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DIVE to BLUE

新宇宙の女王を選ぶ試験が終わり、ひと月が経とうとしていた。特に決まった住処を持たない流浪の芸術家セイランは今、主星のとあるホテルを仮の宿としていた。教官の職を解かれたらすぐにでも、遠く離れた辺境の惑星へ旅立つ予定だった。のに、セイランは今、見えない何かが自分をこの街に縛りつけているような気さえしていた。それが“未練”という、太くて頑丈な鎖であることはよく分かっている。

「…今、貴方は何をしているのかな…?」

独り言というにはあまりに悲しすぎる。窓を吹き抜ける風が柔らかく肌を冷やし、ますますセイランの胸を締めつけた。この風も貴方の送り届ける力なの? 貴方は…あまりに僕に遠すぎたよ。

高級な部屋ではないが、セイランはこの部屋からの眺めが好きだった。眼下にはよく整えられたホテルの中庭が見え、その奥に雑然とした街が広がっている。天気のいい日には街の向こうにきらきらと輝く海が見えた。創作に飽きた時、セイランはこの窓に頬杖をついて外を眺めることにしていた。海と反対の方には鬱蒼とした森が茂っている。

ひと月前は彼も、あの森に閉ざされた聖なる地で未来の女王を教え導く立場にあった。が、今となっては近寄りがたい威厳しか感じられない。

――あの木々を抜ければ貴方に会えるのに――

セイランは唇を噛んだ。

 聖地の門の手前、仲間と見送りに来てくれたランディは、最後に握手を求めて右手を差し出した。懐かしい記憶が甦ってくる。初めて出逢ったあの日…この別れの時と同じように差し出された彼の手を、拒絶したあの日。あれから時間の流れはあっという間だった。

『俺達のこと、忘れないで下さいね。』

ランディは笑顔だった。セイランがランディの手を握り返すと、彼は繋いだ手を大きく上下に揺さぶり「絶対ですよ」と念を押した。慌ててその手を振り解き、背を向けて「さあね」と答えたのは…そう、溢れそうな涙を隠すためだった。生来の強がりが災いして振り向くことすら出来ず、やっと後ろを振り返った時には既に門は堅く閉ざされていた。

人目がなかったら、もし最後の時に自分と彼と二人きりだったら…と、今でもセイランは思う。想いを告げずに帰ってきたのは、前日の夜に一睡もせず考え抜いて出した結論だった。が、別れの瞬間に込み上げてきた激しい衝動にブレーキを掛けたのは結局、その決意ではなく周囲の視線だった。…自分に嘘をつかなければよかった。この想いを打ち明けられなくても、せめて自分にとって彼がどんなに大切な存在だったか、それだけでも伝えてから別れを告げるべきだったのに。

聖地を離れたセイランを、無気力という病が襲った。何をするにも上の空で、女王試験の間は溢れるように浮かんだ詩の文句も音楽も、いつだったかランディに絶賛された画才も、全てが失われたような気すらした。本来なら彼は今頃、主星から遠い風光明媚な惑星で気の向くままに創作活動をしているはずだった。が、愛した人への耐え難い未練と孤独感がセイランを聖地の見えるこの地へ釘付けにしていたのだった。

「…会いたいよ……。」

狭い室内でセイランは記憶の中のランディに訴えかけた。悲痛なこの願いすら、遠い想い人には届かない…それだけがただ辛かった。

 次の日もセイランは、出窓の傍に腰掛けてぼんやりと外の風景を眺めていた。雲一つない快晴の空。時折そよ風がセイランの髪を乱していく。眼下に広がる街は、彼とは無関係に忙しく動いていた……

(!?)

中庭を挟んだ向かい側、自分の泊まっている西館の反対にある東館地上6階の部屋。セイランはそこが、いつもと様子が違うのに気付いた。出窓の傍らに女性が立っている。若く、美しい女性だった。が、どこか儚く悲しそうな翳を宿していた。豊かな金褐色の髪は整えられぬまま、大きく開放した窓から吹き込む風に頼りなく揺れている。

繊細な美に心奪われるセイランの前で彼女は細い身体を乗り出し、出窓の窓枠に腰掛けた。

「…あっ!!」

セイランは思わず声を上げた。身体中の血液が逆流するような緊張を覚えた。

(落ちる……!!)

息を呑み、呆然と佇むセイランの目の前で、女性は地上へと落下していった。

俄に起きた信じられない事件にセイランは慌てて立ち上がった。

「大変なんだよ!! 東館6階から女性が飛び降りた!! え、部屋番号!? 知らないよ! とにかく早く警察を呼んでくれっ!!」

フロントにかけた電話を叩き切ってセイランは部屋を飛び出した。自分の泊まっている部屋は9階…エレベーターを待つのももどかしく、彼は階段を駆け下りた。

まだ何が起こったのか誰も知らないのだろう、東館6階は満室にも関わらず静かだった。部屋のナンバーをチェックし、セイランは女性のいた部屋を探り当てた。もうひと月も住んでいるから大体の部屋の位置は把握している。626号室が彼女の部屋。鍵もかかっていないドアと開け放された窓から容易に推測できた。

「…入るよ!」

恐らく既に住人はいないであろう部屋に、一応の礼儀として声を掛けつつ侵入する。セイランは室内を一瞥した。テーブルの上には彼女の持ち物らしいアクセサリーが静かに置かれていた。元々飛び降りるためだけにここに泊まったのかも知れない…あまりにも荷物が少なすぎる。

と、セイランは、ベッドの上に置かれた白い封筒に気がついた。遺書だろうか? 好奇心の要求するがままにセイランは封筒を懐に忍ばせ、窓に駆け寄って下を眺めた。

「うっ…」

見なきゃよかった。中庭の花壇の煉瓦が一面、流血で紅く染まっている。吐き気を感じてセイランは窓に背を向け、うずくまった。と…そこにようやく警察官が踏み込んできた。

部屋にいたところを見つかったせいで最初こそ警察に疑われたが、結局セイランは第一発見者という意味合いでの事情徴収を1、2時間受けただけで済んだ。そんなことより、偽名まで使いひっそり泊まっていたホテルで自殺を目撃してしまったせいで、芸術家セイランであるのがバレたことの方が大問題だった。只でさえ野次馬に根ほり葉ほり色んな事を聞かれ疲労困憊したのに、美貌の芸術家を一目見ようと宿泊客でもない連中がウロウロするようになったのも鬱陶しかった。これまでは空気のような存在だったホテルマン達の態度も、今や自分にこびへつらうようにさえ感じられた。…もういい、近日中にここをチェックアウトしよう。

気がつけばもう時計の針は夜11時を廻っていた。軽くシャワーを浴びて眠ろう…上着を脱ぐ途中で、セイランは内ポケットに入った封筒を思い出した。忘れているくらいなら警察に提出しておいた方が良かったかもと思いつつそれを取り出してみると、白い封筒は几帳面に糊付けされ、表書きはなかったが裏にマリア=ターシャという名前がサインされていた。飛び降りた女性の名だろうか? セイランはペーパーナイフで器用に封筒を開き、中の便箋を取り出した。

…白い便箋に几帳面にしたためられた文字は予想通り、投身自殺の理由を詳細に語っていた。

 自殺を図ったマリア=ターシャは、女優として生活していた二十歳の女性だった。某プロダクションのオーディションに合格し、端役をこなしながら有名になるチャンスをずっと夢見て待っていた。

そんなある日、マリアはある売れっ子の劇作家に出会った。「君は僕のイメージにピッタリだ」…その言葉に彼女は有頂天になった。作家は彼女のために作品を作ると約束し、それを履行して彼女は有名になった。いずれマリアは作家と関係を持つようになった。彼女は懸命に作家を愛した。いつしか彼がマリアにとって全てとなっていた。

が…いつの間にか男は心変わりし、彼女は捨てられた。スキャンダルのせいで彼女を使ってくれる事務所はなくなってしまった。更に悪いことに、彼女は作家の子供を宿していた。中絶手術がまずかったため、彼女は一生子供を産めない身体になってしまった……

「…やれやれ、御立派な動機だこと。」

最後まで眼を通し、セイランは手紙を折り畳んだ。

「女性が人生に絶望するお決まりのパターンだね。」

冷ややかに言い放ち、セイランは封筒をテーブルの上に放り投げた。しかし…何かが彼の心に引っ掛かっていた。

翌朝、セイランはホテルのロビーでトランクを抱えていた。

「もうお帰りになるのですか!?」

セイランの不機嫌は誰の目にも明らかだった。ホテルの支配人までが出てきて狼狽の色を見せたが全く意味をなさなかった。せめて荷物を運ぼうとするボーイ達を振り切り、セイランはタクシーに飛び乗った。

「エアストリートまで。」

後部座席にどっかり腰を下ろし、セイランは無言で新聞を読み始めた。昨日の事件について報道があるに違いない。

車は静かにビジネス街を通り抜けていく。行間を追う目の動きがルーチンワークと化してきた頃…ふとセイランの脳裏に遠い日の聖地での出来事が浮かんできた。

 碧い空の眩しい日だった。女王試験も終わりに差し迫ったある日曜日、珍しくランディが朝からセイランを誘いにやってきた。二人きりの小旅行。クライマックスは聖地一帯を見下ろす高台の頂上だった。

「絶景だね!」

どこからともなく吹く風が心地よく疲れた身体に柔らかく感じられる。セイランは崖から見下ろす聖地の風景に感嘆の声を上げた。その様子を見て、ランディは満足げに微笑んだ。

「いい眺めでしょう? この辺はオスカー様とジュリアス様がよく遠乗りにいらっしゃるんですよ。」
「『人間の足で』4時間歩いてきても、その努力を無駄にはしない眺めだね。」
「よかった、セイランさんなら絶対気に入ってくれると思ったんですよ!」

ランディは上機嫌だった…セイランが遠回しに疲れたと訴えているのにも全く気付かずに。まったく、この人が「ちょっとピクニックでも」と言った時に悟るべきだった。彼の“ちょっと”は僕の常識を越えている。心中で文句を言いながらも、セイランは眼下に広がる緑の眺めにしばらく言葉を忘れた。

「俺がこの眺めが好きだって言ったら、ゼフェルのヤツ『何とかと煙は高い所が好き』とか言うんですよ?」
「僕はそうは思わないよ。貴方がその“何とか”かどうかは置いといて…だけど。」
「ひどいなセイランさんっ!」

ランディは笑っていた。以前の彼ならこんな言葉一つにも過敏に反応したかもしれない。ふざけ合えるのはそれだけ、互いの距離が近くなった証拠だった。しかしこの時間ももうすぐ終わる…新宇宙には今や35を超える惑星が誕生し、女王候補達はその育成に余念がなかった。試験が終われば教官達は用済みになる。セイランの胸には言い様のない不安が積もり始めていた。彼には最早、ランディのいない毎日など考えもつかなくなっていた。

「…ねえ、ここから飛び降りたら、死ぬかな。」
「えっ!?」

セイランの視線が下に向けられていた。唐突な問い掛けにランディは驚いて、彼の顔をまじまじ見つめてしまった。

「…やめて下さいよ!? 飛び降りるなんて!」
「しないよ。…どうなるかと思っただけさ。」

セイランの眼がキラリと光った。ただ、確かめたくなったのだ。不穏な行為を仄めかす自分をランディは止めてくれるだろうか?

(こんな時にあの日のことを思い出すなんて、どうかしている。)

実際飛び降りた人間がいる時に考えるべきことじゃない。セイランは記憶を振り払うように首を振った。車窓を流れる風景は、高層ビルそびえるビジネス街から緑の多い住宅街へと移っていた。新聞を眺めていたセイランの目が止まった。視線の先に探し求めていた昨日の事件の記事を見つけたのだ。貪るように記事を読み進めるその表情が、急に変わった。

(…生きてたの!?)

それは、中庭の植え込みがクッションとなって例の女性が九死に一生を得たことを伝えるものだった。あの高さから落下して命を取り留めるとは何たる悪運の強さ。

「行先変更だ。中央警察署に廻してくれ。」

新聞を置いて、セイランは運転手に呼びかけた。

 発見者の上、宇宙的な芸術家であるセイランの頼みとあって、警察は簡単にマリア=ターシャの入院先を教えてくれた。民間の病院にしては大きな建物に意外さを感じつつ、セイランは足を踏み入れた。ナースセンターでセイランは、彼女の仕事上の仲間を名乗った。「セイラン」の名で病院を騒がせるのはためらわれる。遺書を読んだことで予備知識は充分だったため、看護婦も疑うことなく彼を病室へ通した。

「…やあ。」

奇跡的に助かった…という話だったが、セイランは彼女が幾つかの骨折で済んだらしいことに今更ながら驚いた。頭に巻かれた包帯も大袈裟なものではなく、美しい顔も少々絆創膏が貼られているだけだった。

「どなたですか。」
「君の飛び降り自殺の第一発見者…と言えば分かってくれる?」
「……」

マリアは言葉なく、セイランを見つめた。鳶色の悲しそうな瞳が彼の胸を突いた。

「死に損なって残念だったね。ま、僕は目撃者になったせいで色々迷惑を被ったけど。」
「……どうしてあのまま、死なせてくれなかったの。」
「『どうして』? 飛び降り自殺を見過ごして後味いい筈ないからさ。」

マリアの悲しげな訴えも無視し、セイランはにべもなく言い放った。

「他人の生死は僕にとっちゃ確かにどうでもいいことだよ。ただ、君の身投げは他人事じゃない…そんな気がしたんだ。」
「えっ?」

その言葉にマリアは驚いて、美しい眼を見開いた。…セイランは遠い眼で、流れる雲を追い掛けていた……。

 聖地の高台から身を投げ出したらどうなるか。あの日、そう問い掛けたセイランにランディは困ったような顔を見せた。

「俺は…死にたいって思ったこともないからよく分からないけど…」

当惑したような顔でランディは言葉を探していた。セイランの探るような視線とぶつかり、ようやく彼は重い口を開いた。

「…いじめが辛くて屋上から飛び降りたとか、人生に悲観してビルから飛び降りたとか、そういうニュース聞くたびに変な言い方だけど感心しちゃうんですよ。飛び降りる人って勇気があるんだな…って。」
「勇気?」

予想外の言葉にセイランは怪訝な顔をした。勇気を司る風の守護聖が変なことを口にするものだ。

「だって…こんな高い所から飛び降りようって思うんですよ?」
「そんなの、他の自殺だって痛いのは一杯あるでしょうが。」
「そうじゃなくて、飛び降り自殺ってのは死ぬと決めて飛び降りてから本当に死ぬまで結構時間があるんですよ。」

ランディは頭を掻きながら続けた。

「この世の中に絶望して、生きるのは嫌だって思って飛び降りても、地面に辿り着くまでに色んな事を考えると思うんです。ひょっとしてこれからいいことがあったんじゃないか?とか、今が最悪でこれからは全部がうまく行ったんじゃないか?とか。そう思った途端、飛び降りたことに後悔なんかして……でも、迫ってくる現実はもう一つしかないじゃないですか。」
「!」

セイランは急に自分の足下がおぼつかないような眩暈を感じ、息を呑んだ。

「そう考えると、飛び降り自殺って本当に怖いんですよ。ね、セイランさん……」

ランディは真剣な眼差しでセイランを見つめた。

「何でそんな度胸のある人が、生きていく勇気を持てないのかな……?」

ランディの言葉が不思議に淋しそうで、セイランは後ろめたさを感じていた……

「…昔、僕も君と同じように生きることに絶望して、死のうと思ったことがあるよ。」

セイランの言葉にマリアは顔を上げた。彼の瞳には遠い碧空が映っていた。それは、彼が今まで誰にも話したことのない過去だった。

「故郷の惑星で、人生の何もかもを賭けていた人に裏切られた。今の君と同じだよ。僕もあの人以外にすがれる人がいなかったのに。勢いで故里を飛び出したけど、行く所なんかなくて…悩んだ挙げ句、こんな世の中おさらばしてやるって睡眠薬を10瓶買い込んだのさ。」
「…?…」

マリアはきょとんとした顔でセイランを見つめた。セイランは微笑んで頷いた。

「そう。おかしいよね、一瓶あれば充分死ねるのにさ。まあその時の僕はそんなことにすら気付かないくらい思い詰めてたんだ。死に場所を探して僕は何日もかけて旅をした。碧い海と空がある場所で死にたい…って、理想の場所をようやく見つけてさ。いざ死のうと思って瓶を取り出した時に『こんなに要らない』って気付いた。」

セイランの顔に笑みがこぼれた。おかしくてたまらないといった顔だった。

「笑ったよ…今までこんなに笑ったことがないってくらい笑った。最後の最後に僕は何やってるんだろう、こんなの見つかったら後々までのお笑い種だ…ってね。そして、死ぬ間際にそんなことを考える冷静な自分に気付いた。途端に死ぬのが馬鹿馬鹿しくなったよ。僕が悪いんじゃないのに…僕ばかりが苦しむことないのに、って。それで計画が変わったのさ。生きてやる。生きて僕を裏切った人を見返してやるって。」
「それで…どうだったの?」
「さあね、分からない。でも…これだけはハッキリ言えるよ。『死ななくて良かった』ってね。」
「……」
「ねえマリア、君は飛び降りる時に何を思ったのかな。…怖くなかった?」

セイランがじっとマリアを見つめた。

「……それは、怖いわ…。」
「じゃあ何で飛び降りたのかな。」
「……」

セイランは立ち上がり、窓際に寄った。

「きっと君は余裕がなかったんだよ。僕は死に場所を求めてうろうろしている間にもずっと考えてた。本当に死が最良の選択肢なのかって。だから、最後の最後に思い止まったのさ。」
「…私は…」
「ねえ、何で『飛び降り』って方法を選んだの。」
「…え…?」

セイランの真意を測りかね、マリアは怪訝な顔をした。

「…見せつけてやりたかったのよ、あの人に……。私が死んで、少しでも罪悪感を感じてほしかったの…。」
「そのために君は、自殺の中でも一番怖い方法を選んだってわけだ。」
「…」
「…君は死ぬことと生きること、どちらが怖い?」

マリアがハッとして顔を上げた。セイランの瞳が彼女を捉えた。その眼にたたえられた光が限りなく優しかった。

「生きてみなよ。君もいずれ自殺未遂が馬鹿馬鹿しく思えるようになる。飛び降りた時…風に煽られながら感じた恐怖ほどには、生きることは怖くないと思うよ。」
「…」
「あんな高さから飛び降りて、君はまだ生きている。君に起こった奇跡には意味があるんだ。絶対にね。」

セイランは微笑み、マリアに軽くウインクしてみせた。

「もし良かったら、僕が紹介状を書いてあげようか。」

別れ際、セイランはマリアにそう言った。

「僕の知人には宇宙的に名の知られた脚本家も何人かいる。君に実力があれば、彼らの下で花を開かせることも夢じゃない。」

唐突なこの申し出にマリアは驚きで言葉がなかった。目の前の美麗な青年の正体を知らない彼女には尤もなことだろうが…セイランは彼女の疑問を封じ込めるように返事を促した。

「どうかな?」
「お願い、私にもう一度…もう一度、チャンスを頂戴…!」

かすれた声でマリアはうわ言のように繰り返した。その瞳は感激の涙で濡れていた。セイランはそっと包帯に包まれた彼女の手を取った。

「頑張るんだよ。」

マリアは力強く頷いた。言葉はなかったが、堅い誓いの証拠だった。

 病室のマリアに別れを告げた後、ふと思い立ってセイランは屋上に出てみることにした。

8階建ての病院の屋上はマリアが飛び降りた部屋から更に10mほど高い位置にあった。部屋の窓際では涼しい風も、吹きさらしのこの場所ではただただ冷たく感じられる。煽られて足を踏み外すのではと心配になるくらい、風は強く吹き荒れていた。

手すりがしっかりしていることを確かめつつ、セイランは下を見ようと身を乗り出した。

「…うわ…」

目が廻る。遠い地面に意識が吸い込まれていくような錯覚を覚える。いかなる覚悟が出来ていようが自分には到底、飛び降りるような真似は出来ないだろう。果たしてその覚悟は勇気なのか、無謀なのか……

ランディの言葉が思い出される。小さな声で、ゆっくりと呟いてみる。

「飛び降りる度胸があるなら何故、生きていく勇気が持てないのか――」

そう、先程の熱弁は全部ランディになりきって振るった言葉だった。

(貴方ならきっと僕の言葉に賛成してくれるだろうね。)

セイランには照れ臭い台詞だった。が、勇気を司る風の守護聖のお墨付きだと思えば…セイランの顔に笑みが浮かんだ。

手すりを乗り越え、セイランは屋上の際まで足を進める。ちょっと怖いけど、と手を離してみる。足がすくむ…マリアの覚悟が少しだけ理解できる。でもこの覚悟と生きるために必要な勇気、どちらが重いだろう。

セイランは無意識のうちに、眩しい空を見上げていた。僕は、死への覚悟よりも生きる勇気を選ぼう。

「…気持ちいい……」

吹き荒れる風が一瞬止まった。
…真っ青な空が、いつもより近く思えた……

 午後、セイランは主星のシャトルターミナルへやって来ていた。出航手続きを済ませ、セイランはシャトルに乗り込んで出発を待った。以前から訪れてみたいと思っていた、霧の惑星で創作活動に入る予定である。絵も描きたいし詩も作りたい。数日前の自分とは別人のように、やりたいことが沢山あった。

(あんな熱弁の後で腑抜けているわけにはいかないもの。)

そう考えたセイランの頭をふと、熱血漢の風の守護聖が掠めた。彼が元気なのは、人を勇気づけることで常に自分を奮い立たせているからに違いない。そんな気がしてセイランは一人で笑ってしまった。不意に、記憶の中のランディがセイランに微笑みかけた。

『…は大事な友達を絶対に忘れません。貴方が何処にいても、どんな苦しい時でも…俺は貴方の味方です。』

あの別れの日、手を差し出したランディが告げた言葉だった。セイランは瞼を伏せた。ゆっくり…決意を確かめるように呟いた。

「僕も、貴方を忘れないよ。そして…貴方の強さを忘れない。」

以前の自分にはランディの底抜けの明るさがただ眩しかった。それが悲しい別れの記憶と思いやりに裏打ちされたものであることを知った時、眩しさは憧れに変わった。そして…勇気づけられた。「自分もあの人のようになれるかもしれない」…その想いが支えになっていった。

(知らず知らずのうちに自分が強くなっていたこと…僕は気付いていなかった。)

セイランは丸い窓枠に頭をもたれさせた。眼下には白い雲海が拡がっている。大地を離れたシャトルは、蒼い宇宙の彼方へとスピードを増していった。

【完】