「ほら、こっちが項羽でこれがオレ。毎年誕生日に一緒に写真撮ってたんだぜ。これは九つの時。この年は雪が凄くて、二日前にオレが吹き溜まりに落ちて足折っちゃってさ。正月もずっと松葉杖だったんだ。」
「……」
積み上げられた木材に腰掛け、小龍がアルバムを開きながら懸命に説明している。項羽は困ったような、虚ろな表情で写真を見つめている。彼が風魔の里に帰ってきてから半月が過ぎた。当初すぐに戻ると思われていた彼の記憶は、夢魔の治療の甲斐もなく全く回復していなかった。
「必死だな小龍のヤツ。」
釘を打ちながら兜丸がつぶやいた。
「何つーか、まるで項羽の彼女みたいだ。」
「こらっ、変なこと言っちゃ駄目ですよ兜丸さん!」
障子を貼っていた麗羅がたしなめた。他の皆が建設作業に勤しむ中、項羽は独り、記憶を取り戻すための作業とやらに専念させられていた。里中を歩き回ったり休憩中の兄弟達に話を聞いたり、記憶を手繰るというよりは“項羽”という人間の足跡を辿っているだけのようにも見える。
「昔を思い出そうにも環境が悪すぎるぜ。元いた家はぶっ壊れてるし、私物は大半が瓦礫の中だしな。」
「霧風さん、同期のよしみで何かないんですか? 寺屋でも項羽さんと一緒だったじゃないですか。」
麗羅が私を振り返った。私は即座に首を振った。
「私があいつに関わるような品を保管していると思うか? 第一、寺屋絡みならとっくに小龍が持ち出してるさ。」
寺屋、すなわち学校のこと。項羽・小龍の兄弟と私は生まれた年度が同じで、教門も一緒に学んできた同期の間柄だ。項羽は日頃は弟の宿題を丸写しして何食わぬ顔をしているようなヤツだったが、試験の成績は常に上位だった。私達の学年は優秀な戦士が多く「当たり年」と呼ばれている。技と学に優れ顔にも恵まれた彼ら兄弟はその筆頭に違いない。
「焦ってどうにかなることでもないだろう。皆で寄ってたかって思い出話を吹き込んでどうするんだ。」
吐き捨てるようにつぶやき、私は立ち上がった。
「ねえ兜丸さん、」
歩き出した私の背後で麗羅が聞こえよがしにつぶやいた。
「霧風さん、ちょっと薄情じゃありませんか? 確かに項羽さんとは仲悪かったかもしれませんけど。」
「麗羅!」
兜丸が慌てている。私は聞こえないふりをしてその場を離れた。
(確かに、そうかもしれないな。)
彼の非難はあながち間違ってはいない。戻ってきた項羽に対し私は、自分でも驚くほどに冷淡だ。
†
夜になり、私は独り静まり返った里の中を歩いていた。うっすら冷えた空気の中、夜風に乗って微かな花の香りが漂ってくる。今日はひと月に一度の夜警番の日。当番は一晩につき五名だが、外部との関である千尋谷を除き各所一人ずつの配置となっている。
建設中の家々を通り過ぎ、やがて私は里の外れの野原に辿り着いた。田植えを控えた水田の傍ら、月灯りを浴びて一本の桜の樹が立っている。盛りを迎えた満開の花が暗闇に白く浮かんでいた。
──そういう季節なのか──
花の下まで辿り着き、私は足を止めて樹を見上げた。近頃は様々なことがありすぎて季節の移ろいを気に留めることもなかった。誰が植えたのか、この山奥の里には珍しい染井吉野の古木だ。染井吉野は桜の中でも寿命が短い品種と聞いているが、少なくともこの樹は私の幼い頃と変わらぬ勢いで花を咲かせている。しかし、
(もう、葉が出ている。)
私は思わず眉をひそめた。枝の先に小さな若葉が顔を覗かせている。白にも見紛う花の淡い紅に対して若葉の緑はあまりにどぎつい。染井吉野は八部咲きが最も美しく、満開を迎える頃には醜い終焉が見え隠れする。
†
一年前の春の宵。私と項羽、そして竜魔の三人は、夜警の持ち場に向かう途中この木の下で足を止めた。
『見事に咲きましたなぁ、今年も。』
おどけた口調で項羽が言い、そのまま私を振り返った。
『夜の桜って綺麗過ぎて何だか寒気がするよな。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」は坂口安吾だっけ? 文学少女さん。』
『梶井基次郎だ。坂口安吾は「桜の森の満開の下」。』
『やっばい、近代文学史は赤点だなオレ。』
『……』
その瞬間、私はうっかり返事したことを後悔した。項羽は多分わざと間違えたのだろう。端から正解を言うと私に無視されることを知っているのだ。
『染井吉野は好きじゃない。』
苦々しげに私はつぶやいた。
『咲いている時はともかく散り際が見苦しい。散った花片は地面で腐り、枝に残るのは萼と気の早い葉だけだ。』
『そうか? オレはそうは思わないけど。』
すかさず項羽が異議を唱えた。
『染井吉野が特別汚い訳じゃない。死はどのみち醜くて目を背けるべきものさ。』
『同じ死ぬでも死に方を選ぶ余地はある。花も、そして私達も。』
『死に方の美醜で好き嫌い言われたらかなわないぜ。花だろうが人間だろうが死に至る過程、死んだ後の姿、生きてる間に精一杯綺麗に咲けたならそんなもの大した意味はない。』
『私は無様な最期は御免だ。死ぬ為に生まれた私達なのだから、その瞬間にこの樹のような醜態を晒したくない。』
『今から死ぬ時のこと考えてどうすんだよ。それより一日でも長く生きて一つでも多くの任務こなすこと考える方がよっぽど前向きじゃないのか?』
大した意味もないのに次第に熱を帯びてくる応酬。最初に好き放題の意見を提示し、私は深追いせず項羽がしつこく突っ込んでくる。だが私が適当な態度を取るのは、その方が彼からより多くの言葉を引き出せることを経験的に知っていたからかもしれない。
『お前達は二人とも間違っている。』
埒のあかないやり取りにうんざりしたのか、とうとう竜魔が口を開いた。
『そもそも花が散るのは死ではない。次の季節へ移る段階の一つだ。』
私達はぽかんとして振り返った。
『そういう話じゃないんですけど……。』
項羽が苦笑をこぼした。
†
──年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず──
漢詩の一節がふと、頭を過ぎった。
(結局、竜魔が一番正しかったんだな。)
奇妙なおかしさがこみ上げ、私は乾いた微笑を浮かべた。桜の花は今年も変わらず咲き誇り、それを眺めていた私達の方が変わってしまった。
(この樹はただ、生きているだけ。)
私は再び花を見上げた。春が巡れば花が咲き、いずれ緑の葉が生い茂る。それは生物としての桜の本能。美しいだの醜いだの、それは人間の勝手な主観に過ぎない。しかし、
──生きていればいいというものではない──
そんな思いが頭を掠め、私は顔を曇らせた。
と、
かさっ
「!」
人の足音を聞きつけ、私は顔をこわばらせた。項羽と小龍がこちら目がけて歩いてくる。私は何故か、咄嗟に木立に身を隠した。
「綺麗だろ? 父さんと母さんが生きてた頃は四人で花見もしたんだぜ。相当昔だからオレもよく憶えてないけどな。」
前を歩いてきた方が語り掛けた。後ろの男は無言のまま、じっと花を見上げていた。そして悲しげに項垂れ首を振った。
「……御免、分からない。」
「焦ることはないよ。オレはお前にこの花を見せたかっただけだから。」
小龍はそう言って微笑んだが、項羽は曇った表情のまま再び桜を見上げた。
「オレ、」
「ん。」
「本当に、ずっとここに居ていいの。」
小龍が項羽の顔を覗き込んだ。項羽は虚ろな眼差しで花の群れを見つめていた。
「どういう意味。」
「だって、何を見てもよそよそしいし、皆も優しいけど他人行儀で……」
「憶えてないんだから当たり前だろ。皆だって、前のお前を知ってるから少し調子狂ってるだけ。」
「あの……本当にオレ、ここの人間なの。」
「あのな、」
小龍が兄の正面に回り込んだ。そして彼の左手を取り、自分の頬に宛がった。
「疑う余地が何処にある? オレの顔が何よりの証拠だ。」
そのまま彼の肩に手を置いて、小龍は言い聞かせるようにささやいた。
「いいか項羽、お前が何も思い出せなくてもオレとだけは絶対に繋がってる。オレはいつまでもお前の弟、それは何があっても変わらないだろ。」
「……」
「だから、何も心配するな。」
小龍が微笑んだ。項羽はしばらく彼の顔を見つめ、小さくうなずいた。ひらひらと一片、花びらが二人の間に舞い落ちた。それを合図に重なった影は再び二つに分かれた。と……
「!」
顔を上げた小龍が、木陰に立つ私に気づいた。項羽も振り返った。私は思わず身構えた。
「当番か? お疲れ様。」
小龍はすぐに笑顔に返った。
「こんばんは。」
逆に項羽は緊張した面持で、弟の陰から頭を下げた。
──他人行儀はどっちだ──
唐突に湧き上がる苛立ちを我慢し、私は二人に背を向けた。
「何だよ、オレ達の顔見るなり何処行く気。」
「人の居る場所を見回る必要はない。」
「相変わらず愛想がないヤツだな。」
思わず睨みつけると、小龍がくすくす笑う陰で項羽は遠慮がちにこちらを見つめている。目が合った瞬間、私は露骨に顔を逸らした。
「! あの、」
「そろそろ行こう。じゃあな、霧風。」
小龍が遮った。項羽はまだ何か言いたげだったが、小龍が袖を引っ張った。二人は闇の中へと消えていった。
「……」
ようやく独りになり、私は深い溜息をついた。と、
「こら、項羽が怯えていたぞ。」
「!」
振り返ると苦笑いの竜魔が立っていた。彼は渋い顔の私の前を横切り、桜の樹へ近づいた。さわさわと風が鳴り枝の先が震えている。目の前を花びらが掠めていった。
「何しに来たんだ。」
「オレに夜桜見物は似合わないか?」
竜魔はすまし顔で答え、ちらりと私を見た。
「項羽はもっとお前と話したいらしい。だが拒絶されているようだと気にしていたぞ。」
私は思わず顔をしかめた。
「一体何が気に入らないんだ。あいつが戻ってきて以降、ずっと避けているだろう。」
「そんなつもりはない。特に歓迎する必要もないと思っているだけだ。」
「そうか? オレはてっきり、小龍の次に喜ぶのはお前だと思っていたがな。」
「……」
私は険しい顔のまま、竜魔に背を向けた。
「霧風、」
「さっき小龍が言っていた。自分は項羽の弟で、それは何があっても変わらないと。」
「なに?」
「でも私は小龍ではない。」
私はゆっくり顔を上げた。白い花の塊が雲のように頭上に浮かんでいた。
「私は赤の他人だ。私と項羽の間にあるのは共有してきた時間の記憶だけだ。それが喪われた今、私達に通い合うものは何も残っていない。……私は、縁故のない男にわざわざ関わりたいとは思わない。」
「……」
呆気にとられたのか、竜魔は何も言わなかった。思いを声にすればするほど何故か、心が空虚になるような気がした。確かに項羽の帰還は喜ぶべきことだろう。しかし失望、落胆はそれ以上に大きかった。
──あいつは何一つ憶えていない──
日々の出来事、交わした言葉、そしてあの夏の日の約束……それならいっそ、あの時死んでくれていた方がよかったと、そう思うのは私だけなのだろうか。
風が一陣、私達の間を駆け抜けた。黒い闇の中、白い花びらが一斉に舞い上がった。桜吹雪は音もなく、無数の羽根のように降り注いだ。