「おはよう小龍。どうだ項羽の様子は?」
翌朝。本陣建設現場を訪れた私は、隅で柱を削っている小龍に声をかけた。
「ああおはよう霧風。昨夜は特に何もなかったよ。『折角オレの為に集まってくれたのに御免』って、皆に頭下げて回ってたけど。」
「今何してる?」
「倉庫にいるよ。今日から工事を手伝うって。」
「そうか、普段通りなら別にいい。」
私も近くに腰を下ろし、床板の鉋がけを始めた。
「霧風お前さ、」
小龍が口を開いた。
「昨日こっちで大ブーイングだったぜ。項羽のこと『足手まとい』と言い放ったって?」
「……」
私は無言で木材を削り続けた。小龍はくすくす笑っていた。
「皆何にも分かってないよな。オレの次にあいつと過ごした時間の長いヤツが、今の事態に傷ついてない訳ないのに。」
「そんな殊勝な理由じゃない。項羽は半年前に死んだ、私はそう思ってるだけだ。」
「それだって昔の項羽が好きだったからだろ。あ、いや、別にそういう意味じゃなくて。」
思わず睨みつけた私に、小龍は慌てて首を振った。
「……昨日総司が言っていたのだが、」
「ん?」
「項羽の記憶を封じているのは、過去の生活に戻りたくないという無意識の拒絶感に違いない。だからその否定的感情を超える、記憶を取り戻す意義をあいつに悟らせることが最良の治療になる。」
「!」
私はちらりと小龍を見て、再び視線を手元に戻した。
「だが私は、無理に思い出させる必要はないと思ってる。昨日のことでますますその思いを強くした。眠らせておきたい記憶なら一生眠らせておけばいい。項羽はもう死んだんだ。私達がそう諦めれば、あいつをこれ以上追い詰めずに済む。」
「……」
小龍は鉋がけの手を止め、虚ろにふっと視線を落とした。
と、
「あぁいた、小龍おはよう!」
私達は顔を上げた。すぐ傍に凪とつららが立っていた。
「あら霧風、あんたもここにいたの? お疲れ様。」
「オレに何か用?」
「うん、項羽のことで話があるんだけど。」
小龍は遠慮したのか、私にちらりと視線を向けた。私は「お構いなく」と首を振り、再び黙々と鉋がけを始めた。
「あいつのことならあんたが一番知ってるだろうしさ。ちょっと訊きたいことがあって。」
凪がそう言ってつららの肩を叩いた。つららは促され、伏し目がちに切り出した。
「あの……本当は口止めされてたんだけどこんな事態だから話すね。小龍は、項羽の彼女が誰か知ってる?」
「!」
私の手が止まった。小龍も一瞬目を丸くしたが、すぐさま冷静に聞き返した。
「項羽の彼女? 何で突然そんな話を?」
「昨日伊達さんが言ってたの。項羽にはまず、昔を思い出す幸せを教えてあげようって。」
「自分に可愛い彼女がいたって聞けば、何か反応するかもしれないと思ってさ。」
凪が言い添えた。
──項羽に、恋仲の女が?──
何故か動揺して、私は視線の端で小龍の反応を窺った。彼はしばらく考えて答えた。
「御免、オレは知らない。それより『彼女がいる』って、項羽が言ってたのか?」
「そうよ。ね?」
「うん……」
凪がつららを振り返った。つららは小さく頷き、深々とうつむいた。
「あの、実は私ね……去年、項羽に告白したの。」
「なに!?」
思わず聞き返すと、つららが慌てて付け加えた。
「あのね、結局駄目だったの。『気持ちだけ受け取っとく』って、それで……」
呆気にとられた私を見て凪が笑った。
「項羽は競争率高かったんだよ。あんたには信じられないかもしれないけど、あいつが袖にした女の数は十や二十じゃ済まないんだから。」
私とは対照的に、小龍は妙に落ち着いた様子で黙って話を聞いていた。つららは赤い顔でひたすら足元を見つめていた。全く言葉の出てこない彼女に代わり、凪が説明を続けた。
「それで、この子が言うにはその時あいつが『オレの将来の嫁はもう決まってる』って言ってたらしいの。結局名前までは教えてくれなかったらしいけど。」
「……」
困惑しながら私は、再び小龍を盗み見た。彼は表情のない顔で二人を見つめていた。
「ま、小龍が知らないんじゃ誰も知らないね。こうなったら風魔のくノ一全員とっ捕まえて聞き出してみるわ。行くよつらら。」
「う、うんっ。」
つららが慌てて顔を上げた。「じゃあ」と手を振り、二人は道場の方角へ消えていった。私は複雑な気分で再び手元の木材を削り始めた。と、
「項羽に、そんな女いる訳ないだろ。」
小龍が、ぼそりと口を開いた。
「なに?」
私は顔を上げた。彼は出来上がった柱木を抱え、次々と台車に積み始めた。
「だってあいつ、告白もせず妄想だけ突っ走ってるヤツだったから。『将来の嫁』なんて、あいつが勝手に決め込んでただけさ。」
私はぽかんと彼を見つめた。探りを入れるように、低い声で尋ねた。
「……好意を抱く女はいたと?」
「向こうは、惚れられてることすら知らなかっただろうけど。」
小龍が微笑した。心臓にちくりと、細い棘が刺さったような気がした。小龍は木材を運びながら話し続けた。
「でも凪達のアイディアは悪くないな。その彼女が項羽の想いを受け止めて、あいつのこと本気で心配してくれたら何か変わる気がする。」
「私は、そうは思わないが。」
すかさず私は遮った。小龍の動きが止まった。
「その女が誰だろうが、項羽の回復を心底願おうが、あの男には届かないさ。」
「何故?」
小龍がじっと私を見つめた。私の胸に得体の知れない、澱んだ感情が広がっていた。自分の手元へ視線を落とし、私は冷ややかに答えた。
「……どうせ忘れられてしまう、その程度の女だったのだから。」
その後しばらく沈黙が続いた。私は重苦しい気分のまま、再び材木を削り始めた。と、
「霧風、」
小龍が口を開いた。穏やかだが、まるで私を諭すような声だった。思わず顔を上げると彼は、ただ憐れむような醒めた目でこちらを見つめていた。
「何だっ。」
たじろいで訊き返した。彼はふっと視線を落とし、乾いた声で答えた。
「項羽が好きだったの、お前なんだぜ。」
「なに?」
その時、
「おい小龍、出来上がった分持ってきてくれ!」
兜丸が遠くで声を張り上げた。小龍は「すぐ行く」と答え、台車をがらがら引きずっていった。人の気配が消え、辺りは途端に静かになった。
「……」
私は何故か力が抜けて、鉋に手をかけたままぼんやり座り込んでいた。先程感じた棘とは別の、重苦しい何かが心に圧し掛かっていた。
──あいつ、本気だったのか──
半信半疑で心に留まっていた項羽の告白。今頃他人からその真偽を聞かされるとは思わなかった。しかし、それが一体何だと言うのだろう。今となってはあの男自身が何も憶えていないというのに。
……その時、
「おはよう、やっぱりここにいたんだ。」
「!」
心臓が止まらんばかりに驚いて、私ははっと振り返った。あろうことか、私を見下ろしていたのは項羽だった。
「やっと捕まえた。君はいつも、オレを見ると逃げ出すから。」
「……」
露骨な警戒にもひるまず、彼は真正面から私に向き合った。
「オレを避けてるよね。どうして?」
私は立ち上がった。が、すかさず肩を掴まれた。
「皆がオレに言うんだ。オレと君は仲が悪くて顔を合わせる度に衝突していたって。」
私は振り返り、項羽を睨んだ。
「でも小龍だけは違うことを言う。皆の言うことは事実だけど、それがオレと君の会話だったと。君こそオレの一番の理解者で、オレが記憶を失くして一番傷ついているのは君なんだって。教えてほしいんだ、君にとってオレは何なの。オレ達は本当はどんな関係……」
「止めろ!」
耐えられなくなり、とうとう私は叫んだ。
「項羽は私を『君』とは呼ばない!!」
「!」
瞬間、私達の視線が宙で衝突した。
(あ……)
──しまった──
項羽の顔がこわばっている。それを見て私は、自分が彼の心を深く抉ってしまったことに気づいた。
「…… 悪かった。」
項垂れ、それだけ口にするのがやっとだった。
「……御免。」
項羽もそう言って頭を下げた。そして背を向け、坂を駆け下りていった。私はふらりとその場に座り込んだ。
(私、何をしているんだ……)
全身が重かった。打ちのめされ、鉋を引く力さえ残っていなかった。苛立ちを項羽にぶつけてもどうにもならないと、頭では解っている。彼自身が誰よりも苦しんでいて、記憶を取り戻すのに必死なのは知っている。しかし……
──君にとってオレは何なの──
それは、私こそ彼に訊きたかったこと。彼にとって私は一体何だったのだろう。あの告白が本気なら何故、こうも簡単に忘れることが出来るのか。
(どうして、私を忘れてしまったの……。)
視界が急にじわりとぼやけた。目を伏せると睫の端から一筋、涙がこぼれ落ちた。ようやく悟った。私が何故、今の項羽を拒絶し続けていたのか。私の存在、あの約束を憶えていない彼を“項羽”と認めるのが辛かったから。今の彼を認めてしまうと、かつての彼を永久に喪うような気がしていたから。
「項羽……」
鉋にかけた手の甲に、二粒、三粒と涙が落ちた。私に「愛してる」と言ってくれた、あの項羽が消えてから初めて、私は泣いた。声は殺せても、こぼれる滴は止められなかった。
──会いたい──
会いたい。叶うならもう一度、私にあの言葉を聞かせてほしい。あの約束を果たす為に、私の元へ帰ってきてほしい。