content-single-novel.php

Found It 第4章 知らない男

──オレと、付き合ってほしいんだけど──
──お前が私を愛してる? 有り得ないね──

項羽が去ったあの日から幾度も夢枕に浮かぶ情景。果たされなかった約束は、今や私の中にしか残っていない。

 昼食前の午前十一時。夜警明けの仮眠から目覚めた私は、外が騒がしいことに気づいた。

「どうした、何の騒ぎだ?」
「あ、おはようございます霧風さん。項羽さんが小次郎君と手合わせしてるんですよ。」

麗羅が答えた。

「項羽が?」
「ええ。流石ですよね、あの身のこなし。やっぱり体が憶えてるみたい。」

道場の前で二人が打ち合いを演じている。小次郎が多少手加減している様子ではあるが、項羽の反応も常人のそれとは比較にならない素速さだ。

「おはよう霧風。」

一旦手を止め、項羽が私に声をかけた。

「あ……ああ。訓練復帰とは随分気が早いな。」
「体に悪いところはないしね。それに、この方が早く思い出せるんじゃないかと思って。」
「ま、リハビリってとこだな。」

小次郎が得意げに付け加えた。項羽は微笑して頷いた。

「不思議だよね。自分のこと皆のこと、何にも憶えてないのに体は記憶してる。この手の中にオレが項羽だという証拠があるんだ。」

そう言って彼は左手に青い羽根を構えた。軽く腕を振ると羽根は空を裂き、木々の間を抜けて十間先の的に突き刺さった。歓声が上がる中、兜丸がぽんと手を打った。

「なぁ、昼飯食ったら久々に合同訓練やらないか? オレ達がどんな技使うのか見せたら何か思い出すかもしれないぞ。」

劉鵬が相槌を打った。

「それはいい考えだ。竜魔どうだ? オレ達も土方作業ばかりじゃ体が鈍るしな。」
「そうだな、早速総帥に許可を取ってこよう。」

とんとん拍子に話が進んでいく。私はただ一人、困惑しながら項羽を振り返った。

「……まだ、早すぎやしないか?」
「何言ってるんですか! 項羽さんは健康体ですよ。記憶を取り戻した時にすぐ復帰できるよう備えておかなきゃ。」
「そうそう、只でさえ半年もサボってんだしよ。」

麗羅と小次郎が揃って唇を尖らせた。項羽がくすりと微笑んだ。

「大丈夫だよ、君達がちゃんと手加減してくれればね。」
「……」

複雑な思いで私は彼を見つめた。

──私を「君」と呼ぶなんて──

毒気のない穏やかな微笑はかつての項羽とあまりにかけ離れている。私の知らない男を皆が“項羽”として扱っていることに、私は密かに強い拒絶感を覚えた。

 午後二時。私達は再び道場傍の広場に集まっていた。総帥の許可を得て本日の作業を免除してもらったのは総勢九人。風魔の主力組である一番隊の面々と、その私達以上の実力を秘めた期待の後輩・小次郎だ。

「では初めに二人一組になり、模範演技を行う。」

竜魔が手筈を説明し始めた。

「時間は三分。その中で互いに持ち技を掛け合う。あくまで演技だから相手に怪我を負わせないよう配慮するように。面倒だから組み合わせは年齢順で行くぞ。麗羅と小次郎、小龍と霧風、琳彪と兜丸、そして劉鵬とオレだ。では麗羅と小次郎、お前達から始めてくれ。」
「はーい。」
「えぇ? 前座って大抵ザコの役目じゃねーの?」
「ほーぉ小次郎、なら誰がザコだと?」

怖い先輩達に四方を取り囲まれ、小次郎は愛想笑いを作りながら渋々前へ出た。

「ったく、口だけは一人前どころか三人前だぜ。」
「まーまー、確かにあいつの潜在能力はオレ達より上だよ。」
「ほら、しっかり見ておけよ項羽。」

小龍が声をかけた。項羽はやや緊張気味に頷いた。

「では構えて。始め!」

竜魔の合図で二人が踏み出した。

「じゃあ早速オレから行くぜ! 風魔烈風!!」

ヒュオオオォォォォ……!!

小次郎が木刀を振り下ろすと共に、激しい風が巻き起こった。

「凄い風……!」
「小次郎は風魔の正当派。一応宗家の血筋だからね。」

小龍の講釈を聞きながら項羽は、対峙する二人を真剣な顔で見つめていた。

「ちょっと小次郎君、手加減してくれないと本当に吹っ飛ぶんだけど!」
「んなこと言ったって真剣味が足りないと戻る記憶も戻らねーだろ! そらっ!」
「止めてよぉ! オレがあんまり剣技得意じゃないの知ってるくせに!」

泣き言を喚きながら麗羅がじりじり下がっていく。残念ながら木刀一本では到底彼は小次郎に及ばない。

「もう、覚悟しなよ小次郎君!」

小次郎の太刀を何とかかわし、麗羅は木刀で宙に円を描いた。

「風魔、朱麗焱!!」

ふわ……

円に沿って薄紅色の花びらが舞い上がり、風と共に一面を漂った。きょとんとしている項羽に小龍が笑って説明した。

「あの花片はカムフラージュ。朱麗焱の真骨頂はこれからさ。」

その言葉が終わるや否や、地面に落ちた花びらが激しい勢いで燃え上がった。

ボゥッ!!

四方から次々に火が上がった。それは瞬く間に巨大な炎へ変わり、小次郎の周囲を包み込んだ。一同がくすくす笑い出した。

「ったく、手加減なしはどっちだか。」
「見た目と違って過激だからな麗羅は。」
「どう? やるだろ二人とも。」

小龍が振り返った。しかし項羽は何故か、炎を凝視したまま蒼白の顔で硬直していた。

「項羽? どうした?」

小龍が訊ねた。途端、項羽の体が膝から崩れた。

「項羽!?」
「……あ…… ああああぁぁぁぁっ!!!」
「!?」

絶叫が耳をつんざき、皆が驚いて振り返った。

「項羽さん!?」

麗羅も技を引き、小次郎と共に駆け寄った。項羽は地面にうずくまり、怯えるように頭を抱えて体を丸めていた。

「おい、しっかりしろ!」
「項羽、大丈夫!?」

小龍と兜丸が項羽の顔を覗き込んだ。

「どうしたんだよ! 落ち着け!」
「ひっ……うああぁぁぁ!!」
「項羽!!」

小龍が背中をさすっている。項羽は全身を震わせ、何かに恐れ戦いていた。

「……そら見ろ、やっぱり無理だったんだ。」
「霧風さん!」

思わずつぶやいた私を、麗羅が恐ろしい形相で睨みつけた。独り言の筈が少し声が大きかったようだ。
と、

「残念だが美人ちゃんの言う通りだよ、可愛い坊や。」

急に、背後から知らない女の声が聞こえてきた。

「誰だ!?」
「あ……!」

私は思わず声を上げた。振り返った先に立っていたのは、真紅の長衣に身を包んだ栗色の髪の女……

──彼女だ──

以前この里に竜魔を訪ねてきた、あの女だった。
私達が呆気にとられている中、彼女は項羽へ歩み寄り、そっと背中に手を添えた。

「落ち着いて……大丈夫、何も怖がることはない。」
「総司!? お前何でここに!?」

突然、小次郎が叫んだ。

「なに?」
「この女を知ってるのか!?」

皆が一斉に振り返った。「総司」と呼ばれた女が顔を上げた。

「久しぶりだな小次郎。竜魔に聞いてないのか? この坊やを助けたのは私だって。」
「い!?」
「ちょ、ちょっとお前ら、どういう知り合いだよ!?」
「この女何者だ!?」

皆が彼女を取り囲んだ。女は項羽を気遣いながら答えた。

「私は伊達総司。小次郎や竜魔とは聖剣戦争の時に縁があってな。」
「だ、伊達っ……!?」
「あの、傭兵の伊達総司か!?」

思わぬ名前に場が騒然となった。あの飛鳥武蔵と並び称される、現代の日本に於ける最強の刺客の名。私も思わず竜魔を振り返った。竜魔は「だから言っただろう」と言わんばかりに肩をすくめた。

「……立てるか? ああ、何も怖がらなくていいよ。静かなところで少し休もう。」

ようやく落ち着いた項羽を促し、総司が立ち上がった。

「あ、オレが連れてくから!」

慌てて小龍が遮った。総司は同じ顔の少年に目を丸くしたが、すぐに「頼むよ」と微笑んだ。二人が場を離れるのを見届け、竜魔が彼女に近づいた。

「何だお前、わざわざ様子を見に来てくれたのか。」
「まあな、仕事が立て込んでて随分遅くなったけど。それにしても久々だね、ダーリン☆」
「エッ!?」

一同が一斉に竜魔を振り返った。

「この場でそういう不謹慎な冗談は止めろっ!!」

大慌てで竜魔が叫び、総司はにやりと笑った。何処となく以前の項羽に通じるものを感じ、私は思わず顔をしかめた。

「……さっきあんた、『霧風の言う通り』と言ったな。」

琳彪が恐る恐る話しかけた。総司が振り返った。

「ああ。あの坊や、炎を極度に怖がるんだ。」
「なに?」
「私も最初は気づかなかったんだが入院中、病院の喫煙室の前を通りかかった途端パニックになってな。ライターの炎を目にして錯乱状態に陥ったようだ。」
「な……」
「私が彼を発見した時にも体中に火傷を負っていたから、もしかしたらその記憶が残っているのかもしれない。」
「!」
「じゃあ項羽さんはさっき、オレの朱麗焱で……!?」

麗羅が蒼ざめた。一同がしんと静まり返った。

「……」

気まずい沈黙に耐えかね、私は大袈裟に溜息を吐いた。

「やはり実戦復帰は無理だな。今の項羽は単なる足手まといだ。」
「!」
「霧風!!」

一同が私を振り返った。私は無言で木刀を拾い上げ、道場の中へと早足で戻っていった。

「信じられない。項羽のヤツ、本当に元に戻れるのかな。」
「悲しいよね。あんなに強くてカッコ良かった項羽が、蝋燭一本でパニックになっちゃうなんて。」

夜になり、私達は板間に引いた寝床の上で就寝前の時間を過ごしていた。凪とつららの会話を傍らで聞き流しながら、私は重苦しい気分で押し黙っていた。

──全く、どうしようもない──

項羽は夕食の時間には平静に戻っていたが、皆の態度は腫れ物に触るように一変していた。たまたま今まで調理場に立ち寄ることもなく行灯の裸火を目にすることもなかった彼だが、皆は今後一層彼から火を遠ざけようと細心の注意を払っていた。その不自然さがますます場の空気を重いものにしていて、私はいたたまれず夕飯の半分を残して逃げ出してしまった。

(どうして皆分からないんだ。項羽は既に死んだ、それでいいじゃないか。)

そんな私の思いは一層強くなってしまった。帰ってきたのは私の知らない男。よそよそしい笑顔も腑抜けた様も、全てが私の心を波立たせる。

──もう、いい加減にしてくれ──

何もかもうんざりして頭から布団をかぶった、その時。

「御歓談のところ失礼、もう一人入るスペースはあるかな?」

突然、頭上から声がして私達は顔を上げた。布団と枕を脇に抱えた伊達総司が立っていた。

「ど、どうぞっ! ここ空いてますから!」

凪が慌てて起き上がり、散乱していた荷物を横へと退けた。総司は「少し様子を見たい」としばらく里に滞在することを決めたらしい。

「有難う。竜魔のテントに入れてもらおうと思ったら物凄い剣幕で追い出されてね。」

冗談とも本気ともつかぬ笑顔で彼女はそう言った。凪とつららがわっと沸き立つ横で、私は冷静に尋ねた。

「項羽の今の状態、聞いたか?」
「ああ。周囲の努力も空回り、仲間の催眠療法も功を奏していないそうだな。」

布団を敷きながら総司が答えた。つららがおずおず尋ねた。

「あの、もしかして脳にダメージを受けているとか……」
「それはないよ。入院中に何度もMRIを撮ってる。」

首を振り、総司は布団に潜り込んだ。

「それについて、今日の一件で思い当たったんだが。」

私が切り出した。

「もしかして項羽は、“恐怖”のために自ら記憶を封じているんじゃないのか?」
「なに?」

総司が顔を上げた。凪とつららも私の顔を見つめた。

「精神的負荷が記憶喪失の引き金となる例は多いと聞く。極限状態の体験は、一切の記憶を消し去るほどの心的外傷になり得ないか。」

つららがすかさず遮った。

「待ってよ霧風、項羽は一番隊の戦士だよ!? 一度死にかけたくらいでトラウマなんて!」
「ならば他にどんな理由があるんだ。」
「知らないけど、絶対違うってば!」
「有り得ない話じゃないと思う。」

凪が割り込んだ。

「さっき夢魔が言ってたんだけど、項羽じゃなかったらとっくに元に戻ってるだろうって。項羽ってほら、好き勝手なこと喋ってる風で実は全然本心見せないタイプだったじゃん。自分を律する力が強いから強烈に自己暗示かけちゃって元に戻れないんだって。その自己暗示にはきっかけがある筈だって、夢魔はそう言ってた。」
「そんな……」
「小龍達の前では黙っていたが、」

私が再び口を開いた。

「記録をひっくり返したら昔、この里で同様の事例が何件かあったらしい。死線を潜り抜け戻ってきたはものの健忘に陥った例がな。記憶を取り戻した者も中にはいたようだが、精神に傷を負い二度と戦場に戻ることが出来なかったそうだ。」
「!」

三人の視線が私に集まった。私は「あくまで私の考えだが」と断り、続きを述べた。

「あいつを無理に元に戻そうとする必要はないんだ。幸い今は不穏な気配もないし、もし何かあっても私達が盾になってやればいい。今まで一線で働いてきたんだ。戦えないならもう休ませてやればいいだろう。」
「霧風……」

凪がじっと私を見つめ、小さく頷いた。

「やっと納得したわ。男共があんたのこと冷たいって言ってたけど、そうじゃないんだね。あんたは項羽を気遣って、危険な日常に戻したくないんだ。」
「まさか。」

私は力なく首を振った。そんな優しい心など私は持ち合わせていない。私はただ、既に“項羽”ではない男に何の感情も持てないだけなのだ。

「……やだよ、霧風がよくてもあたしは嫌!」

突然、つららが声を上げた。

「つらら?」
「嫌! 項羽が今のままなんて、絶対に、嫌っ……!!」

顔を手で覆い、彼女は突如声を上げて泣きじゃくった。凪が手を伸ばし彼女の頭をそっと撫でた。総司はいささか驚いたように瞬き、すぐに私を一瞥した。

──何故泣くんだ──

私も当惑しながら事態を見つめていた。度を失ったつららを目の当たりにし、胸の内に醒めた思いと羨望の思いが同時に湧いていた。忍である以上、人前で感情を露わにするなど決してあってはならないこと。しかし、喪失の悲しみを素直に表現できる彼女が少し羨ましかった。

「ならば、きっかけを探してみようか。」

総司がふっと微笑した。つららが顔を上げた。

「きっかけ……?」
「もし引き金が恐怖だとしたら、項羽が記憶を封じている原因は自分が戦い続ける宿命にあるという、その事実だろう。私は以前の彼を知らないが、忍でありながら本音では命のやり取りを好まない男だったのかもしれない。極限状態の恐怖と厭戦の情が相まって、以前の自分に戻ることを拒んでいる可能性がある。」
「じゃあ、どうやって……」
「簡単さ。全部思い出す方がずっと幸せだと、あの坊やに分からせてやればいいんだ。」
「!」

と、その時。

「さあ消灯時間だよ。お喋りはまた明日!」

誰かの声がして次の瞬間、室内の灯りがふっと消えた。呆気にとられつつ、私達は仕方なく各自の布団へ潜り込んだ。