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Found It 第7章 数が示すもの

昼食後。私は道場の中で項羽の手帳と向き合っていた。朝は快晴だった空が突然雲に覆われ、雷まで鳴り始めたために午後の作業が中止となった。つい先程まで私達は剥き出しの木材が濡れないようブルーシートを掛ける作業に追われていた。男達は今頃テントを引き上げ、完成したばかりの寺屋の中へ避難している頃だろう。

(本当に、事務的な手帳だな。)

中身に目を通して私は溜息をついた。黒い革のカバーにリフィルが挟まっている。見開きでひと月が見渡せるタイプで、任務の予定が事細かく書き込まれている一方、期待していた私的な内容は一切記入されていない。それにしても項羽の筆跡を目にするのは数年ぶりで、紙を繰りながら不思議な懐かしさが込み上げてきた。

(こいつ、やっぱり忍文字が嫌いなんだな。)

最初のページに戻りながら私は思わず苦笑した。昔から項羽は相当の秘匿性を要する文書以外、滅多に忍文字を使わなかった。「画数が多すぎてオレの思考速度に手が追いつかないから」と、そんなことを嘯いていた記憶がある。

「──?」

ページをめくり、私はふとある日の升に目を留めた。昨年三月中旬のある日。目を凝らさないと見過ごしそうな黄色のインクで、小さく「1000」という数字が記されている。

(千? 誰かに借金でもしたのか?)

それにしては金額がせこいような気もする。私は更にページをめくり、他の月にも同様の書き込みがないか探した。すると、七月下旬のある日の欄に同じ色で書かれた「863」という数字を見つけた。

「!」

同時に、大きく心臓が波打った。私はまじまじとその日付を見つめた。

──あの日だ──

間違いない。私にとって特別な意味を持つ日。項羽と二人、“あの約束”を交わした日だった。

(どうしてこの日に書き込みが?)

急速に、不可解な数字が身近なものに思えてきた。

──もしかして、あの約束に関係が──

他の月も探してみたが新たな書き込みは見当たらなかった。そのことがかえって、数字とあの出来事の関連を強く示唆しているように思えた。

(……でも、数字の意味は一体? それに「1000」の日付は……)

七月はともかく三月の日付には思い当たる節がない。私は二つのページを行き来し、数字を見比べた。両者の日付には四ヶ月と半分ほどの間隔がある。一年の三分の一強、日数にして140日くらい……

「!」

瞬間、私の頭の中で何かが弾けた。私は急いで三月のページへ戻り、「1000」の数字が記された日から注意深く日にちを数え始めた。

(1000、999、998、997──)

一日進む毎に数字を一つ下げていく。升目を飛ばさぬよう、私は区切りの数字ごとに印をつけて数え続けた。

(──865、864、863。)
「やはり……!」

予想が的中し、私は思わずつぶやいた。あの七月下旬の日は「1000」と記された日から数えて丁度、「863」に当たる日付だった。

(ならばもしかして、あの数字も?)

逸る気持ちを抑えつつ、私は更に数え進めた。

(──789、788、787!)

再び予想は的中した。「787」、項羽の隠し部屋の黒板に記されていたあの数字。それがあの部屋の日めくりカレンダーが示していた十月の日付と一致した。もう疑いの余地はない。彼は日めくりと黒板をセットにし、毎日カウントダウンしていたのだ。「1000」と記された昨年三月の日から、きっかり千日後にある何かを。

──そしてそれは多分、私にも繋がっていること──

項羽は「863」の日にわざわざ数字を残している。数字が「0」となる日にはきっと、あの約束にも絡む何かが待っているに違いない。そう確信し、私の胸の奥が疼いた。

(ひと月が約三十日、ならば千日後は33ヶ月後……二年九ヶ月後だ。すると「0」は来年の十二月か。)

頭の中で大まかな日付を弾き出し、私は十二月のページを繰った。去年の手帳に来年の欄などある筈もないが、十二月という月に何があるのかを確かめたかった。
と、

「あー怖かったぁ! 凄い雷よ!」

道場の入り口で凪の叫び声が聞こえた。私は一旦顔を上げた。

「近くまで来てるみたいだな。雨は?」
「今はまだ大丈夫。でも時間の問題ね。」

光ってから音が聞こえるまでの間隔が短くなっている。もうすぐ豪雨が降ってくるだろう。盛りの桜も明日の朝までにはすっかり花を落としているに違いない。

「どう霧風、何か分かった?」

凪が近づき、私の手元を覗き込んだ。

「ああ。項羽は来年の十二月に何か予定を控えていたようだ。」
「予定?」
「あいつは部屋の日めくりカレンダーにも反応を見せている。きっと、何か重要なことを指折り数えて待っていたのだろう。」
「え、なに? ヒント見つかったの?」

部屋の隅で洗濯物を畳んでいたつららも寄ってきた。私はそこで手帳を示し、「863」の日の出来事は伏せつつカウントダウンのことを説明した。二人が身を乗り出した。

「凄いじゃん! さっすが霧風、女ホームズね。」
「でもゼロの日に何があるかはまだ分からないよ。」
「来年の十二月……そうだね、未来過ぎてさっぱり分からない。」
「そもそもあたし達、生きてるのかも怪しいよね。」
「そういう暗い話はしない! でも、そんなに項羽が待ってたことって一体……」

凪が首をひねった瞬間、突如、一面を青い光が弾けた。

ドオオォォォン!!

「!?」

光を認識するとほぼ同時に、地面を揺るがすような音が轟いた。

「落雷か!?」

私達は思わず顔を見合わせた。と、

「火事だあぁぁ!!」

突然、誰かの声が響いた。私達は勢いよく飛び出した。里の外れで黒い煙が上がっている。

「倉庫じゃない!? まずい、あそこって油を保管してある筈だよ!」

凪が叫んだ。辿り着くと既に大勢の兄弟が集まっていた。凪の予想通り、赤々と燃える巨大な炎が倉庫を飲み込んでいた。

「早く消火を……」
「無理だ、油に引火して簡単には消えそうもない。」
「延焼を防ぐのが精一杯だ。それに少し待てば雨が降ってくる。」
「でも……!」

成す術なく立ち尽くす一同の中、突如劉鵬が大声を上げた。

「おい、誰か項羽を見なかったか!?」
「エ?」
「さっきすれ違った時アルバムを持ってて、『倉庫に返しに行く』って言ってた気が……」
「!!」

刹那、私の体が勝手に動いた。

「霧風!?」
「馬鹿! 戻れっ!!」

我に返った時、私は既に炎の中へ飛び込んでいた。煙が充満し視界を遮っている。体中を刺すような熱気が包んだ。一瞬体が竦んだものの、今更引き返すことも出来なかった。

「項羽! 項羽!! いるなら答えろ!!」

叫びながら私は炎の中を潜った。しかし声は全て煙の中に吸い込まれた。その時、黒い梁が頭上に崩れ落ちてきた。

「!」

咄嗟に飛び退いた私は次の瞬間、偶然足元にうずくまる影に気づいた。

「あっ……!」
──項羽!?──

石材に遮られ炎の届かぬ場所に、項羽が倒れていた。しかし呼び掛けても返事はなかった。

(まずい!)

脈の有無など確かめる余裕もなく、私は夢中で彼を担いだ。と、その懐にアルバムがあるのに気づいた。私はそれも拾い上げた。既に出口は煙に掻き消されている。火花の弾ける音と渦巻く気流の音に混じって兄弟達の声が聞こえてくる。それを頼りに私達は炎の中を突き進んだ。やがて視界が晴れ、立ち尽くす皆の姿が見えてきた。

「霧風!」

バシャアッ!

突然、誰かが私に水を浴びせた。

「何やってんのよ! そのまま火の中に飛び込むなんて!!」
「あんた今、背中が火だるまだったよ!?」

たらいを持った凪とつららに怒鳴られ、私は思わず身を縮めた。

「項羽!」

小龍を筆頭に皆が駆け寄ってきた。と、

「!」

ザアァァァァ────

重い雷雲が破れ、待ち焦がれた雨がようやくぼたぼた落ちてきた。燃え盛る炎は途端、その勢いを失い始めた。

「……生きてる。気絶しているだけだ。」

竜魔がつぶやいた。力が抜けたのか、小龍が大きく項垂れた。私はずぶ濡れになったアルバムを、雨から守るように懐に抱き締めた。