっげー旨いなこれ!」

テーブルを挟んで対面のクッションに座っている黒鵺に笑顔が浮かんだ。蔵馬は思わずその表情に見とれた。

(あ…珍しい…。)

目の前の男はいつもの皮肉めいた笑い方ではなく、素直な笑顔だった。

「知ってる? ロマネ・コンティってワインあるだろ。あれって香りが本当に強くて、飲んだヤツのベッドまでもがロマネ・コンティの香りに変わるんだって。」
「何それ? 単に酒臭いだけじゃないの?」
「お前本当にロマンがねーなぁ。」

黒鵺は笑い出した。

「だからオレ達も実は今、このワインの香り撒き散らしてんのかもしれないぜ?」
「そう? ……分かんないけど。」

蔵馬は這って黒鵺の隣に近寄り、彼の首筋にぐっと顔を近づけて匂いを嗅ぐ仕草をした。自分にしてはちょっぴり大胆な行動に出たつもりだった……が、黒鵺は表情を一切変えず冷静に、手にしていたカナッペを彼女の口に押し込んだ。

「う……」

さすが“百戦錬磨”の夢魔だけあってちょっとやそっとでは乗ってもらえない…甘える仕草が空振りに終わり蔵馬は苦い顔をした。黒鵺はそれに気づかず、新しく手にしたクラッカーにサラミやらチーズやら葉物野菜やらを載せて次のカナッペをこしらえていた。

「…そういやお前、クリスマスは家族と過ごすんじゃなかったの?」
「だったら何でうちに来たんだよっ。」
「いや…オレは別にお前の家に行こうとしてたわけじゃないんだけど。」

そう言いながら黒鵺はカナッペを頬張った。

「じゃあ何で酒持って歩いてたんだよ。」
「新居に運んでたんだよ。」
「新居?」
「ああ、今夜中に引越し終わらせるつもりだったから。」

黒鵺はちらっと段ボールを見て、蔵馬の方に向き直った。

「あとはそこの段ボールだけだし、今夜中に終わらせて週末に部屋を片付けようかなって。」
「…ちょっと待て! お前オレに内緒で何処に行く気だよっ!」
「別に隠すつもりはねーよ。今夜はお前いないって聞いてたから、明日引越し作業が終わってから呼んで一杯やろうと思ってただけ。」
「えっ?」

蔵馬はテーブルの上の酒とオードブルをまじまじと見つめた。

(じゃあこれ…もしかして引越し祝いの料理だったのか?)

顔を上げて黒鵺をちらっと見つめると、彼は空になった自分のグラスにワインを注ごうとしていた。慌てて蔵馬は瓶を奪い取り、そっと彼のグラスに葡萄酒を注いでやった。「サンキュ」と黒鵺が微笑した。

「お前、何処に引っ越すの? すぐそこみたいだけど…。」
「当ててごらん。」
「……やだ、面倒臭い。」

そう言って、蔵馬は綺麗に並んでいるチーズをつまんで頬張り、続いてテーブルからワイングラスを手にとって唇を当てた。と、黒鵺がいきなり大声を上げた。

「あーっ! 蔵馬お前っっ!!」
「な、何だよっ!?」
「それオレのグラス!」
「えっ?」

丁寧にいちいちカナッペを作っている黒鵺は、折角注いでもらった酒も一口舐めただけでグラスを置いていた。

「…あ…御免、間違えた。」
「ったくもう…オレの唇が欲しいなら間接キスなんてセコい真似しなくてもいいのに…」
「言ってろアホっ。」

相変わらずお調子者の黒鵺に馬鹿馬鹿しくなって蔵馬はそのまま、彼のグラスを一気に空にした。

「うあ、勿体ない飲み方すんなよ! 高かったんだぞ!」
「オレに開けさせたのが運の尽き。さー次!」
「バカかっ! てめー……」

慌てる黒鵺を尻目に蔵馬は遠慮なく3杯目を注いで口にした。

…料理もあらかた空になり、心地よいほろ酔いが眠気を誘ってくる。超高級ワインも底にあと1センチを残して空に近づいていた。

「…黒鵺…」
「ん?」
「あのさ、今夜泊めてくれないかなぁ。眠くて、帰るの面倒だし……。」

少し掠れた声と濡れた瞳を武器に、蔵馬が囁いた。眠気は本当だったが勿論“おねだり”の理由はそれだけではない。先程のリベンジにもう一度甘えてみたつもりだった……が、

「ダメ。」
「…何でだよっ。」

蔵馬は黒鵺の冷たい返事にひるんだ。黒鵺は空いた紙皿をビニールのゴミ袋に突っ込み、ワイングラスを流しに運んで洗い始めた。

「布団もねーし、今日でこの家明け渡す約束なんだ。だから。」
「…あ…そう…。」

拒否の理由が自分には関係ないことを知り、蔵馬は少し安堵した。黒鵺はワイングラスをペーパータオルで拭き、元々入っていたらしい箱の中に丁寧に収めた。すっかり荷物をどかしたテーブルを畳みながら、彼は蔵馬を追い立てた。

「…さ、手伝って。」
「何を?」
「決まってるだろ、最後の荷物運び出すんだよ。お前が来てくれて料理も空になったからもう往復しなくて済みそうだな。」

黒鵺は段ボールに視線を向けながらそう言い、テーブルを指して「コイツは粗大ゴミ」と笑った。

「その段ボール頼むぜ。」
「ワインまだ残ってるけど?」
「オレが持ってく。後で空けよう。」

黒鵺は床に放り投げたままになっていたジャケットを羽織った。「出るよ」と言って、黒鵺は蔵馬に先に出るよう促した。彼は最後にもう一度部屋を見渡しドアに鍵をかけた。階段を下り、二人はアパートの外へ出た。雨は上がり、空には煌びやかな冬の星座が瞬いていた。

「…雪はなかったな。」
「この暖冬じゃ仕方ない。」

そう言って黒鵺は前に抱えた段ボールを持ち直した。普通の人間なら到底歩けないような荷物もこの二人にはさしたる苦痛ではない様子だった……いや、よく見ると蔵馬はさり気なく植物で支えている様子だったが。

「あれお前、植物に荷物運ばせてないか?」
「バレた?」
「あのな、そんならオレの分も運んでくれよ!」
「はーいはい。」

段ボールの上に段ボールを積み、二人は勝手に進む植物の後ろをついて歩いた。蔵馬が胡散臭そうに黒鵺を見上げた。

「……で、お前の新居って何処なの。」
「○○区××△丁目□ー◇、▽▽アパート。」
「えっ…? …ちょっと待てよ、それ…うちの住所なんだけど!」
「だってオレの引越し先、お前の隣の部屋だもん。」
「…………はあ!?」
「気づかなかった? 最近、隣でガタガタやってたの。」
「…!!」

蔵馬は呆然として相棒の顔をぽかんと見つめていた。黒鵺は「してやったり」の得意げな表情だった。

「…お前っ…」
「何だよ、オレが隣に来たら迷惑?」
「え? …そ………そんなことは、ないけど………」

最後の方は口ごもってしまった。顔が熱くなったのを、この何処までも余裕ぶちかましている男に悟られてはいないかと蔵馬は少し不安になった。恐る恐る隣の黒鵺を見上げると、彼はじっとこちらを見つめていた。……視線が合って蔵馬はハッとした。黒鵺の眼が笑っていた……温かく、何処までも優しい紫色だった。

ほんの一秒視線を合わせた後、黒鵺はふっと笑って蔵馬の背中を叩いた。

「さ、運んでしまおうぜ。」
「…ああ。」

黒鵺に急かされて蔵馬は何となくフワフワした落ち着かない気持ちのまま歩いた。

約10分後、二人は目的のアパートに辿り着き3階にある蔵馬の隣の部屋まで荷物を運んだ。室内に踏み込み灯りをつけて蔵馬は言葉を失った。先に運び込まれていたほとんどの荷物はすっかり解かれていて、明日からでも生活出来そうな手際の良さだった。

「……お前、いつの間に……」
「だからさっき『最近は散歩が日課だ』って言っただろ。」

黒鵺は笑いながら運んできた段ボールを部屋の隅に置き、既に布団まで敷かれているベッドに座り込んだ。その手には先程少しだけ飲み残した葡萄酒の瓶が握られていた。

「あ!」

蔵馬の目の前で、彼はいきなり葡萄酒のコルクを開けてラッパ飲みし始めた。

「お前、いくら何でもその飲み方はないだろ!?」
「いいからはい、残りはお前の分。」

黒鵺はそのまま瓶を蔵馬に渡した。蔵馬はしばらくじっと瓶を見つめていたが、黒鵺に倣いボトルに直接唇を当てた。黒鵺がそれを見てくすくす笑っていた。

「…何だよっ。」
「いや、やっぱ女のラッパ飲みは色気がねーなぁって。」

むっとした蔵馬は先程使っていたグラスを荷物から取り出そうとした。と、その右手首を黒鵺が背後から掴んだ。

「まーいいじゃん、今日が最後ってことでさ。」
「…何だよそれ。」
「これからはもう少し女磨いてもらうから、勝手気ままも今のうちってこと。」

そう言って黒鵺は蔵馬の手首を強く引っ張り、少し強引にベッドの自分の隣に座らせた。蔵馬は何となく緊張しながら残りの葡萄酒を飲み干した。数百万はするであろう葡萄酒の、眩暈を誘うような芳醇な香りに意識が遠のく思いがした。瓶が空になりホッと一息ついたその瞬間、黒鵺が少し屈みいきなり蔵馬の唇の辺りにそっと鼻を近づけた。

「…何…?」
「お前の唇、葡萄酒の匂いがする。肌にも……香り移ってるかも。」
「えっ…!」

手を述べて黒鵺は蔵馬の首を後ろから支えた。そのまま黒鵺はそっと蔵馬の首筋に顔を近づけ、唇を触れさせた。

「…あ…」
「やっぱり……身体から香ってくるよ。すげーいい香り……。」

ゾクリとするような心地よさに蔵馬は思わず声を上げた。黒鵺は蔵馬の肩を抱いた。彼女は素直に黒鵺の胸に倒れ込んだ。

(……ああ、本当だ……。)

黒鵺の肌からワインの甘い匂いを感じる。甘くて豊麗で蠱惑的な、眩暈のするような芳香……“媚薬”というものが本当に存在するならきっとこんな香りに違いない。……それにしても。

(…やっぱり“黒鵺”だな…。)

さっき自分がやろうとしたこと……葡萄酒の香りにこぎ着けて相手の肌を求める“技”をあっさりと返されてしまった。

(要するに自分が主導権取らないと嫌なんだよな、コイツ。)

何となくおかしくなって笑顔のこぼれた顔を、蔵馬はぎゅっと黒鵺の胸に押し当てた。黒鵺が蔵馬の髪の毛を軽く撫でながら切り出した。

「オレさ、ここに越してくんの楽しみにしてたんだ。だから、引越祝いも奮発してみた。」
「…うん…。」
「クリスマスはどうでもいいけど、まあそれなりに気の利いた品だったと思わない?」
「…そう、かも…。」
(……でも……)

高級なワインよりも黒鵺がここに来てくれたこと自体が嬉しかった。自分から切り出せなかった願いを彼が解ってくれていたこと、更に言えば『また一緒に暮らしたい』という想いが同じだったことが嬉しいのだ。

黒鵺が再び蔵馬の首筋を唇で軽く撫で始めた。肌に触れる感触の滑らかさに蔵馬は思わず吐息を漏らした。

「…だからさ、」

愛撫の途中に黒鵺はそう言って、肩にかけた手に少し力を込めた。自然と二人の体がベッドの上に倒れ込んだ。

「だから、何?」
「……」

蔵馬の熱っぽい眼が黒鵺を射抜いた。彼女に覆い被さるような姿勢を取り、黒鵺は無邪気な笑顔で尋ねた。

「お前は、これからオレに何をくれる?」

そう来たか、と蔵馬は苦笑した。

「…じゃあ、まずは“小さい物”からかな。」

ゆっくりと黒鵺の首を抱き締め、蔵馬は彼の唇にキスをした。きっと明日の朝までには、このベッドに媚薬の移り香が刻まれていることだろう……葡萄酒の香りのキスをねだりながら、蔵馬は霞む脳裏で後朝 <きぬぎぬ> の甘美な目覚めを思い描いていた。

【完】