content-single-novel.php

Lost It

ねぇ 君は憶えているかい 置き去りにした約束
Tourbillon “Lost it”

冷たく凍りついた晩秋の空気。分厚い雲に弱められた太陽の光が、森の中を霞のように漂っている。昨夜の雪が残る木々を潜り抜け、私と小龍は歩いていた。青萱原に到着してから十五分、私達はこの間ずっと無言だった。足取りの重い私を置き去るように、小龍は早足で突き進んでいく。私は彼の背中を追い掛けながら、絶えず周囲に目を配っていた。

「いいんだぜ先帰っても。オレ一人でも探せるから。」

小龍が低くつぶやいた。

「一人よりは二人の方が見つけやすいさ。」

私も力のない声で答えた。独りになりたいのだろうか、小龍は私から離れるように更に足を速めた。しかし私は逆に孤独を避けたかった。私は彼の数間後ろを、それ以上離れないようについて歩いた。

 山に初雪が舞う秋の暮れ。数百年に渡る風魔と夜叉の闘争が、夜叉一族の滅亡という形で幕を下ろした。しかし、風魔もまた払った代償は大きかった。一族屈指の戦士達が次々と敵の刃に倒れた。一匹狼の琳彪、面倒見のよい兜丸、努力家だった麗羅、そして……曲者と呼ばれていた、あの男。

夜叉との闘いに決着をつけた翌日。小次郎が白凰学院へ出向き姫に別れの挨拶をしている間、私達は柳生屋敷で帰り支度を整えていた。あらかた荷物もまとまった頃、竜魔が私達に声をかけた。

『帰る前に皆を迎えに行くぞ。』
『!』
『……』

小龍が勢いよく顔を上げ、私は逆に視線を逸らした。闘いに敗れた戦士の遺体は仲間によって回収され里の外れの霊廟に祀られる決まりとなっている。忍びはその存在自体が影。影の還る場所は影の中。亡骸は誰の目にも触れてはならない。

『オレは琳彪を連れて帰る。項羽の居場所は劉鵬、お前なら分かるな?』
『おう、八将軍と武蔵が雁首揃えた場所だろ。任せとけ。』
『待って、項羽はオレが迎えに行く。』

すかさず小龍が遮った。

『オレの兄貴だ、オレに行かせてほしい。』
『小龍……』
『私も行こう。』

突然口を挟んだ私を、皆が振り返った。

『霧風。』
『同期の縁だ。屍くらい私が拾ってやるさ。』

竜魔と劉鵬が顔を見合わせた。竜魔はしばらく考えた後、再び口を開いた。

『場所は青萱原から辰巳の方角、一里ほど森の中へ入った辺りだ。では劉鵬、お前は小次郎の帰りを待って兜丸と麗羅を探しに行ってくれ。』
『済まない。』

小龍が頭を下げた。話がまとまったのを見計らい、私はまた黙々と荷物を縁側へ動かし始めた。

『だが小龍はともかく、何で霧風があの男を?』

背後で劉鵬の訝る声が聞こえた。

「!」

木立の中、不意に小龍が足を止めた。私も顔を上げた。張り詰めた冷気の中を焦げたような臭いが漂っている。

「近くか!?」
「項羽!」

私達は駆け出した。昨日の雪がうっすら残る立木の奥に小さな空間が広がっている。飛び込むように足を踏み入れた私達は次の瞬間、広がる光景に目を疑った。

「……!?」

濡れた土の上に散らばる、煤と灰と焼け残った白い羽根。激しい衝突の痕跡は数日を過ぎた今も名残を留めている。しかし、その中で散った男達の遺骸は跡形もなく消え失せていた。

私達は戸惑いながら周囲を見回した。

「項羽だけじゃない、夜叉の忍びもいないようだ。」
「もしかして、柳生屋敷に乗り込んできたヤツが?」
「まさか。仲間はともかく敵の死体までわざわざ始末するものか。」
「とにかく手分けして探そう。」
「小龍!」

拒否する間も与えずに小龍は森の奥へと消えていった。取り残された私は独り、規則正しく敷き詰められた羽根の痕跡を振り返った。

『オレと、付き合ってほしいんだけど。』

三ヶ月前、蝉が騒がしい七月の暮れ。長期の任務に旅立つ直前「急ぎの話がある」と項羽に呼び出され、聞かされたのは思いも寄らぬ言葉だった。

『…… また得意の悪ふざけか?』
『違う、本気。』

警戒心剥き出しの私に、項羽はいつもと変わらぬ口調で答えた。

『ずっと前から好きだった。早く告白コクらないと間に合いそうもないから今言っとこうと思って。』
『間に合わない? 何に。』
『十八でお前と結婚して、オレ達そっくりの可愛い子供を三十までに最低十人。もたもたしてるとオレの人生設計に狂いが生じるだろ。』
『……は?』

呆気に取られて項羽を見つめる。あの男は普段通りの薄ら笑いを浮かべていた。

『脳味噌が溶けてるのか? 何言っているのかさっぱり意味が分からん。』
『そういう女として問題ある態度も全部ひっくるめて愛してる。だから、オレと結婚を前提に付き合って。』
『……』

平生と変わらぬ腹の底の読めない表情。向き合ううちに段々腹が立ってきた。横っ面を張り倒したい衝動を飲み込み、私は項羽に背を向けた。

『霧風!』

あいつが声を上げた。私は苛立ちながら答えた。

『もうすぐ出発するんだ。身支度で忙しいのにこれ以上タチの悪い冗談に付き合ってられるか。』
『冗談じゃない、オレは本気だ。イエスかノーか、お前も本気で答えろよ。』
『返事するまでもないと言ってるんだ。お前が私を愛してる? 有り得ないね。』
『へぇ、要するにオレの本気を疑っていると? 別にオレが嫌って訳じゃないんだな。』
『!』

揚げ足を取られ、怒りは瞬時に沸騰した。

『そんなに答えが欲しいならくれてやる。「お断り」だっ!!』

項羽が一瞬たじろいだ。私は怒りに任せ、絶縁状でも叩きつけるように吐き捨てた。

『分かったらこの話はもう無しだ。じゃあな。』
『おい待てよ、』
『これ以上何だっ。』
『オレと、結婚前提で付き合って。』

思わず振り返ってしまった。

『……「もう無しだ」と言ったのが聞こえなかったのか?』
『無しになったから新しくもう一度言ったんだけど。』

返す言葉を瞬時に見つけられず、私は睨むように項羽を見据えた。彼は相も変らぬ薄笑いだった。……が、目が全く笑っていなかった。

『!』

──本気なのか?──

急速に、私の胸に迷いが拡がり始めた。周囲の音という音が一斉に消え去り、世界中に項羽とたった二人きり取り残されたような錯覚に囚われた。

──でも──

揺れた心は次の瞬間、元の方へ振れて戻った。この男の悪質な嘘を真に受け、手痛い目に遭ったのは一度や二度ではない。今だって告白を装い、私から何かを探ろうとしているのかもしれない。しかし……胸に刺さるような視線を浴びて「全て嘘」とも思いたくはなかった。

『…… ならば、』

一時の逡巡の後、私は過剰なほど用心深く切り出した。

『次会う時に再度同じ話をしてもらおうか。そうだな、証人として小龍にでも立ち会ってもらうとしよう。』
『えっ!?』

流石に絶句した項羽を冷ややかに見遣り、私は再び背を向けた。

『そうしたらお前の本気とやらを信じてやる。話の続きはそれからだ。』
『…… 分かったよ、そこまで疑うなら。』

項羽は渋い声で承諾した。

『でもその代わり、次はその場で即答してもらうからな。絶対忘れんなよ。』
『じゃあな、今度は雪が降る頃に。』

大袈裟に肩をすくめ、私はその場を後にした。

──まさか──

まさかあれが永の別れとなるとは思わなかった。項羽自身予想もしていなかっただろう。夜叉との決戦のため任務先から呼び戻された時、仲間の輪に既に彼の姿はなかった。冬を待たずに彼は去り、約束は宙に浮いたまま置き去りとなってしまった。一体彼が本気だったのか、今となっては確かめる術もない。私は何故あの時、彼の言葉を素直に受け容れようとしなかったのだろう。

(だって……信じられる訳がないじゃないか。)

風魔の曲者と呼ばれていた項羽。目的達成の為にはありとあらゆる非常識な手段を講じる男。軽薄浅慮を装いながら、周囲の状況を抜け目なく窺うしたたかな策略家。全てを鵜呑みにするのは危険すぎた。

(それに、そもそも有り得る話じゃない。あいつが私を? ……嘘に決まってる。)

同期の間柄でありながら私と項羽は不仲で有名だった。関わるのも面倒と露骨に疎んじていた私と、それを知りながら無遠慮かつ不躾に絡んでくるあの男。互いの実力を認め合いながら、とても些細な、非常に表面的なことで私達は衝突した。いつ何処で歯車が狂ったのか、私達は今やそういう形でしか接点を持てなくなっていたのだ。

──でも──

項羽と交わしたやり取りが幾つも幾つも頭に浮かんでくる。聞き流していたはずの言葉が何故か、私の心に引っ掛かり留まっている。いつもその繰り返しだった。棘だらけの言葉に怒りを覚えても、後から冷静に反芻すれば彼が本当に言いたかったことが見えてくる。……私達は似た者同士だった。本音で語らうことを極度に恐れ、発する言葉の上に私は苛立ちを、彼は冗談と皮肉を幾層にも重ねてぶつけ合った。衝突し合い腹を探り合いながら私達はきっと、心の底では繋がっていた。……少なくとも私は、そう信じていた。

(もし、あの約束が果たされていたら、私はきっと……)

ひざまずき、私は燃え残った羽根を指でなぞった。命の終焉に彼は何を思っていたのだろう。戦いの途中で去ることを皆に詫びていたのだろうか。弟に後のことを託していたのだろうか。……様々な思いが巡る中、ほんの一瞬でもあの約束を思い出していただろうか。

「……項羽……」

自然と彼の名が口をついて出た、その時。

「何してるんだ霧風。」
「!」

虚を突かれ、私は弾かれたように振り返った。背後から現れた人影に私は激しく動揺した。

──あ──

(違う、項羽じゃない……)

戻ってきた小龍が立っている。大きな息を吐き、私は強く頭を振った。この期に及んで彼を項羽と見間違えるとはどうかしている。小龍は私の動揺に気づかず歩み寄った。

「崖の方にはいないみたいだ。そっちは……お前、そもそも探しに行ってないな?」
「……」

私はのそりと立ち上がり、険しい顔の小龍に地面を指し示した。

「そこに、」
「何だ。」
「獣の足跡がある。雪のせいで大分消えかけているが。」
「……えっ?」
「更に言えば何かを引きずったような痕跡もある。ほら、白羽陣の陣形がそこだけ乱れているだろう。」
「!」

小龍の顔がこわばった。私は殊更淡々と言葉を重ねた。

「この跡を辿れば多分そこに項羽はいる。もっとも、“項羽”と判別できる状態ならいいがな。」
「……」

小龍は茫然と地面を見つめていた。私は無言のまま、痕跡が続く方角へと歩き出した。と、

「待って。」

小龍が声を上げた。振り返ると彼は思い詰めた顔で項垂れていた。

「先に帰るか? 後は私が始末をつけておくが。」
「……いや、」

小龍は首を振った。

「もう帰ろう。お前ももう、項羽を探さないでほしい。」
「何だと?」
「妙なことを言って済まない。ビビってる訳じゃないんだ。ただ……今姿が見えないなら二度と、見つかってほしくない。」

怪訝な顔で私は小龍を見つめた。彼はゆっくり顔を上げた。

「霧風……オレ、項羽はまだ生きてる、そう思うことにする。」
「なに?」

私は思わず瞬いた。小龍は小さく頷いた。

「だってあの項羽だぜ。きっとしぶとく生き延びてる。頃合を見計らって風魔の里に帰ってくる。そう信じたいんだ。もし戻ってこなくても何処かで生きていると……そう思い込まないと、オレの心が折れそうだ。」
「…… そうか。」

私は肩をすくめ、敢えて切り捨てるようにつぶやいた。

「私はもう諦めるよ。戻らないヤツをいつまでも待ち続ける方が精神衛生上良くないから。」

小龍が苦笑した。

「お前らしいな。」
「そうか?」
「ドライに振る舞って、内面ではきっと延々引きずり続ける。」
「……」

私は思わず小龍を睨みつけた。彼が顔を上げ、じっと私を見つめた。

「霧風、」
「何だ。」
「お前……本当は項羽のこと、好きだっただろ?」

困惑して小龍を見つめる。小龍はその目に淋しそうな、憐れむような微笑を湛えていた。

「…… まさか、有り得ないさ。」

私は溜息を交えて答えた。項羽が私をどう思っていたのか、私が彼をどう思っていたのか、それは彼亡き今最早どうでもいいこと。ただ一つ疑いようもなく事実なのは、宝石のような想いのかけらが誰にも知られぬまま永遠に喪われたこと。それがただ、無性に悲しかった。

「帰るぞ小龍。兜丸と麗羅が私達を待ってる。」

かじかむ両手をポケットに突っ込み、私は彼を置き去るように歩き出した。

【終】