いつからだろう?
気がつけばあの栗色の髪に視線奪われ、
一日の半分を、思考の半分をあの笑顔に奪われていた。
胸が騒ぐ。冷たい水張り詰めた湖の水面に静かな波が走る。
…僕の心を今、一陣の風が吹き抜ける…
†
「どうしたんですか、セイラン様?」
穏やかな昼下がり。学習に来ていたアンジェリークが、無意識に漏らした僕の溜め息を聞きつけた。
「何でもないよ、ちょっと疲れててさ。」
「大丈夫ですか? その…最近のセイラン様、何か変ですよ?」
心配そうな顔でアンジェリークが僕を見つめている。確かに最近の僕は変だ。変じゃなきゃ、こんな想いを胸に抱えることもない筈だから。
あの笑顔が、あの瞳が脳裏にちらついて離れない。
あの人が僕を振り返る。ゆっくり…碧い瞳で僕を見つめて、そして笑いかける…
「セイラン様? …セイラン様っ!」
アンジェリークの呼び声で、やっと現実に返った。
†
学習が終わり、僕は何かに誘われるように森の湖へやって来た。昼間のプラチナのような太陽の光は今や赤銅の輝きに沈み、流れ落ちる滝の水飛沫を琥珀の色に染め上げている。「この滝に願いをかければ念じた人が現れる」…そういえば女王候補達がそんな噂話をしていたっけ。もしかして、僕がフラフラここまで辿り着いたのも誰かが僕を呼んだから? 辺りを見渡してみたけど、僕以外に現在ここで時間を持て余している暇人はいないようだ。
僕はふと思う。祈りの力で人を呼びつけておいて、自分はさっさと帰るなんてことは出来るだろうか。呼び寄せてみようか。今の僕がそうであるように、何かに誘われたように「あの人」はここに現れ、首をひねりながら帰っていくに違いない。
「あれ、セイランさんじゃないですか!」
調子っ外れで呑気な声に、僕は10センチくらい飛び上がった。僕の心を掻き乱している台風…風の守護聖ランディ様が森の湖に現れたのだ。
「驚いたなあ、こんな所で貴方に会うなんて。」
「…僕も、ね。」
まさか、僕の胸の内を見透かしたのか。僕は精一杯憎々しげな目で滝を睨みつけてやった。ランディ様が眉をひそめた。
「何おっかない顔してるんですか。セイランさん、ここで何を?」
「別に、何となくさ。」
「ひょっとしてさっきまで誰かいました?」
「いや、ずっと一人だけど。」
「じゃあ違うのか。」
ランディ様は悪戯っぽい視線を僕に向けた。
「いや、この湖の滝には念じた人を呼び寄せる力があるっていうから、誰かがセイランさんをおまじないで呼んだのかと思ったんですけどね。」
「…」
無邪気な様子に応える言葉もない。この人は、呼び寄せられたのが自分の方とは全く気づいていないようだ。
「ね、セイランさん。女王候補の様子はどうですか?」
「どうって、貴方も見てる通りだろ。惑星の育成も順調、学習態度も熱心だよ。」
「そうじゃなくて! 最近宮殿で噂なんですよ、アンジェリークが貴方に恋してるんじゃないかって。」
「何だって!?」
素っ頓狂な声を上げた僕を見てランディ様はニヤニヤした。
「最近アンジェリーク、俺達と喋っててもセイランさんの話しかしないんですよね。占いの館に通い詰めてるって目撃情報もあるし…告白も時間の問題じゃないかなってオリヴィエ様が言ってましたけど。」
「…その秘めた想いを貴方がこうしてリークしたわけだ。」
「えっ!? いや、俺、そういうつもりじゃっ…」
大慌てしているランディ様を後目に、僕は大きく溜め息をついた。僕自身、とっくにアンジェリークの僕を見つめる眼差しが変わったことを知っている。気づかない振りを装い、あくまで教官として彼女に接するように気を遣っていた。僕がつれないせいか彼女が最近、少しずつ積極的に出てきたことで周りも気づくようになったことは想像に難くない。が…
「ランディ様、貴方その話…どこから聞きつけたの。」
色恋沙汰には疎いランディ様までが知るところになるとは思っていなかった。
「え? いや…気づいてましたよ。」
「気づいてた?」
ランディ様は大きく頷いた。
「前にアンジェリークが俺に話してくれたことがあるんですよ。日の曜日に高台までレイチェルとピクニックに行った時、貴方がそこで絵を描いてたんだそうです。ただそれだけの話だったんですけど、セイランさんのことを喋るアンジェリークが何だかはしゃいでたから。」
「!」
僕がギョッとしたことは言うまでもない。この人が鈍いなんて、誰かが決めつけた固定観念だったんじゃないのか? なるほど、多分ランディ様は「他人が自分を」どう思っているかということに鈍感なだけなのだ。他人のことには変に気が廻るくせに、自分のことになると無頓着な人間というのはどこの世界にもいる。
僕の焦りを無視するかのようにランディ様は無責任に続けた。
「こうなったら後は貴方次第だと思うんですけど…」
「悪いけど、僕は彼女に特別な興味はないよ。」
「そうなんですか!? へえ、そうなんだ。」
ランディ様の意外そうな態度に僕は苛立った声をぶつけた。
「だいたい仮に、僕がアンジェリークと恋に落ちても貴方には関係ないだろ?」
「いーや、大アリですよっ! 今何のために女王試験やってると思ってるんですか!」
急にランディ様は大きな声を張り上げた。話の飛躍に僕の方が驚いた。
「女王の道を捨てて恋を採るってことは…言葉は悪いけど、女王試験の途中放棄なんですよ!? ひいては新宇宙の未来が変わる大事件なんですから!」
新宇宙? …なるほどね。僕はランディ様を醒めた眼で見つめた。
「…つまり、貴方にとっては個人の尊厳より宇宙の安定が大事なんだ。」
「勿論、俺なんかに女王候補の未来を縛る権利なんてありませんよ! でも…俺は守護聖だから…宇宙の心配をするのは当然でしょう!?」
「…」
急に胸が痛んだ。僕を見つめるランディ様のブルーの瞳は、沈みゆく太陽の中でも昼間の空の碧を残して輝くようだった。その瞳が急に遠い存在に感じられる…そう、彼はこの宇宙を統べる女王陛下の守護聖。彼の眼に映っているのは僕と向き合うこの現在ではなく、果てのないこの空、宇宙の未来なのだ。
「…貴方は、この女王制度に疑問を感じないの?」
「えっ?」
ランディ様は僕の唐突な質問に驚いた様子で聞き返した。その瞳を精一杯の力を込めて見つめ返す…視線と視線、激しい二つの力がぶつかった。
「聞かせてほしいんだ。貴方はこの宇宙の幸福と発展とやらのために、自分の大切なものを一体幾つ失ってきたんですか? 夢を持つことも、自由に人を想うことも、何もかも許されない立場にどうして甘んじていられるの? 守護聖だけじゃない、女王陛下だってそうさ。何も分からず聖地に引っ張ってこられて、力が失われたら用済みとして捨てられる。そんな人生、どうして納得して受け入れられるんです? どうして…?」
聖地に来て、ずっと不思議で仕方なかった。永遠に続く安らぎの土地。行き交う人々は宇宙を支える者の自信と誇りを抱き、この地での永い時間を全うしている。彼らが自らの終わりを思うことはないのだろうか? 外界に降りた時、誰一人として知る者のいない世界を彼らはどんな思いで受け入れるのだろう。
長い沈黙が続き、ようやくランディ様は切り出した。
「…失ったものがないと言ったら嘘になりますけど、」
大きく一つ息をつき、彼はゆっくりと話し始めた。
「俺、貴方の言うように守護聖になって色んなものを失くしました。友達も家族も、もう二度と会えないって…そう思ったら悲しくて、聖地に来たばかりの頃は一人で泣いてたこともあったんです。そんな俺を勇気づけてくれたのが、仕事で向かったある惑星の人達でした。」
一瞬、ランディ様の横顔を懐かしさがよぎった。
「…その日の夜、俺はなかなか眠れなかったんです。新米の俺に、本当にこの惑星を救えるのかって…不安だった。実は俺、あの頃はまだ自分の内に眠る力を思い通りに扱うことも出来なかったんです。目の前の傷ついた人達に俺は何も出来ない。それが悔しくて情けなくて、一晩中泣き通しました。そんな状態だったから次の日、真っ赤な目の俺をみんなが心配してくれて…。思い切って俺、みんなの前で不安を打ち明けたんです。」
ランディ様は思い出に耽るように瞳を閉じた。
「変ですよね、勇気を与えるはずの風の守護聖が逆にみんなに励まされたりして。みんな口々に頑張れって…俺を応援してくれました。そして、ある人が俺にこう言ってくれたんです。『我々は貴方を信じている。貴方はきっと立派な守護聖になる』って…それで俺、嬉しくてまた泣いちゃって…。」
ランディ様の顔に微かな笑みが浮かんだ。ゆっくりと碧い瞳を開き、彼は話を続けた。
「…聖地に戻って、俺はその惑星に風のサクリアを贈りました。助けられたのは俺の方だった。少しでもみんなにお礼がしたかった。そう思ったら…自然に力のコントロールが身に付いたんです。ね、セイランさん…俺は聖地が、この仕事が好きです。この宇宙が俺を必要としてくれることが嬉しいんです。偉そうな言い方だけど、俺も宇宙をいい方向へ導いていけるって…そう感じる瞬間が、今の俺の生き甲斐なんです。」
はっとして、僕はランディ様を見つめた。彼は決意を秘めた眼で深い紫と紺のグラデーションに染まる北の空を見上げていた。この人は強いのだ。はっきりと断言した言葉の端に、彼の想いが痛いほど感じられた。自らの使命に高い理想を掲げ、信念を持って取り組んでいる…そんな彼が羨ましくさえ思えた。
ここに来た時から陽は大分傾いてきている。ランディ様の横顔は紅い太陽の光を照り返し、金のシルエットを浮かび上がらせていた。夕暮れ時の風が柔らかなその髪の毛を揺らしている。
(綺麗だ…)
素直にそう思った。遠くの宇宙を見据える、真剣な碧い瞳が綺麗だった。きっとこの碧が宇宙で一番、美しい碧。どんな宝石を積み上げても、貴方の瞳にはかなわない。
…ああ、そうだったのか。僕はきっと、初めて出逢った瞬間から、その瞳の熱に憧れていたのだ…
「貴方がさっき言ったこと、一つだけ…訂正させて下さい。」
小さな声でランディ様が呟いた。
「本当は、俺達みんなが納得して自分の運命を受け入れているわけじゃないんです。俺だって…本当は未来が少し怖いんです。」
ランディ様はちょっと、悲しそうに笑った。
†
数日後、僕はアンジェリークの告白を聞き、そして断った。辛いだろうに涙を懸命にこらえる彼女を見て、いい女王になるだろうと…そんな予感がした。
静かな学芸館の僕の部屋。今日はもう客人も来ないだろう。僕は奥からイーゼルを運んできた。昨日張ったばかりのまっさらなキャンバスを見つめ、そして眼を閉じる。
眼に沁みる明るい若葉、柔らかな陽の光、そして生涯忘れることのないであろう、鮮やかな聖地の碧空。その中で貴方が笑っている…誰かに手を振っている。未来への希望を風に乗せて運ぶ、碧い瞳のシルフィード。その笑顔に、真っ直ぐな眼差しに僕は惹かれた……
久々に描く人物画に緊張しつつ、僕は白いキャンバスと向き合った。