夜もしんと更けて、活字を追う視線は次第に瞼で塞がれ始めた。読みかけの小説は最高潮真っ只中だけど、楽しみは明日の夜まで延ばそうか……と、蔵馬は本を枕元に起き燭台の灯りに手を伸ばした。
と、その時。
コンコン!
「蔵馬、起きてる?」
突然ノックの音と黒鵺の声がして、蔵馬は伸ばした手を引っ込めた。
「起きてるけど、何?」
「いや、うっかりベッドの上で酒こぼしちまってさー。」
またいつものように「何か便利な植物ない?」と訊いてくるのか(勿論、そんな乾燥機代わりになる植物など存在しないのだが)と身構えた途端、黒鵺は突然扉を開けて室内に侵入してきた。
「い!?」
どうやら彼も寝るところだったらしい。いつも結い上げてる髪を背中に下ろし、服装もリネンのローブに替わっている。蔵馬は思わず叫んだ。
「バ、バカっ! 勝手に入るなっ!!」
「今夜ベッド半分貸して。」
「えっ……エ!?」
黒鵺はずかずかと近寄り、蔵馬のかぶっていた布団を剥ぎ取った。
「わあああぁぁっ!?」
しどけない寝間着姿があらわになり、蔵馬は慌てて跳ね起きベッドを飛び降りた。
「ななな、な、何すんだよっっ!?」
「ケチケチすんなよ。一晩くらいいいだろ?」
「な、何でオレの部屋なんだよっっ! 居間で寝ればいいだろ!?」
「掛け布団もずぶ濡れなんだもの。布団なしでゴロ寝は寒いだろ。」
すっかり動転している蔵馬はそっちのけで、黒鵺は勝手にベッドへ入り彼女が収まっていた場所に横たわった。ぱくぱくしつつも声が出ない蔵馬へ、彼はまるで自分がベッドの持ち主であるかのように声をかけた。
「寒いだろ。早く入ったら?」
「!……」
相変わらず勝手で予測不可能な男だ。妙齢の美女の床へ潜り込むならもっとマシな口説き方があるだろう……などと釈然としない思いを抱きつつ、蔵馬は仕方なく反対側からベッドへ潜り込んだ。大きなベッドなので何とか接触せず眠れそうだ。が、何故か黒鵺は自分の方を向いて横になっている。
「な、何でこっち向いてんだよっ。」
「背ェ向けたら翼が邪魔になるだろ? じゃ、お休み。」
「黒鵺っ!」
黒鵺はそのまま目をつぶり、それっきりぴくりとも動かなかった。
「……」
恐る恐る顔を覗き込む。蔵馬は十五分ほど彼を様々な角度から観察し、とうとう「完全に眠っている」という結論を得た。仕方なく灯りを消し、彼女は途端渋い顔になった。
(もうぅぅ! 何なんだよっ……)
どうやら、本当にただ眠りに来ただけらしい。既に寝息を立て始めている黒鵺を蔵馬は暗闇の中で睨みつけた。
──オレの気持ちなんか全然知らないで──
美貌で鳴らした同い年の天才盗賊・黒鵺。彼と知り合い一つ屋根の下で暮らすようになって早幾年。しかし一度出来上がった“親友”という二人の関係は、なかなか頑丈で崩れる気配すら見えなかった。本当に黒鵺は自分のことを何とも思っていないのだろうか。自分にとってはこんな出来事も嬉しいハプニングで、初めて隣で眠った今夜は“記念日”になってしまうであろうというのに。
(……待てよ、ひょっとしてオレが眠るのを待ってたりして?)
蔵馬ははっと黒鵺を見つめた。夢の中にいるふりをしつつ、実は自分が寝息を立て始めるのを待っているのではないだろうか。ならばこちらも眠ったふりで出方を待ってみよう。期待に胸を躍らせながら、蔵馬は目を閉じ息を整えた。
†
「……ん……」
闇の中、黒鵺はゆっくり目を覚ました。と、
「蔵馬!?」
(……あ!)
驚いて体を跳ね起こした彼は、そこでようやく自分が蔵馬の部屋にいることを思い出した。
(そっか、ナイトキャップを引っくり返して…… オレ……寝てたのか?)
飲んでいた酒が強すぎたのか、横になってからの記憶がほとんどない。目覚めてしまったのも酒が眠りを浅くしたからだろう。黒鵺は隣で眠る蔵馬に視線を落とし、ふっと微笑した。
「……」
(勿体ねー、折角隣にこいつがいるのにな。)
黒鵺はそっと手を伸ばし、蔵馬の頭を軽く小突いた。少し力が入ってしまったが彼女は全く目を開かなかった。
(オレが賞金稼ぎだったらどうすんだよ。ったくもう、気持ちよさそうに眠って…… そんな無防備だと、手が出せないだろ。)
銀の髪の毛を撫でてみる。滑らかな髪が指先に触れ、黒鵺の眼差しが和らいだ。確かに酒をこぼしたのは偶然だった。が「それを口実に蔵馬のベッドへ」という下心が皆無だったとは言い切れない。
(ベッドにさえ潜り込めれば、口説き落とす自信はあったのにな。)
酔ったふりをして体を絡め薄暗い灯りの中、至近距離で瞳を覗き込んで……脳内シミュレーションでは完璧だったのに、その前に自分が酔い潰れてしまうとは計算外だった。
(……あぁ、オレって格好悪。)
黒鵺は再び蔵馬の寝顔を見つめた。穏やかな寝息を聞いていると、そんな悪巧みを抱いていたこと自体が申し訳なく思えてくる。
(しゃーない、今夜はこれで我慢するか。)
黒鵺は再び手を伸ばした。仰向けの蔵馬の体をそっと転がし、自分の方を向かせて抱き寄せた。それでも蔵馬は目を覚まさなかった。彼女の背中に手を回したまま、黒鵺は「お休み」と小声でささやいた。
†
(何だか、息苦しい……)
いつもと違う感覚に気づき蔵馬は目を覚ました。と、彼女は自分が誰かの腕の中にいることに気づいた。
(……黒鵺!? エッ!? 嘘っ……嘘嘘嘘っ!!)
かあっと頬が熱くなり、蔵馬は咄嗟に息を潜めた。黒鵺が起きたら騒ぎになってしまうかもしれない。
(……そうか、寝たフリしててオレ、本当に眠ってしまったんだ。でも、何で抱き締められてるの!?)
「まさか」と慌てて確認してみたが、自分も彼もしっかり寝間着を着込んだままだった。安心すると同時に蔵馬は少し残念な気持ちになった。
(只の寝相……本当に黒鵺は、オレに興味がないんだ。)
少しくらいちょっかい出してくれたって全然構わないのに、と蔵馬は小さく息をついた。これでも故郷では「里一番の器量良し」と呼ばれていたのに……ささやかな自尊心も黒鵺の前では粉となって砕けてしまう。
(でも……それでも、好きなんだ。)
黒鵺を起こさないようにゆっくり体を動かし、彼の背中にそっと手を回す。ぴったりと抱き合い、蔵馬はささやかな幸福に浸った。
(起きたら「寝相だ」って言い張ろうっと。)
†
「おぅ、おはよう。」
翌朝。目を開けた瞬間、至近距離で黒鵺がささやいた。
「あ! ……お、おはよっ……。」
蔵馬は驚き、また顔を紅くした。自分は眠った時のまま一晩黒鵺に抱きついていたようだ。黒鵺はニヤニヤ笑いながら、まさに期待通りのコメントをしてくれた。
「そんな頑張ってしがみつくなんて、夢で逢うだけじゃ足りなかった?」
「誰が夢でまでお前の顔見たいかっての。」
悪態を返しながら慌てて身を離す。「お前こそオレのことずっと抱き締めてたくせに」と言ってやったらどんな顔をするだろうか。
「まーいいや。腹も減ったし、とっとと飯にしようぜ。」
「……」
黒鵺はひらりとベッドから抜け出し、振り向きもせず部屋を出て行った。突如無性に淋しくなって、蔵馬は顔を曇らせた。
(つまんなーい! もう一晩くらい、一緒に…… あっ!)
その瞬間、彼女の脳裏にナイスなアイディアが閃いた。
†
「さてっと、早く布団乾かさねーと。……う!!」
部屋に戻り扉を開けた黒鵺の目に、ベッドの上で繰り広げられている“地獄絵図”が飛び込んできた。
「たった一晩で、カビに、キノコ……!!?」
密室の惨劇に硬直している黒鵺の背後で、蔵馬は「今夜こそ」と力強く拳を握り締めた。
【終】